第032話 言えない
扉の前で、灯は来た日を指で数えようとした。数えかけて、途中で手を下ろした。数えなくても、昨日が抜けているのは分かる。
肩から先に入れた。押す重さは三日前と変わらなかった。
市の日の四つ角は、石が見えなかった。
朝のうちに掃いたらしい跡が北の道の口にだけ残っていて、そこから先は足で消えていた。灯は南の道から入って、人の間を横に抜けた。途中で荷の角が二度、腕をこすった。当たったところは痛くない。上着の布が厚い。
匂いは油が先に来た。油の下に粉を焼いたものと、湿った縄。三つとも二日前の四つ角には無かった。灯は鼻から一度吸って、口から出した。
人の声は東の道のほうが高くて、西のほうが低かった。灯は去年の夏に一度だけ、東の台の側に立ったことがある。夏の市の音は、もっと上のほう。冬は同じ場所で、低い側だけが残っていた。
キリの台はいつもの南の道の口ではなく、東の道の口へ寄せてあった。板は同じ。脚も同じ。石は三つで、四つ目の脚だけが土へめり込んでいる。
「こっちなの」
「市の日は東だ。南は荷が通る」
キリは板の上を手のひらでこすっていた。土は乗っていない。乗っていないのに、こすっていた。
灯は台の前で足を止めた。止めた場所から、キリの腕が目の高さに来る。上着の袖の先が、手首の骨のところより上にあった。二日前は骨が隠れていた。
「その上着、詰めた」
「詰めてない。袖は詰めると値が落ちる」
「じゃあ、なんで短いの」
「洗って縮んだな。冬の水は縮ませる」
キリは手のひらを止めなかった。灯は袖のほうを見るのをやめて、板の上へ目を落とした。板の上には木の札が四枚並んでいた。どれも新しい。上の穴にひもは通っていない。
「四枚もあるの。三日前は零だった」
「市の日だ。昼までにあと三枚は来る。夕方までに五枚だ」
灯は鞄の口を開けた。筆箱は横向きに入れてある。つぶれた側の蓋が先に開くので、取り出す時は右へ倒す。中の鉛筆は二本で、長いほうは昨日の夜に削っておいた。削ったのは灯だった。
削った先を、灯は指の腹で確かめた。丸くなっていない。
最初の客は昼の前に来た。荷を担いだ者で、担いだまま台の前に立った。荷の下から声だけが出てくる。
「三文字だ」
札を膝の高さへ下ろした。木の目は縦に走っている。縦のときは真ん中で一度止める。三つの字のうち、二つ目だけが線を三度折る字だった。折るところで芯が木の目へ入って、少し太くなった。
書き終えてから、灯は札を光へ向けた。字は木の色より黒い。
「書けた。二つ目だけ太い」
客は札を受け取って、荷を担ぎ直した。担ぎ直す時に、札を口でくわえた。くわえたまま両手で縄を持ち替える。それから札を胸のところへ入れた。
キリが板の上へ輪を一つ出した。木の輪で、縁の一か所が平らに潰れていた。
「一枚で一つだ。三文字でも二文字でも一つだ」
輪は鞄の底へ入れた。底には三つ入っていた。入れると、四つ目が先の三つに当たる。当たった音は布の外まで出てこなかった。
「四つになった」
「四つだ。夏も冬も、一枚で一つだ。二枚なら二つだ」
灯は指を四本立てた。立ててから、そのまま下ろす。指の先は鉛筆の跡で灰色。こすると灰色は手のひらへ移った。
鞄の底に、青い表紙のノートが入っている。四つ角で書いた名は、そこの一枚へ書き写してあった。開くと、上の段の字が二つ、他より薄くなっていた。
紙の下のほうへ、今日の三文字を書いた。書いた場所は左の端で、右にはまだ空きがある。数えると、紙の上の名は十八になった。
紙をたたむ前に、灯は上の段を一度見た。上の六つは夏に書いたもので、そのうち二つは字ではなくへこみになっている。へこみの底に鉛筆の粉は残っていない。灯は指の腹をそこへ当てて、当てたまま二つ数えた。
紙をたたんで、物入れへ戻した。
台の向こうを、荷車が二台続けて通っていった。車輪が石を踏む音は、二台とも違っていた。前のほうが低い。荷の下の板が、二台とも同じ幅ではなかった。
市の台は東の道に沿って七つ。並んでいるのは布と器と道具で、どれも新しくない。一番手前の台に、片方だけの靴が三足あった。三足とも右で、大きさは全部違う。
灯はその台の前で一度足を止めた。売っている者は台の後ろで膝を抱えていて、灯のほうを見なかった。
二つ目の台には、木の玉が皿に山ではなく列で並べてあった。列は五本。自転車置き場の枠に似ている。枠は同じ幅で並んでいて、埋まるのはいつも端になる。
三つ目から先は灯の背より高い荷が積んであって、台の上が見えなかった。
四つ角へ戻ると、キリの台の前に人が二人立っていた。二人とも札を持っていない。持っていないのに、板の上をのぞいていた。
「見るのは、ただだ。触ると一つ取る」
キリがそう言うと、二人は同じ速さで離れていった。
台の後ろへ回った。板の下の桟に手が触れた。桟は木で、指を当てると外側より冷たかった。日の当たらない側になる。
台の後ろから見ると、四つ角の人の顔はどれもこちらを向いていなかった。向いているのは板の上までで、その先の灯へは目が上がってこない。夏にも灯はこの場所で同じものを見た。あの時は人が半分。
石の上に、割れた器の破片が一つ落ちていた。灯は靴の先で端へ寄せた。破片はそこで、他の足に踏まれずに残った。市の日の石は、朝のうちだけ掃かれる。掃いた者は昼まで戻ってこなかった。
「小屋の札、まだ十枚?」
「数えてないと言った。二日で数える気にはならん」
「じゃあ、中の物は」
キリは板の上で手を止めた。止めてから、袋の口のひもを一度巻き直した。
「四年で十だ」
灯は口の中で、二日前に聞いた数を置き直した。唇は動かさない。三年で九。あの時のキリは膝の上で手を組んでいて、親指だけが動いていた。
「三年って言ってた」
「言ってない。三年とは言ってない」
「言った。三年で九って」
「四年で十だ」
キリは灯のほうを見なかった。見ないで、板の上の札を四枚とも一度そろえた。そろえた縁は前より合っていた。
灯は数を並べ直した。三年で九なら、一年で三つ。四年で十なら、一年で二つと半分。キリの言った数が、二日で合わなくなっている。
「一年で三つって、キリが言った」
「言ってない。三つずつじゃないとは言った」
「じゃあ、四つの年と二つの年と三つの年」
「そうだ。四つと二つと三つだ」
「それ、足すと九になる」
キリは板の上の手を止めた。止めた手の指が、板の木の目を一本だけ横になぞった。なぞり終えてから、その手を袋の口へ戻した。
「十だ」
聞き間違えたんだと灯は思った。二日前は外にいて、風が坂の上から下りていた。風の下で聞く声は、途中で削れる。
思ってから、灯は膝の上で指を折った。二日前のキリは戸の外の石の上に座っていて、灯はその横に立っていた。膝の上で手を組んで、親指だけが動いていた。一歩も離れていない。
折った指を、灯は開かないでいた。
台の上の札が一枚、端で持ち上がって戻った。風は東の道から来ていた。持ち上がったのは、灯が字を書いていないほうだった。
「風、変わった」
「市の日は東から来る。荷で道が一本ふさがる」
「ふさぐと風が変わるの」
「変わる。人が並ぶと、風は上を通る」
「灯。小路は行くな。今日もだ。明日もだ」
「行かない。今日は丘に行く」
「行かないなら、丘へでも行け。丘なら誰も取り立てに来ん」
灯は西の道の先を見た。荷の間から、坂の下のほうだけが見えていた。壁の湿ったところは、ここからでは色が分からない。
台の下で何かが動いた。
しゃがむと、台の脚の後ろの影のところに、布の端が出ていた。色は日に焼けて、元がどれだったか分からない。指で持ち上げると、重さは無いのと同じだった。
「おねえさん、そこ、ちょうど僕の上だよ」
「ずっとそこにいたの」
「昨日の夜からいるんだ。ここはね、荷車が来ないから安全なんだよ」
トトは影の中から指の部分を二本、外へ出した。二本とも、同じ長さで並んでいた。
「そのかわり寒いんだ。石は冷たいからね。敷くと荷物に見えて、拾われちゃうからね」
灯は台の下へ手を入れて、トトを引き出した。持つと軽い。中には何も入っていない。それでも、指の部分は動いた。
「丘に行くけど」
「行く。僕も行く。丘はいいよ。丘は僕の場所だからね」
トトは灯の手の上で一度ひっくり返って、それから自分で起き上がった。
「ねえ、おねえさん。今日は何日目?」
「何の」
「僕が探しはじめてからの日だよ。数えてないけど、朝は毎回おぼえてる」
灯はトトを鞄のひもへ掛けた。掛ける手は答えの代わりになる。指の腹に残った重さは、輪四つよりも軽い。
*
北の道は荷で詰まっていた。灯は道の端を、壁に肩を近づけて進んだ。トトは鞄のひもの上で揺れていた。揺れ方は坂の傾きより遅い。
「おねえさん、この道は初めてじゃないよね」
「四回目。夏に三回来て、そのうち一回は上まで登った」
「四回目か。僕は数えてないんだ。数えると足りない気がしてくるからね」
灯は坂の上のほうを見ていた。
「無いならいいんだ。僕は袋を持ってないからね」
「あたし、数えても見つからないし」
「そうだね。僕も三百年、数え方は変えてないよ」
坂が急になったところで、荷車が上から下りてきた。灯は壁へ寄って、通り過ぎるまで待った。車輪が石を踏む音が、上から下へ順に来る。
トトはその間、指の部分を三本だけ立てていた。
「三つ数えると、荷車は通り過ぎるんだ。いつも三つで通り過ぎるよ」
「今の、四つだったけど」
「四つだったか。荷が重かったんだね。重い日は四つになるんだ」
坂の上のほうで、道の先の家並みが低くなる。その向こうには空だけが残った。空の色は朝より一段下がっていた。
「トト、丘って誰が置いてるの」
「置いてる?」
「手袋。並べてあるじゃん」
「あれはね、置いてあるように見えるだけかもしれないよ。ねえ、風でそろうと、置いた形になるでしょ」
灯は答えを作らない。夏に見た時、丘の手袋は一枚ずつ違う向きで置いてあった。風でそろうなら、向きは同じになるはず。
街の家並みが切れると、風が正面から来た。
丘は北の端にあった。登り口に石段がある。段の高さはそろっていない。石段を上りきると土になって、そこから先は道が無い。灯は道の終わりで足を止めた。
夏に来た時、斜面は動いていた。
今日は動いていなかった。手袋は同じだけあって、同じように置かれていた。指の部分だけが、風の来る側で少しずつ持ち上がっては戻っていた。持ち上がる高さは、夏の半分もない。
灯は登り口の平らなところに立って、斜面を端から端まで見た。夏に来た時と同じ場所だった。あの時は数える単位が分からなかった。一枚と数えるのか、一組と数えるのか。今日も分からない。
分からないまま灯は下の段だけを目で追った。下の段の色は上より濃い。境の線は、灯の膝より少し上を横に走っていた。
丘の上まで登ると、街の屋根が見えた。四本の道が真ん中で交わって、そこから外へ広がっていた。広がった先の色は薄い。薄いところの手前で、屋根の重なりが終わっていた。
灯は屋根の数を数えようとして、三十を過ぎたところでやめた。重なっているところで、一枚か二枚か分からなくなる。
風は丘の上で止まなかった。上着の裾は同じ向きへ倒れたままでいた。灯は裾を手で押さえて、そのまま下りた。
「冬は重いんだよ。水を吸うからね。夏の倍は動けないんだ」
トトは灯の手の上から、斜面のほうへ指を向けた。
「吸うと動けないんだ。去年の夏に一度、三日はまってたよ」
灯は斜面へ二歩だけ入った。足の下で、手袋が一枚沈んだ。沈んだところから、湿った毛の匂いが上がってきた。匂いは重い。上へは行かずに、灯の膝のあたりで止まっていた。
鼻の奥が痛くなった。丘の土がほこりっぽいのだと灯は決めた。
風上のほうへ顔を向けると、痛みは引いた。土は風上から来ている。
斜面から足を抜いた。抜いた靴の底に、毛が何本か付いていた。指でこすっても取れない。
「トト」
「なあに」
「札を掛けたらいいんじゃない」
「札」
「名札小路と同じで。入口のところに立てて、トトの相方のこと書いとくの」
トトは灯の手の上で、指の部分を全部ひらいた。ひらいてから、順に一本ずつ。
「それはいい考えだよ。僕は自分の手を触れないからね」
「じゃあ書くよ。どんなの」
「どんなの、っていうのは」
「相方。大きさとか、色とか」
トトは一度、灯の手のひらの上でひっくり返った。起き上がるまでに、いつもより間があった。
「大きさはね、僕と同じだよ。並べたら端がそろうんだ」
灯はトトを手のひらの上に平らに置いて、端から端まで見た。長さは指の付け根から手首の少し先まで。厚みは札一枚ぶんもない。
「じゃあ、トトと同じ大きさって書く」
「書いていいよ。でも僕は伸びたかもしれないんだ。外にいると布は伸びるからね」
「伸びたの。前より大きいってこと」
「分からないよ。伸びる前の僕を、僕は見てないからね。ねえ、元の大きさって覚えてる?」
灯は鞄の底からノートを出した。開いて、下の端の空いているところへ鉛筆を当てる。
「色は。何色なの」
「色はね、僕の色だよ。日に当たった側だけ、少し薄いんだ」
トトの布を光のほうへ向けた。色は日に焼けていた。焼けたところと焼けていないところの差が、指の付け根のあたりで一度切れている。切れた先は、どちらとも言えない色だった。
「トトの色、二つあるけど」
「二つあるんだ。片方は外の色で、片方は元の色だよ。どっちが元かは分からないんだ」
鉛筆の先は、紙の上で止まったままでいた。
「指の本数は」
「五本だよ。ねえ、手袋ってみんな五本だよね。数えたことある?」
「五本」
「うん、五本だ。五本じゃないのは、手袋じゃないからね」
灯は斜面を見た。手袋は端から端まで並んでいて、そのうちのどれも五本だった。
鉛筆を持った手を、灯は膝の上へ下ろした。
斜面の三歩ほど先に、一枚だけ色の薄いものがあった。灯はそこまで入って、しゃがんだ。
毛のもので、指は五本。手首の少し先まで届く長さで、厚みは薄い。三本目の指のところに、糸のこぶが一つ。
灯はそれを両手で持って、道の終わりまで戻った。戻る間、持ち上げた高さを変えなかった。指の腹の下で、こぶは一つだけ盛り上がっていた。
「これ」
トトは灯の手のひらの上で、指の部分を全部前へ向けた。向けたまましばらく動かない。
「大きいね。いや、大きくないかな。同じくらいかもしれないよ」
「こぶ、ある」
「あるね。そこは合ってるよ。三本目のこぶも、大きさはこれくらいだった気がするよ。合ってるんだけど」
トトは一度ひっくり返ろうとして、途中でやめた。やめてから、また指を前へ向けた。
「あのね、こぶがあるのは珍しくないんだ。千あれば、こぶのあるのも何枚もあるよ」
「じゃあ、これじゃないの」
「違うよ。たぶん違うよ。ねえ、たぶんって、どのくらいだと思う?」
灯は手袋を持ったままでいた。持っている間に、下の毛が指の間で少し温かくなった。温かくなったのは灯の手のほうで、毛のほうではない。
「合わせてみたら」
「合わせるのはいいよ。でも違ったら、この一枚はもう違う一枚になるんだ。ねえ、減るよね」
灯はしゃがんだ場所まで戻って、手袋を置いた。置く向きは、指の先を斜面の下へ向けた。拾った時と同じ向きにそろえた。
置いてから、灯は手を毛の上に置いたままにした。手のひらの下で、毛は沈まなかった。
斜面から道へ戻る間に、灯は自分の足の跡を見た。跡は三つ。どれも爪先の側だけが深かった。深いほうへ体を掛けて歩いていた。
「印は。三本目のこぶでしょ」
トトは答えるまでに、指を二度ひらいた。
「そうだよ。よく覚えてるね。三本目にこぶがあるんだ」
「こぶ、どっち側」
「どっち側」
「内側か、外側か」
「どこだったかな。片方だよ。並べれば見れば分かるんだ」
「見れば分かるって、見ないと分かんないってことじゃん」
「そうだよ。だから探してるんだ。探さない日は、まだ一日も無いよ」
灯は紙を膝の上で押さえた。押さえた紙の上に、鉛筆の先が触れた点が一つだけ付いていた。字にはなっていない。
「書けないんだけど」
「書かなくていいよ。書いたら、そればっかり探しちゃうんだ」
風が斜面の下から来て、上へ抜けた。手袋の指の部分が、下から順に持ち上がっては戻った。持ち上がりは丘の上まで行かずに、途中で止まった。
ノートは閉じて、鞄の底へ戻した。表紙の角の折れが、前より深くなっていた。
「メノのとこ行く」
「メノって、あの子か。あの子は触ると分かるんだよね。すごいよね」
「触ってもらう」
「触ってもらうんだ。じゃあ僕も行くよ。台の端に置いてくれればいいからね」
*
西の道は市の日でも人が少なかった。売る台は東と南で、西には荷車が一台も入らない。灯は道の右側を歩いた。行きは右で、帰りは左。去年の夏に灯が決めた。
橋の手前で、灯は溝をのぞいた。溝の底の土は三日前より乾いた色。三日前に残っていた布の形の跡も、消えていた。跡の在ったところに、細い草が二本だけ生えていた。
「おねえさん、そこ何かあるの」
「前は布があった。十一日前に見たきり」
「布か。布はよく残るんだ。僕も布だからね。三百年で薄くなったのは、指の先だけ」
橋を渡ると、風の当たり方が変わった。左の耳のほうへ来る。灯は歩きながら髪を耳の上へ寄せた。寄せても、風はその下から入った。
「おねえさん、耳は二つあるのに、どうして片方だけ寒いのかな」
「風がそっちから来てるから」
「そうか。じゃあ向きを変えれば逆になるんだね。僕は耳が無いんだ」
「無くて困る?」
「困らないよ。無いものは困らないんだ。僕が困るのは、あると思った日だけ」
道の途中の壁に、板が三枚。三日前と同じ場所で、同じ向きに立てかけてあった。一番短い一枚の上の端の穴も、二つのままになっている。
灯はその前で足を止めなかった。止めないで、横を通り過ぎた。通り過ぎてから、鞄のひもを握り直した。
戸の前の踏まれた土は、三日前より広い。固いところの縁が右へ、手のひら一枚ぶん出ていた。
戸の板は外から見て、下の三分の一だけ色が濃い。濃いところと薄いところの境は、三日前より指一本ぶん上へ来ていた。灯はそこへ指を当てて、当てたまま少し待った。板は指の腹より冷たい。
灯は戸を押した。内側で木がこすれて、途中で一度引っかかった。その先は軽くなる。
中の匂いは乾いた紙のほうが先に来た。甘いのはその奥へ下がっていた。三日前とは順が入れ替わっていた。灯は鼻から短く二度吸って、そこでやめた。
鼻の奥は丘にいた時と同じところが痛んだ。
メノは台の向こうで膝を一つ立てていた。座り方は三日前と同じ。灯が入っても顔を上げない。壁の棚の箱は上から二段目の左が一つ抜けていた。
左の端の皿に、菓子は無かった。皿だけが残っている。
「無いんだ。皿だけ出てる」
「今日は焼いてない」
灯は台の前に立った。鞄のひもからトトを外して、台の布の端へ置く。置いた場所は並んでいる物の列の外側にした。
「これ、見てほしい」
メノは目だけを動かした。目は灯の手のほうへ来て、それからトトへ落ちた。
「口をきくやつだ」
「トトっていう」
「知ってる」
トトは布の上で、指の部分を順にひらいた。
「はじめまして。いや、はじめましてじゃないかもしれないね。ねえ、そういうのある?」
「無い」
「無いか。じゃあ僕の勘違いだね。勘違いは多いんだ」
台に手を掛けた。板の縁は指を当てると外より冷たい。縁の角は丸くなっていて、丸いところだけ色が薄い。冷たさは指の腹だけに残って、手のひらまでは来なかった。
台の布の上には、物が並んでいた。灯は端から目で追った。布と器と片方だけの靴と、名の分からないもの。三日前と同じ並びで、同じ間で置いてあった。動かしていないのではなく、動かして元へ戻したのだと灯は知っている。
右から三つ目のところに、木の玉が一つ置いてあった。玉の表に、爪で付けたような線が二本入っていた。二本は交わらずに、同じ向きで並んでいた。灯は三日前、この線を見ていない。見ていないだけで、在ったのかもしれない。
「触って、相方が分かる?」
「触らない」
「やってみたら分かるかもしれないじゃん」
「分かるとか、そういう話じゃない」
メノは布を巻いた両手を、膝の上へ置いたままにしていた。布は指の先まで巻いてあった。巻いた端は今日どちらもほどけていない。
その手のほうへ目を上げた。上げてから、台の布の上へ戻した。布の端は、三日前と同じところで折れていた。
「じゃあ、物なら分かるの」
「物は来る。来るだけだ」
「トトは物じゃないってこと」
「そっちがそう言った」
トトは布の上で一度ひっくり返った。そのまましばらく起き上がらない。
「僕は物だよ。物じゃなかったら、丘にいないもんね」
メノは答えなかった。答えないで台の布の上の物を一つ、指一本ぶん右へ寄せた。それから、また元へ戻した。
「メノは丘、行く?」
「行かない」
「一回も。夏も冬も?」
「行く用がない」
「落とし物なのに。片方だけでも落とし物じゃん」
「あそこのは、落とし物じゃない」
灯は丘の斜面を思い出した。手袋は端から端まで置いてあって、積んではいない。誰かが置いた。誰が置いたかを、灯はキリにもトトにも聞いていない。
「じゃあ何なの」
「知らない」
メノは膝を立て直した。立て直した膝の向きが、前より台のほうへ寄る。
「そっちは、どんなのを探してるんだ」
灯は口の中で並べた。そのまま言った。
「五本で、薄くて、糸が一本だけ違うの」
メノは目を上げた。上げた目の先は、灯ではなく台の布の端。
「それはそいつだ」
灯は布の端を見た。トトが指の部分を一本ずつ順にひらいていた。ひらき終えると、また順に折る。
「そうだよ。だって一組だからね。片方の縫い目を見れば、もう片方の縫い目も分かるんだ」
トトはそう言って、布の上で半分だけ起き上がった。起き上がった先で、指の二本が台の縁より外へ出た。
メノは何も言わなかった。言わないで、皿の縁を指の腹で押さえた。皿は動かない。
鞄の底のノートを、灯はもう一度出した。開かずに台の上へ置く。
「名前、書こうと思ったんだけど」
「誰の」
「トトの相方の」
「書けないだろう」
「書けなかった」
メノは紙を見た。開いていないので、字は見えない。それでも、しばらく見ていた。
「書けなかったのは、そっちの手だ」
ノートを戻す時に、表紙の折れた角が鞄の底へ引っかかった。引っかかったところで一度止めて、それから押し込んだ。
「メノって、誰が付けたの」
「付いてない」
「じゃあ、なんでメノなの」
「そう呼ばれた。付けたのとは違う」
メノの声は変わらなかった。言い終えてから、皿を指の腹で一度回した。皿は空のまま、位置が半分だけ動いた。
灯は台の板の上を見た。木の目は横。横のときは、下の線を太くする。
「呼ばれたのって、いつから」
「覚えてない」
「覚えてないって、忘れたってこと」
「はじめから無い」
灯は下の唇を一度だけ噛んだ。噛んでから離した。
トトが布の上で指を二本立てた。
「あのね、僕も付いてないんだよ。トトっていうのは、前の人が呼んだ音なんだ。ねえ、音って便利だよね」
「便利だ」
メノがそう言ったので、灯はメノのほうを見た。メノは皿を見ていた。
灯はノートの紙のことを思った。紙の上には十八の名が並んでいて、そのうち二つはへこみになっている。十八のうち二つは、本人の口から聞いていない。名を言ったのはキリになる。
台の上の皿は空のままだった。灯は皿の縁の欠けたところを見た。欠けは一か所で、断面は白くない。割れてから日が経っていた。
「その皿、割れてる」
「割れてる」
「取り替えないの」
「割れてても皿だ」
メノは指を皿から離した。離した指を膝の上へ戻す。
台の板の木の目を、灯は指の腹で一度なぞった。なぞった先で、指は板の端に当たって止まった。
「あたし、名前ばっかり書いてる」
「書けばいい」
「書いても、薄くなるんだけど」
「薄くなるほうが先だ。書いたのは後だろう」
メノはそれだけ言って、口を閉じた。閉じた口の端は動かない。
灯は自分の右手を見た。人差し指の腹の内側に、鉛筆の当たる場所が一か所へこんでいた。へこみは押すと戻った。戻る速さは夏より遅い。
戸の外を、人が二人続けて通り過ぎた。二人とも足音が同じ間で、途中で一度そろった。そろってから、また離れる。
「客、来ないの」
「市の日は来ない」
「みんな市にいるから?」
「市で失くす。持ってくるのは明日だ」
灯は明日のことを考えた。明日は十三日で、市の次の日になる。四つ角の台の板は、今日より乾いているはずだった。
「明日も来る」
「来ればいい」
「じゃあ、あたしが付ける」
「付けるな」
メノは布を巻いた手を膝から上げて、台の縁へ置いた。指はどれも動かない。
台の布の上で、トトが指の部分を一本だけ立てた。立てた一本は並んでいる物のどれよりも細かった。




