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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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32/50

第032話 言えない

 扉の前で、灯は来た日を指で数えようとした。数えかけて、途中で手を下ろした。数えなくても、昨日が抜けているのは分かる。


 肩から先に入れた。押す重さは三日前と変わらなかった。


 市の日の四つ角は、石が見えなかった。


 朝のうちに掃いたらしい跡が北の道の口にだけ残っていて、そこから先は足で消えていた。灯は南の道から入って、人の間を横に抜けた。途中で荷の角が二度、腕をこすった。当たったところは痛くない。上着の布が厚い。


 匂いは油が先に来た。油の下に粉を焼いたものと、湿った縄。三つとも二日前の四つ角には無かった。灯は鼻から一度吸って、口から出した。


 人の声は東の道のほうが高くて、西のほうが低かった。灯は去年の夏に一度だけ、東の台の側に立ったことがある。夏の市の音は、もっと上のほう。冬は同じ場所で、低い側だけが残っていた。


 キリの台はいつもの南の道の口ではなく、東の道の口へ寄せてあった。板は同じ。脚も同じ。石は三つで、四つ目の脚だけが土へめり込んでいる。


 「こっちなの」


 「市の日は東だ。南は荷が通る」


 キリは板の上を手のひらでこすっていた。土は乗っていない。乗っていないのに、こすっていた。


 灯は台の前で足を止めた。止めた場所から、キリの腕が目の高さに来る。上着の袖の先が、手首の骨のところより上にあった。二日前は骨が隠れていた。


 「その上着、詰めた」


 「詰めてない。袖は詰めると値が落ちる」


 「じゃあ、なんで短いの」


 「洗って縮んだな。冬の水は縮ませる」


 キリは手のひらを止めなかった。灯は袖のほうを見るのをやめて、板の上へ目を落とした。板の上には木の札が四枚並んでいた。どれも新しい。上の穴にひもは通っていない。


 「四枚もあるの。三日前は零だった」


 「市の日だ。昼までにあと三枚は来る。夕方までに五枚だ」


 灯は鞄(かばん)の口を開けた。筆箱は横向きに入れてある。つぶれた側の蓋が先に開くので、取り出す時は右へ倒す。中の鉛筆は二本で、長いほうは昨日の夜に削っておいた。削ったのは灯だった。


 削った先を、灯は指の腹で確かめた。丸くなっていない。


 最初の客は昼の前に来た。荷を担いだ者で、担いだまま台の前に立った。荷の下から声だけが出てくる。


 「三文字だ」


 札を膝の高さへ下ろした。木の目は縦に走っている。縦のときは真ん中で一度止める。三つの字のうち、二つ目だけが線を三度折る字だった。折るところで芯が木の目へ入って、少し太くなった。


 書き終えてから、灯は札を光へ向けた。字は木の色より黒い。


 「書けた。二つ目だけ太い」


 客は札を受け取って、荷を担ぎ直した。担ぎ直す時に、札を口でくわえた。くわえたまま両手で縄を持ち替える。それから札を胸のところへ入れた。


 キリが板の上へ輪を一つ出した。木の輪で、縁の一か所が平らに潰れていた。


 「一枚で一つだ。三文字でも二文字でも一つだ」


 輪は鞄の底へ入れた。底には三つ入っていた。入れると、四つ目が先の三つに当たる。当たった音は布の外まで出てこなかった。


 「四つになった」


 「四つだ。夏も冬も、一枚で一つだ。二枚なら二つだ」


 灯は指を四本立てた。立ててから、そのまま下ろす。指の先は鉛筆の跡で灰色。こすると灰色は手のひらへ移った。


 鞄の底に、青い表紙のノートが入っている。四つ角で書いた名は、そこの一枚へ書き写してあった。開くと、上の段の字が二つ、他より薄くなっていた。


 紙の下のほうへ、今日の三文字を書いた。書いた場所は左の端で、右にはまだ空きがある。数えると、紙の上の名は十八になった。


 紙をたたむ前に、灯は上の段を一度見た。上の六つは夏に書いたもので、そのうち二つは字ではなくへこみになっている。へこみの底に鉛筆の粉は残っていない。灯は指の腹をそこへ当てて、当てたまま二つ数えた。


 紙をたたんで、物入れへ戻した。


 台の向こうを、荷車が二台続けて通っていった。車輪が石を踏む音は、二台とも違っていた。前のほうが低い。荷の下の板が、二台とも同じ幅ではなかった。


 市の台は東の道に沿って七つ。並んでいるのは布と器と道具で、どれも新しくない。一番手前の台に、片方だけの靴が三足あった。三足とも右で、大きさは全部違う。


 灯はその台の前で一度足を止めた。売っている者は台の後ろで膝を抱えていて、灯のほうを見なかった。


 二つ目の台には、木の玉が皿に山ではなく列で並べてあった。列は五本。自転車置き場の枠に似ている。枠は同じ幅で並んでいて、埋まるのはいつも端になる。


 三つ目から先は灯の背より高い荷が積んであって、台の上が見えなかった。


 四つ角へ戻ると、キリの台の前に人が二人立っていた。二人とも札を持っていない。持っていないのに、板の上をのぞいていた。


 「見るのは、ただだ。触ると一つ取る」


 キリがそう言うと、二人は同じ速さで離れていった。


 台の後ろへ回った。板の下の桟に手が触れた。桟は木で、指を当てると外側より冷たかった。日の当たらない側になる。


 台の後ろから見ると、四つ角の人の顔はどれもこちらを向いていなかった。向いているのは板の上までで、その先の灯へは目が上がってこない。夏にも灯はこの場所で同じものを見た。あの時は人が半分。


 石の上に、割れた器の破片が一つ落ちていた。灯は靴の先で端へ寄せた。破片はそこで、他の足に踏まれずに残った。市の日の石は、朝のうちだけ掃かれる。掃いた者は昼まで戻ってこなかった。


 「小屋の札、まだ十枚?」


 「数えてないと言った。二日で数える気にはならん」


 「じゃあ、中の物は」


 キリは板の上で手を止めた。止めてから、袋の口のひもを一度巻き直した。


 「四年で十だ」


 灯は口の中で、二日前に聞いた数を置き直した。唇は動かさない。三年で九。あの時のキリは膝の上で手を組んでいて、親指だけが動いていた。


 「三年って言ってた」


 「言ってない。三年とは言ってない」


 「言った。三年で九って」


 「四年で十だ」


 キリは灯のほうを見なかった。見ないで、板の上の札を四枚とも一度そろえた。そろえた縁は前より合っていた。


 灯は数を並べ直した。三年で九なら、一年で三つ。四年で十なら、一年で二つと半分。キリの言った数が、二日で合わなくなっている。


 「一年で三つって、キリが言った」


 「言ってない。三つずつじゃないとは言った」


 「じゃあ、四つの年と二つの年と三つの年」


 「そうだ。四つと二つと三つだ」


 「それ、足すと九になる」


 キリは板の上の手を止めた。止めた手の指が、板の木の目を一本だけ横になぞった。なぞり終えてから、その手を袋の口へ戻した。


 「十だ」


 聞き間違えたんだと灯は思った。二日前は外にいて、風が坂の上から下りていた。風の下で聞く声は、途中で削れる。


 思ってから、灯は膝の上で指を折った。二日前のキリは戸の外の石の上に座っていて、灯はその横に立っていた。膝の上で手を組んで、親指だけが動いていた。一歩も離れていない。


 折った指を、灯は開かないでいた。


 台の上の札が一枚、端で持ち上がって戻った。風は東の道から来ていた。持ち上がったのは、灯が字を書いていないほうだった。


 「風、変わった」


 「市の日は東から来る。荷で道が一本ふさがる」


 「ふさぐと風が変わるの」


 「変わる。人が並ぶと、風は上を通る」


 「灯。小路は行くな。今日もだ。明日もだ」


 「行かない。今日は丘に行く」


 「行かないなら、丘へでも行け。丘なら誰も取り立てに来ん」


 灯は西の道の先を見た。荷の間から、坂の下のほうだけが見えていた。壁の湿ったところは、ここからでは色が分からない。


 台の下で何かが動いた。


 しゃがむと、台の脚の後ろの影のところに、布の端が出ていた。色は日に焼けて、元がどれだったか分からない。指で持ち上げると、重さは無いのと同じだった。


 「おねえさん、そこ、ちょうど僕の上だよ」


 「ずっとそこにいたの」


 「昨日の夜からいるんだ。ここはね、荷車が来ないから安全なんだよ」


 トトは影の中から指の部分を二本、外へ出した。二本とも、同じ長さで並んでいた。


 「そのかわり寒いんだ。石は冷たいからね。敷くと荷物に見えて、拾われちゃうからね」


 灯は台の下へ手を入れて、トトを引き出した。持つと軽い。中には何も入っていない。それでも、指の部分は動いた。


 「丘に行くけど」


 「行く。僕も行く。丘はいいよ。丘は僕の場所だからね」


 トトは灯の手の上で一度ひっくり返って、それから自分で起き上がった。


 「ねえ、おねえさん。今日は何日目?」


 「何の」


 「僕が探しはじめてからの日だよ。数えてないけど、朝は毎回おぼえてる」


 灯はトトを鞄のひもへ掛けた。掛ける手は答えの代わりになる。指の腹に残った重さは、輪四つよりも軽い。


 *


 北の道は荷で詰まっていた。灯は道の端を、壁に肩を近づけて進んだ。トトは鞄のひもの上で揺れていた。揺れ方は坂の傾きより遅い。


 「おねえさん、この道は初めてじゃないよね」


 「四回目。夏に三回来て、そのうち一回は上まで登った」


 「四回目か。僕は数えてないんだ。数えると足りない気がしてくるからね」


 灯は坂の上のほうを見ていた。


 「無いならいいんだ。僕は袋を持ってないからね」


 「あたし、数えても見つからないし」


 「そうだね。僕も三百年、数え方は変えてないよ」


 坂が急になったところで、荷車が上から下りてきた。灯は壁へ寄って、通り過ぎるまで待った。車輪が石を踏む音が、上から下へ順に来る。


 トトはその間、指の部分を三本だけ立てていた。


 「三つ数えると、荷車は通り過ぎるんだ。いつも三つで通り過ぎるよ」


 「今の、四つだったけど」


 「四つだったか。荷が重かったんだね。重い日は四つになるんだ」


 坂の上のほうで、道の先の家並みが低くなる。その向こうには空だけが残った。空の色は朝より一段下がっていた。


 「トト、丘って誰が置いてるの」


 「置いてる?」


 「手袋。並べてあるじゃん」


 「あれはね、置いてあるように見えるだけかもしれないよ。ねえ、風でそろうと、置いた形になるでしょ」


 灯は答えを作らない。夏に見た時、丘の手袋は一枚ずつ違う向きで置いてあった。風でそろうなら、向きは同じになるはず。


 街の家並みが切れると、風が正面から来た。


 丘は北の端にあった。登り口に石段がある。段の高さはそろっていない。石段を上りきると土になって、そこから先は道が無い。灯は道の終わりで足を止めた。


 夏に来た時、斜面は動いていた。


 今日は動いていなかった。手袋は同じだけあって、同じように置かれていた。指の部分だけが、風の来る側で少しずつ持ち上がっては戻っていた。持ち上がる高さは、夏の半分もない。


 灯は登り口の平らなところに立って、斜面を端から端まで見た。夏に来た時と同じ場所だった。あの時は数える単位が分からなかった。一枚と数えるのか、一組と数えるのか。今日も分からない。


 分からないまま灯は下の段だけを目で追った。下の段の色は上より濃い。境の線は、灯の膝より少し上を横に走っていた。


 丘の上まで登ると、街の屋根が見えた。四本の道が真ん中で交わって、そこから外へ広がっていた。広がった先の色は薄い。薄いところの手前で、屋根の重なりが終わっていた。


 灯は屋根の数を数えようとして、三十を過ぎたところでやめた。重なっているところで、一枚か二枚か分からなくなる。


 風は丘の上で止まなかった。上着の裾は同じ向きへ倒れたままでいた。灯は裾を手で押さえて、そのまま下りた。


 「冬は重いんだよ。水を吸うからね。夏の倍は動けないんだ」


 トトは灯の手の上から、斜面のほうへ指を向けた。


 「吸うと動けないんだ。去年の夏に一度、三日はまってたよ」


 灯は斜面へ二歩だけ入った。足の下で、手袋が一枚沈んだ。沈んだところから、湿った毛の匂いが上がってきた。匂いは重い。上へは行かずに、灯の膝のあたりで止まっていた。


 鼻の奥が痛くなった。丘の土がほこりっぽいのだと灯は決めた。


 風上のほうへ顔を向けると、痛みは引いた。土は風上から来ている。


 斜面から足を抜いた。抜いた靴の底に、毛が何本か付いていた。指でこすっても取れない。


 「トト」


 「なあに」


 「札を掛けたらいいんじゃない」


 「札」


 「名札小路と同じで。入口のところに立てて、トトの相方のこと書いとくの」


 トトは灯の手の上で、指の部分を全部ひらいた。ひらいてから、順に一本ずつ。


 「それはいい考えだよ。僕は自分の手を触れないからね」


 「じゃあ書くよ。どんなの」


 「どんなの、っていうのは」


 「相方。大きさとか、色とか」


 トトは一度、灯の手のひらの上でひっくり返った。起き上がるまでに、いつもより間があった。


 「大きさはね、僕と同じだよ。並べたら端がそろうんだ」


 灯はトトを手のひらの上に平らに置いて、端から端まで見た。長さは指の付け根から手首の少し先まで。厚みは札一枚ぶんもない。


 「じゃあ、トトと同じ大きさって書く」


 「書いていいよ。でも僕は伸びたかもしれないんだ。外にいると布は伸びるからね」


 「伸びたの。前より大きいってこと」


 「分からないよ。伸びる前の僕を、僕は見てないからね。ねえ、元の大きさって覚えてる?」


 灯は鞄の底からノートを出した。開いて、下の端の空いているところへ鉛筆を当てる。


 「色は。何色なの」


 「色はね、僕の色だよ。日に当たった側だけ、少し薄いんだ」


 トトの布を光のほうへ向けた。色は日に焼けていた。焼けたところと焼けていないところの差が、指の付け根のあたりで一度切れている。切れた先は、どちらとも言えない色だった。


 「トトの色、二つあるけど」


 「二つあるんだ。片方は外の色で、片方は元の色だよ。どっちが元かは分からないんだ」


 鉛筆の先は、紙の上で止まったままでいた。


 「指の本数は」


 「五本だよ。ねえ、手袋ってみんな五本だよね。数えたことある?」


 「五本」


 「うん、五本だ。五本じゃないのは、手袋じゃないからね」


 灯は斜面を見た。手袋は端から端まで並んでいて、そのうちのどれも五本だった。


 鉛筆を持った手を、灯は膝の上へ下ろした。


 斜面の三歩ほど先に、一枚だけ色の薄いものがあった。灯はそこまで入って、しゃがんだ。


 毛のもので、指は五本。手首の少し先まで届く長さで、厚みは薄い。三本目の指のところに、糸のこぶが一つ。


 灯はそれを両手で持って、道の終わりまで戻った。戻る間、持ち上げた高さを変えなかった。指の腹の下で、こぶは一つだけ盛り上がっていた。


 「これ」


 トトは灯の手のひらの上で、指の部分を全部前へ向けた。向けたまましばらく動かない。


 「大きいね。いや、大きくないかな。同じくらいかもしれないよ」


 「こぶ、ある」


 「あるね。そこは合ってるよ。三本目のこぶも、大きさはこれくらいだった気がするよ。合ってるんだけど」


 トトは一度ひっくり返ろうとして、途中でやめた。やめてから、また指を前へ向けた。


 「あのね、こぶがあるのは珍しくないんだ。千あれば、こぶのあるのも何枚もあるよ」


 「じゃあ、これじゃないの」


 「違うよ。たぶん違うよ。ねえ、たぶんって、どのくらいだと思う?」


 灯は手袋を持ったままでいた。持っている間に、下の毛が指の間で少し温かくなった。温かくなったのは灯の手のほうで、毛のほうではない。


 「合わせてみたら」


 「合わせるのはいいよ。でも違ったら、この一枚はもう違う一枚になるんだ。ねえ、減るよね」


 灯はしゃがんだ場所まで戻って、手袋を置いた。置く向きは、指の先を斜面の下へ向けた。拾った時と同じ向きにそろえた。


 置いてから、灯は手を毛の上に置いたままにした。手のひらの下で、毛は沈まなかった。


 斜面から道へ戻る間に、灯は自分の足の跡を見た。跡は三つ。どれも爪先の側だけが深かった。深いほうへ体を掛けて歩いていた。


 「印は。三本目のこぶでしょ」


 トトは答えるまでに、指を二度ひらいた。


 「そうだよ。よく覚えてるね。三本目にこぶがあるんだ」


 「こぶ、どっち側」


 「どっち側」


 「内側か、外側か」


 「どこだったかな。片方だよ。並べれば見れば分かるんだ」


 「見れば分かるって、見ないと分かんないってことじゃん」


 「そうだよ。だから探してるんだ。探さない日は、まだ一日も無いよ」


 灯は紙を膝の上で押さえた。押さえた紙の上に、鉛筆の先が触れた点が一つだけ付いていた。字にはなっていない。


 「書けないんだけど」


 「書かなくていいよ。書いたら、そればっかり探しちゃうんだ」


 風が斜面の下から来て、上へ抜けた。手袋の指の部分が、下から順に持ち上がっては戻った。持ち上がりは丘の上まで行かずに、途中で止まった。


 ノートは閉じて、鞄の底へ戻した。表紙の角の折れが、前より深くなっていた。


 「メノのとこ行く」


 「メノって、あの子か。あの子は触ると分かるんだよね。すごいよね」


 「触ってもらう」


 「触ってもらうんだ。じゃあ僕も行くよ。台の端に置いてくれればいいからね」


 *


 西の道は市の日でも人が少なかった。売る台は東と南で、西には荷車が一台も入らない。灯は道の右側を歩いた。行きは右で、帰りは左。去年の夏に灯が決めた。


 橋の手前で、灯は溝をのぞいた。溝の底の土は三日前より乾いた色。三日前に残っていた布の形の跡も、消えていた。跡の在ったところに、細い草が二本だけ生えていた。


 「おねえさん、そこ何かあるの」


 「前は布があった。十一日前に見たきり」


 「布か。布はよく残るんだ。僕も布だからね。三百年で薄くなったのは、指の先だけ」


 橋を渡ると、風の当たり方が変わった。左の耳のほうへ来る。灯は歩きながら髪を耳の上へ寄せた。寄せても、風はその下から入った。


 「おねえさん、耳は二つあるのに、どうして片方だけ寒いのかな」


 「風がそっちから来てるから」


 「そうか。じゃあ向きを変えれば逆になるんだね。僕は耳が無いんだ」


 「無くて困る?」


 「困らないよ。無いものは困らないんだ。僕が困るのは、あると思った日だけ」


 道の途中の壁に、板が三枚。三日前と同じ場所で、同じ向きに立てかけてあった。一番短い一枚の上の端の穴も、二つのままになっている。


 灯はその前で足を止めなかった。止めないで、横を通り過ぎた。通り過ぎてから、鞄のひもを握り直した。


 戸の前の踏まれた土は、三日前より広い。固いところの縁が右へ、手のひら一枚ぶん出ていた。


 戸の板は外から見て、下の三分の一だけ色が濃い。濃いところと薄いところの境は、三日前より指一本ぶん上へ来ていた。灯はそこへ指を当てて、当てたまま少し待った。板は指の腹より冷たい。


 灯は戸を押した。内側で木がこすれて、途中で一度引っかかった。その先は軽くなる。


 中の匂いは乾いた紙のほうが先に来た。甘いのはその奥へ下がっていた。三日前とは順が入れ替わっていた。灯は鼻から短く二度吸って、そこでやめた。


 鼻の奥は丘にいた時と同じところが痛んだ。


 メノは台の向こうで膝を一つ立てていた。座り方は三日前と同じ。灯が入っても顔を上げない。壁の棚の箱は上から二段目の左が一つ抜けていた。


 左の端の皿に、菓子は無かった。皿だけが残っている。


 「無いんだ。皿だけ出てる」


 「今日は焼いてない」


 灯は台の前に立った。鞄のひもからトトを外して、台の布の端へ置く。置いた場所は並んでいる物の列の外側にした。


 「これ、見てほしい」


 メノは目だけを動かした。目は灯の手のほうへ来て、それからトトへ落ちた。


 「口をきくやつだ」


 「トトっていう」


 「知ってる」


 トトは布の上で、指の部分を順にひらいた。


 「はじめまして。いや、はじめましてじゃないかもしれないね。ねえ、そういうのある?」


 「無い」


 「無いか。じゃあ僕の勘違いだね。勘違いは多いんだ」


 台に手を掛けた。板の縁は指を当てると外より冷たい。縁の角は丸くなっていて、丸いところだけ色が薄い。冷たさは指の腹だけに残って、手のひらまでは来なかった。


 台の布の上には、物が並んでいた。灯は端から目で追った。布と器と片方だけの靴と、名の分からないもの。三日前と同じ並びで、同じ間で置いてあった。動かしていないのではなく、動かして元へ戻したのだと灯は知っている。


 右から三つ目のところに、木の玉が一つ置いてあった。玉の表に、爪で付けたような線が二本入っていた。二本は交わらずに、同じ向きで並んでいた。灯は三日前、この線を見ていない。見ていないだけで、在ったのかもしれない。


 「触って、相方が分かる?」


 「触らない」


 「やってみたら分かるかもしれないじゃん」


 「分かるとか、そういう話じゃない」


 メノは布を巻いた両手を、膝の上へ置いたままにしていた。布は指の先まで巻いてあった。巻いた端は今日どちらもほどけていない。


 その手のほうへ目を上げた。上げてから、台の布の上へ戻した。布の端は、三日前と同じところで折れていた。


 「じゃあ、物なら分かるの」


 「物は来る。来るだけだ」


 「トトは物じゃないってこと」


 「そっちがそう言った」


 トトは布の上で一度ひっくり返った。そのまましばらく起き上がらない。


 「僕は物だよ。物じゃなかったら、丘にいないもんね」


 メノは答えなかった。答えないで台の布の上の物を一つ、指一本ぶん右へ寄せた。それから、また元へ戻した。


 「メノは丘、行く?」


 「行かない」


 「一回も。夏も冬も?」


 「行く用がない」


 「落とし物なのに。片方だけでも落とし物じゃん」


 「あそこのは、落とし物じゃない」


 灯は丘の斜面を思い出した。手袋は端から端まで置いてあって、積んではいない。誰かが置いた。誰が置いたかを、灯はキリにもトトにも聞いていない。


 「じゃあ何なの」


 「知らない」


 メノは膝を立て直した。立て直した膝の向きが、前より台のほうへ寄る。


 「そっちは、どんなのを探してるんだ」


 灯は口の中で並べた。そのまま言った。


 「五本で、薄くて、糸が一本だけ違うの」


 メノは目を上げた。上げた目の先は、灯ではなく台の布の端。


 「それはそいつだ」


 灯は布の端を見た。トトが指の部分を一本ずつ順にひらいていた。ひらき終えると、また順に折る。


 「そうだよ。だって一組だからね。片方の縫い目を見れば、もう片方の縫い目も分かるんだ」


 トトはそう言って、布の上で半分だけ起き上がった。起き上がった先で、指の二本が台の縁より外へ出た。


 メノは何も言わなかった。言わないで、皿の縁を指の腹で押さえた。皿は動かない。


 鞄の底のノートを、灯はもう一度出した。開かずに台の上へ置く。


 「名前、書こうと思ったんだけど」


 「誰の」


 「トトの相方の」


 「書けないだろう」


 「書けなかった」


 メノは紙を見た。開いていないので、字は見えない。それでも、しばらく見ていた。


 「書けなかったのは、そっちの手だ」


 ノートを戻す時に、表紙の折れた角が鞄の底へ引っかかった。引っかかったところで一度止めて、それから押し込んだ。


 「メノって、誰が付けたの」


 「付いてない」


 「じゃあ、なんでメノなの」


 「そう呼ばれた。付けたのとは違う」


 メノの声は変わらなかった。言い終えてから、皿を指の腹で一度回した。皿は空のまま、位置が半分だけ動いた。


 灯は台の板の上を見た。木の目は横。横のときは、下の線を太くする。


 「呼ばれたのって、いつから」


 「覚えてない」


 「覚えてないって、忘れたってこと」


 「はじめから無い」


 灯は下の唇を一度だけ噛(か)んだ。噛んでから離した。


 トトが布の上で指を二本立てた。


 「あのね、僕も付いてないんだよ。トトっていうのは、前の人が呼んだ音なんだ。ねえ、音って便利だよね」


 「便利だ」


 メノがそう言ったので、灯はメノのほうを見た。メノは皿を見ていた。


 灯はノートの紙のことを思った。紙の上には十八の名が並んでいて、そのうち二つはへこみになっている。十八のうち二つは、本人の口から聞いていない。名を言ったのはキリになる。


 台の上の皿は空のままだった。灯は皿の縁の欠けたところを見た。欠けは一か所で、断面は白くない。割れてから日が経っていた。


 「その皿、割れてる」


 「割れてる」


 「取り替えないの」


 「割れてても皿だ」


 メノは指を皿から離した。離した指を膝の上へ戻す。


 台の板の木の目を、灯は指の腹で一度なぞった。なぞった先で、指は板の端に当たって止まった。


 「あたし、名前ばっかり書いてる」


 「書けばいい」


 「書いても、薄くなるんだけど」


 「薄くなるほうが先だ。書いたのは後だろう」


 メノはそれだけ言って、口を閉じた。閉じた口の端は動かない。


 灯は自分の右手を見た。人差し指の腹の内側に、鉛筆の当たる場所が一か所へこんでいた。へこみは押すと戻った。戻る速さは夏より遅い。


 戸の外を、人が二人続けて通り過ぎた。二人とも足音が同じ間で、途中で一度そろった。そろってから、また離れる。


 「客、来ないの」


 「市の日は来ない」


 「みんな市にいるから?」


 「市で失くす。持ってくるのは明日だ」


 灯は明日のことを考えた。明日は十三日で、市の次の日になる。四つ角の台の板は、今日より乾いているはずだった。


 「明日も来る」


 「来ればいい」


 「じゃあ、あたしが付ける」


 「付けるな」


 メノは布を巻いた手を膝から上げて、台の縁へ置いた。指はどれも動かない。


 台の布の上で、トトが指の部分を一本だけ立てた。立てた一本は並んでいる物のどれよりも細かった。

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