第031話 番の小屋
名札小路の入口は、坂を下りきったところにある。
灯は坂の途中で一度足を止めて、それから最後の五歩を続けて下りた。下りると、風の当たり方が変わった。上では首の後ろへ来ていたのが、下では正面から来た。
坂の下の土は、上より色が濃い。踏むと靴の底が少しだけ沈んだ。沈んだところは戻らずに、足の形のまま残った。
入口の両側の壁は、下の三分の一だけが湿っていた。左のほうが濃い。右は日の当たる側になる。
壁と壁の間は、灯の肩の倍ほどしか空いていない。灯は真ん中を歩かずに、左の壁沿いを歩いた。左を歩くと、釘の列が目の高さに来た。
一軒目の釘に、札が下がっていた。
字は二文字。木の色より黒く残っていた。灯が夏に書いたもので、上の字の下の線が太くなっていた。木の目が横に走っていたからだ。
二軒目の札は三文字。灯の字ではない。線の終わりで筆が止まらずに、そのまま外へ抜けていた。
三軒目は二文字。これは灯の字だ。上の一字の下の線が太くなっていた。
四軒目の札は三文字。書いた手は二軒目と同じに見えた。
五軒目の札も下がっていた。
白かった。
字の在ったところに、黒が残っていない。
灯は足を止めた。札を指で挟んで、光のほうへ向ける。木の目の上に、線の跡だけが見えた。字の在ったところがわずかにへこんでいて、押した黒だけが無い。
夏に見た時、この字は二つとも黒かった。書いたのは灯で、この家の人は礼を言わなかった。
灯は数を口の中で置いた。一つ。
六軒目は三文字。七軒目の札も白くなっていた。
二つ。
灯は歩きながら数えた。自分で数えるのは、これが初めてだった。昨日はキリの言った十一を口の中で置いただけで、自分では一つも数えていない。
八軒目も白かった。三つ。
九軒目、三文字。十軒目の札も下がっていて、こちらも白くなっていた。
四つ。
九軒目と十軒目の札は、木の色が同じ。片方に字があって、片方に無い。
十一軒目の札は下がっていた。字は二つ。下の一字は黒く、上の一字が木の色に近くなっていた。近いだけで、まだ読めた。
これも灯の字だった。夏に一度、上からなぞらずに少し下へずらして書いた。書いた時、この家の人の手は膝の上から動かない。
灯はその札を数に入れなかった。まだ読めた。
灯は足を止めて、十一軒目の戸を見た。戸は閉まっている。下の板が一枚だけ新しくて、その一枚だけ色が薄かった。
新しい一枚だけ、下の縁がまだ角ばっている。
戸の内側から音はしなかった。
十二軒目の釘には札が下がっていた。字は二文字。木の色より黒い。これも灯の字だ。夏に書いた時、木の目は横に走っていた。
十三軒目。
十三軒目の釘には札が下がっていた。灯はその札を知っている。七日前、この釘の札は取り立ての男が持っていった。持っていって、腕の内側へ入れた。
いまそこに下がっているのは、別の札だった。木が新しい。字は三文字で、灯の字ではない。
灯は札の縁を指で挟んだ。厚みは夏の札より薄い。持ち上げると、ひもが釘の頭で一度引っかかって、それから回った。
回りながら、裏が見えた。裏には何も書かれていなかった。木の目は縦に走っていて、表の三文字はその目を横切っている。横切ると、字は木の中へ沈まなかった。
後ろから声がした。灯は札を離した。札は回りながら戻って、途中で止まる。
ぬいが一軒手前の戸の前に立っていた。夏より背が縮んで見えた。七日前に会った時も同じに見えて、灯はそこで数えるのをやめている。
「あんた、また数えてるのかい。七日前も、同じところに立って、同じ側の壁を見てたねえ」
「知らない。立ってただけ」
「数えたって減るもんじゃないだろう。あたしゃ四十年ここにいて、一度も数えたことがないよ」
灯はぬいの戸のほうを見た。ぬいの戸の釘には、灯が夏に書いた二文字が下がっていた。七日前と同じ黒さ。灯は目でそれを確かめてから、ぬいへ戻した。
「十三軒目、別の札になってた。木が新しいし、字も違う」
「なってたねえ。あんた、あそこに誰か入ったと思うかい」
「入ったんじゃないの」
「あたしゃ見てない。夜は戸を閉めて寝てる。見てないのに入ったって言えるかい」
ぬいは上着の袖を肘まで上げた。上げた腕の内側に、日の当たったところとそうでないところの色の差が出ていた。
「じゃあ札だけ替わったの。誰が替えるの」
「札だけ替わることは、あるよ。幾度も見たさ」
「そりゃ、あんた」
ぬいはそこで一度、言葉を切った。切ってから、自分の胸の前で指を二度組み直した。
「置いてく人がいるのさ」
灯は十三軒目の戸を見た。戸は閉まっている。板の下の隅に、靴の当たった跡が横に並んでいた。跡は五つ。全部同じ高さに付いていた。
「ここの人、どこ行ったの。戸は閉まってるけど」
「どこへも行かないさ。行かないから札だけ替わるんだろう。分かるかね、あんた」
「分かんない」
「あたしも分かんないよ。四十年見てて、まだ分かんない。分かった日があったら教えとくれ」
ぬいは腕を下ろして、手を上着の前で組んだ。組んだ指の関節は、七日前より膨らんで見えた。
「ずっとここにいるの」
「いるさ。ここより先へ行く用が無いのさ。買うものは入口の店で足りる」
灯は十三軒目の釘をもう一度見た。札は止まっていた。字の三文字は、上から下へまっすぐ並んでいた。書いた者の手は、木の目を見ていない。下の線が太くなっていない。
「これ、書いた人は木の目見てないよ」
「見なくたって書けるだろう。あんたは見るのかい」
「見る」
「あたしの前でそこを見た子は、あんたが初めてだよ。それ、誰に教わったんだい」
灯は答えを作りかけて、口を閉じた。誰にも教わっていない。八月のいつかに、自分でそうなった。その日がいつだったかは、灯の覚えの外。
「忘れた」
「忘れたのかい。今日は何しに来たんだい」
ぬいは戸の内側へ半分入って、そこで止まった。止まったまま、顔だけ外へ残す。
「数えに」
「数えて、それからどうするんだい」
灯は口を開けて、そのままにした。開けて、閉じる。
「決めてない」
「決めてないのかい。まあ、いいさ。戸を閉めるよ。風が入る」
ぬいは戸を閉めた。閉まる時に、下の板が枠へ当たって一度浮いた。浮いた板は、そのまま戻った。
灯は十三軒目から十二軒目まで戻って、そこで数を数え直した。
四つ。白かったのは五軒目、七軒目、八軒目、十軒目。
十二軒目までで四つ。キリは十一と言っていた。小路は十二軒より奥が長く続いていた。灯はそこから先へは行かなかった。
行かなかった理由を、灯は自分で置いた。ぬいが戸を閉めたから。
灯は十二軒目の壁へ手のひらを当てた。壁は上のほうが冷たくて、下だけが湿っていた。
小路の空の幅は狭かった。壁と壁の間に切り取られたぶんだけで、雲の動きも切り取られていた。灯は上を向いて、その幅を目で測った。手のひら三枚ぶん。
上を向いたまま歩くと、足が石へ当たった。下を向き直して、当たった石を靴の先で横へどけた。どけた先に、木の切れ端が一つ落ちていた。
切れ端には穴が一つ開いていた。穴の縁が黒い。大きさは札の上の穴と同じ。
灯はそれを拾わなかった。拾わないで、そのまま二歩またいだ。
二歩めで、匂いが変わった。壁の湿った側から、ぬれた木と、その下の土の匂いが上がってきた。夏に嗅いだ時より薄い。薄いのに、鼻の奥へ入るところは同じだった。
灯は息を一度止めて、それから吸い直した。もう一度嗅ぐと、匂いはもう分からなくなっていた。二度目には出てこない匂いがある。灯はそれを七日前にも確かめていた。
壁の上のほうに、釘の穴だけが残っている段があった。穴は高すぎて、灯の手は届かなかった。爪先を立てると、指の先が届くのは穴の下の縁まで。そこの木は、下のほうより乾いていた。
入口へ戻る間に、灯は左の壁の湿りを見た。下の三分の一という境は、七日前より上に来ていた。指一本ぶんほど上へ来ている。指を当てて確かめると、湿った側の壁は指の腹へ冷たさをそのまま渡した。乾いた側は渡さなかった。
入口の手前で、灯は目を細めた。札の列が一本の線に見える。線は入口から奥へまっすぐ伸びていて、途中で切れているところは無い。札は全部下がっている。
目を開くと、線は札へ戻った。切れていないのに、四つは無い。
灯は上着の前で手を握った。指の付け根のところが固い。
寒いからだと灯は思った。
もう片方の手は、坂を下りる間ずっと上着の下へ入れていた。そちらも同じだけ固かった。
灯は坂を上りながら、両手を上着の下へ入れた。固さは同じところに残ったままだった。
*
四つ角に台が出ていた。板の上には何も載っていない。石は三つで、四つ目の脚だけが土へめり込んでいる。キリは台の後ろにいない。
灯はそこに立ったまま台を見て、それから南の道へ入った。
小屋は、四つ角から南の道を三つ目の角まで行って、そこを左へ折れた先に在る。
道の幅は途中で狭くなった。狭くなったところから先は、灯の肩が両側の壁に近い。壁は板。板と板の間に隙間が空いていた。隙間から向こうの光が、縦の細い線になって並んでいた。
角を折れると、道が急に開けた。開けた先に小屋が一つ。屋根は傘を並べたのではなく、板を重ねてあった。板の重なりは下から上へ。雨はそれで落ちた。
戸の前にキリが座っていた。座る場所は、戸の右の石の上だ。
「早いな。数えたか」
「小路から来た。十二軒目まで数えた。四つあった」
キリは石の上で膝を組み替えた。組み替える時に、上着の裾の継ぎが下から見えた。
「四つか。小路は二十七軒で、灯が見たのはそのうちの十二だ」
灯は二十七から十二を引いた。引くと十五になった。十五軒は、灯がまだ見ていないぶんになる。
「じゃあ、あと十五軒ある」
「ある。十五だ。だが今日は行くな」
「なんで」
「取り立てが来てから七日だ。七日たつと戸が開く。開いた戸の前で数える奴は、嫌われる」
灯は石の横に立った。鞄を左手から右手へ持ち替え、また左へ戻した。
取り立てが来てから七日。三十一日までは、あと二十一日になる。
「ここ、何」
「小屋だ。四つ角の台とは別だ」
「小屋って言われても分かんない」
キリは立ち上がった。立ち上がってから、戸の掛け金を外した。掛け金は木。こすれる音が二度した。
「預かってる。俺が番をして三年になる」
「誰の」
「誰のでもない。名の付いてる物は、ここへは来ん」
戸が内側へ開いた。中は外より暗い。目が慣れるまでに、灯は三つ数えた。
棚は無かった。床に直に物が並んでいる。並び方は列。列と列の間は、人が一人通れるぶん空いていた。駅のホームに引いてある白い線の内側に似ていた。線の外側へ出る者はいない。
布。器。ひもの束。片方だけの靴。柄の取れた道具。木の枠。畳んだ紙。
列の間の床は、真ん中だけ色が薄かった。人が通るところが、そうなっていた。薄いところの幅は、灯の足より広かった。キリの足の幅だ。
「これ、全部落とし物?」
「落とし物は四つ角へ来る。ここへ来るのは、落とし物じゃない」
「じゃあ何」
キリは列の間へ入っていった。二列目の途中で足を止めた。
「探されてない物だ。落とした奴はいる。探しに来る奴がいない」
灯は入口のところで立ったままでいた。中の空気は外より重い。重いのに、匂いは薄れていた。板と、乾いた布と、その奥にもう一つ。もう一つのほうは名前が出てこない。
戸を開けたままにすると、光が入口の幅だけ床へ入った。入ったぶんだけ、一列目の頭が明るかった。
灯は一列目の端にしゃがんだ。しゃがむと、床の板の冷たさが膝の裏まで来た。
一番手前にあったのは布だ。四つ折りにして、折り目を上に向けてあった。折り目の角が丸くなっていた。
「触っていい」
「触っていい。売り物じゃない。売り物なら四つ角に出てる」
灯は布の角を指で持ち上げた。持ち上げると、下からほこりが出た。ほこりは床の板の目に沿って動いて、途中で止まった。
布の下に紙が一枚。紙には数が書いてあった。二桁。二桁の下に、短い線が一本。
「これ、番号?」
「日だ。ここへ来た日から、何日目かを書く」
「何から数えて何日目なの」
キリは二列目から答えた。顔はこちらへ向けていなかった。
「置いた日からだ。月に一度、俺が書き足す」
灯は紙の数をもう一度見た。十九。十九日。半月より少し長い。
「十九日しかたってないの」
「たってない。だが十九日でも、ここにあるものはここのものだ」
灯は布を元へ戻した。戻す時に、折り目の向きをそろえ直した。
列は四つあった。一列の長さは、灯が数えれば数えられる長さになる。灯は数えはじめて、七つで口を閉じた。
二つ目は器だ。縁が一か所欠けていた。欠けたところの断面が、まだ白かった。割れてから日が浅い。
「これ、新しいじゃん。割れたばっかりなのに」
「新しい。だが新しさは、ここでは数に入らん」
「じゃあ、なんでここにあるの」
「探されてないからだ。割れたばっかりでも、探さない奴は探さん」
灯は器を持ち上げた。持ち上げると、思ったより重かった。焼き物ではなく、木を削ったものだ。縁の欠けたところの断面に、木の目が斜めに出ていた。
灯は器の下の紙を見た。数は三桁だった。四百と少し。一年より長い。
十九と四百が、同じ列で隣り合っていた。
灯は二つの紙を見比べた。四百のほうの紙は、縁が波を打っていた。十九のほうは平らなままだ。紙のほうは、後から来た側が新しかった。
「順番、どうなってるの。日の順じゃないの」
「置いた順だ。置いた順に置く。それだけだ」
灯は列の頭のほうを振り返った。頭にあった布の紙は十九。二つ目の器は四百と少し。置いた順に置くなら、器のほうが後に来たことになる。
あとから来たほうが、日が多い。
「これ、後から来たんでしょ」
「後だ」
「じゃあ、なんで日が多いの」
「知らん」
キリは三列目で膝を折った。床の紙を一枚だけ指で起こして、すぐに伏せた。
「聞いてないの」
「置く奴は言わん。俺も聞かん。三年で一度もだ」
灯は立ち上がって、二列目へ入った。キリは三列目の奥にいて、そこで何かを数えていた。指は動いていない。目だけが並びの上を左から右へ動いていた。
二列目の頭は靴だった。片方だけ。右の靴で、かかとの内側だけがすり減っていた。灯は自分の靴のかかとを見た。減っているのは外側だった。
ひもの束は靴の隣にあった。太さの違うひもが七本、真ん中で一度結んである。結び目は一つ。誰かが持ち運ぶために結んで、それきり解いていない結び目。
二列目の途中に、木の枠が二つ立てかけてあった。市の枠より小さい。枠の中には何も張っていない。
その枠の足元に、木の札が積んであった。
灯は足を止めた。
積んであるのは十枚ほど。縦に重ねて、上から二枚だけ横に渡してあった。重ねた縁はそろっていなかった。ひもは全部外してあって、上の穴だけが空いていた。
灯は一番上の一枚を持ち上げた。厚みも木の色も、名札小路の札と同じ。字は二文字で、灯の字ではなかった。
二枚目。三文字。四枚目まで見て、灯は手を止めた。
五枚目からは、字を見ずに下の線だけを見た。太い線を探している。太い線は、木の目の上へ書いた時にできる。
十枚とも、下の線は細かった。
灯は指の腹を札の面へ当てた。当てたところの木は、指より冷たい。冷たさは指を離しても札の側に残って、灯の指のほうが先に温まった。
どれも上の穴にひもの跡があった。跡は穴の縁から下へ、細く黒く伸びている。
灯は札を元の重なりへ戻した。戻した縁は、前と同じだけずれている。
「キリ」
「なんだ」
「これ」
キリは三列目の奥から出てきた。札の山の横で足を止めた。
「札だ」
「見れば分かる」
「なら聞くな」
灯は札の山を指した。その手を、すぐに下ろした。
「なんでここにあるの。物じゃないのに」
「置いていったからだ。物と一緒に置いていく奴がいる」
「誰が」
「知らん」
キリは札の山を見なかった。見ないで、二列目のひもの束のほうへ手を伸ばして、束の位置を指一本ぶん直した。
「聞かないの」
「聞かん」
「置いてく人、来るんでしょ。見たことないの」
「来る。夜に来る。番は昼だ」
灯は札の山の横にしゃがんだ。しゃがむと、床の紙が目の高さより下へ来た。札の山の下にも紙が一枚敷いてあった。数は書いていない。線が一本だけ引いてあった。
「これ、日が書いてない」
「札は預かりじゃない。預かってない物の日は、数えん」
「じゃあ何」
「置いてあるだけだ」
灯は線の上へ指を置いた。置いただけで、動かさない。
札の山は、上から二枚だけが横に渡してある。
「これ、キリが積んだ?」
「積んでない。俺は動かしてないし、数えてない」
「じゃあ置いた人が積んだの。上の二枚だけ横なの、なんで」
「知らん。知らんが、上の二枚だけそうしてある」
灯は上の二枚に触らないまま立ち上がった。立ち上がると床の冷たさが膝から抜けて、代わりに膝の裏だけが冷たいままになった。立ち上がると、札の山は足元へ下がって、上の二枚の横向きが上から見えた。二枚とも字が下を向いていた。
灯は手前の一枚だけを指の先で起こした。起こすと、字が上を向いた。二文字。灯の字ではない。
灯はそれを元の向きへ戻した。戻す時、伏せる向きを合わせた。
*
小屋の裏には、板の切れ端が積んであった。積み方が高い。灯の胸のあたりまであった。
キリは戸を閉めて、掛け金を掛けた。掛ける時の音は、開ける時と同じ。二度こすれた。
「裏は何」
「燃やすぶんだ。冬のあいだ、月に二度は燃やす」
「燃やすの」
「燃やす。中のは燃やさん」
灯は積んだ切れ端の端を見た。切り口が新しいものと、古いものが混ざっていた。古いほうは端が丸くなって、色が抜けていた。
「中のはずっと置いとくの。いっぱいにならないの」
「置いとく。いっぱいにはなる」
「なったらどうするの」
キリは石の上へ戻って座った。膝の上で両手を組んで、親指だけを動かしている。
「なったら、次の小屋を建てる。ここで三つ目だ」
「全部でいくつあるの」
「三つだ。一つ目はもう戸が閉まらん」
「二つ目は」
「二つ目もいっぱいだ。ここが半分まで来てる」
灯は石の横に立ったままでいた。立ったまま、小屋の板の壁を見た。板と板の間に隙間は無かった。中を暗くするために、そう組んであった。
「探しに来る人、いないの」
「来る奴もいる」
「来たら」
「渡す。渡す時は紙の日を消す。消したら、その物はもうここのじゃない」
灯はしゃがんで、石の下の土を指で押した。土は固い。押しても跡が付かなかった。
「消した紙って、いくつあるの」
キリは答えなかった。答えないで、袋の口のひもを一度巻き直した。巻き直してから、灯のほうを見た。
「三年で九だ」
「九? 一年で三つ」
「三年で九だ。一年で三つずつじゃない。四つの年と、二つの年と、三つの年がある」
「同じじゃん」
「同じじゃない。三つの年に来た奴は、三つの年に来た」
灯はしゃがんだまま、口の中でその数を置いた。中に並んでいた物の数を、灯は数えていない。数えていないが、一列で二十は超えていた。列は四つ。
「じゃあ、あとの物は」
「置いておく。ずっとだ」
灯は立ち上がった。立ち上がる時に、膝の裏が伸びて痛んだ。しゃがんでいた時間が長かったぶんだ。
「捨てないの」
「捨てん」
「なんで」
キリは石の上で背中をまっすぐにした。まっすぐにしてから、袋を肩へ掛けた。
「探されてない物は、置いておくしかない」
灯はキリの顔を見た。キリは道の先を見ていた。
「置いとくのは、探されるかもしれないから?」
「違う」
「じゃあ、なんで」
「捨てるには人手が要る。人手には値がつく」
道の先は、来た時と同じ狭い幅で、板の壁の隙間から縦の光が並んでいる。並びは一定ではなかった。
灯は数えた。十七本。数え直すと十六本になった。三度目は数えなかった。
戸の板の下の隅に、土が細くたまっていた。掃いた跡は無い。たまった土の上に、靴の跡が二つ付いていた。二つとも同じ向きで、外へ向いていた。
灯は道を戻りはじめた。狭いところで肩が壁に触れて、板の一枚が内側へ少し動いた。動いた板は戻らなかった。灯は指で押して戻した。押した先で、板は元の面に並んだ。
角を折れると、道の幅が戻った。南の道に出たところで、灯は一度だけ振り返った。小屋は角の向こうで、もう見えなくなっていた。
見えるのは板の壁と、その隙間の縦の光だけだ。
四つ角まで戻ると、台はそのまま出ていた。板と脚。脚の下の石は三つ。四つ目の脚は、朝と同じところで土へめり込んでいる。
台の上に、木の札は無かった。板の上は空いている。木の目の走る向きだけが横に見えている。
灯は台の前で足を止めた。足を止めた先で、板の上へ手のひらを置いた。木は冷たい。冷たさは指の付け根から入って、手首の手前で止まった。
「今日は無いの」
「客が来ん。昨日は一枚で、今日は零だ」
「零の日ってあるんだ」
「ある。月に四日か五日だ」
灯は手を離した。手のひらの跡が板の上に残って、それから消えた。
「じゃあ、今日は書かない。輪も無し」
「書かん。無しだ」
灯は鞄の底へ手を入れた。輪は三つ。指の先で数えると、三つとも大きさが違う。一番小さいのが昨日もらったもので、縁の一か所だけが平らに潰れている。
「キリ」
「なんだ」
「小屋の札、何枚あった」
「数えてない」
「番してるのに?」
「番は物の番だ。札は物じゃない」
灯は手を鞄から抜いた。抜いた手は、そのまま持ち手のほうへ回る。
「じゃあ何」
キリは何も言わずに、台の板の右の端を持ち上げた。脚のほうが土から少し浮いた。浮いたぶんを受けたのは、キリの膝。
「片付けるの」
「片付ける。零の日は早く畳む」
灯は脚の一本へ手を掛けた。掛けた手を、キリは払わなかった。二人で板を外して、脚を四本とも横へ倒した。四本のうち一本だけ、太さが違っていた。土へめり込んでいたほうが細い。
「これ、削れてる」
「削れてる。土が削る」
「取り替えないの」
「取り替えると、四本とも新しくなる」
「一本だけ替えればいいじゃん」
「一本だけ替えると、そこだけ高くなる」
脚の断面には、木の目が輪になって出ていた。輪の数は多い。数えられる細さではなかった。
灯は倒した四本を並べ直した。長さは三本まで同じで、一本だけ短かった。短いほうを右の端へ置いた。
置いてから、キリのほうを見た。キリは板を拭いている。布ではなく、手のひらの側でこすっていた。こすった先の木の目が、少しだけ濃くなった。
「毎日やってるの」
「毎日だ」
「拭かないと、どうなるの」
「土が乗る。乗った土の上に名を書くと、名が土ごと落ちる」
キリは板を壁へ立てかけた。立てかける場所は決まっている。四つ角の南の側の壁で、そこだけ土が固く踏まれていた。
「明日は出るの。零じゃない日?」
「出る。明日は市の前の日で、前の日は客が来る」
「なんで前の日に来るの」
「市で売る物に、先に名を入れとくからだ」
灯は自分の指の腹を見た。板に触れたところが、少しだけ黒くなっていた。指をこすり合わせると、黒は取れる。落ちた粉は風で見えなくなった。
灯は板の立てかけてある壁を見た。壁の下のところに、板の角が当たった跡が四つ並んでいた。跡の間は、どれも別の広さ。立てかけた者が、毎回少しずつずらしていた。
「明日は来る」
「来い」
キリは袋を肩へ掛け直して、北の道のほうへ二歩歩いた。歩いてから、灯のほうへ戻したのは顔だけ。
「小路で数えるなら、俺の勘定には入れんぞ」
「入れなくていい」
「なら好きにしろ」
キリはそのまま北の道へ入っていった。
灯は四つ角の真ん中に立った。北の道の先で、キリの背中が坂の途中まで見えて、そこから消えた。
消えた場所を、灯は目で覚えた。坂の途中の、右側の壁が切れているところ。昨日もそこで見えなくなった。同じところで消えるのは、道がそこで曲がっているからだった。
四つ角の石の一つに、灯は靴の先を当てた。昨日、灯が転がして戻した石だ。位置は昨日のままだった。誰も動かしていない。
風が西の道から来た。西から来ると、四つ角の真ん中は風がぶつかって、上へ抜けた。灯の髪の右の側だけが持ち上がった。
風は西の道の匂いを運んできた。西は名札小路のほうで、湿った壁と、その下の土の匂いが薄く混ざっていた。壁と壁の間に一度入った匂いは、すぐには出ていかない。
灯は鼻から息を入れて、口から出した。出した息は白くならなかった。こちらの十二月は、灯の側の十二月ほど冷たくない。冷たくないのに、指の先だけは同じように固くなった。
北の道のわだちは、昨日より薄くなっていた。風で土が動いたぶんだ。跡の外側だけが先に消えて、真ん中は残っていた。
東の道の枠は、昨日と同じところに立っていた。上の横木の切れ端は七つ。灯は数え直さなかった。
南の道の桶は、水が減っていた。内側の跡が三本になっている。昨日は二本だった。
灯は桶の横を通って、扉のほうへ歩き出した。歩きながら、指を四本立てた。
小路で字の消えていた札は、十二軒目までで四つ。
立てた指の反対の手を、全部開いた。
小屋の二列目には、字の残った札が十枚積んであった。
四と、十。小路は二十七軒ある。




