↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/50

第031話 番の小屋

 名札小路の入口は、坂を下りきったところにある。


 灯は坂の途中で一度足を止めて、それから最後の五歩を続けて下りた。下りると、風の当たり方が変わった。上では首の後ろへ来ていたのが、下では正面から来た。


 坂の下の土は、上より色が濃い。踏むと靴の底が少しだけ沈んだ。沈んだところは戻らずに、足の形のまま残った。


 入口の両側の壁は、下の三分の一だけが湿っていた。左のほうが濃い。右は日の当たる側になる。


 壁と壁の間は、灯の肩の倍ほどしか空いていない。灯は真ん中を歩かずに、左の壁沿いを歩いた。左を歩くと、釘(くぎ)の列が目の高さに来た。


 一軒目の釘に、札が下がっていた。


 字は二文字。木の色より黒く残っていた。灯が夏に書いたもので、上の字の下の線が太くなっていた。木の目が横に走っていたからだ。


 二軒目の札は三文字。灯の字ではない。線の終わりで筆が止まらずに、そのまま外へ抜けていた。


 三軒目は二文字。これは灯の字だ。上の一字の下の線が太くなっていた。


 四軒目の札は三文字。書いた手は二軒目と同じに見えた。


 五軒目の札も下がっていた。


 白かった。


 字の在ったところに、黒が残っていない。


 灯は足を止めた。札を指で挟んで、光のほうへ向ける。木の目の上に、線の跡だけが見えた。字の在ったところがわずかにへこんでいて、押した黒だけが無い。


 夏に見た時、この字は二つとも黒かった。書いたのは灯で、この家の人は礼を言わなかった。


 灯は数を口の中で置いた。一つ。


 六軒目は三文字。七軒目の札も白くなっていた。


 二つ。


 灯は歩きながら数えた。自分で数えるのは、これが初めてだった。昨日はキリの言った十一を口の中で置いただけで、自分では一つも数えていない。


 八軒目も白かった。三つ。


 九軒目、三文字。十軒目の札も下がっていて、こちらも白くなっていた。


 四つ。


 九軒目と十軒目の札は、木の色が同じ。片方に字があって、片方に無い。


 十一軒目の札は下がっていた。字は二つ。下の一字は黒く、上の一字が木の色に近くなっていた。近いだけで、まだ読めた。


 これも灯の字だった。夏に一度、上からなぞらずに少し下へずらして書いた。書いた時、この家の人の手は膝の上から動かない。


 灯はその札を数に入れなかった。まだ読めた。


 灯は足を止めて、十一軒目の戸を見た。戸は閉まっている。下の板が一枚だけ新しくて、その一枚だけ色が薄かった。


 新しい一枚だけ、下の縁がまだ角ばっている。


 戸の内側から音はしなかった。


 十二軒目の釘には札が下がっていた。字は二文字。木の色より黒い。これも灯の字だ。夏に書いた時、木の目は横に走っていた。


 十三軒目。


 十三軒目の釘には札が下がっていた。灯はその札を知っている。七日前、この釘の札は取り立ての男が持っていった。持っていって、腕の内側へ入れた。


 いまそこに下がっているのは、別の札だった。木が新しい。字は三文字で、灯の字ではない。


 灯は札の縁を指で挟んだ。厚みは夏の札より薄い。持ち上げると、ひもが釘の頭で一度引っかかって、それから回った。


 回りながら、裏が見えた。裏には何も書かれていなかった。木の目は縦に走っていて、表の三文字はその目を横切っている。横切ると、字は木の中へ沈まなかった。


 後ろから声がした。灯は札を離した。札は回りながら戻って、途中で止まる。


 ぬいが一軒手前の戸の前に立っていた。夏より背が縮んで見えた。七日前に会った時も同じに見えて、灯はそこで数えるのをやめている。


 「あんた、また数えてるのかい。七日前も、同じところに立って、同じ側の壁を見てたねえ」


 「知らない。立ってただけ」


 「数えたって減るもんじゃないだろう。あたしゃ四十年ここにいて、一度も数えたことがないよ」


 灯はぬいの戸のほうを見た。ぬいの戸の釘には、灯が夏に書いた二文字が下がっていた。七日前と同じ黒さ。灯は目でそれを確かめてから、ぬいへ戻した。


 「十三軒目、別の札になってた。木が新しいし、字も違う」


 「なってたねえ。あんた、あそこに誰か入ったと思うかい」


 「入ったんじゃないの」


 「あたしゃ見てない。夜は戸を閉めて寝てる。見てないのに入ったって言えるかい」


 ぬいは上着の袖を肘まで上げた。上げた腕の内側に、日の当たったところとそうでないところの色の差が出ていた。


 「じゃあ札だけ替わったの。誰が替えるの」


 「札だけ替わることは、あるよ。幾度も見たさ」


 「そりゃ、あんた」


 ぬいはそこで一度、言葉を切った。切ってから、自分の胸の前で指を二度組み直した。


 「置いてく人がいるのさ」


 灯は十三軒目の戸を見た。戸は閉まっている。板の下の隅に、靴の当たった跡が横に並んでいた。跡は五つ。全部同じ高さに付いていた。


 「ここの人、どこ行ったの。戸は閉まってるけど」


 「どこへも行かないさ。行かないから札だけ替わるんだろう。分かるかね、あんた」


 「分かんない」


 「あたしも分かんないよ。四十年見てて、まだ分かんない。分かった日があったら教えとくれ」


 ぬいは腕を下ろして、手を上着の前で組んだ。組んだ指の関節は、七日前より膨らんで見えた。


 「ずっとここにいるの」


 「いるさ。ここより先へ行く用が無いのさ。買うものは入口の店で足りる」


 灯は十三軒目の釘をもう一度見た。札は止まっていた。字の三文字は、上から下へまっすぐ並んでいた。書いた者の手は、木の目を見ていない。下の線が太くなっていない。


 「これ、書いた人は木の目見てないよ」


 「見なくたって書けるだろう。あんたは見るのかい」


 「見る」


 「あたしの前でそこを見た子は、あんたが初めてだよ。それ、誰に教わったんだい」


 灯は答えを作りかけて、口を閉じた。誰にも教わっていない。八月のいつかに、自分でそうなった。その日がいつだったかは、灯の覚えの外。


 「忘れた」


 「忘れたのかい。今日は何しに来たんだい」


 ぬいは戸の内側へ半分入って、そこで止まった。止まったまま、顔だけ外へ残す。


 「数えに」


 「数えて、それからどうするんだい」


 灯は口を開けて、そのままにした。開けて、閉じる。


 「決めてない」


 「決めてないのかい。まあ、いいさ。戸を閉めるよ。風が入る」


 ぬいは戸を閉めた。閉まる時に、下の板が枠へ当たって一度浮いた。浮いた板は、そのまま戻った。


 灯は十三軒目から十二軒目まで戻って、そこで数を数え直した。


 四つ。白かったのは五軒目、七軒目、八軒目、十軒目。


 十二軒目までで四つ。キリは十一と言っていた。小路は十二軒より奥が長く続いていた。灯はそこから先へは行かなかった。


 行かなかった理由を、灯は自分で置いた。ぬいが戸を閉めたから。


 灯は十二軒目の壁へ手のひらを当てた。壁は上のほうが冷たくて、下だけが湿っていた。


 小路の空の幅は狭かった。壁と壁の間に切り取られたぶんだけで、雲の動きも切り取られていた。灯は上を向いて、その幅を目で測った。手のひら三枚ぶん。


 上を向いたまま歩くと、足が石へ当たった。下を向き直して、当たった石を靴の先で横へどけた。どけた先に、木の切れ端が一つ落ちていた。


 切れ端には穴が一つ開いていた。穴の縁が黒い。大きさは札の上の穴と同じ。


 灯はそれを拾わなかった。拾わないで、そのまま二歩またいだ。


 二歩めで、匂いが変わった。壁の湿った側から、ぬれた木と、その下の土の匂いが上がってきた。夏に嗅いだ時より薄い。薄いのに、鼻の奥へ入るところは同じだった。


 灯は息を一度止めて、それから吸い直した。もう一度嗅ぐと、匂いはもう分からなくなっていた。二度目には出てこない匂いがある。灯はそれを七日前にも確かめていた。


 壁の上のほうに、釘の穴だけが残っている段があった。穴は高すぎて、灯の手は届かなかった。爪先を立てると、指の先が届くのは穴の下の縁まで。そこの木は、下のほうより乾いていた。


 入口へ戻る間に、灯は左の壁の湿りを見た。下の三分の一という境は、七日前より上に来ていた。指一本ぶんほど上へ来ている。指を当てて確かめると、湿った側の壁は指の腹へ冷たさをそのまま渡した。乾いた側は渡さなかった。


 入口の手前で、灯は目を細めた。札の列が一本の線に見える。線は入口から奥へまっすぐ伸びていて、途中で切れているところは無い。札は全部下がっている。


 目を開くと、線は札へ戻った。切れていないのに、四つは無い。


 灯は上着の前で手を握った。指の付け根のところが固い。


 寒いからだと灯は思った。


 もう片方の手は、坂を下りる間ずっと上着の下へ入れていた。そちらも同じだけ固かった。


 灯は坂を上りながら、両手を上着の下へ入れた。固さは同じところに残ったままだった。


 *


 四つ角に台が出ていた。板の上には何も載っていない。石は三つで、四つ目の脚だけが土へめり込んでいる。キリは台の後ろにいない。


 灯はそこに立ったまま台を見て、それから南の道へ入った。


 小屋は、四つ角から南の道を三つ目の角まで行って、そこを左へ折れた先に在る。


 道の幅は途中で狭くなった。狭くなったところから先は、灯の肩が両側の壁に近い。壁は板。板と板の間に隙間が空いていた。隙間から向こうの光が、縦の細い線になって並んでいた。


 角を折れると、道が急に開けた。開けた先に小屋が一つ。屋根は傘を並べたのではなく、板を重ねてあった。板の重なりは下から上へ。雨はそれで落ちた。


 戸の前にキリが座っていた。座る場所は、戸の右の石の上だ。


 「早いな。数えたか」


 「小路から来た。十二軒目まで数えた。四つあった」


 キリは石の上で膝を組み替えた。組み替える時に、上着の裾の継ぎが下から見えた。


 「四つか。小路は二十七軒で、灯が見たのはそのうちの十二だ」


 灯は二十七から十二を引いた。引くと十五になった。十五軒は、灯がまだ見ていないぶんになる。


 「じゃあ、あと十五軒ある」


 「ある。十五だ。だが今日は行くな」


 「なんで」


 「取り立てが来てから七日だ。七日たつと戸が開く。開いた戸の前で数える奴は、嫌われる」


 灯は石の横に立った。鞄(かばん)を左手から右手へ持ち替え、また左へ戻した。


 取り立てが来てから七日。三十一日までは、あと二十一日になる。


 「ここ、何」


 「小屋だ。四つ角の台とは別だ」


 「小屋って言われても分かんない」


 キリは立ち上がった。立ち上がってから、戸の掛け金を外した。掛け金は木。こすれる音が二度した。


 「預かってる。俺が番をして三年になる」


 「誰の」


 「誰のでもない。名の付いてる物は、ここへは来ん」


 戸が内側へ開いた。中は外より暗い。目が慣れるまでに、灯は三つ数えた。


 棚は無かった。床に直に物が並んでいる。並び方は列。列と列の間は、人が一人通れるぶん空いていた。駅のホームに引いてある白い線の内側に似ていた。線の外側へ出る者はいない。


 布。器。ひもの束。片方だけの靴。柄の取れた道具。木の枠。畳んだ紙。


 列の間の床は、真ん中だけ色が薄かった。人が通るところが、そうなっていた。薄いところの幅は、灯の足より広かった。キリの足の幅だ。


 「これ、全部落とし物?」


 「落とし物は四つ角へ来る。ここへ来るのは、落とし物じゃない」


 「じゃあ何」


 キリは列の間へ入っていった。二列目の途中で足を止めた。


 「探されてない物だ。落とした奴はいる。探しに来る奴がいない」


 灯は入口のところで立ったままでいた。中の空気は外より重い。重いのに、匂いは薄れていた。板と、乾いた布と、その奥にもう一つ。もう一つのほうは名前が出てこない。


 戸を開けたままにすると、光が入口の幅だけ床へ入った。入ったぶんだけ、一列目の頭が明るかった。


 灯は一列目の端にしゃがんだ。しゃがむと、床の板の冷たさが膝の裏まで来た。


 一番手前にあったのは布だ。四つ折りにして、折り目を上に向けてあった。折り目の角が丸くなっていた。


 「触っていい」


 「触っていい。売り物じゃない。売り物なら四つ角に出てる」


 灯は布の角を指で持ち上げた。持ち上げると、下からほこりが出た。ほこりは床の板の目に沿って動いて、途中で止まった。


 布の下に紙が一枚。紙には数が書いてあった。二桁。二桁の下に、短い線が一本。


 「これ、番号?」


 「日だ。ここへ来た日から、何日目かを書く」


 「何から数えて何日目なの」


 キリは二列目から答えた。顔はこちらへ向けていなかった。


 「置いた日からだ。月に一度、俺が書き足す」


 灯は紙の数をもう一度見た。十九。十九日。半月より少し長い。


 「十九日しかたってないの」


 「たってない。だが十九日でも、ここにあるものはここのものだ」


 灯は布を元へ戻した。戻す時に、折り目の向きをそろえ直した。


 列は四つあった。一列の長さは、灯が数えれば数えられる長さになる。灯は数えはじめて、七つで口を閉じた。


 二つ目は器だ。縁が一か所欠けていた。欠けたところの断面が、まだ白かった。割れてから日が浅い。


 「これ、新しいじゃん。割れたばっかりなのに」


 「新しい。だが新しさは、ここでは数に入らん」


 「じゃあ、なんでここにあるの」


 「探されてないからだ。割れたばっかりでも、探さない奴は探さん」


 灯は器を持ち上げた。持ち上げると、思ったより重かった。焼き物ではなく、木を削ったものだ。縁の欠けたところの断面に、木の目が斜めに出ていた。


 灯は器の下の紙を見た。数は三桁だった。四百と少し。一年より長い。


 十九と四百が、同じ列で隣り合っていた。


 灯は二つの紙を見比べた。四百のほうの紙は、縁が波を打っていた。十九のほうは平らなままだ。紙のほうは、後から来た側が新しかった。


 「順番、どうなってるの。日の順じゃないの」


 「置いた順だ。置いた順に置く。それだけだ」


 灯は列の頭のほうを振り返った。頭にあった布の紙は十九。二つ目の器は四百と少し。置いた順に置くなら、器のほうが後に来たことになる。


 あとから来たほうが、日が多い。


 「これ、後から来たんでしょ」


 「後だ」


 「じゃあ、なんで日が多いの」


 「知らん」


 キリは三列目で膝を折った。床の紙を一枚だけ指で起こして、すぐに伏せた。


 「聞いてないの」


 「置く奴は言わん。俺も聞かん。三年で一度もだ」


 灯は立ち上がって、二列目へ入った。キリは三列目の奥にいて、そこで何かを数えていた。指は動いていない。目だけが並びの上を左から右へ動いていた。


 二列目の頭は靴だった。片方だけ。右の靴で、かかとの内側だけがすり減っていた。灯は自分の靴のかかとを見た。減っているのは外側だった。


 ひもの束は靴の隣にあった。太さの違うひもが七本、真ん中で一度結んである。結び目は一つ。誰かが持ち運ぶために結んで、それきり解いていない結び目。


 二列目の途中に、木の枠が二つ立てかけてあった。市の枠より小さい。枠の中には何も張っていない。


 その枠の足元に、木の札が積んであった。


 灯は足を止めた。


 積んであるのは十枚ほど。縦に重ねて、上から二枚だけ横に渡してあった。重ねた縁はそろっていなかった。ひもは全部外してあって、上の穴だけが空いていた。


 灯は一番上の一枚を持ち上げた。厚みも木の色も、名札小路の札と同じ。字は二文字で、灯の字ではなかった。


 二枚目。三文字。四枚目まで見て、灯は手を止めた。


 五枚目からは、字を見ずに下の線だけを見た。太い線を探している。太い線は、木の目の上へ書いた時にできる。


 十枚とも、下の線は細かった。


 灯は指の腹を札の面へ当てた。当てたところの木は、指より冷たい。冷たさは指を離しても札の側に残って、灯の指のほうが先に温まった。


 どれも上の穴にひもの跡があった。跡は穴の縁から下へ、細く黒く伸びている。


 灯は札を元の重なりへ戻した。戻した縁は、前と同じだけずれている。


 「キリ」


 「なんだ」


 「これ」


 キリは三列目の奥から出てきた。札の山の横で足を止めた。


 「札だ」


 「見れば分かる」


 「なら聞くな」


 灯は札の山を指した。その手を、すぐに下ろした。


 「なんでここにあるの。物じゃないのに」


 「置いていったからだ。物と一緒に置いていく奴がいる」


 「誰が」


 「知らん」


 キリは札の山を見なかった。見ないで、二列目のひもの束のほうへ手を伸ばして、束の位置を指一本ぶん直した。


 「聞かないの」


 「聞かん」


 「置いてく人、来るんでしょ。見たことないの」


 「来る。夜に来る。番は昼だ」


 灯は札の山の横にしゃがんだ。しゃがむと、床の紙が目の高さより下へ来た。札の山の下にも紙が一枚敷いてあった。数は書いていない。線が一本だけ引いてあった。


 「これ、日が書いてない」


 「札は預かりじゃない。預かってない物の日は、数えん」


 「じゃあ何」


 「置いてあるだけだ」


 灯は線の上へ指を置いた。置いただけで、動かさない。


 札の山は、上から二枚だけが横に渡してある。


 「これ、キリが積んだ?」


 「積んでない。俺は動かしてないし、数えてない」


 「じゃあ置いた人が積んだの。上の二枚だけ横なの、なんで」


 「知らん。知らんが、上の二枚だけそうしてある」


 灯は上の二枚に触らないまま立ち上がった。立ち上がると床の冷たさが膝から抜けて、代わりに膝の裏だけが冷たいままになった。立ち上がると、札の山は足元へ下がって、上の二枚の横向きが上から見えた。二枚とも字が下を向いていた。


 灯は手前の一枚だけを指の先で起こした。起こすと、字が上を向いた。二文字。灯の字ではない。


 灯はそれを元の向きへ戻した。戻す時、伏せる向きを合わせた。


 *


 小屋の裏には、板の切れ端が積んであった。積み方が高い。灯の胸のあたりまであった。


 キリは戸を閉めて、掛け金を掛けた。掛ける時の音は、開ける時と同じ。二度こすれた。


 「裏は何」


 「燃やすぶんだ。冬のあいだ、月に二度は燃やす」


 「燃やすの」


 「燃やす。中のは燃やさん」


 灯は積んだ切れ端の端を見た。切り口が新しいものと、古いものが混ざっていた。古いほうは端が丸くなって、色が抜けていた。


 「中のはずっと置いとくの。いっぱいにならないの」


 「置いとく。いっぱいにはなる」


 「なったらどうするの」


 キリは石の上へ戻って座った。膝の上で両手を組んで、親指だけを動かしている。


 「なったら、次の小屋を建てる。ここで三つ目だ」


 「全部でいくつあるの」


 「三つだ。一つ目はもう戸が閉まらん」


 「二つ目は」


 「二つ目もいっぱいだ。ここが半分まで来てる」


 灯は石の横に立ったままでいた。立ったまま、小屋の板の壁を見た。板と板の間に隙間は無かった。中を暗くするために、そう組んであった。


 「探しに来る人、いないの」


 「来る奴もいる」


 「来たら」


 「渡す。渡す時は紙の日を消す。消したら、その物はもうここのじゃない」


 灯はしゃがんで、石の下の土を指で押した。土は固い。押しても跡が付かなかった。


 「消した紙って、いくつあるの」


 キリは答えなかった。答えないで、袋の口のひもを一度巻き直した。巻き直してから、灯のほうを見た。


 「三年で九だ」


 「九? 一年で三つ」


 「三年で九だ。一年で三つずつじゃない。四つの年と、二つの年と、三つの年がある」


 「同じじゃん」


 「同じじゃない。三つの年に来た奴は、三つの年に来た」


 灯はしゃがんだまま、口の中でその数を置いた。中に並んでいた物の数を、灯は数えていない。数えていないが、一列で二十は超えていた。列は四つ。


 「じゃあ、あとの物は」


 「置いておく。ずっとだ」


 灯は立ち上がった。立ち上がる時に、膝の裏が伸びて痛んだ。しゃがんでいた時間が長かったぶんだ。


 「捨てないの」


 「捨てん」


 「なんで」


 キリは石の上で背中をまっすぐにした。まっすぐにしてから、袋を肩へ掛けた。


 「探されてない物は、置いておくしかない」


 灯はキリの顔を見た。キリは道の先を見ていた。


 「置いとくのは、探されるかもしれないから?」


 「違う」


 「じゃあ、なんで」


 「捨てるには人手が要る。人手には値がつく」


 道の先は、来た時と同じ狭い幅で、板の壁の隙間から縦の光が並んでいる。並びは一定ではなかった。


 灯は数えた。十七本。数え直すと十六本になった。三度目は数えなかった。


 戸の板の下の隅に、土が細くたまっていた。掃いた跡は無い。たまった土の上に、靴の跡が二つ付いていた。二つとも同じ向きで、外へ向いていた。


 灯は道を戻りはじめた。狭いところで肩が壁に触れて、板の一枚が内側へ少し動いた。動いた板は戻らなかった。灯は指で押して戻した。押した先で、板は元の面に並んだ。


 角を折れると、道の幅が戻った。南の道に出たところで、灯は一度だけ振り返った。小屋は角の向こうで、もう見えなくなっていた。


 見えるのは板の壁と、その隙間の縦の光だけだ。


 四つ角まで戻ると、台はそのまま出ていた。板と脚。脚の下の石は三つ。四つ目の脚は、朝と同じところで土へめり込んでいる。


 台の上に、木の札は無かった。板の上は空いている。木の目の走る向きだけが横に見えている。


 灯は台の前で足を止めた。足を止めた先で、板の上へ手のひらを置いた。木は冷たい。冷たさは指の付け根から入って、手首の手前で止まった。


 「今日は無いの」


 「客が来ん。昨日は一枚で、今日は零だ」


 「零の日ってあるんだ」


 「ある。月に四日か五日だ」


 灯は手を離した。手のひらの跡が板の上に残って、それから消えた。


 「じゃあ、今日は書かない。輪も無し」


 「書かん。無しだ」


 灯は鞄の底へ手を入れた。輪は三つ。指の先で数えると、三つとも大きさが違う。一番小さいのが昨日もらったもので、縁の一か所だけが平らに潰れている。


 「キリ」


 「なんだ」


 「小屋の札、何枚あった」


 「数えてない」


 「番してるのに?」


 「番は物の番だ。札は物じゃない」


 灯は手を鞄から抜いた。抜いた手は、そのまま持ち手のほうへ回る。


 「じゃあ何」


 キリは何も言わずに、台の板の右の端を持ち上げた。脚のほうが土から少し浮いた。浮いたぶんを受けたのは、キリの膝。


 「片付けるの」


 「片付ける。零の日は早く畳む」


 灯は脚の一本へ手を掛けた。掛けた手を、キリは払わなかった。二人で板を外して、脚を四本とも横へ倒した。四本のうち一本だけ、太さが違っていた。土へめり込んでいたほうが細い。


 「これ、削れてる」


 「削れてる。土が削る」


 「取り替えないの」


 「取り替えると、四本とも新しくなる」


 「一本だけ替えればいいじゃん」


 「一本だけ替えると、そこだけ高くなる」


 脚の断面には、木の目が輪になって出ていた。輪の数は多い。数えられる細さではなかった。


 灯は倒した四本を並べ直した。長さは三本まで同じで、一本だけ短かった。短いほうを右の端へ置いた。


 置いてから、キリのほうを見た。キリは板を拭いている。布ではなく、手のひらの側でこすっていた。こすった先の木の目が、少しだけ濃くなった。


 「毎日やってるの」


 「毎日だ」


 「拭かないと、どうなるの」


 「土が乗る。乗った土の上に名を書くと、名が土ごと落ちる」


 キリは板を壁へ立てかけた。立てかける場所は決まっている。四つ角の南の側の壁で、そこだけ土が固く踏まれていた。


 「明日は出るの。零じゃない日?」


 「出る。明日は市の前の日で、前の日は客が来る」


 「なんで前の日に来るの」


 「市で売る物に、先に名を入れとくからだ」


 灯は自分の指の腹を見た。板に触れたところが、少しだけ黒くなっていた。指をこすり合わせると、黒は取れる。落ちた粉は風で見えなくなった。


 灯は板の立てかけてある壁を見た。壁の下のところに、板の角が当たった跡が四つ並んでいた。跡の間は、どれも別の広さ。立てかけた者が、毎回少しずつずらしていた。


 「明日は来る」


 「来い」


 キリは袋を肩へ掛け直して、北の道のほうへ二歩歩いた。歩いてから、灯のほうへ戻したのは顔だけ。


 「小路で数えるなら、俺の勘定には入れんぞ」


 「入れなくていい」


 「なら好きにしろ」


 キリはそのまま北の道へ入っていった。


 灯は四つ角の真ん中に立った。北の道の先で、キリの背中が坂の途中まで見えて、そこから消えた。


 消えた場所を、灯は目で覚えた。坂の途中の、右側の壁が切れているところ。昨日もそこで見えなくなった。同じところで消えるのは、道がそこで曲がっているからだった。


 四つ角の石の一つに、灯は靴の先を当てた。昨日、灯が転がして戻した石だ。位置は昨日のままだった。誰も動かしていない。


 風が西の道から来た。西から来ると、四つ角の真ん中は風がぶつかって、上へ抜けた。灯の髪の右の側だけが持ち上がった。


 風は西の道の匂いを運んできた。西は名札小路のほうで、湿った壁と、その下の土の匂いが薄く混ざっていた。壁と壁の間に一度入った匂いは、すぐには出ていかない。


 灯は鼻から息を入れて、口から出した。出した息は白くならなかった。こちらの十二月は、灯の側の十二月ほど冷たくない。冷たくないのに、指の先だけは同じように固くなった。


 北の道のわだちは、昨日より薄くなっていた。風で土が動いたぶんだ。跡の外側だけが先に消えて、真ん中は残っていた。


 東の道の枠は、昨日と同じところに立っていた。上の横木の切れ端は七つ。灯は数え直さなかった。


 南の道の桶(おけ)は、水が減っていた。内側の跡が三本になっている。昨日は二本だった。


 灯は桶の横を通って、扉のほうへ歩き出した。歩きながら、指を四本立てた。


 小路で字の消えていた札は、十二軒目までで四つ。


 立てた指の反対の手を、全部開いた。


 小屋の二列目には、字の残った札が十枚積んであった。


 四と、十。小路は二十七軒ある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。