第030話 三つの日
四つ角の台の右の端は、灯の腰より指二本ぶん低かった。四つ目の脚だけ、土へめり込んでいる。
キリは台の後ろに立っていた。上着の裾の継ぎは、そのままそこに在った。糸の色は四日前より落ち着いて、布との差が減っていた。
「昨日は来なかったな」
「行った。地下までは行った」
「地下は数に入らん」
灯は台の前で足を止めた。鞄は左手。持ち手を握り直すと、底の三つが内側で寄る音がした。
「入るよ。同じ日だよ」
「入るなら、俺の勘定に足せ」
「足すって、何を」
「昨日のぶんだ。俺は昨日、灯に一枚も書かせてない。書かせてないのに日が減った」
灯は指を折った。十二月に入って、九日目。行かなかったのは一日だけ。
「一日だけだよ」
「一日で足りる」
キリは板の上へ手のひらを置いた。指の間から、木の目が横に走って見えた。指の腹で二度こすってから、灯のほうへ顎を向けた。
「札が二枚ある。片方は今日の客だ」
「もう片方は誰の」
「昨日の客だ。灯が来なかったから、持って帰らせた。今日また来る」
「じゃあ二回来てるじゃん」
「二回来た客は、二回ぶん怒る」
台の上には木の札が二枚。どちらも新しくて、木の色が白かった。上の穴にひもは通っていない。一枚は縁の削り方が粗くて、指を滑らせると引っかかった。
二枚を並べると、粗いほうが横に指の半分だけ大きい。厚みは同じ。切った者が違うのだと灯は思った。そう思ってから、キリのほうを見る。キリは札のほうを見ていなかった。手は袋の口に掛かったままで、指だけがひもの結び目を確かめていた。
灯は鞄の口を開けて、筆箱を引き出した。横向きのまま抜くと、蓋はつぶれた側から先に開いた。中の鉛筆は二本。長いほうの先が丸くなっていた。
「一枚でいい。今日の客のぶん」
「昨日のぶんは」
「昨日のぶんの客は、まだ来てない」
灯は長いほうの鉛筆を取った。短いほうと並べて見比べた。短いほうは昨日の夜に三度削ってある。削ったのは灯で、削った回数を数えたのも灯だった。
札の木の目は縦。縦のときは真ん中で一度止める。灯は札を膝の高さへ下ろして、そこで書いた。二文字。上の字の縦の線を書くところで、芯が木の目へ落ちて、少しだけ横へ逃げた。
書き終えてから、灯は札を光へ向けた。木の色より、字のほうが黒い。
「終わった。二文字」
キリは札を受け取らずに、板の上を指で二度打った。灯はそこへ置く。
「輪一つだ」
灯は指を二本立てた。立ててから、一本を折った。
「二つじゃないの。前は二枚で二つだった」
「前は二枚だ。今日は一枚だ」
「じゃあ昨日のぶんも書いとく」
「書くな。客が来てない札に名前を入れると、来た時に別の名だったぶんが丸ごと損になる」
灯は鉛筆を筆箱へ戻した。戻す向きは決めていない。芯の側をそろえてから閉じた。手が止まったところで、キリが輪を一つ板の上へ出した。木の輪。縁の一か所だけが平らに潰れている。
灯はそれを鞄の底へ入れた。底で、先の三つに当たる。
「四つになった」
「四つだ。三日で四つなら悪くない」
「悪くないってどれくらい」
キリは袋の口を締める手を止めた。そのまま、輪の入っている側を腰で受け直す。
「昼の飯が四回ぶんだ」
「四回ぶんって少なくない?」
「少ない。だから拾い屋は昼を食わん」
灯はキリの顔を見た。キリは板を見ていた。
「食べてるじゃん。あたし見たことある」
「あれは飯じゃない。腹の中を通っただけだ」
灯は口の内側を噛んだ。噛んでも、頬の上のほうが動いた。
風が四つ角の北の道から来て、板の上を通っていった。台の上の札が一枚だけ、端で持ち上がって戻る。持ち上がったのは、灯が書かなかったほうだった。
灯は書いたほうの札を、指の先で押さえた。札は押さえなくても飛ばない重さで、指はすぐに離れた。
空は低い。屋根の上の雲が、四日前と同じところで止まっていた。息を吐いても白くならない。
「名札小路、行くのか」
「行く。坂の上までは行く」
「入口で数えてくるといい」
「数えるって、何を」
キリは答えを一度置いた。置いてから、板の札を袋へ入れた。
「消えた札だ。十一になってる」
灯は数を口の中で置いた。九から十一。二つ増えている。
「誰が数えたの」
「知らん。数えた奴がいる」
「取り立て?」
「取り立ては月の頭に来て、そのあと来てない」
灯は名札小路の入口のほうを見た。四つ角からは坂の下の壁の色までしか見えなかった。壁は湿ったところが暗くて、暗いところが夏より広がっていた。
「今日は行くんでしょ」
「行かん。取り立てが来た月は、しばらく誰も戸を開けん」
「開けないんだ」
「開けても払う物が無いからだ」
灯は坂のほうへ二歩だけ歩いて、そこで止まった。足を止めたまま、鞄の持ち手を握り直した。持ち手のところが、握る度に少しへこんだ。
「じゃあ、誰が数えてるの」
キリは坂のほうを見なかった。見ないで、袋のひもを一度巻き直した。
「毎日数えてる奴がいる。名も顔も知らん」
「六日前は九だったのに」
「六日で二つだ。それだけは合ってる」
九から十一。六日で二つになる。灯はその二つを並べて、そこへ何も足さなかった。
「じゃあ、メノのとこ行く」
「行け。値は言うな。先に数を言え」
「一緒に来ない」
「入ると値が上がる」
「菓子の値も上がる」
キリの手が、袋の口のところで止まった。
「上がる。俺が横にいると、あいつは一つ減らす」
「減らすのは値じゃなくて数」
「同じだ。数が減れば、一つあたりが高い」
灯は言い返す言葉を作りかけて、そこで止めた。止めた先で、舌が上の歯の裏に当たっていた。キリの言った数は合っている。
北の道の先で、荷を積んだ台車が一つ、坂を上っていった。押しているのは大人が二人。どちらも下を向いている。車輪が石を踏む度に、荷の上の布が形を変えた。
「あれ、何積んでる」
「屋根だ。一台で二十枚は積む」
「屋根って積めるの」
「葺く前は板だ。板は積める」
「一台で二十枚なら、屋根が二十枚できるの」
「できん。一軒に六枚と決まってる」
「じゃあ三軒ぶんと、二枚あまる」
「あまらん。端は切って落とす」
「切ったら、切ったぶんはどこ行くの」
キリは台車のほうを見たまま、袋の口を締め直した。
「うちへ来る。二枚ぶんの端が、いつか台の上に載る」
「屋根の端が、台に」
「載る。屋根だったとは誰も言わん」
「言わないと売れるの」
「言うと値が下がる。屋根は落ちてこん」
灯は台車が角を曲がるまで見ていた。曲がる時に荷が一度傾いて、上の布の端が外へ出た。端は、そのまま戻らない。
「一枚ずれてる」
「見えた奴が言え。俺は台の後ろから動かん」
「キリ」
「なんだ」
「札、二枚とも今日書いたことにしとけばよかった?」
「よくない。書いた札は返せん」
「じゃあ、間違えて書いたら」
「間違えた札は、削って木に戻す。木に戻したら、もう札じゃない」
灯は板の上の白いところを見た。木の目が横に走っていた。横に走った木へ書く時は、下の線を太くする。
「削ったら、名前はどこ行くの」
キリは袋を肩へ掛けた。答えの前に一度、袋の重さを腰で受け直す。
「木くずだ。掃いて外へ出す」
灯は坂のほうへ向きを変えた。向きを変えてから、後ろへ聞いた。
「キリが数えたの」
「俺じゃない。俺が数えるのは輪だけだ」
灯はうなずいた。うなずいた先で、キリの目はもう袋の口へ戻っている。
袋の口のひもは、二重に回してから片方だけ結んであった。
坂の上の道は乾いていた。夏は雨の翌日でも二日は湿っていたのに、冬は半日で白くなる。灯は土の白いところと、まだ色の残っているところを踏み分けて歩いた。踏み分ける理由は無かった。無いまま、十歩ぶんそうした。
西の道へ入ると、風の当たる側が変わった。四つ角では首の後ろへ来ていたのが、こちらでは右の耳へ来る。耳の穴の内側が痛んだ。
道の途中で、灯は耳へ手のひらを当てた。当てると痛みは止まる。手を離すとまた来た。
風が入るからだと灯は思った。
左の耳も同じだけ風の中にある。そちらは痛くない。
右のほうに、名札小路がある。灯は右の耳へ落ちる髪を指で押さえて、そのまま十歩歩いた。
橋の手前で、灯は溝を覗く。八日前、ここに布が一枚引っかかっていた。今は無い。溝の底は湿っていて、湿った上に細かい土が乗っていた。土の上に、布の形の跡が残っていた。跡の縁だけが、乾いて白い。
灯は跡の長さを目で測った。手のひら二枚ぶん。八日前に見た布は、それより長い。
橋を渡り終えてから、灯はもう一度振り返らなかった。振り返らないと決めたのではなかった。橋の先で道が曲がって、溝が見えなくなっただけ。
*
戸の前の土は四日前より広く踏まれていた。固い土の縁が、右のほうへ手のひら一枚ぶん出ていた。出たところだけ、色が薄い。
戸の板は下の三分の一だけ色が濃かった。雨の跳ねた高さになる。その線の上に、手のひらの跡が一つ残っていた。跡の指は四本しか写っていない。
灯は戸を押した。内側で木がこすれて、途中で一度引っかかる。その先は軽くなった。
台の上の布に、物が並んでいた。灯は数えた。十四。八日前は十六だった。減ったぶんはひもで、木のものは動いていない。
匂いは甘いほうが先に立った。八日前は乾いた紙が奥へ下がっていて、今日は紙のほうが先に切れる。灯は鼻から短く二度吸って、そこでやめた。
メノは台の向こうで膝を一つ立てていた。灯が入っても顔を上げない。
左の端に皿があった。
菓子は七つ。
灯は皿の前で足を止めた。足を止めたところで、数え直した。二度目も七つ。
給食の器の並びに似ている。数の合わない日は、必ず端の一つが余った。
「七つある」
「ある」
「夏と同じだ。八月のはじめのとき、七つだった」
「そっちは数えてる」
「数えてる」
メノが顔を上げた。顔を上げるために、少しだけ顎を引く。目は皿ではなく灯の手のほうへ来た。
「今日はいくつ買った」
「七つ全部?」
「じゃあ一つも食べてないじゃん」
メノは膝を立て直した。立て直した膝の上で、指が二度動いた。
「まだ昼だ」
灯は箱の上へ座った。座る箱は決まっている。台の右の端の下にあるもので、上に布が一枚掛けてあった。布の皺は八日前より増えている。
鞄から輪を一つ出して、台の上へ置いた。
「一つ買う」
「一つで一つだ」
メノは輪を取らずに、皿の右の端の菓子を灯のほうへ押した。自分の口へは何も入れなかった。輪を箱へ落とす。箱の底で、先に入っていた輪へ当たる音がした。
灯は菓子を口へ入れた。噛むと、外の縁のところだけ固かった。焼いた時に鍋の縁へ当たったぶんになる。甘さは奥のほうに残って、舌の付け根で一度濃くなった。
皿に六つ。
「六つになった」
「なった」
「六つって、あんまり見ない」
「見ないのは、そっちが来る前に食べてるからだ」
灯は皿を見た。六つは三つずつ二列に並んでいた。並べ直したのはメノではなかった。灯が菓子を取った時に一つぶんの隙間ができて、残りが自然にそう見えているだけになる。
灯は指で皿の縁を回した。回すと六つの位置が動いて、二列に見えなくなった。
「回した」
「回しても六つ」
「六つだけど、さっきは七つ」
「そっちが一つ食べた」
「じゃあ、いつも一つ余る」
メノは何も言わない。言わないで、皿のほうへ手を伸ばして、一番端の一つを親指と人差し指でつまんだ。つまんで、そのまま置き直した。置いた場所は元のところより指一本ぶん内側だった。
灯は膝の上で指を四本立てた。立ててから、一本だけ折る。
「八月のはじめが七つ。八月の終わりが三つ。十二月のはじめが二つ」
「どれも皿だ」
「皿じゃなくて、買ったほう」
メノは台の布の端を、指の腹でまっすぐに直した。布を直し終えてから答えた。
「はじめは九つ。終わりは三つ。十二月は三つだ」
「九つ? あたしが数えたのは七つだった」
「帰る時に数えたんだろう。二つ減ってる」
灯は指を一本増やした。増やしてから、四本とも下ろす。
「九、三、三」
「そうだ」
「四日前は」
灯は指をもう一本折った。折った指の先が、手のひらへ当たった。
「四日前は買ってない」
「じゃあ零」
「零は数えない」
灯は箱の上で座り直した。座り直したところで、布の皺が一つ増えた。
九。三。三。零。七。
零を外すと、四つとも同じ側に来た。灯はそれを口に出さずに、指の腹を膝へ押しつけた。押しつけたところが、少し温かくなった。
「メノ」
「何」
「いつも奇数じゃん」
メノは灯を見た。目を向けている時間は短い。短いのに、目が皿へ一度落ちてから戻った。
「奇数って言わない」
「え」
「割り切れない数」
灯は口を開けて、そのままにした。開けてから閉じる。
「同じじゃん」
「同じじゃない」
メノはそれだけ言って、膝を立て直した。立て直した膝の向きが、前より台のほうへ寄った。
皿の六つを、灯はもう一度見た。今は割れる。
台の上の布の物を、灯はもう一度見た。十四のうち、木でできているのは五つだった。あとは布とひもと金物だった。五つの木のものは、置き方が夏から動いていない。並びの端がそろっていて、そろえた者が毎日そろえ直していた。
「これ、動かしてない」
「動かしてる」
「同じところに戻してるじゃん」
「戻す場所が決まってる」
「誰が決めたの」
「触った順が決めた」
灯は五つの木のものを左から見ていった。木の匙。木の玉。穴の開いた板。柄の折れたもの。名前の分からないもの。名を言えるのは三つ。分からないものだけ、灯は指で持ち上げなかった。
「これ、名前は」
「知らない」
「メノでも知らない」
「触っても出てこない」
灯は手を引いた。手を引いた先で、目が皿のほうへ戻る。
「触ると分かるんじゃないの」
「分かるのは、失くした人が覚えてるぶんだけだ」
メノの声は変わらなかった。言い終えてから、匙を指で一つぶん右へ寄せた。指を離す前に、また元へ戻した。
灯は箱の上で足を組み替えた。靴の底が板をこすれる。
「じゃあ、覚えてない人のは」
メノは匙のほうへ目を落とした。目を落として、そこで止めた。
「何も来ない」
「気持ち悪くない?」
「気持ち悪いのは、来るほうだ」
灯は口を閉じた。口を閉じたまま、皿の六つを数え直す。三度目も六つになる。
戸の外で足音がして、そのまま通り過ぎた。二人ぶんで、片方が早い。早いほうが先に行って、遅いほうが追いつく前に音が切れた。
「客、来ない」
「来る日は来る」
「今日は来るの」
「来ない日だ」
「来ないって、なんで分かるの」
「客の来る日じゃない」
灯は箱の上で背中を伸ばした。後ろの棚の縁が肩甲骨へ当たる。
「名札小路、十一だって」
メノは手を止めなかった。台の布の上のひもを一本、端から端まで指で通していった。通し終えてから、また端へ戻す。
「そっちが数えたのか」
「聞いた。誰かが数えてるって」
「じゃあ十一だ」
「メノは数えない」
「数えない」
「なんで数えないの」
「数えると、増える」
灯は笑いそうになって、口の内側を噛んだ。噛んでから、笑うところではないことに気づいた。メノは皿のほうを見ていなかった。
「増えないよ。数えても増えない」
メノはひもから手を離さなかった。離さないまま、端を一度だけ持ち上げた。
「増える」
「増えないって」
「そっちは数えて、減ったことあるか」
灯は口の中で数を並べた。十四。十六。二百三十。十六。
減った数のほうが多い。
「あるよ」
「あるのか」
「ある。傘」
メノはひもから手を離した。その指を、台の縁で二度こすった。
「傘は数えた側が減らしてない」
「そうだけど」
「そうだけど、じゃない」
灯は膝の上で手を組んだ。組んでほどく。ほどいた手を、そのまま膝の横へ置いた。
台の左の奥に、紙の袋が一つ置いてあった。口は折って畳んであった。折り目は三重。
「それ、菓子の袋?」
「そうだ」
「中、まだある?」
メノは袋を見た。袋を見た目は灯のほうへは向かなかった。
「無い」
「無いのに畳んである」
「畳むと薄い」
灯は袋の折り目の数を目で数えた。三。四日前、この袋はここに無かった。八日前も無い。
「それ、今日買ったやつ」
「今日だ」
「どこで買ってる」
メノは答えなかった。答えないで、袋を台の下へ入れた。台の下へ入れる時に、袋の底から粉が少しだけ落ちた。粉は台の木の目に沿って、細い線になった。
灯は指をその線の上へ置いた。なぞると消える。
灯は箱から下りた。箱を下りた先で、鞄の持ち手を左手で握る。
「帰る」
「帰れ」
戸へ二歩歩いたところで、後ろで皿の動く音がした。灯が振り返ると、メノが皿の端の一つを台の縁まで押し出していた。押し出した指はそのまま台の上に残っている。
「一つ」
「輪、今日はもう出さない」
「要らない」
灯は台まで戻って、菓子を取った。口へは入れずに、鞄の口を開けた。包む紙は無い。灯は輪の横へそのまま置いた。
「持って帰るの、初めてかも」
「初めてだ」
「メノが数えてるじゃん」
「数えてない」
メノは膝を立て直して、台の向こうへ顔を戻した。灯が戸を押す時、内側で木がこすれる音がもう一度した。
*
外へ出ると、風の向きがまた変わっていた。西の道は建物の背が高くて、風が地面の近くだけを通っていた。灯の足首から下だけが冷たい。
戸を閉めてから、灯は前の固い土の縁を靴でなぞった。土は乾いていて、削れない。
道の反対側の壁に、板が三枚立てかけてあった。三枚とも同じ幅で、長さだけが違う。一番短い一枚の上の端に、穴が二つ開いていた。穴の間は指の幅ほどあった。ひもを通した跡が、穴の縁から下へ黒く伸びていた。
灯はその板の前で足を止めた。上の端に手を掛けて、少しだけ手前へ倒した。板の裏には何も書いていない。表に戻すと、木の目が横に走っていた。
横のときは下の線を太くする。
鉛筆は出さずに、板を壁へ戻した。
西の道を戻る間、灯は道の右側を歩いた。行きは右で、帰りは左。決めたのは灯で、決めたのは去年の夏だった。今日は行きも帰りも右を歩いていた。気づいたのは橋の手前まで来てからのことだった。
橋の上で、灯は左へ寄る。寄ってから、残りの半分だけ左を歩いた。
四つ角の台はもう無かった。板も脚も外されて、脚の下にあった石だけが三つ、そのまま残っている。三つの石は台が在った時と同じ間で並んでいた。四つ目の脚がめり込んでいたところに、土のくぼみが一つ残っていた。
くぼみへ靴の先を入れた。入れた先の土は、上から押しても指の跡が付かない。深さは指の第一関節ほど。土は固くて、押しても形が変わらなかった。
キリはいなかった。袋も無い。板の上に在った札も無い。
灯は四つ角の真ん中に立って、四つの道を順に見た。北。東。南。西。北の道の先で、さっきの台車の轍が二本、坂の上まで続いていた。跡の間は灯の肩幅より少し広かった。
東の道の入口に、木の枠が一つ立ててあった。市の日に使う枠になる。今日は何も掛かっていない。枠の下の横木に、ひもの切れ端が一本、結ばれたまま残っていた。切れ端は色が抜けて、木と同じ色になっていた。
枠は二本の柱と、上と下の横木でできている。上の横木には切れ端が七つ残っていた。下には一つだけ残っている。上のほうが多いのは、掛けるものが上に来るからだった。灯は七つを左から数えて、四つ目のところで指を止めた。四つ目だけ、結び目が二重になっていた。
結び目を指でつまんだ。ひもの端は二本とも同じ長さに切ってあった。つまんで、そのまま離した。ほどいたら、誰が結んだのか分からなくなる。
三つの石の一つを、灯は靴の先で押した。動かない。二つ目も同じ。三つ目だけが、押した向きへ指の幅ぶん転がって、そこで止まった。
灯は転がった石を、元のところへ戻した。元へ置いた先で、間の広さを目で確かめた。三つの間は戻す前と同じにはならなかった。
東の道から西の道へ、四つ角の真ん中を横に歩いてみた。歩幅で十一。夏に数えた時は十二だった。数え直すと、二度目も十一だった。
歩幅が広がったのか、四つ角が狭くなったのかを考えた。広がったほうだと決めた。決めた理由は鞄の持ち手のへこみが四月より深いことだった。
南の道の入口に、水の桶が一つ置いてあった。桶の水は表が薄く濁っていて、底のほうは澄んでいる。濁っているところに、細かい木くずが浮いていた。木くずは丸く集まって、中心に一つだけ大きいものが混ざっていた。
水の減った跡は桶の内側へ二本ついている。上の一本は乾いて白く、下の一本はまだ湿っている。二本の間は指一本ぶんあった。
灯は桶の縁に指を掛けた。指を掛けただけで、水には入れない。冬の水は見ただけで指の内側が縮んだ。
水の面に、灯の顔が映った。顔の輪郭の下の縁だけ、木くずで切れていた。
息を桶へ吹きかけると、木くずが端へ寄った。端に着いた木くずは、ゆっくり戻ってきた。戻る速さは寄る速さより遅い。灯は二度吹いて、二度とも同じところまで戻るのを見た。
顔を引くと、映ったものは桶の縁の外へ出て、そこで消えた。
桶の横に、木の椀が一つ伏せてあった。底に細かい傷が何本も入っていて、傷は全部同じ向きに走っている。
灯はしゃがんで、椀を伏せたまま指で半分だけ回した。回す時、底の土が少しだけ削れた。傷の向きが変わって、光の当たる側が入れ替わった。傷の数は同じ。
椀は元の向きへ戻した。底の縁を土の跡へ合わせようとすると、新しい跡が前の跡の外へはみ出す。
跡は二つになった。灯は靴の先で、新しいほうを消した。古いほうだけが残った。
道の端に、板が一枚落ちている。四つ角の台の板ではなかった。もっと薄くて、端が焦げていた。焦げた側から半分だけ、色が変わっていた。
灯はそれを拾わないで、その横をまたいだ。またいでから、二歩先で振り返った。板は動いていない。
扉のほうへ歩き出すと、坂の下から人の声が上がってきた。言葉のところは届かない。届くのは高さだけで、高いほうと低いほうが交互に来た。交互の間が、だんだん短くなる。短くなって、その後両方とも切れた。
足は止まらなかった。
道が最後に曲がるところで、灯は足を止めた。足を止めた先で、来た側を見た。四つ角はもう見えない。見えるのは道の曲がりと、その上の空だけだった。
空の低いところに、雲の切れ目が一つできていた。切れ目の向こうは、雲より薄い色をしていた。日はそこには無い。
扉の手前の壁は四日前と同じ色をしていた。壁の下の三分の一だけが湿っていて、その上との境が横にまっすぐ走る。境の線は四日前より指一本ぶん上に来ていた。
壁へ手のひらを当てた。湿っている側は冷たい。その上は冷たくない。境の上を指でなぞると、途中で一度だけ、線が下へ折れているところがあった。折れているのは壁に細い割れ目が入っているところだった。
坂の上まで来て、灯は向きを変えた。
下に四つ角がある。石の色が四本の道の分かれ目のところだけ薄くて、そこから西へ行った先に名札小路があった。小路の入口はここからでは見えない。見えるのは西の道の壁の並びと、その途中で色の変わるところだけだった。
色の変わるところが、小路へ入る角になる。灯は夏に一度、そこを数えて覚えた。四つ角から三つ目の角。
三つ目の角の手前で、屋根の並びが一段低くなっていた。低いところは影で、影の中に戸の上の横木が並んでいる。横木は入口のほうから七つ目まで数えられた。八つ目からは影に入って見えない。
下から、戸の開く音が一つだけ上がってきた。開いたきりで、閉まる音は続かない。灯は数を数えるように待って、五つ数えたところでやめた。
灯は坂を下りなかった。
下りて数えれば、十一かどうかは分かる。
立っている間に、下から風が上がってきた。四つ角を通ってきた風で、坂の上の風より湿っている。湿っているのに、匂いは薄かった。
扉の横の壁に、白い跡が横に一列ついていた。板を立てかけた跡になる。跡の幅は板の厚みぶんで、間は一つずつ違っていた。長い間 同じところに立てかけていれば、跡は一本にまとまる。
壁の跡を、灯は左から右へ数えた。七本。八本目のところで壁が影に入って、そこから先は数えられない。
もう一度、下を見た。二度目も、横木は七つ目までしか目に入らない。
三度目は見なかった。
灯は鞄の口を開けた。
輪が三つ。その横に、包まずに入れた菓子が一つ入っていた。
灯は菓子を出して、両手で持った。両手のまま、扉の前まで歩いた。
右手の親指と、左手の親指を、菓子の真ん中へ当てた。当てたところが、外の縁より柔らかい。灯は少しずつ力を入れた。
灯は力を抜いた。力を抜いた先で、もう一度入れた。二度目のほうが強い。
菓子の外の縁に、指の跡が二つ残った。跡は白く、まわりは焼いた色をしていた。跡の底は割れていない。
菓子を片手へ移した。片手のまま、鞄の口へ戻した。戻す前に、指の跡のほうを上へ向けた。下にすると輪へ当たる。
扉の前に立って、灯は肩を先に入れた。押す時の重さは四日前と変わらなかった。
扉の板は、押した手のところだけ色が薄くなっていた。押す場所は、来る者みんな同じ高さだった。
通る前に、灯はもう一度だけ鞄の中を見た。
菓子は割れていなかった。跡の二つは、明日には固まっている。




