第029話 窓口の内側
十二月八日。六時間目が終わって、教室の前の窓が下から白くなっていた。
灯は机の中へ手を入れた。奥は空。手のひらが板の冷たさをそのまま拾う。中学の机は小学校のより浅くて、奥まで指が届いた。届くのに、届いたところは空のままだった。灯は手を抜いて、鞄の持ち手を左手で握った。
教室の後ろに灯油のストーブが一つ。朝に入れたぶんが、六時間目の終わりには薄くなっていた。匂いは天井の側へ上がって、床の近くには残らなかった。灯の席は前から三番目で、匂いは背中の高さで切れていた。
黒板の左の端に、一年三組の落とし物、と書いた紙が貼ってあった。字は先週の日直のもので右の下の角が一度めくれて、また貼り直してある。糊の跡が二重になっていた。
紙の下に机が一つ横向きに置いてあって、その上に段ボールの箱が載っていた。学期の終わりに職員室へ出す。出したものが、そこから先へ戻ることはなかった。灯はそれを四月に一度聞いた。
灯は箱を両手で持った。持ち上げた重さは、給食の食器かごの半分ほど。持ってみるまで、これだけ入っているとは思っていなかった。
箱の底は二重になっていて、下の紙が湿気で波を打っていた。指で押すと押したところが戻るまでに間があった。
箱を自分の机へ運んだ。中の物を一つずつ出して数えた。
鉛筆が五本。消しゴムが四つ。定規が二本。下敷きが一枚。片方だけの手袋が三つ。髪をとめる金具が二つ。名札が一つ。折りたたみの傘が一本入っていた。全部で十九。
十九のうち、名前が書いてあるのは六つ。
鉛筆の一本には、軸の平らなところへ細い字が入っていた。書いたのは本人ではなかった。字が大人のもので一画ずつ止めて書かれていた。消しゴムの一つは、紙の帯の内側。外からは見えなくて、帯を回して初めて出た。下敷きは角を裏返すと、太い字が横向きに入っていた。書いてから何度も机に擦れたらしく、下の一字だけが細くなっていた。名札は名前しか書いていないので、これも数のうちに入れる。金具の二つに何も無かった。手袋の三つも同じ。傘の柄にも書いていなかった。
折りたたみの傘は、袋のほうが先に無くなっていた。骨は八本で、そのうちの一本が途中で曲がっていた。曲がったところで布がひきつれる。たたむと片側だけが厚くなった。灯はそれを二度たたみ直して、厚いほうを下にして置いた。
六つと十三。灯は指で二度その数を確かめた。十九から六を引いて十三になる。引き算は合っていた。
灯は六つを箱の右へ、十三を左へ寄せた。
寄せてから左の十三をもう一度見た。手袋の一つは指の付け根に穴が開いていて、穴の縁の糸がほどけかけていた。ほどけたぶんが内側へ入り込んで、はめると指に当たる。
定規の二本は、どちらも端の目盛りが減っていた。減り方が違っていた。片方は零のところだけが白く、もう片方は十五から先が全部薄かった。使う場所が二人で違っていた。
名札は留め金の針が折れていた。折れた側の先が布から出ていて、指を近づけると引っかかる。灯は針を内側へ倒して、その上へ紙をかぶせた。
髪の金具の一つは、留め金の内側に黒い髪が二本、はさまったままだった。灯はそれを抜こうとして、途中でやめた。抜いてどうするのかが分からない。
持ち主は分かっていた。分かっていてもこれは誰のとは言えない。
灯は名前の書いてある六つの列を、机の縁と平行になるように直した。そうする必要が無かったことに、あとで気づいた。それでも戻さなかった。
教室に残っているのは灯のほかに二人。窓側の一番後ろで、二人とも同じ紙を見て何か言い合っていた。声は届いたが、言葉のところだけが届かなかった。廊下では箒の柄が壁に当たる音が続く。音は三度に一度、間が長くなっていた。長くなるのは向きを変えるところで、そこだけ柄が壁から離れていた。
二人が立った。紙を一枚だけ持って、あとは机に置いたまま出ていった。置いていった紙は五枚あって、一番上の一枚に名前の欄が付いていた。欄は空。灯は自分の席からその欄の白いところだけを見ていた。
灯は喉の奥へ息を通した。通すと下のほうが少し痛い。朝は痛くなかった。ストーブに入れたぶんは、朝より減っていた。
明日は水筒を持ってこよう。灯は鞄の外側の袋のところを指で押さえた。布はそこで二重になっていた。水筒はそこへ入る。
入口の戸が動いた。
入ってきたのはみずき。上履きのかかとを踏んでいなかった。教室へ入って、後ろの掃除用具入れのほうを見て、それから灯の机のほうを見た。二つ見る間が、同じ長さ。
「落とし物の箱、まだそこに置いてあるんだ」
声の終わりは、上へ行かなかった。
「ある。全部で十九」
灯は箱を机の上で九十度回して、口が向こう側を向くようにした。
みずきは机の横まで来て、右と左の列を見た。手は出さなかった。見る順は右から左。灯が並べたとおり。
「これ」
みずきが指したのは、右の列の消しゴム。紙の帯が半分裂けていて、裂けたところから消しゴムの角が出ていた。角は使って丸くなっていた。
灯は帯の内側を開いて、書いてある字を見た。それから字を見たまま言った。
「みずき」
「うん」
「名前が書いてあるから、持っていっていいよ」
みずきは消しゴムを取った。動いたのは指が二本。帯の裂けたところを親指で押さえて、上から下へ一度なでた。裂け目は閉じない。みずきは閉じないほうを内側にして、制服の胸の袋へ入れた。
「それ、いつ職員室に出すことになってるの」
「学期の終わりに、職員室へ出す」
「学期が終わったら、どうなるの」
「出したら戻らないって、四月に聞いた」
箱の左の列へ、みずきの目が移った。片方だけの手袋が三つ。そのうち二つは同じ色。同じ色でも大きさが違っていた。
「その手袋の二つ、わたしには同じに見える」
「大きさが違う。親指のところが一つぶん」
「並べてないのに、なんで分かんの」
灯は左の手袋を二つ、指でつまんで並べた。並べると親指の付け根から先までが一つぶん違った。みずきは並んだ二つを見て、それから顔を上げた。上げても、声の終わりは平らなままだった。
「そっか」
もう一度、箱の中へ目が落ちた。右の列と左の列を一度ずつ見る。見る速さは、さっきより遅い。
「もう一個、あるかな」
「何の。名前あるやつ」
「いい。無かったら無いで」
灯は右の列の六つを、端から順に持ち上げた。鉛筆。消しゴム。定規。下敷き。名札。傘。六つとも、みずきの見ている前で置き直した。
みずきは箱から手を離して、体を起こした。制服の胸の袋のところが、消しゴムのぶんだけ角ばっていた。みずきはその上を一度、手のひらで押さえた。角は取れない。
「あと二十日で、あれ全部出ちゃうんだ」
「うん」
「早いね。まだ十二月なのに」
戸へ向かう途中で、みずきの足が一度止まった。目は掃除用具入れの側。
「またあったら教えて」
「うん」
見てから、廊下へ出ていった。上履きの音が、廊下の右の側で遠くなる。全員が右を歩いていた。
灯は箱の左の列を、もう一度手前へ寄せた。十三のうち、みずきが見たのは手袋の二つだけになる。あとの十一は見ていなかった。
灯は箱の中の物を戻した。戻す順は出した順の逆。傘が最後に入って、箱の縁に一度当たってから斜めに収まった。
箱を机の上へ置いた。灯は黒板の左の紙をもう一度見た。角のめくれたところの糊が、白く乾いて粉になっていた。爪で押すと粉は落ちた。
名前の書いてある残りの五つは、明日にでも持ち主のところへ行く。書いていない十三は、二十日ほど箱の中にいて、それから職員室へ行く。
灯はそれを誰かに言おうとは思わなかった。
箱を後ろの机へ戻して鞄を持った。鞄は左手。持ち手のところが、握る度に少しへこむ。四月に買った時はへこまなかった。
廊下は暗くなりかけていた。窓の外の木は葉が落ちていて、枝の先だけが白かった。朝の霜が枝に残ったまま、日の当たらない側だけ溶けずにいた。
昇降口の下駄箱は、名前が活字。白い紙に印刷して、枠の下へ差し込んである。
灯は自分の枠から靴を出して、紙の縁を親指で押した。爪の当たるところだけが丸くなっていて、そこを押しても字は動かない。四月から今日まで、一度も薄くなっていなかった。
外は息が白くなる寒さだった。吐いた息は口の前で一度ふくらんで、それから上へ抜けた。あとに何も残らない。
*
駅の階段を下りた。外の音が一段ずつ減って、十段目で電車が消え、十四段目で風が消える。地下は夏でも冬でも温度が変わらなかった。十二月は、下りたぶんだけ暖かい。灯は襟から指を抜いた。
売店の前を過ぎた。冬は売店の前に湯気の出る箱が出ていた。横を通る間、顔の右側だけが温かい。過ぎればすぐ戻った。
細い通路へ入ったところで匂いが変わった。板と、水と、古い布。夏に来た時と同じ匂いで、夏より薄れていた。傘が減った量のぶん薄い。灯はそこでいつも一度、大きく息をした。
通路の突き当たりが窓口になる。
窓口の板の向こうに、祖母はいなかった。
川辺さんが机に向かって判を押していた。届出票の束が机の右にあって、押したぶんを左へ送っていた。灯は板の前で足を止めた。止めてから束の高さを目で測った。指の三本ぶん。夏に見た中で一番高かった時と、同じくらいあった。
判が落ちた。
右の下へ落ちるのが二枚。押す前に、川辺さんは紙の左の端を親指で押さえる。押さえる場所が毎回同じで、そこだけ紙が白くなっていた。
次の一枚は少し内側へ寄って、そのまた次は下の縁に半分掛かった。掛かったぶんの朱が、机の上の紙へ移っていた。移った跡は消していない。
灯は判の跡を六枚ぶん見た。六枚とも位置が違っていた。
川辺さんが顔を上げた。
顔を上げてすぐ、横の戸のかんぬきを見ないで外した。灯は板の端を回って、内側へ入った。
窓口の内側は、外から見えているより狭くできていた。机と、机の後ろの棚と、二人が立てるぶんの通り道しかない。灯は段ボールの箱の上に座った。座る箱は決まっていた。小さい時からその箱で、箱のほうは二度替わっていた。今の箱は前のより低くて、座ると膝が上がった。
窓口の板は灯の胸のところに来る。夏は胸の真ん中で、今は少し下だった。
灯は座ったまま板の上を見た。外の通路の天井が、板の向こう側に細く見えた。天井の蛍光灯は四本のうち三本が点いていて、一番奥の一本だけが消えていた。消えているほうの下は、床の色が違って見えた。
机の下に引き出しが六段あった。川辺さんは書類を出す時、どの段も見ないで開ける。何段目に何が入っているかを、手のほうが覚えていた。三段目を開けて閉じるまでの間、目は一度も下へ行かない。
「今日は、私が押しています」
川辺さんはそれだけ言った。理由は続かない。
灯は板の上へ目を上げた。上げてから、輪ゴムの箱のほうへ戻した。
机の左の端に、判の台が置いてある。朱の面が乾きかけていて、真ん中だけが濃く残っていた。川辺さんは三枚に一度、そこへ判を押しつけた。押しつける強さが毎回違っていた。強く押した次の一枚は、紙に朱がにじんだ。
判の柄は木。手の当たる面だけ色が濃かった。濃い面の縁が、握った指の形になっている。川辺さんの手は祖母の手より大きく見えた。大きい手だと、縁の外側まで指が出る。
祖母は判を、机に置く時いつも伏せていた。伏せてあると朱が机に付かない。今日の判は、面を上にして置いてあった。
灯は膝の上で指を組んだ。組んでからほどいた。窓口の外を人が二人通っていく。二人とも板のほうを見ないで改札へ行った。灯は板の上の高さで、その肩から上だけを見送っていた。
「そこの箱、十本ずつ」
「はい」
川辺さんは机の下から浅い箱を引き出して、灯の膝の横へ置いた。中は輪ゴムだった。色は白と茶が混ざっていた。
灯は十本ずつ数えて束ねた。十で切れば、数はどこまでも間違えない。夏にやった時より指が長くなっていて、一回りの巻きが前より緩んだ。緩んだぶん、束は二度巻いてから止めた。
「十本ずつですね」
「そのほうが間違えない」
「そうですか」
二十束できたところで、灯は数えるのをやめた。箱の底はまだ半分も見えていなかった。
灯は左手を鞄の口へ入れた。外側の袋ではなく、底のほう。指の先が固いものに三つ当たった。木の輪で、大きさは三つとも違っていた。一つは縁の一か所だけが平らに潰れていた。
三つとも、ここでは何の役にも立たない。使うところは、この地下に一つも無かった。灯は指を離して、手を鞄から抜く。抜いた手のひらに、木のにおいが薄く残った。
鞄の口を閉めて、灯は輪ゴムの続きへ手を伸ばす。
二十一束目の途中で、窓口の板の外に足音が止まった。
外に立ったのは若い男の人で、手袋を片方だけ外して持っていた。板の上に手をついてから外したほうの手で頭の後ろをさわった。
「あの、鞄なんですけど」
「いつですか」
「たぶん、今朝です」
男の人は言ってから、片方の手を上着の内側へ入れた。入れて、そこに何も無いのを確かめる。確かめてから手を板の上へ戻した。
川辺さんは紙を一枚引いて、右上に日付を入れた。字は速い。速いのに名前の欄のところだけ、書く手が一度止まった。止まる長さは、息を一つ吸うぶんもない。それでも毎回止まった。灯は夏にも同じところで止まるのを見ている。
「どこで失くされました」
「電車の中だと思うんですけど、はっきりは」
「改札は、通られましたか」
男の人は口を開けて、そのままにした。開けてから閉じた。
「通ったと思います。会社に着いたので」
「改札の内側で失くされた物は、こちらで扱います」
川辺さんはそこで一度、紙から手を離す。
「外側は、警察のほうへ行きます。同じ駅でも、そこが分かれます」
男の人は板の上の紙を見た。灯は内側から男の人の顔を見ていた。
顔の向きは紙のほうから動かない。目だけが、少し上へ動いた。上へ動いて、それから川辺さんの手のところで止まった。
板の上に出ているのは、男の人の胸から上だけになる。灯の座っている高さからだと、顎のところが板の縁で切れる。切れた上に口と目が残った。口の横の動くところまで見えた。
七月に、灯は改札の窓の前まで行ったことがある。あの日は言おうとして、言わなかった。青い。糸が細かった。字は読めない。灯は列のほうへ下がって、そのまま帰った。
あの時、駅員は下を向いて何か書いていた。板の上に出ていたのが自分のどこだったかを、灯は知らない。
「じゃあ、内側です。たぶん」
「たぶんは書けません」
川辺さんは言い切って、それから紙の向きを変えて男の人の側へ回した。
「乗った駅と、降りた駅を書いてください。あとは色と、大きさです」
男の人は書きはじめた。字は右へ上がっていって、二行目で欄からはみ出した。はみ出したところを消さずにそのまま続けていた。
書く間、川辺さんは棚のほうを見ていない。灯も見なかった。棚に鞄がいくつあるかを、灯は知らずにいた。
男の人の手が止まった。名前の欄のところで、そこだけ二度、上から書き直した。書き直した字は、まわりより太くなっていた。
男の人が紙を戻す。川辺さんは名前の欄を見て、それから電話の番号の欄を見た。
「見つかりましたら、こちらから」
「いつごろですか」
「分かりません」
男の人は紙から目を上げた。上げて、川辺さんのほうへ向ける。目のところで一度止めて、そこから動かさずにいた。
川辺さんは紙の角を指で押さえた。
「一年は置きます」
「そのあとは」
「決まっています」
川辺さんは紙を裏返して、机の上へ置いた。裏は白い。
灯の側から見えたのは、その白いほうだけだった。川辺さんの手は紙の角に置かれたままでいた。
男の人は礼を言って、外したほうの手袋をはめた。はめる時に指が一本入らなくて、二度目で入った。それから改札のほうへ歩いていった。歩く先の壁が明るくなっていた。地下でそこだけ、階段の上からの光。
灯は机の上の紙を見た。白い裏に、字の在るあたりだけが薄く出ていた。読める形にはならない。一箇所だけ、ほかより濃く出ていた。二度なぞったところになる。
川辺さんはその紙を束の一番上へ置く。判は押さなかった。
「それ、今日は押さないの」
「今日のぶんは、明日です」
灯は輪ゴムの箱へ手を戻した。二十一束目の途中で止めたぶんが、膝の横にそのまま在った。数え直さないで続きから足した。二十二、二十三。
二十五束できたところで、川辺さんが箱を引き取った。輪ゴムはまだ残っている。
*
棚は窓口の内側の、机の後ろに在った。天井まであって、上の段には灯の手が届かない。番号を書いた箱が並んでいて、中身は外に書かれていなかった。
右の側が傘。三段目だけが紙の箱で、片方だけの手袋と定期入れが入っていた。冬はそれが増えて、傘のほうが減っていた。
右の棚に、傘は四十六本しか立っていなかった。段の右の三分の一で終わっていて、その先は端まで空いている。
柄の頭が段の途中で切れて、その先は板が見えていた。板には、柄の当たっていた跡が横に並んでいた。跡と跡の間は、どこも同じ幅ではない。
棚の左の側は右より詰まっていた。名前の欄が空のまま来たものが入る側で、こちらは冬でも同じ速さで増える。
匂いは夏と同じ場所から来ていた。板と、水と、古い布。夏はその三つが同じ強さで並んでいたのに、今は板が一番前に立って、布が奥へ下がっていた。傘が減ったぶん、布が薄かった。
棚の横の柱に紙が一枚下がっていた。日付と本数が縦に並んでいて、週に一度、川辺さんが書き直す。書き直した前の数には線が引いてあって、線の下の字はまだ読めた。
線の引いてあるのが二つ。上が四十で、その下が四十三。線の無いのは一番下の四十六だけ。
下へ行くほど数が増えていた。八月の終わりに零から始めて、そこから積んでいく紙になる。
去年の夏は二百三十あった。灯はその数を覚えていた。
白い札は一枚も無い。
去年の八月三十一日に、十四枚は傘ごと出ていった。台車の枠へ六本ずつ立てて、柄の先が枠の隙間から外へ出て、押す度に揺れた。灯は通路の先の角を曲がるところまで見ている。
その次の八月三十一日にも、同じことが一度あったはずだった。灯はそちらは見ていない。
灯は下の段の前にしゃがんだ。しゃがむと膝が箱の高さに来た。去年の夏に手を入れた時は、手首まで柄の中に入った。今は隙間があって、一本引いても左右が動かなかった。
柄の首に付いているのは、番号の札だけ。四十六本のうち、札のあるのが九本。九本とも輪ゴムで留めてある。輪ゴムは灯がさっき束ねたのと同じ色で、白と茶が混ざっていた。
灯は九本のうちの一枚を、輪ゴムを親指で押し上げて抜いた。輪ゴムは古かった。押し上げると内側の面だけが白く粉を吹く。番号は十一。名前の欄に三つの字が入っていた。
字は黒かった。黒いというより、黒のまま止まっていた。線の縁がにじんで、紙の目に沿って両側へわずかに広がっていた。触っても指に何も付かなかった。
油性の字。教室の下敷きの角に入っていたのと同じ字で、あれも机に何度擦れても細くなっただけで消えていない。
灯は札を戻して、輪ゴムを下ろした。輪ゴムは元の位置まで戻らず、指一本ぶん下で止まった。
九本のうち、字の入っているのは六本。あとの三本は番号だけで、名前の欄は白い。
灯は六本の字を順に見ていく。太いのが四つ、細いのが二つ。細い二つも、鉛筆ではなかった。
窓口の板の外に人はいない。川辺さんは机で、さっきの男の人の紙に何か足していた。
灯は箱の上へ戻って座った。
「傘が一本、返ります」
「明日か」
「明日の朝です」
川辺さんは机の下へ手を伸ばした。見ないで伸ばして、そのまま浅い箱を引き出す。輪ゴムの箱ではない。もっと薄い箱で、蓋が別になっていた。中に白い札が入っていた。糸の付いたものと付いていないものが、混ざらないように分けてあった。
灯はその箱を知っていた。去年の夏、この箱の中を数えたことがある。二十六枚あった。数えたのは、十四枚が出ていったすぐあと。
箱は今も同じところに在った。同じところに戻すと、川辺さんはあの日に言っている。
灯は蓋の内側を見た。内側に鉛筆で数が書いてあって、その上に線が引いてあった。線の下の字は読めた。二十六。その下が二十。その下が十七。
川辺さんは一枚を取って、机の上へ置いた。番号を書いた。番号は太い字で、右上の隅に入る。
それから名前の欄のところで、持つものを替えた。
太い字のほうを机へ置いて、机の縁に立ててあった鉛筆を取った。鉛筆は短かった。芯の先が丸くなっていた。
書く前に、川辺さんは札の向きを九十度回した。回してから、名前の欄の左の端へ芯を置いた。字は三つ。書く速さは番号の時と変わらなかった。
「なんで、そこだけ鉛筆なの」
「返ってきたら、消します」
書き終えると、札を糸のほうの束へ入れて、蓋を閉めた。
机のほうで、判がまた紙に落ちた。落ちる音は届かない。届くのは、紙を左へ送る時に机の板が鳴る音だけだった。鳴る間の長さは、どの紙も同じ。
灯は膝の上で、右手の指を一度開いて閉じた。開いた時に指の付け根が白くなって、閉じると戻った。
箱の上は硬かった。座っているところの下で、段ボールの折り目が膝の裏へ当たっていた。当たっているのは片方だけ。灯は座り直さなかった。
箱の横に、前の箱の跡が床へ残っていた。四角い線が二重になっていて、外の線のほうが大きい。前の箱は今のより一回り広かった。
鞄の口を開けて、中から薄いノートを出した。表紙は青かった。角は二つとも折れている。学校で使わなくなったもので、後ろの三分の一はまだ白いままになっていた。
膝の上でノートを開いた。後ろから三分の一のところに指を入れて、そこから前へ戻す。開いたのは、四つ角で名前を書いた紙。
紙の右の下に、日付を書いた跡がある。書いてから消したらしく、消しゴムの筋が横に一本残っていた。
紙の上に、細い線が横に並んでいた。線と線の間は指の幅より狭かった。名前は縦に並んで、その横に小さく、木の目の向きが一つずつ書いてあった。横、縦、横、横、横、横。
横に走っていれば下の線を太くする。縦に走っていれば真ん中で一度止めた。灯はそれを書きながら覚えた。
一行目にぬいと書いてあった。二行目にたも。せん。みや。たい。かじ。
灯は上から順に指で押さえた。指の数は声には出さない。押さえる強さは一定にした。強く押すと紙がへこんで、次に見る時に分からなくなる。
押さえた指の下で、上の六つが薄かった。
上から順に薄い。朝の霜に似ていた。今朝、学校の窓の外の枝でも、日の当たる側から先に白いところが無くなっていた。
薄いのは字のほうだった。横に書いた木の目の向きは、そうでもない。
薄いだけなら、まだ読めるものが残っていた。ぬいの二字は、上の一字の横の払いが無くなっていて、残っているのは縦の一本になる。たもの三字は、真ん中の字が半分になっていた。
六つのうち、二つは形が出てこない。線のあった場所で、紙の表だけが下へ沈んでいた。光を当てると沈みの縁が出るが、当てないと何も無かった。
灯はノートを窓口の板のほうへ傾けた。天井の三本のうち、点いているほうの下へ紙を入れる。入れると縁が浮いた。傾けるのをやめると消えた。二度やって、二度とも同じだった。
このノートは、鞄の底に十五か月入っていた。上に弁当が乗る日もあった。
一番上の行が、一番長く入っていた行になる。書いた日から数えると、四百六十日ほどになっていた。灯はその数を出そうとして、途中でやめた。十五か月のほうが早い。
薄く書いたから薄い。
膝の上で書いた。鉛筆の先は丸かった。二つとも去年の八月に在ったもので、今ここには無い。
上の六つを書いたのは、メノの店の台の前だった。灯は膝の上にノートを載せて書いた。膝は平らではなかった。字は少しずつ右へ下がって、下がったぶんを書き直していない。
鉛筆の先も、その日その日で違っていた。削った直後なら細く、書き続けたあとなら丸い。丸い先で書いた字は細くならなかった。細くならないぶん、黒は薄くなる。
灯は目を下へ落とした。
なぎ。それから三つ。末の二行は五日前に書いた。二字と三字で、名は本人から聞いていない。置いていった二枚だった。名を言ったのはキリだった。
末の五行は黒い。押さえると、指の腹に鉛筆の粉が付いた。灯はその粉を、制服の裾ではなく紙の余白でこすった。白かった余白が灰色になった。
紙の上を、指で頭から末まで一度通した。頭のほうは滑って、途中から引っかかりはじめる。引っかかる場所は、ページの真ん中あたりだった。
灯は指を頭へ戻した。
戻る途中で、鉛筆を出そうと筆箱の口へ手を掛けた。掛けて、開けない。線をなぞっても濃くはならない。夏に一度やって、分かっている。
頭から順に、もう一度押さえていった。
十六あった。
読めるのは十二。点が二つ。
あとの二つは、へこみだけが紙に残っていた。




