第028話 書かないで
二日ぶりの扉も、押す時の重さは変わらない。灯は肩を先に入れて、それから体を横にして通った。
空はおとといより低い。屋根の上の雲は動かなかった。息を吐いても白くならない。手のひらへ当てると、当てたところが少し湿った。
四つ角の台は出ていた。板も脚も、おとといの形のまま。脚の下に挟んだ石は三つ。四つ目の脚は先が土へ半分めり込んで、台がそちら側へわずかに傾いている。
キリは台の後ろに立っていた。背も上着も、おとといと変わらない。灯は上着の裾を見た。裾の右の端に、前は無かった継ぎが当たっていた。布の色は本体より薄い。縫った糸のほうが濃かった。
「来たか。二日ぶりだ」
「来た」
灯は右手を上げた。上げて、親指だけを内側へ倒す。倒したところで止めた。
「一本」
キリは指を折らなかった。四日前も折らなかった。折るのを見ているだけで、自分では一度も数えない。
十二月に入ってから、灯は毎日ここへ来ていた。一日、二日、三日。四日目だけが空いていた。
「今度のは何だ。前は四つとも言った」
灯は指を伸ばして、鞄の持ち手を握り直した。左の手のひらの中で、持ち手は冷たい。
「言わない」
「四つ目も言わなかったな。十一月のだ」
「言わないって言った」
キリは台の上を見た。板の上には何も乗っていない。木の目の走る向きだけが、いつもと同じ横に見えた。
夏から今日まで、灯が来なかった日は五日。四日には名前が付いていた。十月の熱。三月の卒業式。四月の入学式。十一月の一日。四つ目だけ、灯は名前しか言っていない。
五日目に付ける名前は、まだ無い。
上着の裾の継ぎを、灯はもう一度見た。おとといは無かったもの。糸の色が本体より濃く、縫い目の間が広く開いていた。急いで縫った縫い方に見えた。
継ぎの端に、布の毛羽が出ていた。切りそろえていない。
灯は継ぎの上へ指を出しかけて、出さずに下ろした。
「今日は札、無いの」
「無い。朝に二枚出て、二枚とも書き手がついた」
「あたしのほかにも書ける人いるんだ」
「炭でよければ何人でもいる。鉛筆は一人だ」
キリはそれ以上は聞かない。聞かないまま、袋の口を縛り直しはじめた。ひもは指の周りを三度回り、四度目の途中で結ばれていた。結び目は上を向いていた。
台の向こうを人が通った。膝の下まである灰色の布を巻いて、片方の肩だけを前へ出して歩いていた。手には何も持っていない。台の前で速さを落として、板の上をのぞいてから、また速さを戻した。
「札は」
「今日は出とらん。明日の朝には二枚出る」
男は台の板へ手を置かなかった。置かずに、板の端から指の幅ぶん離れたところで手を止めた。止めた手のひらに、細かい傷が横へ何本も走っていた。
男はうなずいた。うなずいてから、灯のほうを一度見た。見て、それきり見ない。歩く時に、腰のあたりで金物が二度鳴った。
「あの人、名札小路の」
「取り立てじゃない。似た仕事だ」
「似てるって、どのへんが」
「歩き方だ。あれで二十軒は回る」
灯は男の背中を見た。背が高くて、道の幅の真ん中を歩いていた。壁のほうへは目もやらない。名札小路で見た男は壁に肩を当てないように斜めに歩いていた。歩き方は似ていなかった。
似ていないと言おうとして、灯は言わなかった。
台の板に、おとといの雨の跡がまだ残っていた。丸い跡が三つ。縁だけが濃くて、真ん中は板の色のまま。
跡の一つに、新しい傷が横から入っていた。傷は浅く、木の色が下から出ていた。おとといは無かったもの。灯は指を当てずに、顔だけを近づけた。傷の底に木のくずが残っていて、押せば取れそうに見えた。押さない。
灯はその三つを順に見て、それから脚の下の石を数え直した。三つ。四つ目の脚の下は土のまま。
石は三つとも、上の面が平らだった。横は割れたままになる。傾いているぶん、天板の右の端だけが左より低かった。
「石、一つ足りない」
「割れた。四つ目だけだ」
「いつ」
「昨日だ。畳む時に落として、袋の中で二つになった」
昨日という語が、台の上をまっすぐ通って灯のところまで来た。灯は口を閉じた。閉じてから、鞄の持ち手を右へ持ち替えかけた。左のまま歩き出す。
鞄は左にあった。おとといからそうしていた。
結び目の下から、布の端が指の幅ぶんだけ出ていた。キリはそれを中へ押し込んだ。
「今日はどこ行くの」
「南だ。市が半分立つ。枠は六つしか出さん」
「半分って」
「半分だ。冬は板が半分しか出ん」
キリは袋を肩へ掛けた。掛けると袋の下が四角く張った。中で金物が二種類の高さで鳴った。丸いほうが後で止まる。
灯は西のほうを見た。西の道の先に、市の立つ広場があった。広場の手前に、メノの店の押し戸がある。
「メノんとこ、行っていい」
「行けばいい。日が落ちるまでは開いとる」
「一緒に来る?」
「途中までだ。二つ目の角で南へ折れる」
二人は西へ歩き出した。道は乾いていて、靴の裏が石に当たる音が後ろに残った。冬のレポは土が固かった。踏んだところに形はつかない。
屋根の傘が並ぶ通りへ出た。骨だけのものが多かった。布の残っているものは、端だけが上へ反っていた。反った先で止まる。おとといは端で小さく動いていた。今日は動かなかった。布の色は、どれも同じ灰。
「風、無いね」
「冬は入らん。塀の上を通っていく」
「上って、どのくらい上」
「屋根の一つぶん上だ。冬はずっとそこだ」
灯は上を見た。空は屋根と屋根の間に細く残っていた。雲は動いていなかった。動いていないのに風が通っていると言われても、灯には見えなかった。
屋根の一つぶん。市の半分。石が三つ。灯はそのどれも、聞いた後で自分の目で当たり直していた。上を通る風には、当たり直せなかった。
歩きながら、灯は四日前に見たものを口の中で回していた。メノの棚の箱。口に結んだ札。字は二つで、薄いのは上の一つだけ。溝は二つとも同じ深さだった。
鞄の内側のポケットに、筆箱が入っていた。鉛筆は二本。短いほうの芯は、四日前より丸くなっていた。
「キリ」
キリは顔だけをこちらへ動かした。
「字が薄くなった札に、上から書き足したことある?」
「無い。頼まれりゃ書くが、頼まれたことがない」
キリは前を見たまま答えた。声の高さは変わらなかった。灯は半歩遅れて、それから並んだ。
道の片側に、木の樋が伏せてあった。おとといと同じ場所に、同じ向きで伏せている。灯は中を見ないで通った。
樋の先で、北へ入る道の口が開いていた。中は暗い。日はその口の手前までしか来ていなかった。北へ入って三つ目の道を行くと、忘れられ横丁へ出る。
灯は歩きながら、そちらへ一度だけ目をやった。やった先は暗いまま。それから目を道へ戻した。
道の右側の壁に、白い線が横に一本引いてあった。膝の高さで、途中で二度切れている。切れたところは壁の色が新しい。塗り直した跡に見えた。
切れ目の数を、灯は目で拾った。二つ。
角を二つ過ぎたところで、キリが足を止めた。
「ここで折れる。南は市が立つほうだ」
「うん」
「灯」
名前で呼ばれると、灯はいつも半拍おくれて返事をした。夏の初めのころ、キリは一度も名前で呼ばなかった。呼びはじめたのは、処分の日の前の日になる。
灯は足を止めた。
「横丁へ行くなら、日の高いうちにしろ。拾ってきたら半分だ」
灯は返事をしなかった。行くとは言っていない。言っていないのに、キリは行く前提で話していた。
「日が横木のところまで来たら、もう入るな」
「横木って」
「行けば分かる。印の石の先だ」
キリは南へ折れた。折れてから一度も振り返らなかった。上着の裾の継ぎが、歩く度に同じ形。灯はその揺れ方を見ていた。角で見えなくなってから、西へ歩き出した。
西の道は行くほど明るくなった。両側の建物が低くなって、空の幅が広がっていた。広場の手前で、道の右に押し戸が一枚。木の色は両隣の壁より濃く見えていた。取っ手のところは、色がもう一段濃くなっていた。
灯は戸の前で立ち止まった。立ち止まってから、鞄を左手に持ち直す。持ち直した時に、中で輪が三つ寄って、寄ったところで並んだ。並んだ音は布に吸われて、外まで出てこなかった。
取っ手へ手を掛ける。
*
押し戸は手前へ引くのではなくて、押して開く。灯は肩で押した。戸は下のほうが先に動いて、それから上が付いてきた。入ってすぐの床に、土の跡が二つ。
中の匂いは四日前と同じ順だった。甘いほうが先に立って、乾いた紙が奥に沈んでいた。
メノは台の向こうで膝を一つ立てて座っていた。座り方は四日前と変わらなかった。灯が入っても顔は上げない。
「来た」
「来ないと思ってた」
「なんで」
「昨日来なかった」
灯は台の前まで歩いた。台の上の布に、物が並べられている。灯は数えた。十四。四日前は十六だった。
布は四枚。四枚とも色が違って、一番右のだけ、端を折り返してあった。
折り返した下から、縫い目が二本のぞいていた。二本は途中で交わって、交わった先で片方が消えていた。糸の色は布より濃い。
「これ、売り物?」
「見せ物だ」
「見せてどうするの」
「見た人が思い出す」
「思い出したら」
「取りに来る」
「来なかったら」
メノは答えずに、一枚目の角を指で起こした。起こした下から、布の裏の縫い代が出た。縫い代の色は表と同じで、日に当たっていなかった。
灯は四枚を左から順に見た。二枚目の織り目が細かかった。ほかの三枚は同じ粗さになる。細かいぶん、光の当たったところが白く浮いて見える。灯は顔を少し動かして、浮いたところを消してから、また出した。
「これ、誰の」
「まだ誰のでもない」
メノは言い切ってから、二枚目の端を指で押さえた。そこだけ織り目がつぶれて、離すと元へ戻る。戻り切るまでに、灯は二つ数えた。
「ここまで届くんだ、そういうの」
「届かない。拾い屋が言った」
「キリ、南に行ったよ」
「行った後で聞いた」
「誰から」
メノは布の一枚を裏返した。裏の面は表より色が濃くなっていた。指の腹で端を押さえて、押さえたところで手を止めた。
「裏のほうが濃いんだ」
「陽が入ってない」
「表は入ったんだ」
「入ったぶんだけ抜けた」
灯は自分のコートの袖を見た。袖の外側と内側で、色は同じに見えた。四月からずっと着ていて、外へ出した回数のほうが多い。
布と同じにはならないらしい。灯は袖を下ろした。
壁沿いの棚は四段のまま。箱は三十二で、四日前と同じ数だった。下の二段だけ角が丸くなっていた。
下から二段目の箱に、灯の知らない書き方の字が並んでいた。線の向きは縦と横だけで、丸いところが一つも見あたらない。
その段の一つだけ、向きが変えてあった。壁のほうを向いた面の把手から、縄の端が横へ出ていた。
灯はその一つを見て、それから目を台へ戻した。
「菓子は」
「今日は無い。無い日もある」
皿は台の下に伏せてあった。伏せた底に、細い傷が一本。縁のところに、菓子の粉が細く残っていた。灯はそれを見て、口の中で数を一つ置いた。
四日前は二つあった。今日の皿は零。
灯は台の縁へ手を掛けた。木は冷たくない。店の中は、外より一つぶん暖かかった。暖かいぶん、甘いほうの匂いが上へ広がる。
「じゃあ、なんか買う」
「そっちに売る物が無い」
「布は」
「これは預かり」
台の脚の下に、木の切れ端が一つ挟んであった。厚みは指一本ぶん。踏まれて、上の面が平らになっていた。
挟んであるのは、戸に近いほうの脚だけ。あとの三つは床へ直に着いていた。灯は台の下へ首を入れずに、膝の高さから見た。
メノの手は布の上で止まったまま。止めた指の関節が、四日前より白くなっていた。短く切りそろえた爪。灯はそこを見て、それから見るのをやめた。
メノに触れてはいけないことを、灯は夏から知っていた。触れられないほうの理由は、一度も聞いていない。
灯は棚をもう一度見た。下から二段目。縄の端は把手の横から出たままで、四日前に見た長さと変わらない。指の三本ぶんぐらいになる。
棚の前の床に、四角い跡が二つ残っていた。跡の内側は、床の板の色が明るかった。跡と跡のあいだは、指二本ぶん空いていた。片方の角だけ、線が二重。四日前と同じ場所で、片方の縁だけが新しくなっていた。
「あの箱」
「箱がどうした」
「札、結んであるやつ」
メノは顔を上げた。棚のほうへは向かない。向かずに、灯のほうだけを見ていた。見るために顎が少しだけ下がる。
「見た」
「四日前に見た。上の字が薄かった」
「薄い」
「うん。下の字は黒いのに、上のだけ」
メノは何も言わなかった。言わないまま、布の端を折り返して元へ戻し、そこで指を離した。
戸の隙間から入る日が、台の上を斜めに横切っていた。横切った線は布の二枚目で止まって、三枚目までは届いていない。四日前は六枚あって、六枚とも届いていた。
灯は鞄を台の縁へ置き、内側のポケットへ手を入れた。指の先が筆箱の角に触れた。当たるのはそこだけで、先は布ばかりで指が沈む。
筆箱を出して、蓋を開けた。鉛筆は二本。短いほうを右手に取った。
「名札小路で分かったんだけど」
「何が」
「鉛筆で書いた字は、木の上に乗るの。乗ったのは消えない。夏に書いたの、まだ全部濃かった」
「そう」
「炭は沈むから消える。上の字、薄いのは沈んでるからだと思う」
メノは膝を立て直した。立て直したぶんだけ、台の縁が体から離れる。
「だから」
「上からなぞらないで、少し下にずらして書けば乗る。あたし、それやったことある」
灯は鉛筆の芯の側を自分のほうへ向けて、それから箱のほうへ顎を動かした。
「取ってきていい? 書くよ」
言ってから、灯は自分の声が上がっていたのに気づいた。四つ角で話す時より半分ぶん高い。
「上の字だけでいい。下のはまだ黒いし」
メノは立ち上がった。立ち上がる時に膝が台の脚へ当たって、脚が一度だけ横へずれた。
下から二段目へ手を伸ばして、箱を下ろす。下ろした箱を台の上へ置き、向きを戻した。札が灯の側へ回ってきた。
上の字の薄れ方は、かさぶたの縁が浮きはじめた時に似ていた。まだくっついているのに、下から別の色が見えている。
回ってきたところで、メノは札を自分の手のひらの下へ入れた。
手のひらは札より大きい。字を書く場所が全部隠れた。
「書かないで」
灯は鉛筆を持ったままでいた。持った手は、台の縁より内側へ入らない。
「なんで」
「なんででも」
「消えるよ。上の字、あと少しでなくなる」
「薄いままでいい」
灯は札のほうへ目をやった。見ようとしても、手のひらしか見えない。手の甲の側に、細い骨の筋が三本出ていた。三本とも同じ向きで、一番外の一本が短く見えた。
「あたし、うまく書けるよ」
「知ってる」
灯は次を待った。待っている間に、メノの手のひらが札の上で少しだけ動く。動いた先は、字の在るほう。
「知ってるから」
メノはそこで切った。口の端も動かさない。灯は続きを待った。待っても続きは無い。
メノの手はそのまま。指も曲げていない。手のひらの下で、札のひもの端だけが台の上に出ていた。ひもは新しくなかった。よじれたところが平たくつぶれている。
灯は鉛筆を筆箱へ戻した。戻す時に、削っていないほうの隣へ入れようとして、向きが逆になった。逆のまま蓋を閉めた。芯の側は、いつもと反対。閉めた蓋のふちが、一度だけ合わずに浮いた。灯は指で押し直して、それから筆箱を鞄へ入れた。
「じゃあ、いい」
「いい」
灯は自分の声の終わりだけを聞いていた。声は戸の板に当たって、戻ってこなかった。
メノは箱を持ち上げて、下から二段目へ戻した。戻す時に、札の面がまた壁のほうへ回る。そこで手を離した。
隣の箱との間に、指の入る隙間は残っていなかった。空いていた一つぶんへ、ちょうど入る。
灯はそれを見ていた。何も言わなかった。
台の下から皿を出して、伏せたまま台の上へ置いた。それから膝を立てて座り直した。
「明日は菓子ある?」
「三つの日と、五つの日がある。明日は三つのほうだ」
「そう」
灯はうなずいた。それから鞄の持ち手を握る。
戸を押して外へ出た。この時も、戸の下のほうが先に動く。
外の日は、入る前より低いところにあった。道の色が濃くなっている。灯はコートの前を留めた。留める時に、一番上のところで指が二度すべった。二度目で入った。
広場のほうから、木を打つ音が続けて聞こえた。市の枠を組む音になる。数がいくつあるかは、聞いただけでは取れなかった。
広場の手前から、道は上りに変わる。灯は歩き出した。
足が重い。片方だけではなくて、両方が同じだけ重かった。歩幅も狭くなっている。
上りは灯のほうが速い。
灯は坂のせいにして、歩幅をもとへ戻した。
途中で一度止まって、後ろを見た。押し戸は閉まっていた。閉まった戸の木の色は、両隣の壁より濃いまま。
*
灯は名札小路の角を過ぎて、その先の三つ目を北へ折れた。
北の道は、途中から下りになった。両側の建物がだんだん低くなって、戸の数も減る。人は一人もいない。石を踏む音が、来た時と同じ速さで後ろに残った。
道の色も途中で変わっていた。四つ角のあたりの土は茶色に近い。ここは灰色で、踏んでも粉が上がらなかった。固まっているのではなくて、上がるぶんがもう無い土。
匂いも道の半ばで一度変わった。木の匂いが薄くなって、乾いた土のほうが前へ出てきた。灯は鼻から吸って、口から出す。二度目に吸うと、一度目より濃い。下るほど濃くなった。
下りの途中に、石が一つ置いてあった。道の真ん中で、ほかの石より大きい。上に土が積もっていた。踏まれた跡は残っていなかった。灯はそれをまたいだ。またいだ先で、道がもう一度曲がった。
曲がった先が、上のほうだけ狭くなっていた。両側の建物の壁が上で近づいて、その間に横木が一本渡してある。片方が落ちかけているのは夏と同じだった。
横木は灯の頭より少しだけ高いところを通っていた。くぐらなくても通れる。灯は肩を落として通った。
向こうは暗い。日は横木の手前で切れていて、切れ目のところに影の線が横一文字に落ちていた。線の縁は薄かった。
灯は横木の手前で止まって、右の壁の根元を見た。
土が浅くくぼんでいて、そこに物が一つ立っていた。
砂時計。
高さは灯の手のひらより少し長かった。上下の枠は木で、間のところが硝子になっていた。木は白くなかった。触れずに見ても、雨に何度も当たった色をしている。
中の砂は、下の玉のほうへ全部落ちきっていた。上は空。硝子の内側に、細かい粉が薄く残っていた。
灯はしゃがんだ。しゃがんで、横から見た。木の枠の四本の柱のうち、一本が色濃くなっていた。
持つ場所は決まっている。
くぼみの底は平らだった。砂時計の下の枠がちょうど収まる形に、土が固められていた。ふちのところに、外へ広がった線が四方に残っていた。
灯はくぼみのふちを指で押した。土は崩れない。爪を立てると、爪の幅ぶんだけ削れた。中も同じ色をしていた。落ちた粉は指の腹に付かないまま。
夏に来た時、くぐったのは灯だけ。キリは横木の外に立ったまま、入ると言わなかった。
灯は色の濃い一本をつまんで、砂時計を持ち上げた。手のひらより軽い。持ち上げた時の傾きは、右へ少し。下の玉の砂が、中で一度平らになった。
上下を返して、くぼみへ戻した。戻すと、砂が細い筋になって落ちはじめた。
落ちる筋は、灯の髪の毛より細い。落ちた砂は、下の玉の真ん中へ先にたまった。
灯はもう一度、横木の向こうを見た。曲がっていない道を、灯は夏に一度だけ歩いていた。
灯は立ち上がって、横木の下をくぐった。
くぐった先で、外の音が切れた。
四つ角からも、来た道からも、何も届かない。残るのは足の裏だけ。切れ方は、正座のあとのしびれに似ている。あるはずのものが、遠いところで平らになった。灯は立ち止まった。石を踏む音を、六つ数えた。
道の両側に壁が続いていた。色が下と上で違う。境目は横一本で、灯の腰を通っていた。
灯は右の壁へ指を当てた。境目のところで、指の先に細かいものが付く。合わせてこすると落ちた。落ちた先は暗くて、どこへ行ったか見えなかった。
壁の下に、細い筋が縦へ何本も入っていた。上へ行くほど短くなって、境目で全部が切れていた。灯は一本を目で下まで追った。追った先は土。
上と下では手ざわりも違った。下は石のまま。上は粉に近い。押すと沈んで、離しても戻らなかった。沈んだところは、指の形のまま。
灯は少し離れて、高さを目で追った。壁が途切れるところで一度切れる。次の壁で、また同じ高さから始まっていた。
歩き出した。歩幅はいつもより狭くなっていた。狭いまま、灯は数を口の中で置いていった。
十歩で、戸が六つ。二十歩で十一。三十歩を過ぎたところで、片側にしか戸がなくなった。
戸には札が掛かっていない。釘だけが残っている戸が続いて、その先に釘も無い戸が並んだ。木に穴が二つ空いていて、穴のふちが色濃く残っていた。
三十八歩目の戸だけ、木が新しく見えた。ほかより白く、板と板の合わせ目がそろっていた。灯は近づいて、合わせ目に指を当てた。
そのままにしている間に、合わせ目が指の下でわずかに開いた。幅は爪の半分ぶん。灯は指を離して、もう一度当て直した。二度目はもう、はじめから開いていた。
灯は一歩下がって、戸の全体を見た。白かったところが、面の真ん中から灰色になりはじめていた。端からではない。広がった先は四隅。
三十九、四十。灯は目だけを前へ戻した。
四十一。四十二。低い戸の上に、木の板が横へ足してあった。足した板の色は戸より新しい。新しいのに、合わせ目だけが黒くなっていた。
四十四歩目に、札の掛かった戸があった。
灯は近づいた。札は木で、ひもが釘に回してある。ひもの色は木より濃かった。掛かっている高さは、灯の目のすぐ下になる。手を伸ばさなくても届いた。
面に字は無い。字のあった場所も残っていなかった。端から端まで同じ色。
灯は裏を見た。裏も同じ。こすっても、爪の先に何も引っかからない。
五十歩を過ぎて、もう一枚。下のふちが欠けていた。割れたというより、擦れて減った形をしている。灯はふちへ手を当てた。手の先は、そのまま面へ滑った。
名札小路では、消えた札にも字の場所だけがざらついて残っていた。ここには、その残りが無い。
跡が残るのは、前に何かがあった札だけ。
壁の境目は、腰より一本ぶん上へ来ていた。灯は指を当てて確かめる。一本。
道の幅は、入口のあたりより狭くなっていた。両側の壁が、上へ行くほど内側へ寄っている。空は細い。
夏に来た時、灯は柱を一本覚えていた。床から順に横線が引いてある柱で、線は六本あった。上から二本目が灯の頭の高さに来た。
灯はその柱を探した。
六十五歩まで歩いて、無かった。線の引いてある柱も、その柱のあった戸も無い。戸の並びそのものが、夏と同じ順に並んでいない。
灯は足を止めた。止めて、覚えていた高さのぶんだけ手を上げた。その先には壁しか無い。
手を下ろした。下ろす時に、指が壁をこすって細かいものが落ちた。
道の奥は暗い。暗い先に、木の色の明るいところが一つ見えた。
夏と同じ場所で、夏と同じ明るさだった。柱の木は白く、削った跡の色まで変わっていなかった。戸は閉まっている。戸の横の釘に、札が掛かっていた。
札の字は、ここからでは読めない。
灯は一歩前へ出た。出て、そこで止まった。
壁の線は、腰より指二本ぶん上へ来ていた。
灯は体の向きを入れ替えて、歩幅を広げた。行きより速かった。速くしても、外の音は戻ってこない。足の裏だけが石の形を返してきた。
帰りは戸を数えなかった。数えるかわりに、行きに見た三十八歩目の戸を探した。
白かった戸は、面の全部が灰色。合わせ目は指が入るほど開いていた。板の下のほうが外へ反って、床との間に隙間ができている。
灯は立ち止まらなかった。立ち止まらずに、横目でその隙間を見て通り過ぎた。
横木の手前の明るいところが、行きより近く見えた。
横木の下をくぐると、外の音が戻った。戻り方は一度ではなくて、耳の外側から順に入ってきた。風の音、遠くで木を打つ音、どこかで戸の閉まる音。木を打つ音は、まだ続いていた。
灯はくぼみを見た。
砂は上のほうにまだ残っていた。上に残っているぶんのほうが、下にたまったぶんより多い。
灯は砂時計に手を触れなかった。触れずに、鞄を地面へ下ろした。
鞄の底の薄いノートを出して、膝の上で開いた。表紙の青は、角の折れたところだけ白い。
紙の上に、名前が縦に並んでいた。横に小さく、木の目の向きが一つずつ。途中に、点だけの行が二つ。
灯は筆箱を出した。鉛筆の短いほうを右手に持った。
一番下の名前の下に、一行あけずに書いた。
二字。
書いてから、紙の上を親指でこすった。字は乗ったままで、こすったところが少し光る。
横は空けたままにした。鉛筆の先が、一度だけそこで止まった。空けた幅は、字の一つぶん。
灯はノートを閉じて、鞄の内側へ入れた。それから、砂時計のほうへ目を戻した。
上の玉には、まだ半分より多く残っていた。
灯は来た道へ向きを変えた。後ろで、砂は落ちつづけていた。




