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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第二巻 名前をなくした街

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第027話 薄いほうから

 地下の扉は、押すと下のほうが先に開く。灯は肩から入った。


 扉の内側と外側で、取っ手の高さが違う。内側は灯の胸のあたりで、外側は腰より下に付いていた。押して出る度に、手が一度下がった。


 冬のレポは空の色が低く垂れていた。屋根の上に薄い雲が乗っていて、見ている間動かない。息は白くならなかった。あちらの冬は、こちらの冬より一つぶん軽い。


 四つ角の台はもう出ていた。板の脚は四本とも同じ長さで、傾いているのは地面のほうだった。キリは板の後ろに立って、布の袋の口を縛り直していた。指が三度ひもをくぐり、四度目で動きを止めた。


 「三日続けてだ。夏は六日続けたことがある。あれが今のところ一番長い」


 「そんなの覚えてたんだ」


 「数えてる」


 台の縁の木は端だけが白く毛羽立っていた。灯は台の端へ鞄(かばん)を置いた。中の輪は一つ。朝から動かしていなかった。


 台の上に木の札が二枚、間を空けて並んでいた。どちらも新しくて、木の色が白い。上の穴にひもは通していない。


 「二枚だ。二文字と三文字で、書けば一枚につき一つ払う」


 「持ってきた人はいないの」


 「置いていった。名は聞いてある。二文字のほうが先だ」


 風は止んでいた。旗の類も出ていない。台の下に、木の箱が置いてあった。蓋は無くて、中にキリの炭の棒が入っている。灯はそれを使わない。


 灯は鞄から筆箱を出した。鉛筆は二本入っていて、短いほうを使う。夏からずっと同じ二本を使っていた。


 一枚目は二文字。木の目が横に走っていたので、字の下の線を少し太くした。二枚目は三文字。真ん中の字だけが縦に長くなって、下の一字が浅く沈んだ。灯は浅いところをもう一度なぞった。


 なぞると、なぞったところだけが黒くなる。周りは木の色のまま残った。


 灯は札を目の高さまで上げた。上げると、字の縁が少し盛り上がって見えた。鉛筆の芯は木の目に沈まずに、上へ乗る。乗ったところを指でこすっても、もう落ちなかった。


 夏に見た名札小路の戸の並びは、図書室の本棚の背に似ていた。上から順に読めるところと、擦れて読めないところがある。灯はそう思った。思ったことは口に出さない。


 「終わった。二枚とも書いた」


 「見せろ」


 キリは二枚とも持ち上げて、光の来る側へ向けた。それから台へ戻した。


 「輪で二つだ。灯のぶんは三つになる」


 灯は口の中で三つと言った。言ってから、鞄の内側のポケットへ手を入れた。指の腹に縁が当たる。当たる場所は一つだけで、そこから先は布しか触らない。キリが二つ落とすと、鞄の底で音が三度した。三度目が一番低く響いた。


 書いた二枚を、灯は板の上で少しだけ離して置いた。鉛筆を筆箱へ戻す。戻したのは、削っていないほうの隣だった。入れる向きは誰も決めていない。灯は芯の側をそろえようとして、途中で手を止めた。


 キリが袋の口を開けた。中で金物が鳴って、鳴り方が二種類あった。丸いものと、平たいもの。


 台の向こうを人が二人通り過ぎた。どちらも札を持っていない。札を持っていない人が、ここへ寄ることは無い。灯は四月からずっとそれを見ていた。


 いや、四月ではなかった。四月は学校のほうだった。ここへ通いはじめたのは夏で、こちらの夏はもう終わっていた。


 鞄の中の音は三度目でやんだ。冬の四つ角は人の通りが薄かった。夏はここで列ができて、灯は台の後ろで名前だけを書いていた。列の先頭が誰だったかは覚えていなかった。覚えているのは、書いた字だけ。


 台の板に、雨の跡が残っていた。丸い跡が三つ。三つとも大きさがそろっていて、縁だけが濃く残っていた。真ん中は板の色のまま。


 「今日は名札小路だ。月に一度、家賃を集める日になる」


 「家賃って、何で払うの」


 「壁と屋根の代だ。払わん家は札を外す」


 キリは袋を肩へ掛けた。掛けると、袋の下のほうが四角く張った。中に何が入っているかは聞かない。


 「灯は右で書く。なら袋は左に持て。小路は狭い。すれ違うのに右がふさがってると面倒になる」


 灯は鞄を左手へ移した。移すと、持ち手の重さが左の手首へ来た。中の輪は三つ。三つになると、底での動き方が変わった。一つの時は一か所で止まっていたのが、今は布の上を転がって、隅で止まる。


 「西へ入って三つ目を北。道は覚えてるか」


 「覚えてる。三つ目を北」


 鞄はもう左手に在る。持ち替える時に、板の上の二枚がもう一度目に入った。二文字の札と、三文字の札。並べると、三文字のほうが横に一つぶん長い。


 字の数だけ、木が要る。


 灯はそう思ってから、思っただけで先を続けなかった。続けるには、まだ数が足りない。


 台をたたむのに、キリは天板を先に外した。外した板を脚へ立てかけ、脚の下から石を四つ拾い上げる。大きさは一つずつ違っていた。キリは大きいほうから順に袋へ落とした。落ちる音は四度とも高さが違っていた。


 灯は地面を見た。浅いくぼみが四つ残って、底に土がたまっている。明日はここに台が無い。次にどこへ置くかを、キリは前の日に決めない。


 道は乾いている。冬のレポは土が固い。靴の裏が石に当たる音だけが残った。踏んだところに形はつかない。


 道の片側に、水を流す木の樋(とい)が長く伏せてあった。冬は水が通らない。中に落ち葉でも土でもないものがたまっていた。灯は樋の中を見ないで通った。歩く速さも変えない。


 角を一つ曲がると、屋根の傘が並んでいる通りに出た。傘は骨だけのものが多い。布の残っているものは、色が抜けて全部同じ灰になっていた。


 「屋根の傘、増えた?」


 「減った。去年より二十本ぐらいだ」


 「減ったぶんはどこ行くの」


 「持ち主のとこへ帰るか、骨になるかだ。骨は組合が拾う」


 キリは前を見たまま答えた。声はいつもより低い。灯は数えようとして、途中でやめた。二十本の差は、数えて分かる差ではなかった。


 骨だけの傘は風が来ても鳴らなかった。布のあるものだけが、端で小さく持ち上がっていた。持ち上がって、そのまま戻る。夏はここが一斉に鳴って、灯は耳を押さえたことがあった。


 通りの終わりで、キリが折れた。灯は半歩遅れて続いた。


 *


 西の道は、行くほど幅が狭くなっていた。塀の石は指を当てると冷たかった。灯は左手を塀に沿わせる。指の腹に細かい粉が付いて、払っても袖に残った。


 塀の上には何も乗っていない。上の面は空だけを切っていた。


 一つ目の角。二つ目の角に犬はいなかった。夏はここに一匹寝ていて、灯を見てから寝直した。土のくぼみだけが同じ形で残っていた。


 三つ目の角の柱は立ったまま。上のほうの板も、打ち付けたままになっていた。


 名札小路。


 字は右から左へ流れていた。三文字目の下は前より薄い。夏に読んだ時は、薄いのが下の端だけだった。今は字の半分から下が抜けていた。


 灯は柱の前で足を止めた。柱の下から順に目を上げていくと、字の抜けているところで目が引っかかる。その高さは、灯の胸のあたり。それから、キリの背中がもう小路へ入っているのに気づいた。


 壁と壁の間は、灯の肩の倍ほどしか空いていなかった。並んで歩けない。キリが先に入り、灯が後ろへ続いた。空は上に細く残っていた。日は入らなかった。


 小路の入口で、灯の足が一度だけ遅れた。


 匂いがした。


 木が湿って乾ききらない時の匂い。冬のほうが強い。匂いは足もとにたまっていて、歩くと押し出されるように上がってくる。灯は口を閉じて、鼻だけで息をした。


 戸が並んでいた。取っ手は木で、握るところだけ色が濃かった。濃さは戸ごとに違う。一番濃いのは入口から四つ目だった。四つ目の取っ手は、握りの形に木が減っていた。


 前に来た時、灯は取っ手を見ていなかった。見ていたのは札のほうで、戸は札の下に在るものだと思っていた。


 戸の横に下がっているのは、木の札。木の札で、上の穴にひもを通して釘(くぎ)に掛けてあった。


 灯は読める札から数えはじめた。数えはじめて、五枚目で目を止めた。


 五枚目の札は、木の目だけを見せていた。字の在った場所が、わずかに白い。六枚目は読める。七枚目がまた木の色だけになっていた。八枚目も木の色だけだった。


 夏に来た時、消えていたのは八枚。端のほうに寄っていたと灯は覚えていた。覚えているつもりでいる。


 「触るな」


 キリは振り返らずに言った。


 「触ってない。数えてる」


 「数えるのはいい。落とすのは駄目だ」


 灯は手を下ろした。下ろしても目は札から離さなかった。


 どこかの戸の内側で、水を移す音がした。移し終わると、それきり続かない。


 小路の奥から人が出てきた。膝の丈の布を巻いて、手に木の板を持っていた。灯より背が低くなっていた。近づくと、それがぬいだと分かる。


 夏のぬいは、灯の母より少し上に見えた。今は祖母の側へ寄っていた。首の皮が薄くなって、顎の下に線が二本入っていた。声は夏のまま聞こえた。


 「あんた、夏の子だね。字を書いた子かい」


 声は下から来た。ぬいの背は灯の肩までしかない。夏は目の高さが同じだった。


 灯は膝を曲げかけて、やめた。曲げなくても、ぬいの顔は見えている。


 「うん。あの時、五枚書いた」


 「あれから何度も読んだよ。濃いままだったねえ。ほかのは、どうしてああなるんだろうね」


 ぬいは自分の戸のほうを指した。指した先の釘に札が掛かっていた。字は残っていた。灯が書いた二文字で、木の色より黒い。


 灯が夏に書いた字は、乗ったばかりで縁が盛り上がっていた。今は平らになって、木の中へ沈んでいた。色は薄くなっていない。


 「これ、拭いたことある?」


 「拭かないよ。拭いたら消えるだろうしね。あんたは、まだ書けるのかね」


 「書けるよ。棒があれば書ける」


 ぬいの手の中で、板が持ち替わった。板は札より大きく、角が四つとも丸くなっていた。表に字は無い。裏を見ようとしたが、ぬいは裏を見せなかった。見せないというより、持ち方が決まっていて、裏が体の側へ来ていた。


 「その板、何に使うの」


 「板だよ。今日は要るのさ。家賃の日は初めてだろう」


 「初めて。板って、みんな持つの」


 ぬいは板を胸の前で立てた。立てると、下の縁が膝に当たって止まる。当たったところに、前から付いていた凹みが一つ見えた。凹みは板の縁の三分の一ほどのところに在って、そこだけ木が潰れていた。


 「何回も置いたね、これ」


 「置くんだよ。数える人が数えやすいようにね」


 小路の奥のほうで、戸が二つ続けて開いた。開いた音は高さがそろっていて、二度目のほうが短い。中から人が出た。どちらも板を持っていて、板の大きさも持ち方も、ぬいのものと変わらない。胸の前で、下の縁を体に当てていた。


 灯は自分の手を見る。何も持っていなかった。


 キリは壁に背をつけて立っていた。袋は下ろして、足の間に置いてある。中の金物は鳴っていなかった。


 「キリは払わないの」


 「俺はここに住んでない」


 「前に住んでたことは」


 「無い」


 キリは壁から背を離さない。灯はそれ以上聞かなかった。


 壁の色が場所で違うことに、灯はその時に気づいた。小路の入口の側は乾いていて、奥へ行くほど下のほうが暗くなっていた。暗いところは触ると冷たくて、指を離すと跡が残った。跡は五つ数える間で消えた。


 一番暗いのは、奥から二つ目の家の壁。石の目地に緑のものが薄く付いていて、その上だけ石が黒く見えた。灯は目地に指を当てた。冷たいというより、指のほうが熱をとられていく。


 薄れるのは湿ったところからだと灯は思った。壁が湿れば木も湿る。木が湿れば字が沈む。


 思ってから、灯は奥のほうを見た。奥は暗くて、札の字までは見えない。


 「戻るよ。前から数えるから」


 ぬいは板を持ったままで、灯のほうを見なかった。見ないまま、うなずくように顎を一度動かした。


 灯は小路の入口へ引き返した。引き返す途中で、キリの前を通った。キリは足を動かさない。体だけを半分開ける。


 入口の柱の下に、丸い石が一つ置いてあった。夏には無かった。石の上の面だけが平らで、下は土に埋まっていた。踏み台にするには低い。腰かけるには小さすぎた。


 灯はその石の横に立って、端の札から数え直した。


 数えながら灯は指を折らなかった。折ると、折った数のほうを覚えてしまう。


 一枚目から四枚目までは読める。五枚目で、目が滑って下の縁まで行った。


 *


 取り立ての男は、日が小路の上を通る前に来た。入口の丸い石の上へ一度腰を下ろしてから、こちらへ歩いてくる。石はそのために置いてあった。


 背が高くて、小路の幅では肩が壁に当たっていた。当たらないように半分体を斜めにして歩いた。手には何も持っていない。歩く度に、腰のあたりで金物が鳴った。


 「板を出してください。順は入口からで、去年と同じになります」


 言い方は、覚えている文句をそのまま口へ出す形をしていた。声は大きくなかった。壁が近いので、それで届く。


 戸が順に開いた。開き方はまちまちで、半分だけ開ける家と、全部開ける家があった。板を持った人が出て、胸の前に立てた。灯は入口の石の横から見ていた。


 男は一軒目の前で足を止めた。戸の内側から手が出て、板の上に輪を二つ置く。置き方は上から落とすのではなくて、指で板へ寄せる形をしていた。


 「二つ」


 置くと、板の上で輪が寄って、寄ったところで並んだ。板の上で輪が寄る音は、給食の食器を重ねる音に似ていた。灯は口の中でその音を追った。


 板の縁が男の指を受けて、少しだけ沈んだ。


 二軒目。輪が三つ。


 「三つ」


 三軒目。輪が二つ。


 男は数を言うだけで、ほかは何も言わなかった。板を持つ人も何も言わなかった。輪はそれぞれの家から出て、男の袋へ入っていく。袋は男の腰の後ろにあって、口が上を向いていた。


 灯は札を見た。一軒目の札は二文字だった。二軒目は三文字。三軒目はまた二文字だった。


 四軒目は四文字で、輪が四つ置かれた。


 「四つ」


 その後、男は何軒か前で止まらずに通った。止まらない戸の札には、字が無い。


 灯は数えるのをやめなかった。やめなかったが、途中から札の字の数だけを見ていた。


 ぬいの家は十二軒目だった。ぬいが板を出して、その上へ輪が二つ置かれる。男は同じ調子で数を言った。


 板が下りた。下りた時に、下の縁の凹みが膝から外れた。外れると、板が少し傾いた。


 十三軒目の戸は開かない。


 男は戸の前で止まり、そのまま待っていた。待つ間、腰の金物は鳴らなかった。


 小路の全部が静かになっていた。灯は自分の息が上のほうへ抜けていくのを聞いた。


 小路の壁が、待っているぶんだけ近い。


 男は札に手を伸ばした。伸ばして、釘から外した。外した札を、袋の口ではなく、腕の内側へ入れた。


 それから先へ進んだ。十五軒目に輪が三つ。男は同じ調子で数を言った。


 灯は十三軒目の釘を見た。釘は残っていた。ひもは札と一緒に行った。釘の頭のところに、ひもの跡が細く白い。


 男は奥まで行って、戻ってきた。戻る時は壁に肩を当てないで、真ん中を歩いた。袋の口は縛られていた。


 「来月も同じ日に来ます。字を替える家は、替えてから掛けておいてください」


 「年内に一度、字の無いぶんを外します」


 灯は指を折って日を数えた。今日から三十一日まで、二十八日ある。


 男は灯の横を通った。通る時に一度だけ灯を見て、それきり見ない。


 小路の戸が順に閉まった。閉まる音は開いた時より低く響いた。


 板を抱えたままぬいが立っている。灯は石の横から離れて、ぬいのところまで歩いた。


 「あの札、どこ行くの」


 「持っていくんだよ。返ってくることもあるさ。書いてくれるかい」


 「誰の札を書けばいいの」


 「うちの、入口の側の隣だよ。字が薄くなってきてね。手が動かないんだそうだよ」


 ぬいが隣の戸のほうへ顎を向けた。その先の釘に札が下がっていた。字は残っていた。残ってはいるが、上の一字だけが木の色に近い。


 灯は札を外した。ひもを持つと、札が下でゆっくり回り出した。


 「なんて書けばいいの」


 「うめ。二文字だよ。上の字が先に薄くなってねえ」


 うめ。夏には無かった名前だった。灯は札を目の高さへ上げた。木の目は横に走っていて、上の字の左の払いだけが木の色に近かった。ほかの線はまだ黒い。


 夏に書いた五枚は、どれもまだ濃いままだった。灯はさっき数えながらそれを見ていた。見ただけで、並べては考えなかった。


 ひもの結び目は固い。指の先でほどくのに二度かかった。ほどけた端は平たくつぶれていた。つぶれた面だけが、ほかより白い。灯はそこを指でそろえてから、札を膝の上へ乗せた。


 灯は鞄から筆箱を出した。鉛筆の短いほうを、右手に持ち替えた。


 「小路の中では取らん」


 「知ってる。夏もそうだった」


 灯は札を左手に、棒を右手に構えた。上の一字は、残っている線の上をなぞらなかった。少し下へずらして、新しく書く。ずらしたぶん、二つ目の字を書く場所が下へ寄った。


 書き終えて、灯は右手を開いた。指の付け根に、鉛筆の跡が横に一本。開いたままにしていると、手のひらの真ん中が細かくふるえた。左手もふるえていた。


 書きすぎたからだ、と灯は思った。


 灯は両手を体の脇へ下ろす。下ろすと、ふるえは袖の中で止まった。


 ぬいは札を受け取って、釘へ掛け直した。掛ける時に、ひもを二度くぐらせた。落ちた札には土が付いていた。土の付いた札は洗えない。


 「うめさんは出てこないの」


 「今日は板をうちが出したよ。二軒ぶんね。板は一枚しか無いんだけどねえ」


 灯は分からなかった。分からないと言うかわりに、ぬいの板を見た。板は一枚しか無い。


 「一枚で二回置いたのさ。順が来るたびにね」


 凹みの上を、ぬいが指でなぞった。凹みは一つで、二つは無い。


 板の凹みに指を入れると、指の腹がちょうど収まった。


 小路の奥から風が来た。風は上からではなく、地面のほうを低く抜けていく。抜けると、木の匂いが一度濃くなって、それから薄くなった。灯は鼻から息を吸って、口で出した。


 キリはまだ壁に背をつけていた。足の間の袋はそのままになっていた。


 「これでもう終わり?」


 「終わりだ。来月まで何も起きん」


 「札を外された家はどうなるの」


 「壁と屋根は残る。名前だけが外へ出る」


 キリはそこで切った。灯は続きを待つ。待っても続かなかった。


 十三軒目の戸は、閉まったまま。閉まっていて、隙間から光は出ていない。中に明かりは見えなかった。


 灯はその戸の前まで歩いて、釘を見上げた。釘の頭は丸くて、丸みの一部が欠けていた。夏に見た釘とそっくりの形をしていた。


 ひもの跡は白い。白いところだけが、周りより細く光っていた。


 「あの家、いつから閉まってるの」


 「三か月ぐらい前かねえ。字を短くしたのは去年だったよ。二つ減らしてね」


 それだけ言って、ぬいは自分の戸へ引き返した。戻る時に板を引きずって、板の下の縁が石を二度こすっていた。


 灯は釘の下に立ったままで、袖の中で指を一度握った。握った手はまだ少しふるえていた。


 戸の板の下のほうに、土が横一文字。高さは灯の膝ぐらいで、内側から外へ出たように見えた。中から出たのか、外から風が寄せたのかは分からない。


 灯はしゃがんで、その線を横から見た。土は乾いていた。手は出さなかった。


 *


 入口の石のところまで戻って、もう一度前を向いた。


 石の上に座らなかった。座ると目の高さが下がって、釘の列が一本の線に見えなくなる。立ったままだと、一番奥の釘まで同じ高さで並んで見えた。


 小路は奥へ行くほど暗い。暗くても、札の在る高さは変わらなかった。釘の高さがそろっているので、目を動かさずに端まで追えた。


 息を一度整えた。消えている札を数える。


 五枚目。七と八。十。十四。十六。十九と二十。二十三。


 九枚。


 十三枚目は数に入れない。あれは今日、目の前で外された。木の色になったのではなくて、釘だけが残っている。


 灯は数を口の中で二度繰り返した。繰り返してから、間のほうを取った。


 二、一、二、四、二、三、一、三。


 そろっていなかった。


 夏の八枚がどこに在ったかを、灯は端のほうと覚えていた。覚えていたのは形のほうで、番号ではなかった。


 二つ続いた組は、入口の側と、奥へ寄ったところにある。どちらも端ではなかった。


 九という数を、灯は口の中でもう一度置き直した。


 灯は壁を見た。入口の側は乾いていた。奥へ行くほど下が暗くなって、奥から二つ目の家の壁が一番暗い。石の目地に緑が付いていた。


 その家の札は、入口から二十二枚目だった。消えていない。


 灯はその前まで歩いた。近づくと、湿りの匂いが一番強い。壁に手を当てると、手のひらのほうが先に冷たくなった。離しても、手のひらの温さは戻ってこない。


 石の目地の緑は、押すと沈んだ。沈んだところが黒くなって、離すとゆっくり戻る。戻るまでの間、灯は自分の手を見ていた。何も付いていなかった。


 この壁が一番湿っていた。なら、この家の札が一番薄い。


 札を見上げる。


 一番湿った壁の家の札が、一番濃かった。


 灯は指を一本ずつ曲げた。左の親指から順に、五、七、八、十、十四。右へ渡って、十六、十九、二十、二十三。


 九つは両手に収まった。曲げたまま胸の前まで上げると、親指の側が小路の入口を向いていた。向きを変えると、番号の並びも裏返って見える。灯はそれを下ろした。


 灯は札の下の縁を見た。縁に土は付いていなかった。落ちたことのない札。


 札の木の目は、うめの札と同じ向きに走っていた。灯は字の上へ手を当てて、すぐ離した。目の前まで持ってきた手のひらに、木の粉が白く付いている。黒いものは一つも混ざっていない。


 隣の二十一枚目も、字は読めた。ただしそちらは木の中へ沈んでいて、上をなでても縁が立っていない。灯は二枚を続けて見比べてから、目を二十二枚目のほうへ戻した。


 釘の高さはどの家も灯の頭より少しだけ上にあった。釘の頭には、どれも同じ向きに潰れた跡が残っていた。


 「終わったか」


 キリが後ろに立っていた。袋は肩の上。


 「終わった。消えてるのを数えてた」


 「何枚だ」


 「九枚。夏は八枚だった」


 キリは答えなかった。小路の奥へ一度目をやって、それから灯へ戻した。


 「一枚だ。前に来た時から一枚増えとる」


 一枚。灯はその数を口の中で置いた。何の数なのかは聞かなかった。


 「キリは、いつからここ知ってるの」


 「札が二十枚に足りてない頃からだ。数は増えて減って、今のところへ来てる」


 「増えることもあるんだ」


 「家が増えりゃ増える。増えた家にも札は要る」


 キリは小路のほうを見ていない。見ていたのは、灯が立っている足もとだった。


 「次はいつ増えるの」


 「決まっとらん。増える年もある」


 「増えた年、あった?」


 「三枚いっぺんに消えた年がある」


 三枚。灯は九つの番号のどこかに、その三枚が入っていることになるのを考えた。考えても、どれかは分からなかった。分からないまま、数だけが増える。


 キリは灯の足もとから目を離して、二歩戻った。しゃがんで、土の上から何かをつまみ上げる。輪だった。取り立ての男が落として、そのまま残っていたものになる。キリは袖でそれを一度こすって、自分の袋の口へ落とした。袋の中で、金物が一つぶん鳴った。


 灯はそれを見ていた。見ていたが、何も言わない。


 「一つ拾った」


 それだけ言って、キリは先に歩いた。


 キリの足音は五歩まで数えられた。


 灯はその場に残った。残っていると、小路の中の音が分かれて聞こえてくる。どこかの戸の内側で木が鳴った。鳴り方は一度きり。遠くで金物が擦れて、擦れる音は右の壁を伝ってきた。


 風はもう入ってこなかった。匂いだけが足もとに残っていた。吸うと喉の奥まで来て、出す時には薄くなる。二度目に吸うと、一度目より薄かった。鼻のほうが先に慣れた。


 出したところで、自分がまだ数を口の中で回していることに気づいた。五、七、八、十。回しても、回した先に置く場所が無い。


 小路を出るのに、灯は入ってきた側へ歩いた。歩く間、右側の札だけを見た。行きに見ていたのは左側。


 右側の壁は左より乾いていた。日は入らないのに、乾き方が違う。違う理由は分からないままで、灯は札の高さに目を合わせて歩いた。


 右側の壁には、釘の下に細い筋が縦に入っていた。雨が伝った跡。どの筋も札の横で切れていた。


 匂いは右側のほうが薄くなっていた。足の裏が押し出す濃さが、一歩ごとに変わった。濃いところで灯は幅を狭めて、薄いところで戻した。


 歩く速さは行きより遅い。行きは左だけを見ていて、右は数に入れていなかった。右が同じかどうかは、まだ分からない。


 一枚目、読める。二枚目、読める。三枚目。


 右側の三枚目に、字が二つ並んでいた。数えたのは左だけだが、この一枚は行きにも目へ入っている。二つの字が横に並んでいて、上が長かった。


 今は木の色だけになっていた。


 字のあった場所がわずかに白い。灯は顔を近づけた。木の目の間に黒いものは残っていなかった。指を出しかけて、出したところで止めた。


 行きに読んだのは、二つの字だった。形は覚えていて、音のほうは覚えていない。


 声に出していれば、今なら呼べた。


 風は入口の側からだけ来た。灯は札のひもを見た。ひもは釘に掛かったままになっていた。外されてはいない。


 小路の外の空は、入る前より一段だけ暗くなっていた。柱の板の下で、キリが待っていた。


 灯は札の前から動かなかった。


 札の木の色の上に、白いところが二つ並んでいた。上が長くて、下が短かった。

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