第026話 傘立ての場所
十二月二日。母は六時十五分に帰ってきた。
玄関の戸が開く音で、灯は目を覚ました。覚めてはいる。それでも布団から出るまでに三つ数えた。三つは自分で決めた数で、去年は五つだった。
台所へ行くと、母は流しの前で立ったまま水を飲んでいた。仕事の服のままで上着だけが椅子の背。髪は後ろで一つにまとめてあった。ゴムの跡が手首に残っていた。
「弁当は作ってあるから冷蔵庫の下の段、それとお母さん今日は昼まで寝てるから電話が鳴っても出なくていいよ」
母が器を置くと、底が流しの縁に当たった。
「あと傘持っていきなさい、降るって」
「降らないよ」
「降るって言ってた」
灯は窓を見た。空は白い。雲の形が分からないほど白い。この色は雨の日にも晴れの日にも同じに見えた。
灯は冷蔵庫の下の段を開けた。弁当箱は布に包んであって、結び目が横に来ていた。灯が包むと結び目は縦に来た。ほどかずに、そのまま鞄へ入れた。鞄の内側のポケットに、輪が一つ入れてある。夏の終わりから動かしていなかった。指を入れなくても、縁がどちらを向いているかは分かる。
傘立ての傘は四本だった。母のと灯のと祖母のと、一番奥に父のと。祖母は昨日から持って出ていない。灯は自分のを抜いた。抜くと三本になった。
柄の内側の名前を、灯は親指でこすった。字は消えない。祖母の字で、角が丸い。
弁当の包みは、鞄の中で一番重い。持ち手を握ると、重さは左の手首へ来る。
外は寒かった。息が白くなるほど寒くはない。手袋をはめると、はめた側の指だけが遅れて温かくなった。内側にはまだ夜の冷たさが残る。
玄関の戸を閉める時、内側で母の声がした。戸の厚みで、言葉のかたちは分からなかった。返事をするには開け直さなければならない。灯は開け直さずに、戸から手を離した。
道の霜は日陰の側にだけ残っていた。塀の根もとに沿って細く伸びていて、冷蔵庫の内側に付く白い粉に似ていた。踏むと、靴の裏で音がしないまま沈む。灯は日陰の側を選んで歩いた。夏は日陰を選ぶ理由が涼しさだったが、冬は理由がない。ただ、変えていなかった。
駅までは八百歩。数えなくても体のほうが覚えていた。
中学は駅の向こう側に建っていた。小学校は駅のこちら側だったので、四月から道が一つ増えた。増えた道の長さは、六百歩ぶん。合わせて千四百歩を、灯は毎朝歩いていた。
ジュースの機械は、冬になってから温かいほうの列が三つに増えていた。夏の間は一つだった。灯は買ったことがない。買わないのに、増えた数だけは毎朝見ていた。
小学校の門の前を通った。門は開いていて、低学年の子が二人、走って中へ消えた。二人とも手ぶらで走っていく。灯は自分の傘を右手に持ち替えた。
門の内側に、朝礼の台があった。灰色のコンクリートで、上の面に細い割れが一本入っていた。あの割れは灯が四年生の時から見えている。六年の三月に見た時と、今と、どちらが長いかは分からなかった。
塀に沿って歩くと、六年二組の窓が見えた。三階の左から三つ目。カーテンが半分だけ開いている。中に人の姿は無かった。この時間には、まだ誰も来ていない。
朝礼の台には、鞄が二つ置いてあった。置いた子は校庭のほうにいた。どれが誰のかは、置いた本人だけが分かる。灯も六年の時はそこへ置いた。置く場所は決めていなかった。決めなくても取りに戻れば在った。
灯はそこで足を止めずに歩いた。ただ、歩く速さが少し落ちた。
小学校の傘立ては、学年ごとに分けてあった。一年は入口の近く、六年は一番奥。奥の列の左から四番目が、灯の場所だった。番号は無い。それでも六年二組の全員が、それぞれの場所を知っていた。誰が決めたのかは知らなかった。四月に自然とそうなって、三月まで動かなかった。
魚屋の前を過ぎると、川の匂いがした。橋は川に架かっていて、線路はその下をくぐる。渡ると風が変わった。川からの風で、冬は北へ向かって吹く。橋の上の三十歩ぶんだけ、風が背中を押した。
駅の前を過ぎるところで、人の流れが二つに割れる。改札へ入る側と、通り過ぎる側。灯は通り過ぎる側を歩いた。四月までは、この時間にここを通ったことが一度も無かった。
改札の上の時計は八時六分をさしていた。灯は毎朝、ここで一度だけ顔を上げる。上げても足は止めない。止めたことは四月から一度も無かった。
地下へ下りる階段の入口を、灯は横目で見た。手すりの上のほうだけが光っていた。今日も夕方に下りる。下りることは決まっているので、朝は見るだけにする。
駅を過ぎると、四月に増えたぶんの道になる。花屋の前と、塾の看板の下を通って、六百歩。中学の門はその先に在った。
一年三組の傘立ては、昇降口の右の端にあった。入れる場所は二十四本ぶん。手前と奥の二列で、一列に十二本ずつ。列と列の間は灯の靴の幅ほどしか空いていなかった。
一年三組は三十四人いる。二十四より十人多い。早く来た者から順に入れて、入らなかったぶんは壁に立てかけていた。
灯は初めの四日、それを知らずに毎朝同じところへ入れようとした。二日目に、そこにはもう別の傘が在った。三日目も在った。四日目に、灯は入れる場所を変えた。
今日は手前の列の左から七本目に入れた。差し込みながら隣の傘の柄の色を見ておく。左は紺で、右は透明のビニールだった。
覚えるのは朝の一度だけでいい。それで夕方まで足りた。持たなかった日は、まだ一度も無かった。
傘立ての端には、番号を書いた紙を貼った跡が見えた。四つが等しい間で残っていて、紙のほうはもう無い。剥がした跡の内側だけ、金の色が濃く残っていた。いつ貼ってあったのかを知っている子は、たぶん上の学年にしかいない。
同じ組の何人かは、奥の列の右の端をいつも使っていた。使っているところを見たことは無い。ただ、朝に灯が入れようとすると、そこにはもう入っていた。その何人かは八時前に来る。灯はそれを、傘の入り方だけで知った。
灯は自分の傘の柄を、一度だけ押し込み直した。押すと、下の受けの水皿に当たる音がした。水皿の底は乾いていた。今日はまだ誰の傘もぬれていなかった。
傘立ての向こうに、自転車が並べてあった。前の車輪だけを枠へ差す形で、朝のうちは半分も埋まらない。灯は歩いてくる。二年生から許されると聞いたが、誰に聞いたかは思い出せない。
校舎に入ると、暖房の匂いがした。乾いた埃と、灯油の混ざったような匂い。小学校の廊下は冬でもこの匂いがしなかった。床の材が違うのかもしれない。
昇降口の下駄箱は、名前が印刷してあった。小学校のは手書きの紙を差し込む形で、灯の紙は二年生の時から同じものを使っていた。角は丸く、字も薄い。中学のは新しくて、全部同じ大きさの活字になっていた。
下駄箱の角で柊とすれちがった。柊は上履きを片手で持って、もう片方の手をポケットに入れていた。
「日直、今日おれ」
灯が返す前に、柊は階段のほうへ行く。ポケットのほうの手は、出さないままだった。
灯は自分の名前の下から上履きを引き出した。ついでに隣の名前を読んだ。読まなくても分かるのに、毎朝読んでいた。
上履きは十一月に洗った。干したのは灯で、物干しの端に二日かかった。二日目の朝はまだ内側が湿っている。履いたまま昼には乾いてきた。
下駄箱の三段目の右の端は、四月から空いていた。名前の紙だけが入っていて、上履きの側は空のまま。誰の名前かは読んだことがあった。一年三組ではない子で、灯はその子を見たことがなかった。
昇降口を上がると、床の色が変わる。境目に黒い線が一本、横に引いてある。靴の裏で削れて、真ん中だけ細くなっていた。左の端に白い塗料の丸い跡。引き直した時のものになる。
灯はその線をまたいだ。またぐ時に後ろから走ってきた誰かが灯の鞄に当たった。当たった側は謝らないまま廊下の先へ消えた。灯も何も言わずに歩いた。鞄の中で輪が一度動いて、それきり静かになった。
廊下は右側を歩く決まりになっていた。小学校にも同じ決まりが在ったが、守っている子は少なかった。中学では全員が右を歩く。守らせている人は、見たことがない。灯にはそれが不思議で、四月から毎日不思議だった。
窓は北を向いていて、朝のうちは日が入らない。窓枠には細かい砂がたまっていた。ガラスの内側が白く曇っていた。灯は指で触ってみた。触った先だけ丸く抜けて、その向こうに校庭の隅が見えた。土は霜でところどころ白く見えた。白く残っているのは、日の当たらない側の一筋。
曇りの下のほうに、指の跡が細く垂れた形で残っていた。触った高さは灯より低かった。
灯は指の跡をそのままにして、歩き出した。
*
教室は三階だった。階段は二つあって、右のほうが人が少ない。灯は毎朝そちらを使っていた。四月に一度そちらを上って、それから変えていなかった。
階段の窓から、駅の屋根が見えた。屋根の向こうに川があって、橋が架かっていた。ここからだと橋は見えないが、川の上の空だけが少し明るかった。明るいのは川の上。
三階の廊下は、下の階より風がよく通る。教室の戸は開いていた。中に十人ほどいた。一年三組は三十四人で、朝のこの時間に十人なら少ないほうだった。
灯の席は窓側の後ろから二番目。四月からずっと同じで、席替えは二学期に一度あったが、灯の場所は動かなかった。
窓の下の暖房から、乾いた風が足首に当たっていた。鞄を机の横のフックに掛けると、中の輪が一つ、底で動いた音がした。音は机の下で止まっていた。
千夏は前から三番目にいた。灯の席からは、斜め前へ二人ぶん。小学校の時は隣に座っていた。
「おはよう」
灯が言うと、千夏は振り向いた。一拍あって、笑う。
「おはよ。今日さ、五時間目まで?」
「六時間」
「うそ、まじで。あたし五時間だと思ってた」
それから千夏は前を向き、前の席の子と話しはじめた。声は灯に言った時より大きく聞こえた。灯の耳までは、その声のほうがよく届いた。
机の天板に、前に使った子の引いた線が一本残る。黒板の下の溝には、白い粉がたまっていた。日直が拭くのは帰りの時間になる。
灯は鞄から筆箱を出した。中は鉛筆が二本と削り器が一つと消しゴムが一つ。それに、二つに裂けた厚い紙が二枚。二枚は重ねずに、鉛筆の横へ並べてあった。
厚い紙のほうは、夏の終わりからずっと入れたままになっていた。誰も気づかない。気づかれたことは一度も無かった。
一時間目は数学。前の黒板の右の端に、宿題の範囲が書いてあった。字は先生のではなく、日直の子が書いていた。今日の日直は柊だった。
柊の字は小さい。小さいのに、数字だけが大きくなる。「三十二から三十五」の三十二と三十五だけが、周りの字の倍あった。
灯は自分のノートに範囲を写した。写しながら柊の書いた数字を二度見た。
数学の先生は、黒板の左の端から書きはじめて、右まで行くと下へ戻る。折り返しのところで一度だけ手が止まる。その間に、灯は前の行を写し終える。四月からその間で足りていた。
二時間目のあとの休みに、柊が灯の机の横を通った。通ってから戻ってきた。
「これ」
柊は手のひらを開いた。開き方が浅い。中に金物が一つ載っていた。輪だった。灰色で、縁が一か所だけ平らに潰れていた。
灯は少しの間、それを見た。
「どこで拾ったの、それ」
「昇降口の前」
「名前は書いてなかった?」
「無し」
「じゃあ誰のか分かんないね」
「分かんない」
柊は手を閉じて、そのままポケットへ入れた。ポケットは制服の右。入れてから自分の席へ戻った。
灯は自分の鞄を見た。フックに掛けたままで動いていなかった。中の輪は一つ。朝から数えていない。数えなくても重さで分かる。
柊の拾った輪と、灯の持っている輪は、大きさが違った。柊のほうが一回り小さい。
柊が自分の机の中から小さい箱を引いた。引く間に、中で物が寄る音がした。音は一度きりで、二度は鳴らなかった。詰まっているのだと灯は思った。
箱は薬の空き箱で、蓋の側だけ切り取ってある。中に、拾った物が仕切り無しで入っていた。
灯は席から見ただけで、いくつあるかは数えられなかった。柊は箱を傾けて、いま入れた輪の位置を直した。直してから蓋のほうを上に置いた。上になった面は無地。置き方が決まっていた。
「その箱の中、ぜんぶ言えるの?」
柊は目を上げなかった。
「言える」
「いくつ入ってるかも?」
「数えてない」
「じゃあいくつある?」
「増えた」
灯は息を一度だけ吐いた。柊は蓋を閉じて、机の中へ戻した。
灯はそれ以上聞かなかった。
三時間目は国語。教科書の三十四ページから三十七ページまで読んで、あとは書く時間に充てた。開いたページの下の余白に、前に書いた鉛筆の跡が残っていた。灯は書きながら鉛筆の先を二度だけ見た。二本のうち、いま持っているほうが低くなっていた。昨日ここで削ったのは、もう一本のほうだった。
隣の教室で椅子を引く音。書き終わってから灯は残りの時間で窓を見た。校庭の霜は、朝より狭くなっていた。日の当たる側から順に消えていくので、残っているのは校舎の影の形をしていた。影の形は時間で動く。動いた先から、白いところが消える。
三時間目が終わると、千夏が灯の机の横で足を止めた。後ろの子に何かを渡すためだった。渡し終えて、灯のほうを向いた。
「ねえ、二月のやつってさ、二人でやるんだっけ、それとも一人でやるやつ?」
「一人だと思う」
「えー、じゃあ何にしよ。あたし何にも思いつかないんだけど、あかりなんかある?」
「まだ決めてない」
「だよね」
千夏は行った。笑い声は混ざっていない。
四時間目は理科。実験室は一階の北の端にあった。移動の間、灯は千夏の後ろを歩いた。千夏と、前の席の子。肩を並べて歩くと、通路はそれで埋まる。話し声は階段の途中まで聞こえて、何を言っているかは分からなかった。分からないまま灯は同じ速さで下りた。
廊下の途中で、上の学年の声が二度通った。何を言ったかは聞き取れない。
理科室は寒かった。実験台の天板が石で、手を置くと熱が抜けていく。灯は手を置いて、しばらくそのままにした。抜けきったところで手を持ち上げると、天板に手のかたちが薄く残っていた。残った形は五つ数える間で消えた。
後ろの台で、みずきが誰かに何か聞かれていた。
「うん、そこ置いといていいよ?」
声の終わりが、上へ抜ける。灯は手元から目を離さなかった。
給食は教室で食べた。小学校は班ごとに机を寄せたが、中学は前を向いたままになる。誰と食べるかを決めなくていい。今日の献立は、パンとシチューとゆでた野菜と牛乳だった。
灯はパンの端から食べた。端の焦げているところを先に食べ、白いところを後に残す。この順は小学校の時から変えていなかった。白いところは、噛むと上あごへ貼りつく。舌で一度剥がした。
千夏は右の列の三番目で食べていた。前の席の子と、体だけ斜めに向けて話していた。笑い声が二度した。二度とも、灯のところまで届いた。
みずきの席は、廊下側の一番前。二学期の席替えでそこへ移った。左手で器の縁を押さえて食べる癖があって、指の当たる場所がいつも同じで、そこだけ塗りがはげていた。前の席は列のまん中で、あのころは周りに四人か五人いた。
今日、みずきの机の周りには誰もいなかった。前は黒板で、右は壁。机の左には通路が一本あって、その向こうの列との間が空いていた。
灯は自分の牛乳の口を開けた。開けてから飲まずに持っていた。持っている手の指が冷えた。持っていないほうの手も、爪の下が白い。
冷蔵庫に入れすぎなんだ。灯はそこで決めた。
牛乳を置いて、両手の指を手のひらで包む。手のひらのほうが温かい。冷えた側が追いつくまでに、少し時間が掛かった。
灯は席を立ち、みずきの机まで歩いた。三歩と少しになる。
「みずき、シチューおかわりある?」
みずきの顔が上がった。速い。灯は一歩手前で足を止めた。
「配膳台にまだ二つ残ってる」
終わりは上へ行かなかった。
「じゃあ一つもらおうかな」
「自分で取ってきたほうが早い」
灯は席を離れて、前の配膳台まで歩いた。列はできていない。杓子は鍋の縁に掛けてあって、掛けたところだけ湯気が付いていた。灯は二つのうち手前を選んだ。手前のほうが少ない。
取ってからみずきのほうを見る。みずきは前を向いていて、こちらへ顔を向けなかった。
自分の席へ戻るころには、シチューが少し冷めた。冷めたぶんだけ、表の膜が厚くなっていた。白い膜。灯はそれをスプーンの背で破って、下から混ぜた。
食べ終わるころ、みずきの席の横を給食当番の子が通った。通っただけで、みずきの顔は動かない。
五時間目は英語で、六時間目は総合。総合の時間は、二月の職業の調べ物の説明で終わった。先生は黒板に日付を二つ書いて、丸で囲んだ。灯はプリントの余白に、聞いた通りの日付だけを書いた。二月十四日と、二月二十一日。
*
放課後の昇降口は、朝より暗かった。四時をすぎて、外はもう暮れかけている。
下駄箱の並びの向こうに、傘立ての金の縁が見えた。前に五人ほどいた。柄の色と握りの形で見分けていた。上から順に柄を見ていく。誰も名前は見ない。柄の色と、握りの形で見分ける。
置く場所は、毎日ちがう。
朝に覚えた場所が、夕方に空いていることもある。
灯は上履きを下駄箱へ入れて、靴を取り出した。かがんだついでに、三段目の右の端をもう一度見た。名前の紙は同じ場所にあった。上履きは今日も無い。
紙の字は活字で、周りの名前と同じ大きさだった。四月から一度も出し入れされていないので、紙の上に埃が薄く積もっていた。積もり方は平らで、押し入れの奥に置いたままの箱の上に似ていた。指で触れば線が付く。灯は触らなかった。
その段の左と右には、上履きが入っていた。左の子は踵を踏んで履くので、踵の後ろが内側へ折れたままになっていた。右の子のは新しい。十一月に替えたのを、灯は昇降口で見ていた。その日、古いのは袋に入って持ち帰られた。
靴の中は冷えていた。履くと、指の先から順に冷たさが移ってきた。移りきるまでの間、灯は片足ずつ床を踏んだ。
昇降口の戸は、片側だけ開けてあった。昇降口の光は、朝と同じ蛍光灯になっていた。朝は外の白さで足りていて、点いているかどうかも見えなかった。夕方は点いているのが見えた。傘立ての金の縁も、朝は白く光り、夕方は鈍い。
同じ組の子が一人、奥の列から傘を抜くのに、手前の一本と、その隣を先に抜いた。抜いた二本を床へ寝かせて、自分のを取って、それから寝かせた二本を戻した。戻した順は、抜いた順と逆だった。
灯は手前の列の左から七本目を見た。無い。
そこに差してあるのは紺の傘で、柄の握りが木でできていた。木の握りは組に一本か二本しか無い。朝に灯の左へ入っていたのが、これになる。
灯は左から数え直した。数は変わらない。隣が一つずれたのなら、灯のは八つ目か六つ目に在るはずだった。
八つ目は透明のビニールで、これは朝の右になる。左右が両方とも動いていて、動いた向きが逆になる。
六つ目にも無い。五つ目も四つ目も違っていた。三つ目には子供の使うような短い傘が差してあって、これは下の学年のものではない。一年にも、その背丈の子は何人もいる。
端まで来ると、残りの三本はどれも柄が黒かった。黒は数が多いので、灯は自分のを色で覚えていない。覚えているのは柄の内側の字になる。
奥の列は手前より一本ぶん低い。差してある傘の頭が、手前の陰に入っていた。灯はしゃがんで、下から柄だけをたどった。
三つ目に、灯の傘があった。
柄の内側を、灯は確かめた。祖母の字で、角が丸い。字は消えていなかった。夏に強くこすった時から、薄くもなっていない。
抜くと、隣の二本が内側へ倒れかかった。灯は片手で押さえて、戻るまで手を離さずにいた。押さえている間、手のひらに金の冷たさが移ってくる。移りきるより先に、二本は自分の重さで立った。
灯は傘の先を見た。先の布は乾いていた。今日は誰の傘もぬれていなかった。水皿は朝と同じ、空の底。金の縁は昼を過ぎても冷たさを持っていた。
傘立ての横の壁に、傘が一本、立てかけてあった。
中ではない。外に、寄りかからせてある。朝は三本あった。二つは持ち主が抜いていって、これだけが残る。柄の先が床に付いていて、上の側だけが壁紙に当たっていた。当たっているところが、そこだけ薄く汚れていた。縦に長い汚れで、上と下で濃さが違う。
柄の先の金具が、床の一点だけを削っていた。削れたところは丸くて、傘の先より小さかった。
灯はその柄を見た。名前が書いてあった。書いてあるのは持ち主が自分で書いた字で、細くてまっすぐで、はねるところがない。書いた時に定規を当てたのかもしれない。当てたのなら、当てた側の線だけがそろうはずで、そろっているのは下の側だった。
みずき、と読めた。
灯は自分の傘を左手へ持ち替え、右手でその傘を取り上げた。傘は軽かった。持ってみると、自分のより細く感じた。骨の数が少ないのかもしれない。数えるには開かなければならないので、灯は数えなかった。
取ってから傘立ての中を見た。二十四本ぶんのうち、埋まっているのは二十一だった。空いているのは三つ。三つのうち二つは奥の列で、手前は一つだけ空いていた。
灯は一番手前の空いたところへ、みずきの傘を入れた。入れると、柄の内側の名前が壁のほうを向いた。灯は柄を回して、名前を通路の側へ向け直した。
向け直してからしばらくそのままにしていた。
後ろで足音がした。近づいてくるのは二人ぶん。振り返ると、二年生らしい二人が通り過ぎるところにいた。二人とも手ぶらだった。灯のいる側は見ないで、外へ出ていく。
二人が出ていくと、昇降口は静かになる。登校のうちは靴の音が重なって、一つずつは聞こえなかった。今は一つずつ離れて聞こえる。
灯は自分の傘を右手へ持ち替えた。その拍子に、みずきの傘の柄がもう一度目に入った。金の縁の外に一本だけ在ったものが、今は縁の内側に在る。数は二十二になった。名前は通路の側を向いたままになっていた。誰かが抜き差しすれば、また回る。回ったら誰も直さない。
昇降口を出ると、風が正面から来た。行きよりも冷たい。空は白いところが残っているだけで、まだ降っていなかった。母は降ると言っていた。灯は傘の先を地面から少し上げて持ち直した。
校門の手前で、灯は一度だけ後ろを見た。
傘立ての前に、みずきが立っていた。自分の傘に手を出さないままの、動かない背中。灯のいる側は見ていなかった。
灯は振り返るのをやめて、門を出た。門の柱の内側に、貼り紙が一枚あった。日付が書いてあって、その日付はもう過ぎていた。剥がす人が決まっていないのだと思う。
柱の下に、木の箱が置いてあった。中は手袋が片方と、鍵が一つと、紙の切れ端。紙には字が書いてあったが、ぬれて流れて読めない。箱に蓋は付いていなかった。
道の霜は朝の場所からずれていた。日が回ったぶんだけ、白いのは塀の側。灯は白いところを踏まずに歩いた。
中学から駅までは六百歩。歩き出してすぐ、灯は歩数を数えるのをやめた。夕方に数えたことは一度も無い。朝と同じ道を、灯は逆にたどった。
花屋の前に段ボールが積んであった。行きには無かったので、昼の間に出したことになる。上の一つだけ角がふやけていて、下の三つは乾いていた。ふやけた側を上にして積んであった。
塾の看板の電球が二つ切れていた。端から二つ目と、その隣。点いている側から読むと、字が一つ足りない。何の字かは、行きに読んで知っていた。
街灯はもう全部点いていた。行きに一本も点いていなかった灯が、いま八つ点いている。
駅の前で、人の流れがまた二つに割れた。割れ方は逆で、改札から出てくる側のほうが多い。灯は逆らわずに端を歩いた。
改札の上の時計は四時二十八分をさしていた。灯は行きと同じところで顔を上げ、同じように止まらなかった。
地下へ下りる階段の入口で、灯は手すりの光っているところに手を掛けた。光っているのは、手の当たる高さのところだけだった。その上と下は塗りが残っていて、色が濃く見えた。
掛けてから鞄の内側のポケットへ指を入れる。輪は一つ。朝から数えていなかった。数えなくても指の腹が縁に当たる。乾いた空気が埃の匂いを薄くしていた。
階段の三段目から、空気が変わった。乾いていた。冬の地下は、上より乾く。乾いた空気は、埃の匂いを薄くする。夏はここで、雨にぬれた紙の匂いがしていた。同じ場所で、同じ時刻に。
通路の壁に、剥がしそこねた紙の角が残っていた。爪でこすれば取れそうだった。灯はこすらなかった。
通路を抜けて、窓口の前を過ぎた。処分済みの棚を右に見て、そこから十四歩。十四歩は夏に数えた。数えてから、一度も数え直していない。
扉の取っ手に手を掛けるのに、灯は傘を左の脇へ挟んだ。挟んでから、置くところをさがした。
扉の前に、傘立ては無かった。




