第025話 四日ぶん
十二月一日。地下の通路は、夏より乾いていた。
階段を下りきったところで、灯は手袋を片方だけ外した。そちらを鞄のポケットへ押し込む。中学の鞄は口が上まで開かない造りで、入るのは指二本ぶん。残りの片方は右手にはめたままにする。書く手のほうを、灯は先に温める。
通路の電球は四つとも点いていた。三つ目のかさの内側にいた虫は、もういなかった。夏のあいだ数えていた数が、冬には要らなくなっていた。灯は三つ目の下で足を止める。
窓口の内側で祖母が判を押していた。紙の右下へ落ちる音は、灯の靴の音より先に止む。祖母は顔を上げない。灯のほうも止まらなかった。四時二十分。冬は、この時間でもう外が暗い。
右の棚は、夏より低いところまでしか埋まっていなかった。冬に傘を失くす人は少なかった。左の棚だけが夏と同じ速さで増えていた。代わりに手袋と定期入れが増えて、右の棚の三段目に紙の箱が四つ並んでいた。箱の中の手袋は、片方だけのものが多い。
灯は箱を一つ引いて、また戻した。引く時より戻す時のほうが重かった。板の反りに角が当たっていた。
通路の奥に、扉の縦の線が二本。取っ手は上の半分だけが光って、下の半分は曇っていた。灯はそこまで歩いた。数えると十四歩。夏の終わりと一つも違わない。歩幅は伸びたはずなのに、数だけが変わらずにいた。歩き方のほうを合わせているらしい。
扉を開けると、風が来た。
冷たくない。地下の通路のほうが冷たかった。灯はコートの前を開けて、扉を閉めた。
あちらの光は低かった。
夏に来た時と同じ高さで、同じ側から差していた。灯が寒い日に来ても暑い日に来ても、この街の日は同じところに在る。灯は毎日それを確かめていた。
四つ角へ出た。
台が無い。
東の道の入口が、キリの台を出す場所になっていた。板を二枚重ねて、四本の脚の上。灯はそこを見た。板も脚も無くて、土の上に四角い跡だけが残っていた。跡の内側だけ、周りの色より薄れていた。
灯はしゃがんで、跡の縁を指でなぞった。土は乾いていた。角のところに、脚の下の石が食い込んだ窪みが四つ。水は入っていなかった。雨が降っていないので、昨日でも一昨日でも同じに見える。
灯は立ち上がって、四つの道を見た。戸を数えると四十四。先月の終わりに数えた時から動いていなかった。
東の道を歩いた。三軒目の前に、見たことのない札が立てられていた。
木の板で、地面へ刺してあった。上のほうに穴が二つ開いていて、そこへ縄を通してあった。板には字が二つ。灯には読めなかった。ただ、下のほうに丸が三つ並んでいるのは分かる。焼いた跡で、三つとも同じ大きさだった。
灯はその札の前で足を止めた。板の縁に指の腹を当ててみる。ささくれが一本も出ていなかった。何度も抜いて刺し直した板の減り方だった。
「そこは触るな。刺してある物は、みんな誰かのだ」
声は後ろから来た。振り返ると、男が立っていた。背は灯の頭一つぶん上。腕には布を巻いていた。布は肘のところで結んであって、結び目に同じ丸が三つ焼いてあった。
「触ってない」
「触ろうとしてた。指が板の上まで来ていた」
「見てた」
男は札のほうへ顎を向けた。それから灯の鞄を見ていた。鞄を見ている時間のほうが長かった。
「あんた、どこの者だ。見ない顔だな」
「どこのって」
「組合だ。どこに入ってる」
灯は答えなかった。組合という言葉は、この街で初めて聞く。男は灯の返事を待たずに、札の縄を結び直した。二重にして、端を内側へ折り込む。夏にキリが袋の口を締めていたのと同じ手つきだった。
「入ってないなら、この道で拾うな。三軒目から先は取ってある」
「拾いに来たんじゃない」
「拾いに来たんだろ」
「人を探しに来た」
男は手を止めた。それから初めて、灯の顔をまともに見た。
「誰を探してる。名を言え」
「キリ。どこにいるか知ってる」
男の口が片方だけ動いた。笑ったのかもしれない。灯には分からなかった。
「あいつは入ってない。だからどこにでもいる」
「西だ。今日は西だった」
男はそれだけ言って、札の横へ座った。座ると背が灯より低くなっていた。腕の布の丸が三つ、こちらを向く。三つのうち左の一つだけ、縁の黒が外へ広がっていた。押し直したのかもしれない。
「その丸、なに。数で違うの」
「三つなら三の組だ。焼いた数が、そのまま組の番になる」
男は面倒そうな言い方をしなかった。
灯は西の道へ歩きだした。足を運びながら、東の戸を数え直していた。十七のうち、札の立っている家が四軒あった。丸の数は三つ、三つ、一つ、二つ。数え終わったところで坂に入った。
坂は下りのほうが速い。速いのに、下りきるまでに息が上がった。夏には上がらなかった。そうだったのか、覚えていないだけなのか。灯には決められない。
西の道の左側に、市の枠が二つ立てかけてあった。夏に見た時と同じ壁で、同じ向きに寄せてあった。今日は市の日ではない。枠の下の土に、立てかけた脚の跡が二本ずつ残っていた。跡の深さは左のほうが深い。
その先に、板が二枚重ねてあった。
脚は四本で、下に石が一つずつ噛ませてある。石は四つとも大きさが違っていた。板の上には、金物が種類ごとに分けて置いてあった。左から、ねじ。留め金。輪。それに、名前の分からない曲がった金物が七つ。
台の後ろでキリが立っていた。
灯は台の前で足を止め、そのまま顎を上げた。
うなじの筋が、片側だけ張っていた。朝からあった張りが、顎を上げた形でひとつ強くなる。
灯の背は四月から二センチ伸びていた。それは家の柱で測った。柱の傷は台所の入口。付けるのは母で、包丁の背を使う。伸びたぶんだけ、キリを見上げる角度は浅くなるはずになる。
鞄の掛け方が悪かった、と灯は思った。
「いくらだ。見る前に言え。見てから決めると、こっちが二つ損する」
キリのほうが先に言った。灯はまだ何も手に取っていない。
「早くない。損する」
「損しない客はうちに来ん。去年の冬は三人だ」
灯は台の上へ手を出した。輪を一つ取って、指に通してみる。輪は指の付け根で止まった。夏に同じことをした時は、第二関節で止まっていた。
「これ、いくら」
「三つで輪二つ。冬の値だ。夏なら同じ三つで輪三つ取る」
「輪で輪は買えない」
「買える。三と二だ。合わんのは数のほうだぞ」
「合わない。三つで二つなら、一つぶん損してる」
「一つぶん得してるのが俺だ。三と二の差が、そのまま俺の一つになる」
「知ってる」
台の下から布が出た。キリはその上へ輪を三つ並べる。置き方は夏と同じで、欠けているほうを下にしていた。灯はその三つを見た。縁の擦れが三つとも同じ向きで、同じ場所から出たものだった。
「一つで一つ」
「話にならん。二つまでだ。三つ落とすのは値切りじゃない」
「じゃあ二つで二つ」
「それは交換だ。俺の取り分が零になる」
「交換でいい」
布の端が持ち上がる。輪が三つ、灯のほうへ滑ってきて、途中で止まった。
「持ってるのか。輪」
鞄の内側のポケットに、輪が一つ入れてある。夏の終わりから十五か月、動かさずにいた。灯はそれを出した。
キリの指が受け取る。かざした先は明かりだった。
「一つしかないな。二つの値に一つ足りん。足りんぶんは冬の値で埋める」
「じゃあ一つで、三つ」
「一つで、一つだ」
「さっき三つで二つって言った」
「言った。その二つは灯が出す二つだ。一つに三つは行かん」
布の上の三つが、まとめて灯の側へ来た。入れ替わりに、灯の一つがキリの箱へ落ちる。
「三つ持っていけ。冬は誰も金物を買わん」
「一つで三つになった」
「なってない。一つで二つだ。日が動かんでも、客は冬に減るに決まってるだろ」
「さっき、夏なら三つで輪三つって言った」
「夏は三つで冬は二つ。俺が一つ下げた勘定になる」
「下げたって言えばいいのに」
「言うと次から下げられん。下げた値が、次の日から一つの値だ」
灯は三つをポケットへ入れた。残るのは三つで、夏の終わりより二つ多い。布が下へたるんで、鞄の底に当たった。
「東で札を見た」
「見たか」
「丸が三つ焼いてあった」
「三の組だ」
「あそこで拾ったら、どうなる」
「取られる。拾った物と、その日のぶんを全部だ。三軒目から先は、そういう決まりになってる」
台の金物を、キリは種類ごとに一度ずつ触っていく。それから石の位置を直した。いちばん小さい一つだけ、そのままにしてある。
*
たたむ手つきは、夏に見たのと同じだった。板二枚と脚四本を、キリは三回に分けて運ぶ。灯は板の薄いほうを持った。手に載せると、思っていたより軽く感じられた。軽いのに端が下がるので、両手を離して持たなければならなかった。
「重い?」
「思ってたより軽い」
「なら二枚持て。二枚で一往復ぶん減る。四回が三回だ」
「持たない」
運んだ先は坂の途中で、石を積んで囲ってあった。囲いの内側へ板を寝かせ、上から布を掛けた。そのあと、キリは四隅を石で押さえた。掛けた形は、工事現場の囲いに渡した布に似ていた。四隅を押さえるまで、真ん中が浮いていた。
「毎日ここに置いてるの」
「置いてない。今日はここで、昨日は南だ。その前は覚えてない」
「覚えてないの」
「覚えてたら、次もそこへ置く。三日で三度も同じ場所になる」
灯は囲いの石を数えた。十一。上の三つは乗せてあるだけ。組合の男の布には結び目に印があった。ここに印は無い。
「札、立てないの」
「立てん。取られる相手が零だ。零に札を立てる奴はいない」
「立てたら取られないのに」
「立てた日から一人ずつ増える」
キリは布の端を引いて、皺を一度だけ伸ばした。それでも、真ん中のところは元に戻る。二度目は伸ばさなかった。
囲いの横に、去年は無かったものがあった。杭が一本。頭は平らで、何も焼いていなかった。
「これ、去年は無かった」
「杭だ」
「札を刺すための?」
「刺すなら、もう刺してる。打ったのは三年前だ」
灯は杭の頭に手のひらを乗せた。木は冷たくない。押しても少しも動かなかった。深く入っていた。
「何年も置いとくの」
「置いとく」
「その間に誰かが刺したら」
「刺した奴のになる」
「じゃあ意味ない」
「意味が出るまで置いとくと言った」
灯は手を離した。手のひらに木の粉が薄く付いていて、指でこすると落ちた。残ったぶんは、コートの裾でこすった。
坂を上り返した。上りは灯のほうが速い。キリは遅れなかった。歩幅が違うので、灯の三歩がキリの二歩に当たっていた。灯は数えようとして、途中でやめた。
四つ角へ出ると、日はさっきと同じ高さに在った。
「二十八。今日の歳」
灯が言った。キリは歩きながら顔だけ動かした。
「歳か。知らん。数えてない」
「夏は二十四だった」
「灯が数えてるなら、それでいい」
灯は指を折った。親指から順に、内側へ倒す。四本まで折って、そこで止めた。
「四日ぶん。夏から今日まで、四日だけ来なかった」
キリは指を折らなかった。
「四つとも覚えてる」
「言ってみろ」
「十月の、熱が出た日。三十九度あった」
「一年ぶんの熱だな」
「そういう意味じゃない」
「同じだ。熱でも雨でも一年だ。三十九度でも一度でも一年になる」
灯は二本目の指を見た。折ったままの指の関節に、鞄の持ち手の跡が付いていた。
「三月。卒業式」
「なんだそれ」
「学校が終わって、次のが始まる日」
「なら終わってない。終わりが一日、始まりが一日、間が二百日だ」
灯は三本目を言う。
「四月。入学式」
「それも一日か」
「うん。間が学校になる」
「一日で始まって一日で終わるなら、式のほうは要らん」
灯は笑いそうになって、口の内側を噛んだ。噛んでから、四本目の指を見た。四本目だけ、言うのに間が空いた。
「十一月。日は覚えてない」
「何があった」
「家にいた」
「病気か」
「あたしじゃない」
キリはそれ以上聞かなかった。灯は四本目の指をそのままにして、残りの指を握る。握ると、四本目だけが手のひらに触れない。空いたところに、鞄の持ち手の跡がもう一本、細く重なっていた。
顔を上げると、キリは道の先を見ていた。灯もそちらを見る。北の道の入口に、また札が立っていた。丸は二つ。
「あれも組合」
「二の組だ」
「四つあるの」
「五つだ。五の組は西の坂から先で、拾う物が零になる。人も零だ」
灯は北の札の焼け方を見た。丸は縦に二つ。東の三つは横に並んでいた。向きが組で決まっているのか、押した者で違うのかは分からない。
「零のところに組があるの」
「零だから安い。取っておくのに輪が一つも要らん」
灯は歩きながら、キリの腕を見た。布は巻いていない。袖の先の糸が二本、外へ出ているだけだった。
「キリのは、どの組」
「無い。五つとも無い」
「なんで入らないの。四つも在るのに」
「入ったら四本が一本だ。拾える道が四分の一になる」
「じゃあ入らなくていいじゃん」
「入らんほうが高くつく」
「どっちなの、それ」
「両方だ」
灯は口の内側をもう一度噛んだ。それから鞄の持ち手を、右手から左手へ持ち替える。持ち替えると、輪の三つが内側で寄る音がした。
四つ角の真ん中で、キリが立ち止まった。立ち止まって、灯の鞄を見た。今日、鞄を見られたのは二度目だった。
「その袋、前のと違うな」
「鞄。四月に変わった」
「学校が変わると袋も変わるのか」
「そういうことになってる」
「知らないのに変えたのか」
「変えた」
キリは鞄の口のところを指した。金具が二つ付いていて、片方は上げると開く。もう片方は下げると開いた。造りが逆に付いていた。
「これは失敗だな」
「あたしが作ったんじゃない」
「作った奴に言え」
「知らないって言ったじゃん」
「知らん奴に言え」
灯は金具を上げて、下げた。二度やってから、手を離した。上げるほうの金具だけ、指の腹に跡が残る。
西の道へ入ると、風が変わった。四つ角より少し重たい。冷たくはなくて、地下の通路とは別の重さだった。灯はコートの襟を触った。そこは温かくも冷たくもない。
道の左側に、屋根の低い家が並んでいた。四軒目のところで、キリが道の端へ寄った。灯も寄った。前から荷を担いだ男が二人来て、通り過ぎるまで壁のほうを向いていた。二人とも腕に布を巻いていた。丸は一つずつだった。
「腕の布、一の組」
「近道だな」
「怒られないの」
「歩くのは誰でもいい。拾ったら怒られる」
「歩きながら拾ったら」
「歩くのをやめた時に拾ったことになる」
「じゃあ歩きながら拾えば」
「拾えるか、やってみろ」
灯は三歩だけ、目を下へ向けて歩いた。土の上に落ちている物は無かった。四歩目で顔を上げる。
「三歩ぶん見たけど、何も無かった」
「無いところで練習しても、うまくならん」
言われてから、灯はもう三歩だけ下を向いた。その先に、布の端が出ていた。引くと思ったより長い。灯はそれを押し戻した。
一の組が何人いるのかを聞くと、キリは知らんと答えた。五の組は零だという。人がいると割れるので、零のまま残る。教室では人が減ると班が潰れた。
灯は二人の背中を見た。荷は同じ高さまで積んであって、後ろの一人だけ結び目が横へ寄っていた。
道の先に、板を渡した小さな橋があった。下は水ではなく、乾いた溝。溝の底に布の切れ端がいくつか溜まっていた。灯は橋の上で足を止めて、下を見た。
「あれは、誰の」
「溝に落ちた物は組合の外だ」
「じゃあ拾える」
「拾えるが拾わん。取りに下りるぶんのほうが高くつく」
灯は溝の深さを目で測った。灯の背の一つぶんと、少し。二人でやれば半分だと言うと、キリは二人ぶんだと言い直した。
灯は橋を渡り終えてから、もう一度振り返った。溝の布は、風では動いていなかった。底のところが湿っていた。
西の道の、市の広場の手前に、戸の低い店があった。看板は無い。出ていないのに、そこが店だと分かるのは、戸の前の土だけ固く踏まれているからだった。人が立ち止まる場所は、土の色が違っていた。
キリは戸の前で足を止めなかった。止まらずに、戸の横の壁へ背中を付けた。
「入れ」
「一緒に入らないの」
「入ると値が上がる」
キリは壁から背中を離さないで言った。声は戸の内側まで届く高さではない。灯は一歩だけ戻って、聞き返す位置に立ち直した。
「なんで上がるの」
「俺が横にいると、あいつは高く言う」
「じゃあいつも高く買ってるの」
「いつもは俺が買わん」
灯は戸に手を掛けて、そこで止めた。
「二十八って、聞いたら怒る」
「誰が」
「キリが。さっき知らんって言ったから」
「怒らん。数だ。数で怒る奴は、数が合ってない時だけだ」
灯はキリをもう一度見た。壁に背中を付けて、腕を組んでいた。腕の布を巻いていなかった。むき出しの腕は、夏より太く見えた。
戸を押すと、内側で木がこすれた。途中で一度引っかかって、その先は軽い。
*
明るさは前のまま。
台の上の布に、物が並べられていた。灯は数えた。十六。夏の終わりに来た時は九だった。増えたぶんは布と紐で、木のものは夏から動いていなかった。
壁の棚は四段のままで、箱は三十二。夏と同じ数だった。下の二段だけ角が丸くなっていた。
匂いの順が入れ替わっていた。
夏は乾いた紙が先で、甘いものは最後に来た。今日は甘いほうが先に立つ。紙のほうは奥へ下がる。灯は鼻から長く吸って、そこでやめた。吸ったぶんが喉の奥に残る。
台の向こうでメノが膝を一つ立てていた。座り方は夏と変わらない。灯が入っても顔を上げなかった。
外の光が戸の幅だけ床へ入り、板の目に沿って伸びていた。灯の影は、その光の右の縁に沿って落ちた。灯が立つと、その光の半分が消えた。灯は半歩だけ横へ寄って、光を戻した。
「久しぶり」
「四日ぶりだ」
灯は台の前で止まった。
「四日じゃない。夏から来てない」
メノが指を四本立てる。そのうち二本だけを折った。そこで手を下ろす。何を数えたのかは言わなかった。
「メノも数えてるの。誰かに聞いた?」
「数えてない。拾い屋に聞いた」
左の端に皿があった。菓子は二つ。夏に来た二度は、一度目が七つで、二度目が三つ。はじめから二つの日は初めてだった。
「菓子、いくつある」
「二つ。一つは私の」
「じゃあ一つ」
「一つは売らない」
「売らないほうがあたしの」
「そっちが私のだ」
灯は皿の縁に指を掛けて、少しだけ自分のほうへ回した。回すと、二つの菓子の位置が入れ替わる。
「回した」
「回しても、私のは私の」
「どっちが」
メノの目が皿へ落ちて、それから灯へ来た。見るために少しだけ顎を引く。
「右だ」
「さっき左だった」
「回したのはそっちだ」
灯は輪を一つ、台の上へ置いた。置いてから、指を離さない。輪の縁が布の目へ半分だけ沈んで、そこで止まる。メノは輪を見ないで、灯の指のほうを見ていた。
「一つで、一つ」
「一つで、半分」
「半分は割るってこと」
「割らない。半分の日に来い」
輪は台の上で少しも転がらなかった。布の目に入って止まっていた。
メノは輪を取らずに、皿の右の菓子を灯のほうへ押した。押してから、自分の口へは左のほう。噛む音は歯のあいだで止まって、外へ出てこなかった。飲み込んでから、メノは輪を箱へ落とした。箱の底に先に入っていた輪へ当たって、二つが同じ高さで止まる。
「二つとも食べた」
「一つは私のだと言った」
「言ったけど、二つ食べた」
「二つ目は輪のぶん」
「一つで一つって言ったのに」
「そっちが言った。私は言ってない」
灯は笑った。声が出てから、出たことに気づいた。メノは膝を立てたまま、口の端を動かさずにこちらを見ていた。見ているだけで、何も言わない。
「はじめから二つは初めて」
「数えてるのか」
「七つの日と、三つの日があった」
「七つの日は一度だけだ」
「七つの日は覚えてる」
「そっちが覚えてるなら要らない」
灯は皿の縁の線へ目を落とした。細い線が一本、縁を回っていた。途切れているところは一か所で、夏に来た時と同じ場所だった。
灯は菓子を口へ入れた。噛むと、外の縁のところだけ固い。焼いた時に鍋の縁へ当たったぶんだった。甘さは奥のほうに残って、舌の付け根で一度濃くなった。
右手の指を、灯は台の下で四本折ってみた。すぐ折れたのは三本。四本目のところで、手の内側に隙間が残った。十一月のあの日、母は昼まで家にいた。灯もいた。台所の板戸は閉まっていて、開けなかったのは灯のほうになる。
外で、キリが壁から離れる音がした。離れただけで、入ってはこない。
「あの人、外にいる」
「知ってる」
「入らないの」
「入ると高く言う」
「本人もそう言ってた」
「合ってる」
「ここ、冬は人が来るの」
「来ない」
メノが膝を立て直した。立て直したぶんだけ、皿が台の縁へ寄っていた。
「じゃあ何で開けてるの」
「閉めると開けるのが面倒」
灯は台の上の十六を、左から順に見た。布が六枚と、紐が四本と、金物が四つ。木のものが二つ。この二つは夏から一度も減っていなかった。畳み方は六枚とも同じで、角を合わせてから二回折ってあった。
「これ、誰が畳んだ」
「私。同じだと数えやすい」
「あたしも同じにする」
「そっちは畳まない。書くほう」
灯は手を止めた。メノは布の一枚を裏返した。裏の面は表より色が濃い。
棚の前の床に、箱を下ろした跡が四角く残っていた。跡は二つで、片方だけ縁が新しい。
灯は棚のほうへ歩いた。下から二段目の箱に、字を並べてあった。灯の知らない書き方で、線の向きは縦と横だけ。丸いところは一つも見あたらない。夏に来た時も読めなかった。今日も読めない。
ただ、箱の一つに、前には無かったものが付いていた。
木の札だった。四つ角で灯が名前を書く木の札と、同じ大きさで、同じところに穴が開いていた。穴に縄が通っていて、箱の把手に結んであった。札の面には字が二つ。
灯は顔を近づけた。
二つのうち、上の一つが薄い。
下の一つは濃い。同じ濃さで書かれたはずの二つが、上だけ薄かった。紙ではなく木で、こすった跡も残っていなかった。指を当ててみると、溝は二つとも同じ深さで残っていた。
札の上の縁に、細かい欠けが並んでいた。数えると六つ。刺したり抜いたりした札ではない。ぶら下げたままの札の欠け方だった。
「これ」
「触るな」
「触ってない」
「触ろうとした」
灯は指を引いた。指の跡のところに、目のほうが残った。薄いほうの字の、上の横の線だけが特に薄い。線の始まりのところは残っていて、終わりのほうが消えかけていた。
「書き直せば」
メノは答えなかった。
答えないまま、箱の向きを変えた。札は箱の裏側へ回り、見えなくなった。灯の側に残ったのは、箱の角の擦れたところだけだった。
戸が押し開けられた。
「終わったか」
入ってきたのはキリ。台の前で止まる。皿の上は空だった。
「二つとも食べられた」
「そりゃそうだ」
「そりゃそうって、なに」
「一つで一つと言ったんだろ。あいつは半分と言った。半分をのんだら二つ取られる」
灯はメノを見た。メノは膝を立て直して、こちらを見ない。立て直した膝の上で、布の一枚が畳んだ形のまま横へずれる。ずれたぶんをメノは戻さなかった。
キリは棚のほうを見なかった。戸のほうへ体を向ける。
灯は戸のところで、もう一度だけ棚を見た。箱の向きは変わったままで、札は裏に回っていた。縄の端だけが、把手の横から出ていた。
「また来る」
「来る」
メノは顔を上げない。皿だけが台の下へ下りた。
戸の外の土は、入る時より固く踏まれている。灯が立っていたところだけ、跡が二つ重なって残っていた。
外は、入る前より暗くなっていた。日は同じ高さに在るのに、道の色だけが濃い。灯はコートの前を留めた。それから指だけを鞄へ入れて、輪を数える。二つ。持ってきた一つはキリの箱で、もらった三つのうち一つはメノの箱にある。
「西の坂から先って、ほんとに何も無いの」
「行ったのか」
「行ってない」
「なら無い。在っても五の組のだ」
「誰も行かないのに」
「行かないから、誰のでもある」
「メノの棚の、箱に結んであった札。上の字だけ薄かった」
「知らん」
キリは歩く速さを変えなかった。
「木は減る」
「減ったんじゃない。減ったら溝も浅くなる」
「溝は」
「二つとも同じ深さだった」
キリは何も言わなかった。三歩ぶん黙って、それから灯の鞄のほうへ手を出した。灯は鞄を体の反対側へ回した。
「何する気」
「輪だ。二つ残ってるだろ。三つもらって、一つ置いてきた」
「さっき渡してくれた」
「渡した値と、いま持ってる値は別だ。冬は一日で一つ動く」
「言い直さない」
灯は歩く速さを上げた。上げると、キリも上げる。三歩がまた二歩に戻る。
「一つ返せば、教えてやる」
「何を教えるの」
「札の値だ」
「べつに知りたくない」
「知りたい顔をしてる」
橋の上で、灯は下を見た。溝の布は来る時と同じ場所にあった。動いていない。
灯は鞄へ手を入れた。二つのうちの一つを、指で分けて取り出す。何も言わずに、キリの手のほうへ置いた。
キリはそれを箱へ入れた。日へかざしもしない。
「名前の付いてる物には、誰も手を出さん」
「なんで」
「返す先が決まってる」
キリの目は橋の向こうにある。それから、先に渡っていった。
灯は袖を鼻へ近づけた。甘い匂いが残っていた。紙とほこりのほうは、もう付いていなかった。
ポケットの中で、布に沈んだ輪が一つ。四本目の指の腹が、その縁に当たった。




