第024話 元気だった?
業者の車が出ていったあとの通路は、前より広く見えた。
棚は右が空になっていた。左に残ったのは四十二本。処分の日に掛からないぶんになる。右だけが板の色をそのまま出していて、下から二番目の段の真ん中が、灯の目の高さより少し下で落ちていた。板がたわんだところは、傘が無くなっても落ちたままだった。
灯は下から二番目の段の前に立った。手のひらを板へ置く。板は乾いていて、朝に拭いた水はもう残っていない。押すと、真ん中がわずかに沈む。指を離した。沈んだぶんが戻るのに、少し時間が掛かっていた。
右の棚で空いたのは、上から三段目までの三段。四段目だけ、奥に丸い跡が三つ並んでいた。柄の先が長く当たっていたところだけ、板の色が濃く残った。跡と跡の間は、どれも同じ幅ではない。
灯は指で跡の一つをなぞった。円の縁のところで、指が段になったところを越えた。板が削れているのではなく、周りのほうが薄く削れていた。跡の内側は、そこだけ高い。
通路の電球は、手前の二つが点いていた。三つ目は今日も消えたままだった。四つ目のかさの内側は、朝に見た時より黒が広がって見えた。広がったように見えるだけかもしれない。灯は下から見上げて、目を戻した。
川辺さんは窓口の内側で紙を数えていた。指の使い方は朝と同じで、親指の腹を当てていた。灯が通っても顔を上げなかった。
窓口の板の上には、何も載っていなかった。
昼のうちに灯が端まで滑らせた白い札は、そこに無い。誰かが片付けていた。板の木目に、札の角が触れていた線が一本だけ薄く残っていた。灯はその線に指を当てて、端から端まで滑らせた。指の先には何も付かなかった。
机の下を見ると、箱が二つ入っていた。上の箱に、抜いた番号の札が二百三十枚。下の箱に、書かなかった白い札が二十六枚。二つの箱の縁の高さは、上のほうが低かった。
祖母の姿は無い。
灯は通路の奥のほうへ体を向けた。
棚の終わりの壁に、縦の線が二本、上から下まで通っていた。取っ手は上の半分だけが光って、下の半分は曇った。灯はそこまで歩いた。数えると十四歩。
取っ手の前で、灯は手を上げた。触らないまま、また下ろした。
この扉の向こうが、いま何時ごろなのかを灯は知らない。夏の間、開けた時の向こう側は昼だったり夕方だったりした。夜だったことは一度も無かった。
線のところに指を当てる。板は冷たかった。二本の線の間は、灯の手のひらの幅より少し広い。指を入れると、第一関節までが影の中へ入った。奥から空気は動いてこない。
灯は手を離して、後ろへ二歩下がった。そこから、扉の上の縁が見える。縁の高さは、灯の頭より三十センチほど上。
この夏の間、この扉を開けた回数を、灯は覚えていた。数える必要は無い。
灯は数えなかった。
扉の下の縁と床の間に、隙間が空いていた。幅は灯の小指の半分ほど。灯はしゃがんで、そこを見た。向こう側から光は出ていない。手のひらをかざしても、動く空気は当たらなかった。
立ち上がる時に、膝が板の音を鳴らした。音は通路の奥のほうへ行って、戻ってこなかった。
鞄のひもを左の肩へ掛けて、灯は通路を引き返した。来た時と同じに、下から二番目の段の前を通る。落ちたままなのは、板の同じ場所。
外の傘立ては金物で、朝に灯が入れた時は三本だった。
灯は自分のを抜いた。残るのは二本。手を引いた拍子に、隣の一本の柄が内へ倒れかけて、途中で止まった。柄が当たったのは、傘立ての枠の内側の縁。
外は明るかった。日は屋根の上にまだあって、影は東へ長い。センターの前の通りに出るまで二十二歩。歩数は棚の端から端までと同じで、灯は数えるつもりが無いのに数えてしまった。
角の煙草屋の看板は、朝と同じ角度で傾いていた。信号の下の草は、朝より深い倒れ方。誰かが自転車で乗り上げた跡が、根元のところに残っていた。倒れた草の下から出ているのは、乾いた土。
灯は傘を右手に持って歩いた。柄の先が地面に触れないように、少し上げた。そのまま歩くと、腕の内側が疲れてきた。
途中で持ち替えた。すると、柄の内側の名前が自分のほうを向いた。
字は消えていない。祖母が書いた字で、角が丸い。灯は歩きながら、その二文字を親指でこすった。こすっても薄くならなかった。
二百三十本のうち、名前の欄に字の入っていたのは十四本になる。灯はその全部を覚えた。棚から出ていって、台車に載って、通路の先の角を曲がるところまで見ている。
橋の上で、灯は止まった。欄干のところに背の低い柵が付いていて、その隙間から下が見える。人が三人、橋の反対の側を歩いていた。三人とも同じ方向を向いている。
灯は線路の敷石を見た。石の色は、レールの下だけが黒い。油と鉄の匂いが上がってきた。あちらの積み場には、この二つとも無い。あそこに在るのは土と布のほうだ。
下から電車の音が来た。音は上がってくるのに、姿は見えない。線路は川と並んで、橋の下をくぐっていた。音が細くなってから、灯は歩き出した。渡り終わるまでに、向こう側の三人とすれ違う。どの顔も知らなかった。
灯は角を曲がった。ここから家までは、まだ六百歩ぶん残っている。
小学校の裏の塀に沿って歩いた。塀の内側の木で、セミが二匹鳴いていた。二匹は同じ間で鳴いて、途中から片方だけが遅れた。
塀の切れ目から運動場が見えた。人の姿は無い。白い線が消えかけていて、直線のところだけが土に残っていた。二学期の練習で引き直すことになっていた。曲がっている線は、もうどこにも見えない。
鳴いていたセミが途中でやめた。やめると、灯の靴の音だけになった。
戸を下ろしていたのは、商店街の入口の半分。八百屋の前にだけ、台がまだ出してあった。台の上の箱は三つで、どれも中身が半分より減っていた。店の人は箱の並びを直していた。三つ目を動かすと、一つ目がまた斜めになった。
灯はその前を通った。土のついた根の匂いがした。あちらの積み場に、そこだけ近い。灯は足を止めなかった。
自転車置き場の前を通った。前かごに丸めた紙が入ったままの一台は、まだ同じ場所に立っていた。七月に見た時より増えたのは、かごの底の土。紙のほうは色が抜けて、丸めた形だけが残っていた。
灯はその横を通り過ぎた。速さは同じままにした。
家の玄関の戸は開いていた。
三和土に出ているのは、母の仕事の靴。かかとの内側だけがすり減っている。母は勤めに出る前に、必ずここで靴の向きを直す。今日はもう直してあった。
灯は自分の傘を傘立てへ戻した。三本になる。
いちばん奥の一本は動いていない。柄のほこりに、去年の春に灯が指でなぞった線がまだ残っていた。線の中だけ色が濃く残っていた。灯はその上をもう一度なぞらなかった。
台所には電気が点いていた。
母は流しの前に立って、弁当の入れ物へ蓋をしていた。動いているのは手だけ。顔は窓のほうを向いている。窓の下の勤め表は、朝と同じところで開いたままになっていた。
「おかえり。ごはん炊けてるから、自分でよそって」
「うん、分かった」
「今日で終わりだったね、あそこ。ばあちゃんは遅くなるって」
母は蓋の縁を親指で押した。先のほうが一度浮いて、指の下で収まった。
「あんた、この夏ずっとあそこ行ってたよね」
「毎日じゃない。行かない日もあった」
「二学期入ったら、平日は行かないよね」
「平日は行かないと思う」
灯は母の背中を見た。母はこちらを見なかった。窓のほうを向いたまま、袋の口を持ち上げていた。
灯は鞄を床へ下ろした。中身が底の片側へ寄る音。
「ばあちゃん、何時ごろ」
「分かんない。十時は回ると思う。先に食べてて」
母は蓋を押さえて、袋へ入れた。袋の口を二度折る。折り方はいつも同じで、二度目は左から折った。
「宿題は? 明日出すやつ、もう出せる形になってる?」
「終わった。工作も出せる」
「ならいい。今日は早番だから、朝には帰る」
母は袋を持ち上げた。空いた手で流しの上の棚を開けて、小皿を一つ下ろした。中身は小銭。
「これ、朝ごはんのぶん。パンでも買っておいで」
「分かった。パン買っとく」
「ばあちゃん帰ってきたら、玄関の電気だけ点けといて」
「点けとく。忘れないと思う」
母はそのまま玄関へ行った。靴を履く音がして、それから戸が閉まった。閉じきる前に、外の空気が台所まで来た。夕方の空気は、朝より重く感じられた。
灯は流しの前へ行った。母の使った布巾が縁に掛かっている。畳み方は二つ折りになっていた。指で触ると湿りが残っていて、真ん中だけ冷たかった。
*
冷蔵庫を開けると、中の電気で足元が明るくなった。
上の段に器が二つ並んでいた。片方は煮たもので、片方は卵焼き。焼いたほうは四切れ入っていて、切り口の色が端だけ濃い。焼いた時に鍋の縁へ当たったぶんだった。
灯は器を二つとも出して、机へ並べた。
茶わんにごはんをよそう。しゃもじの先が釜の底へ当たって、低い音を出した。灯は二杯目もよそった。
台所の匂いは、煮たもののしょうゆと、炊飯器から上がる湯気だった。家のほうは八月の間変わっていない。灯は椅子に座って、器の縁へ箸を置いた。
椅子は四つある。母のと、祖母のと、灯のと、余った一つ。余ったほうには、去年から古新聞が載っている。積んだ高さは灯の膝より下。この夏、誰も動かさなかった。
煮たものは冷たかった。そのままで口へ運んだ。卵焼きは端の濃いところから先に食べて、真ん中だけを皿に置く。最後の一口はそこへ残しておく。順は前からそうなっていた。
窓の下の勤め表を、灯は座ったまま見た。八月の丸は、月の後ろのほうへ固まって並んだ。二十七日のところにも丸が付いていた。あの日、灯は家にいた。そのことだけを覚えている。
九月の欄はまだ白い。母は月の変わる前の日に書き込む。今年は、朝に帰ってから書くことになる。
食べ終わって、灯は器を流しへ持っていった。水を出して、指で二度なでた。洗剤は使わなかった。母が帰ってからまとめて洗う日もある。今日は間の日になった。
器を伏せると、朝に伏せてあった湯のみの横に並んだ。三つとも伏せた向きがそろった。灯は一つだけ少し動かして、縁の重なりを外した。
電話が鳴った。
鳴り方は二度で切れて、三度目でまた鳴りはじめた。家の電話がこの時間に鳴るのは、たいてい千夏か、母の勤め先のどちらかになる。
灯は立って、廊下の電話まで行った。受話器は左手で取った。右手は空けておく癖がついていた。
「はい」
「あ、あかり? あたし。明日の始業式、上履きって持ってく?」
千夏の声。後ろで水の音がしていた。
「持って帰った。洗ってもらった」
「あたし置きっぱなしだ。終業式の日に出してない」
「あるなら、それを明日そのまま履けばいい」
「そうなるよね。じゃあそうする。ありがと」
千夏はそこで少し黙った。向こうの水の音が消えた。
「あかり、この夏なんかしてた? あんまり会わなかったよね」
灯は受話器を持ち替えなかった。廊下の電気は点けていない。台所からの明かりだけが、足元まで届いていた。
「別に。ばあちゃんのとこ行ってた」
「あー、あの傘いっぱいあるとこ。前に話してくれたよね」
「写真は撮ってない」
「じゃあ話だけか。でも覚えてる。二百なんとか本でしょ」
「二百三十本あった」
「それ。すごい数だよね。誰が取りに来るんだろ」
灯は答えなかった。
千夏はそのまま次の話へ行った。続けて出たのは、席替えと体育の見学。灯は「うん」を四回言った。最後の一つだけが短かった。
「じゃあ明日ね。遅刻しないでよ」
「うん。また明日」
「あ、待って。絵の宿題やった? 何描いたか教えて」
「傘」
「傘? 何本」
「一本だけ描いた」
「そっか。あたし花にする。今から描くなら花しかない」
電話が切れた。
灯は受話器を掛ける。その拍子に、台のほうが少し動いた。台の下に紙が挟んであって、そこが前より薄くなっていた。灯は指を入れて、紙の端をもう一枚ぶん奥へ送った。台は同じだけ傾いたままでいた。
受話器の下の台に、灯は手のひらを置いた。木の台で、電話の重さのぶんだけ真ん中が沈む。指を離しても、沈んだところは上がってこなかった。
廊下は暗かった。灯はそこにしばらく立っていた。台所の明かりの届く先は、廊下の板の三枚目まで。その先は、暗さが同じ濃さで続く。
壁の上のほうに、去年のカレンダーが掛かったままになっていた。八月のところで開いていた。灯はこの夏、その下を何度も通り過ぎた。留めてある釘は上の一本だけで、下は止めていない。日の当たる時間に、そこだけ紙が反った。
去年の八月の数字の並びを、灯は下から見上げた。三十一日は右から二つ目の列にある。今年の同じ数字は、そこには無い。並びの下のほうが、一段ぶんずれていた。
電話台の下の紙を、灯はもう一度指で押した。紙は四つに折ってあって、角がすり切れていた。字が書いてあるかどうかは、抜かないと分からない。灯は抜かなかった。
壁の時計が八時を回っていた。長い針は四のところ。針の音は、廊下だと台所より大きく聞こえた。
自分の部屋へ入って、灯は電気を点けた。
机の上に袋が一つ載っていた。十日前に鞄へ入れて、そのまま持ち歩いて、また机へ戻した。袋の口のテープは、端が完全にはがれていた。
灯は袋を指で開けた。口を広げて、中を見た。
粒は袋の底の片側へ寄っていた。上のほうの三つだけ、白い片面が見えている。指で触ると乾いていた。三日ぶんの湿りは、こちらへ戻ってから抜けたらしかった。
灯は袋の口を折り直した。折って、机の引き出しへ入れた。今日は渡さない。明日のことは決めなかった。ただ引き出しを閉めた。
引き出しの中に、四月のノートと名札。名札の裏の金具は、閉じたまま一つ曲がっていた。向きは去年と同じ。
灯は四月のノートを出した。一枚目を開けた。日付が四つ。七月二十四日、七月二十六日、八月十二日、八月二十一日。四月にもらってから、灯が書いたのはこれだけだった。八月二十一日の横の十は、書いた時から動いていない。
白いところへ、灯は指を置いた。紙は少しざらついていた。指を離して、ノートを閉じて、引き出しへ戻した。
灯は窓の外へ目を移した。物干しに下がったままの洗濯ばさみが六個。挟んでいるものは無かった。風で二つだけ、同じ向きへ振れた。傾いた二つの間は、灯の指の三本ぶんほどの幅。
灯は鞄を膝の上へ載せた。ひもの付け根のところが、この夏でほつれていた。糸が二本、外へ出ていた。灯は出た糸を指で内側へ入れた。二本とも、指を離すと同じ長さで顔を出す。
底に土が付いていた。指でつまむと粉になった。粉は指の腹で灰色に伸びて、こちらの土より細かい。灯はその指を、机の上の紙で拭かなかった。服の横でこすった。
鞄の中から、四つ角で名前を書いた紙を出した。
机の上で開いた。折り目が三本。名前は十四のまま。灯は上から順に読んで、読み終わってからもう一度、下から上へ読んだ。順を変えても数は変わらない。
折り目のところで薄くなっている字は、七月に書いたぶんだった。八月に書いたぶんは、まだどれも濃い。濃さの差は、下から二行目のところで急に変わっていた。
紙の下に、筆箱を置いた。蓋はつぶれた側から先に開ける。
中の鉛筆は二本。昨日ここで三度削ったほうの先が、もう一本より低くなっていた。その横に、二枚に裂けた厚い紙が横に並んでいた。重ねてはいない。灯は二枚を出して、机の上で合わせようとして、途中でやめた。
合わせなくても、裂け目の形は覚えていた。
二枚を筆箱へ入れた。今度も重ねずに並べる。鞄の底のほうでは、輪が一つ、内側の布へ当たっていた。指を入れて位置を直すと、金は冷たいままでいた。
机の端に、漢字ドリルが伏せてあった。灯はそれを開かなかった。四枚目と五枚目の上の欄に自分の名前が入っていることは、開かなくても分かる。
紙と筆箱を、灯は鞄へ入れた。紙のほうが先で、筆箱があと。入れる順は、この夏の間ずっと同じだった。
電気のひもを引く時に、指が二度すべった。三度目で引けた。部屋が暗くなると、窓の外の物干しの形だけが残る。物干しの向こうは隣の家の壁で、そこにも明かりは無い。
畳の目に足の裏が当たる。目は縦に通っていて、こするとそこだけ乾いた音を返した。
灯は少しの間、暗いまま立っていた。目が慣れてくると、机の角の線が見えた。次に、鞄の口の形も出てきた。鞄は椅子の上に置いてあった。明日はそれを持って学校へ行くことになる。
灯は廊下へ出た。
風呂の湯はわいていた。母が出る前に落としていったのだと分かる。湯の面に、天井から落ちた水の輪が三つ広がった。輪は縁のところで消えた。
灯は肩まで入って、そのまま数えた。目で追ったのは天井の板の継ぎ目で、四本あった。あちらの部屋の天井は三本で、真ん中が太かった。ここのは四本とも同じ太さ。
出て、髪を拭いて、台所の時計を見た。九時四十分。髪の先はまだ湿っていて、首の後ろのところだけ冷たかった。
玄関の電気を点けた。三和土の母の靴の向きは、朝から変わっていなかった。灯は麦茶を一杯だけ注いで、椅子に座った。
*
十時を十五分過ぎたところで、玄関の戸が開いた。
灯は器を持ったままでいた。持ったまま、廊下のほうを見る。廊下の電気は点けていない。玄関のところだけが、点けておいた電気で明るくなっていた。
戸の開く音のあとに、鍵を置く音が続いた。玄関の棚の上が、祖母の決めた場所になる。右の端で、母のほうは左へ置いた。二つの間は空いたままになった。
灯は台所の時計を見た。十時十五分。母の言った「十時は回る」の内側におさまっていた。
祖母は靴を脱いで、向きを直した。そのあと、三和土を一度見下ろす。母の靴と自分の靴の間が、指の二本ぶんほど空いていた。祖母はその間を詰めなかった。
二つの間を、灯は目で測った。指の二本ぶんというのは、灯の指で測った幅のこと。祖母の指なら、たぶん一本半になった。
灯は器を置いて、廊下へ出た。
「おかえり」
祖母が顔を上げる。灯を見て、それから傘立てのほうへ目を移した。
上着は腕へ掛けたままになっていた。そこからは外の匂いがした。夜の道と、それに地下の通路のものが混ざっている。同じ匂いが、灯の服にも付く日がある。
鞄は三和土の端。口は閉じてあった。横のところが四角く張っていて、張っている幅は灯の手のひらの二つぶんほどになる。中身の形が外へ出ていた。灯はその四角を目で追って、途中で目を上げた。
祖母は傘立ての前で足を止めた。持っていた一本を、いちばん奥へ入れる。
四本になった。母のと、灯のと、父のと、祖母のと。
「傘は、しまった?」
「しまった。傘立てに戻した」
傘立ての上へ、祖母の手が伸びた。届いた先は、灯の傘の柄。
朝と同じ形だった。指を柄の上へ回して、一度だけ包む。ただし今は朝ではない。灯は八月の間、祖母がこれを夜にするのを一度も見ていない。
包んだ手は、すぐには離れなかった。朝は灯が靴を履く間で終わる。今日はそれより先まで続いた。
親指の腹が、柄の内側に当たっていた。名前の書いてある側。外からは見えない側でもある。
灯は祖母の手を見た。手首のところに、腕時計の跡が白く残っていた。跡の幅は灯の小指ほどだった。祖母の腕時計を、灯は一度も近くで見たことがなかった。今日は外していた。
甲の骨が三本、皮の下から浮き出た。指の関節のところに、細い横の線が入っていた。線の数は、指によって二本と三本に分かれる。
朝にこれを見る時、灯は靴を履いている途中になる。上から見下ろす形。今は同じ高さで見ていた。同じ高さから見ると、包んだ指の先が柄に触れていないのが分かった。触れているのは親指だけ。
祖母は柄を持ち上げなかった。傘は傘立ての中に立ったままでいた。
手が離れたあと、灯はその一本を見た。柄の向きが、戻した時より少しだけ内へ回っていた。名前の書いてある側が、金物の枠のほうを向いていた。灯は直さなかった。
柄から祖母の手が離れる。それから上着を腕から下ろして、玄関の横の釘へ掛ける。裾が壁に触れて、そこだけ布が浮いた。
台所の電気が、二人の足元まで届いていた。灯は自分の影が廊下の板の上で切れているのを見た。切れているところから先は暗い。
そこから先、祖母は何も足さなかった。灯も何も言わずにいた。
廊下の板は、夜のほうが冷たい。靴下ごしでも、足の裏に温さが移ってこなかった。灯は片足の重心を移した。乗せ替えた先の板が、低い音を一つ出した。
祖母の上着の袖口が、片方だけ内側へ折れていた。右のほう。腕時計を外した手の側だった。灯はそれを直さなかった。
三和土の端で、祖母の靴の先に土が付いていた。乾いた土で、色は灰色に近い。このあたりの土ではない。灯はそれを見て、目を上げた。祖母は靴を見ていなかった。
祖母は洗面所の戸を横へ引いた。下の溝に何か挟まっているらしく、途中で一度重くなる。祖母は押し直さないで、その幅のまま体を入れた。
水の音が出た。音は細かった。全部は開けないで、半分だけひねる開け方になる。
手を洗う時間は長かった。指の間を一本ずつ通す洗い方で、母のより時間がかかる。水を止めてから、祖母は手を二度振った。
灯は台所へ戻って、器をもう一つ出した。麦茶を注いで、机の祖母の側へ置いた。器の下に輪の跡が残った。前に置いた時のもので、拭いた覚えがなかった。注いだ量は、自分のより少なめ。祖母は夜に多く飲まなかった。
置いてから、灯は廊下へ出た。祖母はまだ洗面所の前に立っていた。手を拭いた布を、掛けてあったところへ戻す。端をそろえてから掛けた。端は上と下で一直線。
出てきた祖母は、台所へ入らなかった。
入らずに、灯のほうを向いた。そこで空いたのは、車が一台、外を通り過ぎるだけの間。二人とも動かなかった。
「あの子、待ってる?」
灯は祖母のほうを見た。祖母の口は閉じている。
誰のことか分からなかった。
「誰のことを言ってるの」
言い終わってから、灯は口が開いたままなのに気づいた。閉じた。閉じても、舌の先が上の歯の裏に付いたままだった。
祖母の目が、灯の顔から下りた。下りた先は灯の手で、そこには何も無い。祖母はその手を一つ数えるほど見て、それから目を上げた。
答えないまま、廊下の壁のほうへ体を向けた。壁は腰の高さで板が切り替わっている。上は紙で、下は木。切り替わりの線は、玄関から部屋の戸まで一度も途切れていなかった。
灯はその線を目で追った。追い切った先に、祖母が立っていた。
急に腹が減った。
灯は台所へ入って、朝に残しておいたパンの袋を出した。端を一つちぎって、口へ入れる。乾いていて、飲み込むのに時間が掛かった。
戻ると、祖母はまだ同じところに立っていた。立ち方も変わっていない。片方の足に体を寄せる立ち方で、寄せているのは左のほう。
台所の机の上で、麦茶の器はそのまま。祖母はそこへ行かなかった。器の外側に水の粒が出て、底のところで一本の線になって落ちていた。線の先は机の木に吸われて、丸く広がっていた。
灯はその丸を見た。机の木は、去年より色が濃くなっている。水を吸った跡が何度も重なって、そこだけ縁が波を打っていた。
「ばあちゃん」
祖母がこちらへ顔を戻した。
「今日、棚が空になった」
そこで灯は止めた。二百三十本とも、白い札を付けた十四本とも言わなかった。
祖母は何も言わなかった。代わりに、廊下の電気のひもへ手を伸ばす。指が届いて、引かずに下ろした。台所の明かりで足りる、という手の下ろし方になる。ひもは左右に一度振れて、そこで止まった。
灯はもう一つ言おうとした。口まで出てきたのは、白い札を十四枚書いたことだった。書いた先は棚から出ていって、今日のうちに一本も残っていない。
言わなかった。祖母は札のことを、もう見ている。窓口の内側から、灯の手が動くのは見える。板の内側と外側で、二人は一度も入れ替わらなかった。
廊下の板を、灯は靴下の先で一度こすった。板の目は縦に通っていた。こすると、足の裏に木の筋が当たった。その幅は、指の一本ぶんより狭い。
祖母は動かない。灯のほうも足を動かさなかった。台所の電気の音だけが、二人の頭の上で続いていた。その音は、朝に聞く時より高く聞こえた。
台所の電気は点けたままになっていた。二人のいる廊下までは届いて、その先の暗いところは、さっきと同じ濃さで残っている。
祖母は三和土まで下りて、鞄を持ち上げた。四角く張ったところが腕へ当たる。そこで祖母は持ち手を握り直した。四角い形が、腕の内側へ深く入った。
鞄を胸の側で抱えて、祖母は廊下へ上がった。段のところで、片手を壁へ当てる。壁のその高さのところだけ、色が薄くなっていた。何年もそこへ手が付いている。
そのまま、自分の部屋の戸の前まで行った。足の運びは速くない。板の継ぎ目のところで音が一つ高くなり、すぐに元の高さへ落ちた。
戸に手を掛けて、そこで止まる。手を掛けたまま、こちらを向いた。廊下の暗いほうに顔が入って、目のあたりは見えなかった。
「キリは、元気だった?」
灯は動かない。
祖母は戸を開けて、向こう側へ入った。閉まる前に、細い明かりが廊下の板の上へ伸びる。その幅は、戸が寄るだけ狭くなって消えた。
玄関の金物の傘立てが、一度だけ鳴った。柄が一本、内側へ倒れた。




