第023話 処分の日
八月三十一日。灯は六時半より前に起きた。
台所はまだ暗い。窓の下の勤め表に、今日のところの丸は付いていなかった。母は昨日の夜勤から帰って、奥の部屋で寝ていた。戸は閉まっていた。
灯は冷蔵庫を開けて、麦茶を出した。器へ入れる時に、注ぎ口が縁へ当たった。音は小さい。それでも灯は、二杯目を注ぐのをやめた。
母の部屋の戸の下から、灯は明かりが出ていないのを見た。出ていなかった。寝ている時は電気を消す。帰ってすぐ寝る日は、台所の電気だけが点いたままになっていることがあった。今日は消えていた。
灯は台所の電気を、自分の手で一度点けて、それから消した。点いていた時間は、三つ数えるほど。
流しの端に、母の弁当の入れ物が伏せてあった。洗ってあった。伏せた向きは昨日と同じ。
灯は玄関へ出た。
傘立てには三本入っていた。母のと、灯のと、父のと。いちばん奥の一本は、去年の春から動いていなかった。柄のほこりには、指でなぞった線がまだ残っていた。線の中だけ色が濃い。
今日は降らないと、玄関の外の明るさで分かった。
灯は自分のを抜いた。抜くと二本になる。柄の内側の名前を、灯は親指でこすった。字は消えずに残っていた。祖母の字で、いつのものかは知らずにいた。
抜いた一本を右手に持って、灯は戸を閉めた。
道は乾いている。角の家の犬は、灯が通ると一度だけ立ち上がって、そのまま座り直した。
駅までは八百歩あった。灯は数えながら歩いた。今日は八百ちょうどで着いた。信号で止まったぶんは数に入れていなかった。
駅の階段は三段目から冷たくなる。下りきると、外の音が急に遠くなった。地下の空気は、外がどれだけ暑くても変わらない。灯はそこで一度、大きく息をした。
売店の前の棚に、今日の新聞が積んであった。上から三つ目の束だけが、少しずれていた。灯は通りながら、ずれた束の背表紙の数字を見た。八月三十一日。
同じ数字を、この夏に何度も見ていた。四つ角の板の下でも、積み場の札でも、ノートの上でも。こちらとあちらで数字の形は違うのに、指で数えると同じところへ着いた。
匂いは同じ。板と、水と、少し古い布。今日は二百三十本ぶんが、今日で最後になる。
頭の上を電車が通った。下りてくるのは音ではなく、天井の板の細かい動きのほうだった。
窓口の外の傘立てに、灯は自分の傘を入れた。外の傘立ては金物で、雨の日は音が鳴る。今日は入っているのが二本だけ。灯のを入れて三本。
三本とも、下のほうはぬれていなかった。今日は誰もぬらして来ていなかった。
灯は自分の一本を、いちばん右の穴へ入れた。夏の間、入れる穴を変えたことはなかった。
窓口の板は灯の胸の位置。内側に祖母がいた。
祖母は判を押していた。押す先は紙の右の下で、押すたびに手首から先だけが動く。灯が窓口の前に立っても、顔を上げなかった。
灯は横の戸を押した。入って三歩で、腕の外側だけが冷えた。内側はまだ外の暖かさを持っている。上と下で二度ぶん違うのだと、川辺さんが夏の初めに言っていた。
窓口の内側には机があって、その上に輪ゴムの箱が出してあった。灯は小さい時、そこに座って十本ずつ束ねていた。三十束できたところで、川辺さんが箱を下げていった。数え方は今も同じらしく、箱の中には束が七つ入っていた。
灯はその横を通った。通る時に、箱の縁へ指が当たる。紙が少しへこんで、指を離すと戻った。
川辺さんは棚の前にいた。手にあるのは紙の束。一枚ずつ、上から順にめくっていた。めくる速さは同じで、指をなめていなかった。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は早いですね」
「見てていい」
「かまいません。触るのは、言った時だけに」
川辺さんは紙を下ろす。それから棚の右側を手のひらで示した。
「今日、この二百三十本が出ます」
「業者は何時に来るの」
「十時です。それまでに番号を合わせます」
灯は棚の右側を見た。柄の色の並びは、昨日と同じに見えた。八月の初めからずっと同じで、灯はどの色がどこにあるかを覚えていた。覚えていても、誰にも確かめられなかった。端から三本目の赤いのと、その二つ隣の緑。数えなくても、その二本はすぐ目に入った。
「どうやって照らすの」
「札の番号を読んで、紙の番号と合わせます。合ったら線を引きます。全部に引けたら外へ出します」
「二百三十回、全部やるの」
「はい。昼までには終わります」
川辺さんは紙をめくって、いちばん上へ戻した。紙は五枚あった。一枚に四十六ずつ書いてあるらしい。数字は縦に並んでいて、間隔がどれも同じ。
字は川辺さんのもの。角があって、線が一度も曲がっていなかった。
棚の左側は四十二。昨日より一本多い。増えたほうは折り畳みで、柄に布が巻いてあった。布の色は分からずにいた。日に当たっていないぶん、上のほうだけが濃く残っていた。
左の棚の札は、どれも八月の日付。左から右へ動くまでに、ひと月かかる決まりらしい。
今日出るのは右だけ。
「探してる人がいたら残るんだよね」
「残ります。届出のあるものは、こちらへ回します」
「今日、残るのは何本」
「今のところ零です」
灯は棚のほうを見たままでいた。零という数は、二百三十より短く聞こえた。言うのに要る息も短かった。
「零って、一本も無いんだ」
「ありません」
通路の奥の電球は、手前の二つだけが点いていた。三つ目から先は、かさの内側が黒く焼けていた。その先の壁は、棚と同じ色に塗ってあった。
灯はそちらを見て、それから目を戻した。今日は行かない。昨日のうちに、そう決めていた。
川辺さんは五枚目の紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。裏返してから、また表へ戻した。
「去年は何本かあったはず」
「三本ありました。一昨年は一本です」
「今年だけ零なんだ」
「まだ一本も回していません」
「そうなる理由って、あるの」
「分かりません。数だけです」
「毎年数えてる」
「数えます。届出は一年で切れます」
「そうなったら、どうするの」
「もう一度出してもらいます。出す人がいれば残ります」
灯は紙の端を見た。五枚目の下のところに、数字が三つ小さく書いてあった。三、一、零。灯はその三つを続けて読んだ。
川辺さんはそれ以上言わなかった。棚の下から二番目の段の縁を、指で一度押す。板は真ん中が少し落ちていた。去年、そこへ板を一枚足したと聞いていた。足しても下がる。
棚の上の段には、番号を書いた箱が並んでいた。中身は外に書いていなかった。灯はその箱を、一度も開けたことがなかった。
上の段には手が届かずにいた。七月の終わりに一度、つま先を立ててみたことがあった。指の先が箱の下の縁に触れて、それだけになった。
灯は棚に沿って歩いた。右から左まで二十二歩。歩幅は去年の冬より広くなっているはずなのに、数は同じだった。
柄はどれも同じ高さで並んでいた。太いのと細いのが交ざっていた。いちばん下の段に、子供用の短いのが三本。柄が短くて、灯の手には今も合わずにいた。
灯は札を一枚つまんだ。強くつまむと、指の形が残った。指を上げても、形はすぐには消えずにいた。
札の日付は、ほとんどが去年の夏になっていた。
名前の欄があった。四角い枠で、幅は灯の親指ほど。枠の内側は、たいてい白かった。
白くないのは十四本。六本は名字だけ。あとの八本は下の名前まで読める。子供用の三本にも入っていた。さいとう。はやしゆか。みなみ。
灯はその三つを、口に出さずに三度読んだ。読むと覚える。三つとも、夏の間一度も出ていかずにいた。
番号も三つ覚えていた。四十一。九十。二百六。
灯は四十一の札を探した。左から数えて三本目にあった。柄は木で、先が丸い。輪ゴムで留めた札の縁が、少しめくれていた。
九十は真ん中の段。二百六のほうは、見つけるのに時間が掛かった。
「二百六って、どこ」
「二百六番ですか」
川辺さんは紙をめくった。三枚目の下のほうで指を止める。
「あります。いちばん下の段の、奥から二本目です」
灯はしゃがんで、奥へ手を入れた。柄の首の札を引き出して、番号を読む。二百六。
「返る人、来なかったんだ」
「来ていません。三枚とも、線は入っていません」
灯は指を札から離した。札はゴムの張りで、元の向きへ戻った。
*
九時になると、川辺さんは紙の束を机の上へ広げていた。
川辺さんが札の番号を読む。灯が紙の上でその数字を探して、見つけたところを指で押さえる。そこへ川辺さんが線を引く。線は横に一本で、数字の真ん中を通った。
「四番」
灯は一枚目の上から四つ目を押さえた。
「七番」
三つ下。
「十一番」
そこから右の列へ移る。
「次、あたしが読む」
「読んでください。私が押さえます」
灯は棚のほうへ回って、いちばん左の柄の札を起こした。読むと、川辺さんの指が紙の上で止まる。止まった位置は、灯が押さえていたのと同じ速さで動いた。
紙は五枚で、一枚に四十六。並びは番号の順ではなかった。棚に入っている順で読むので、数字は行ったり来たりする。灯は指を紙の上で往復させた。そのうちに、五枚のどこにどの帯があるかを覚えた。
「番号、順に並んでない」
「棚に入っている順です。並べ替えると、抜けた時に分かりません」
「抜けたら分かるようにしてあるんだ」
「飛んでいるところが、返ったものです」
灯は三枚目の紙を見た。真ん中あたりで、数字が二つ空いていた。空いたところには線が引いてあって、線の下に日付が入っていた。
日付は六月。
五十を過ぎたころから、探すのが速くなった。
「五十八番」
押さえる。
「六十番」
押さえる。
川辺さんは読む速さを変えなかった。灯が速くなっても、間は同じだけ空いていた。
百を過ぎたところで、川辺さんが手を止めた。
「休んでください」
「まだできる」
「十分に一度、手を止める決まりです」
灯は指を紙から離した。離すと、人差し指の第一関節のところが白くなっていた。紙の縁が当たっていた場所。
箱の上へ座って、灯は棚の右側を見た。
もう百本ぶん、線が引いてあった。棚のほうに変わったところは無い。傘は一本も動いていなかった。
「引いたのに、まだ全部ある」
「線は紙の話です。物はあとで動きます」
「先に紙を見るの」
「逆にすると数が合いません」
川辺さんは水を飲んだ。それから、器を机の同じ場所へ戻した。輪ゴムの箱の左、指二本ぶん空けたところ。
「百五十四番」
押さえる。
「百五十五番」
その隣。番号が続くのは珍しい。灯は二つ並んだ数字を指で押さえたまま、少し置いた。
「続いてる」
「同じ日に同じ場所で拾われたものです」
「二本一緒に落ちてたんだ」
「そういうこともあります」
川辺さんは次の番号を読んだ。灯は指を動かした。二つ並んだところは、そのあと一度も出てこなかった。
照らし合わせは十時前に終わる。二百三十。紙は五枚とも、数字の全部に線が入っていた。
「終わりです」
「札はどうするの」
「外します。番号はこちらに残ります」
「外した札も捨てる」
「捨てます。外へは出しません」
「業者は、これをどうするの」
「布と骨に分けます。骨は金物です」
「布のほうは残らない」
「燃やします」
「骨も布も全部だ」
「骨も布も同じ炉へ入ります」
灯は棚のほうを見た。二百三十本。柄の色は五つか六つに分かれていて、そのどれもが、布と骨のどちらかになっていた。
灯は体ごと棚へ向いた。
「名前が書いてあるのがある」
「十四本ですね」
「読める字だけ入ってる」
「あれも外します。札ごと外れます」
灯は札の一枚をつまんだ。四十一番の札。名前の欄に、四つの字が入っていた。書いたのは持ち主か、その家の人。字の太さは、灯の書く字より太く出ていた。
外れる。
外れたら、傘のほうには何も残らない。
「二百三十のうち、名前があるのは十四本だけだよ」
「十四本。残りは番号だけです」
「あとは無い」
「ありません」
灯は十四という数を、口の中でもう一度言った。四つ角の紙に並んでいる数と同じだった。
「かわいそう」
言ってから、灯は自分の声を聞いた。低い声ではなかった。ふだんと同じ高さで出ている。
川辺さんは紙をそろえていた。そろえた束を机の端へ置いて、顔を上げる。
「かわいそうって言うのは簡単なんだよ」
灯は川辺さんの顔を見た。
目は灯のところで止まっていた。眉のところに線が二本あって、それは前からある線。
川辺さんは机の下から箱を一つ出した。
白い札が入っていた。番号も日付も入っていない、新しい札。灯は上から三枚ぶんを目で数えた。数え終わらないうちに、川辺さんはその箱を灯の前へ置いた。
置いてから、何も言わなかった。
自分の机へ戻って、印を出して、五枚の紙の下のほうへ押しはじめる。押す速さは、さっきの読む速さと同じ。
灯は箱を両手で引き寄せた。引き寄せた時に、いちばん上の一枚が箱の縁から滑って、窓口の板の上まで出た。灯は取らなかった。
白い札は木ではなかった。厚い紙で、上のところに穴が一つ開いていた。穴に糸が通してある。糸は短く切ってあって、端は二つとも結んでいなかった。
「これ、いつから使ってるの」
「前の様式は去年までです。今のは四月からです」
「変わったんだ」
「名前の欄が広くなりました。前のは狭かったので」
灯は白い札の名前の欄を指で測った。幅は灯の親指の二つぶん。棚に下がっている去年の札より、たしかに広くなっていた。
広くなった枠に、四つの字を入れる。それでも、まだ半分空いた。
灯は一枚取って、机の上へ置いた。
鞄の口を開けて、筆箱を横向きのまま引き出した。蓋はつぶれた側から先に開く。裂けた厚い紙が二枚、鉛筆の下に敷いてあった。
灯は長いほうの鉛筆を取った。短いほうは、昨日の夜に六回削ったぶんだけ低くなっていた。
穴へ差して、三回まで回した。
削りかすは中へ落ちる。粉は蓋のすぐ下まで来ていた。灯は蓋を開けなかった。
棚の前へ行って、十四本の札を上から順に読んだ。
名字だけのが六つ。下の名前まであるのが八つ。子供用の三本にも字が入っていた。さいとう、はやしゆか、みなみ。
合わせて十四になる。
書きはじめる前に、灯は十四の名前を紙の端へ並べてみた。書く順を決めるためになる。
棚に入っている順で書くことにした。左から右へ。そうすれば、付ける時に歩く距離がいちばん短い。
四つ角では順を考えたことがない。書く相手が目の前に立っていて、一人ずつ来て、一人ずつ帰る。並べる必要が無かった。
灯は机へ戻って、一枚目に書いた。
書く時は左の手のひらを紙の下へ入れない。机が硬いので、要らない。四つ角で木の札に書く時と同じだった。
一つ目の字を書き終えて、灯は顔を近づけた。線は黒い。縁もにじんでいなかった。紙は布とは違って、目の内側へは入らなかった。
六枚目で、灯は一度手を止めた。
名字だけの六つのうち、四つ目の字が読みにくい。札の枠が小さくて、書いた者が最後の字を詰めていた。そのぶんだけ、線が重なっていた。
灯は棚の前へ戻って、その札をもう一度見た。近づけると、重なった線の下からもう一本出ているのが分かった。
三画ではなく、四画。
灯は机へ戻って、四画で書いた。それから、もう一度棚まで行って合わせた。合っている。
その一枚だけ、往復が二度になった。
十四枚書いた。
書き終えるまでに、削り器を三度使う。三度目のあとは、削りかすが器の底で押し固まって、蓋が最後まで閉まらなかった。
灯は十四枚を持って、棚の前へ行った。
「これ、付けていい」
「札を付けるんですか」
「そうしたい」
川辺さんは印を置いた。それから、棚のほうを見る。
「渡す時、こちらの札は外します。別のものなら数えません」
「数えないんだ」
「こちらの紙に載らない、ということです」
「止めないってことだ」
「止める決まりがありません」
灯は一枚目を持って、四十一番の柄へ手を伸ばした。
柄と柄の間は狭かった。指を入れると、手首まで柄の中に入った。灯は札の糸を柄の首のところへ回して、二重に結んだ。結び方は、四つ角でキリが袋の口へ使うのと同じにした。端を内側へ折り込む。
一本目ができる。
二本目。三本目。子供用の三本は、柄が細くて糸が滑った。滑るぶんだけ、結び目を小さくした。
十四本目を結び終えて、灯は手を離した。
結び終えた十四本を、灯は左から順にもう一度見た。
白い札の高さがそろっていなかった。柄の首の太さが一本ずつ違うので、糸を回す位置が上下する。太い柄では札が上へ来て、細い柄では下へ落ちた。
灯は一本目まで戻って、札の高さを手で直そうとした。直せるのは指で押さえている間だけで、離すと元へ戻った。
灯は直すのをやめる。
棚の右側に、白い札が十四枚下がっていた。ほかの二百十六本には、番号の札しか付いていなかった。
白いのは、離れて見ると点になった。点の並び方はそろっていない。左に三つ、真ん中に八つ、右に三つ。棚のどこにも同じ間隔が無かった。
*
業者は十時に来た。
業者は二人。片方は灯の母より年上に見えて、もう片方は若く見えた。二人とも同じ色の上着を着ていた。胸のところに字が刺してあった。灯の位置からは読めなかった。
台車を二台、通路へ入れる。車輪は四つとも小さい。段差のところで一度浮いて、下りる時に音が短く出た。
川辺さんが五枚の紙を渡した。若いほうがそれを受け取って、上から順にめくる。めくり終わると、年上のほうへ渡した。
「二百三十で間違いないですか」
「二百三十です」
「札は」
「こちらで外します」
川辺さんは棚の前へ立った。手に空の箱を一つ持っていた。
外し方は速い。輪ゴムを親指で押し上げて、札を引き抜く。抜いた札は箱へ入れる。一本につき、動きは二つしかない。灯は数えた。十本で、息を一度も継がない。
白い札のところで、川辺さんの手が止まった。
止まったのは一度だけで、そのあとは番号の札だけを抜いていった。白いほうには触れない。
二百三十枚が箱に入った。箱は思ったより浅くて、札は縁の下まで来ていた。
「出します」
二人が棚の右側から傘を抜きはじめた。手つきは川辺さんとは違う。まとめて六本ずつ握って、そのまま台車の枠へ立てていった。柄が上を向いて並ぶ。
台車の枠は、四方が金物の棒でできていた。棒と棒の間は、灯の手のひらより広い。傘の柄はその隙間から少しだけ外へ出ていた。出た柄の先が、押すたびに揺れる。
揺れ方は、六本ずつでそろっていない。木の柄は遅く、金物の柄は速く戻った。
台車の枠は、一台に百二十本ほど入るらしい。二人はそのつもりで、六本ずつを十回ぶん数えて置いていた。数え方は口に出さない。手だけで数えていた。
白い札の付いた一本が、四本目の束に入った。
束に入る時に、札は柄の首のところで一度回った。回って、内側を向く。灯の位置からは、字は見えなくなった。
灯は棚の前から二歩下がった。
背中が通路の壁に着いた。壁は棚と同じ色に塗ってある。背中を当てると冷たかった。
台車が一台埋まるまでに、灯は百二十まで数えた。その間、二人は一度も口をきかなかった。
二台目は速い。棚の左のほうは詰まっていなくて、握るのに手間が要らない。
最後の六本を抜いた時、いちばん下の段の子供用の三本が残った。短いので、束にすると滑る。若いほうがそれだけを別に持って、台車の枠の内側へ寝かせて入れた。
白い札が三枚、寝かせた柄の上で並んだ。
棚が空になっていた。
板の上には、柄の当たっていた跡だけが横に並んで残っている。跡と跡の間は、どこも同じ幅ではなかった。
空いた棚の前で、灯は一度だけ息を止めた。三つ数えるくらいになる。それから吐いた。
通路には、抜いた札を入れた箱が残っていた。二百三十枚。箱は机の端に置いてあって、いちばん上の一枚だけが横を向いていた。
灯はその一枚を見た。番号が四十一。名前の欄に、四つの字が入っていた。
この札はもう、どの傘にも付いていなかった。
灯は手を伸ばさなかった。伸ばして取ったら、二百三十枚のうちの一枚だけを取ることになる。
空になると、棚は思ったより奥が深い。
外から見ていた時は、柄の並びで奥が見えなかった。今は板の奥の縁まで通っていた。奥の板は手前より色が濃く出ていた。日が当たらないぶんではなく、拭いていないぶんらしい。
いちばん下の段に、粉がたまっていた。傘の柄から落ちたもの。木くず。それに灰色の細かいもの。灯は指を入れてみた。指の腹に付いたのは、灰色のほうだけだった。
棚が空になったあと、通路は前より広く見えた。広いのは棚の側だけで、通路の幅は変わっていなかった。傘の柄が三十センチぶん外へ出ていたぶん、そこが空いただけになる。
灯は空いた三十センチのところに立ってみた。立てる。前は立てなかった。
川辺さんが布を持ってきた。
下の段から拭いていった。拭くと布が灰色になった。二段目でもう一度灰色になって、三段目で布を裏返した。裏も同じ色になる。
「あたしもやる」
「上の段はこちらでやります」
灯は下から二番目の段を拭いた。板の真ん中が落ちていた。そこへ布を当てると、押した力で板が少し沈む。沈んだぶんだけ、布の当たり方が変わった。
拭いているうちに、指の先が奥の縁へ触れる。
触れた先に、何かがあった。
灯は顔を下げて、奥をのぞいた。棚の奥、板と壁の間の狭いところに、紙の束が入っていた。
細長い紙。幅は灯の手のひらの半分くらい。長さはその三倍。輪ゴムが二本、束の上と下に掛かっている。
灯は指の先で引いた。束は動いた。そのまま手前へ出てきた。
厚みは、指の腹二つぶんあった。
いちばん上の紙は、下のほうの紙より白く見えた。下へ行くほど色が茶に寄っていた。いちばん下の一枚は、縁が丸い。
灯は上の一枚の字を見た。
枠が細かく切ってあって、その一つ一つに字が入っていた。書いた者の字は小さかった。線の終わりのところで、筆が上へ跳ねる癖があった。
灯はその跳ね方を知っていた。傘の柄の内側に書いてある名前と、同じ跳ね方。
「これ、なに」
言いかけたところで、横から手が出た。
祖母の手。
祖母は束を灯の手から取った。取り方は速くない。輪ゴムの掛かっているところを持って、そのまま持ち上げる。それから机の下の引き出しを開けて、いちばん奥へ入れた。
引き出しを閉めた。
灯のほうは見なかった。閉めてから、窓口の内側へ戻って、また判を押しはじめた。肘から先が、一度ずつ沈んでは戻る。
灯は布を持ったまま立っていた。
布は灰色になっている。握っている場所だけが、少し湿っていた。
「これ、どこへ持っていくんですか」
灯は年上のほうへ言う。その人は台車の枠へ手を掛けたまま、灯のほうを見た。
「西の工場」
「近いんですか」
「電車で三十分だな」
それだけ言って、その人は台車を押した。若いほうは何も言わずに、後ろから枠を支えた。
台車は通路の段差で二度浮いた。二度目に、いちばん上の柄が一本ずれる。若いほうが手を伸ばして、押し戻す。戻したのは、白い札の付いていない一本。
通路の先の角を曲がると、台車の音は聞こえなくなった。
灯は棚の前へ戻った。
右側は空。左側には四十二本残っていた。左のほうは詰まっていて、柄が互いに寄りかかっていた。右の空きのほうが、左の四十二本より広い。
左の四十二本の柄は、右が空になったぶん、こちらへ寄って見えた。寄ったのは見え方だけで、本数も並びも朝と同じだった。
灯は右の棚に手のひらを当てた。板は冷たかった。傘が入っていた時は、手前の三本だけが通路の空気の温さを持っていた。今はどこへ手を置いても変わらない。
拭き終えた板は、乾くまでに色が二度変わった。ぬれている間は濃くて、乾きはじめると縁から白くなる。その速さは段によって違った。上の段が先で、下の段が後だった。
灯は下から二番目の段の前に座って、乾いていくのを見ていた。そのうちに、板の真ん中の落ちているところだけが、いつまでも濃いままなのが分かった。水が真ん中へ寄る。
通路の奥の壁は、拭いてもいなかった。灯はそちらへ目を向けた。手前の電球が二つ。その先は暗くなっていた。壁の縦の線は、暗いところに入っていて見えなかった。
今日は行かない。昨日そう言ってきた。
まぶたが重い。
灯は目を二度、強く閉じて開けた。
机へ戻ると、白い札の箱がそのまま置いてあった。
灯は箱の中を数えた。時間はかからない。上から順に取って、机の上へ並べる。数えると、二十六枚。
十四枚は棚から出ていった。二十六と十四で、四十になる。
灯は二十六枚を重ねて、箱へ戻した。戻す時に、糸の端が互いに引っかかった。そこをほどいて、また入れた。
「持って帰りますか」
川辺さんが机の向こうから言った。灯は箱の縁を持ったままでいた。
「いい。ここに置いとく」
「置いておきます。同じ場所へ戻します」
川辺さんは箱を受け取って、机の下へ入れた。出した時と同じ場所になる。
灯は窓口の板の外側へ回った。
板の上に、川辺さんの五枚の紙が伏せてあった。裏は白い。二百三十の数字は、裏からは見えなかった。
その横に、白い札が一枚だけ残っていた。
朝に箱の縁から滑って、そのままそこに在った一枚。四十と合わせて四十一になる。名前の欄は空いていて、糸も結んでいなかった。灯はそれを指で押さえて、板の外の端までまっすぐ滑らせた。
札は端に当たって止まり、白いところが半分だけ板の外へ出た。




