第022話 名前を書く
積み場から四つ角までは、行きより長く感じた。道の右側の家の戸が、行きに開いていたところも閉まっていて、目印にしていたものが減っている。
石の目地の土は、まだ黒いままだった。沈んだ跡には、灯の靴の形が二つ並んで残る。行きのと帰りので、少しだけ向きが違っていた。
四つ角へ戻ると、南の角の台はもう無かった。板も脚も持っていったらしく、土の上に脚の跡が四つ残っていた。浅いのは、右の二つの跡。
キリは東の角で板を外しているところだった。二枚のうち一枚は、もう壁へ立てかけられていた。灯は袋を土の上へ置いて、残りの一枚の端を持った。
「こっち、あたしが持つ」
「そっちを先に離せ。斜めにすると角が欠ける」
板は思ったより重い。両手で持って、壁まで三歩。立てかける時に、下の縁が土へ食い込んだ。キリが足で土を寄せて、縁の下へ入れた。
脚は四本まとめて布でくるんだ。くるんだものを台の下へ入れた。台の下は、朝と同じだけの空きが残った。
東の道の入口に、市の枠が二つ立てかけてあった。西の道で見たのと同じ形をしていた。八月三十一日は、七日ごとの市の日。
残りは一日。
枠のところに人が二人いて、木を四本、縄で束ねていた。終わると二人で担いで、東の道のほうへ運んでいった。運ぶ先は積み場ではなく、その手前で右へ折れた。
「あれ、市の枠」
「枠だ。明日は立てんことになった」
「三十一日なのに、立てないんだ」
「立てん年もある。人が出てこん年だ」
「明日、板は誰が出すの」
「俺だ。ほかにいない」
「じゃあ一人なんだ」
「そうだ。板は二枚で足りる」
灯は壁に立てかけた板の面を見た。木目の上に、この夏で付いた傷が四本。いちばん新しいのは今日のもので、板を外した時に脚の金具が当たった。傷は浅い。指でなぞって、やっと爪の先に当たる程度だった。
灯が名前を書いた時に札の下から板へ通った線も、まだそこに残っていた。線のほうが、四本の傷より濃い。
灯はその線を指の先で押した。木は沈まなかった。
台の下から出した石は、四つとも同じところへ戻してあった。土のへこみが四つ、同じ深さで並んでいる。毎日同じ場所へ置くと、こうなるらしかった。
灯はへこみの一つへ指を入れた。土は乾いていた。
「今日は結局、一枚も書かなかった」
「そうだな。そういう日もある」
「明日は来る人がいる」
「いるだろう。書く奴はいなくても、売り買いは来る」
キリは袋の口をひもで締めた。二重にして、端を内側へ折り込んでいた。灯はその手を見ていた。関節のところで皮が寄る。寄り方は朝と同じ。
「今日の勘定はどうなるの」
「今日はこっちが二つ入った。あんたのぶんは無い」
「あたしが書いてないからだ」
「そうだ。書いてないぶんは付かん」
灯は自分の鞄の口を開けた。中の輪は二つ。昨日は三つあった。メノに一つ渡していた。
二つを指で分けて、また寄せた。
「飯を食う。来るか」
「行く。あたしも食べる」
「来るなら一つ引くぞ。飯のぶんだ」
「引いていい」
北の道の入口の石の上には、朝の子供が並べた小石がまだ残っていた。十四。大きさの順も朝のまま。誰も崩していなかった。
灯はしゃがんで、端のいちばん小さいのを見た。爪の先ほどの大きさになる。
灯は触らずに立ち上がった。小石の列は、端のほうだけ間隔が広くなっていた。
キリは袋を肩へ掛けた。北の道のほうを一度見る。誰も来なかった。それから南へ歩き出した。灯は後ろに付いた。
坂は南から下っていた。石の敷き方が途中で変わって、目地の土が黒くなった。踏むと少し沈む。
坂の上から見ると、下の家の屋根が段になって並んでいた。屋根の傘は、手前ほど色が濃く見えた。奥へ行くほど白っぽくなって、いちばん奥に見えるのは屋根の形。
灯は段の数を目で追った。七段目まで数えたところで、屋根の境目が見えなくなる。
「屋根、何軒あるの」
「数えたことがない。数えて何になる」
「一度もないんだ」
「無い。屋根は減っていくからな」
坂の途中に井戸があった。蓋は半分ずれていた。ずれ方は前と同じ幅だった。灯は蓋の縁へ手を触れた。触れた縁は冷たくて、下から上がってくる空気はもっと冷たい。
顔を近づけると、水の匂いがした。井戸の水は、家の台所の水とは匂いが違っていた。台所のは何も匂わなかった。ここのは、石と、金物に近いものが混ざっていた。
「そこは落ちるぞ。縁がぬれてる」
「落ちない。手は掛けてる」
灯は顔を上げた。湿っているのは前髪の内側だけ。
坂の下の水場に、人が三人いた。二人は水をくんでいて、一人は縁に座って足を洗っていた。三人とも灯たちを見なかった。くむ手の速さも変わらない。
キリは入れ物に水を取って、両手を洗った。指の股のところを、一本ずつ順に洗う。指の腹に黒いものが残っていて、三度こすっても薄くなるだけで消えなかった。
「それ、炭だ」
「そうだ。三日こすっても落ちん」
「石けんは使わないの」
「そんなもんはこっちに無い。使う奴もいない」
灯は水場の縁へ腰を下ろした。石は昼の間日を受けていたらしかった。温さの残っているのは上の面。手を横へずらすと、影になっていたところは冷たかった。
水場の石の縁には、名前が彫ってあるところがあった。灯の座った場所から二つ横になる。彫りは浅くて、水の当たる側は縁が丸くなっていた。
字は三つあった。灯はそのうち一つだけ読めた。読めたのは真ん中で、四つ角で書いたことのある形だった。
彫った者が誰かは分からない。読めた一つを、灯は口の中で一度だけ言った。
水場の脇の木の台には、今日も何も載っていなかった。載せた跡だけが四角く残っていた。四角の内側は、外側より色が濃かった。
灯はその四角を目で測った。縦は灯の腕ほどで、横はその半分。
水場の水は、下の石の割れ目から出ていた。割れ目は二か所。細いほうの水は縁まで届かずに、石の途中で止まっていた。
水の止まった石は、色が濃くなっていた。濃い部分の形は、下へ行くほど細くなる。
灯はその形を目でたどった。たどりながら、四つ角で名前を書く時の指の形を思い出した。上から下へ引く線は、途中で細くなる。
「あの台、何を載せるの」
「昔は魚を載せた。今は載せる奴がいない」
「魚、いたんだ」
「海のほうから運んでくる奴がいた」
キリは先へ行かなかった。手を振って水を切って、袋を肩へ掛け直す。
「明日、あんたはこっちへ来ない」
「明日は来られない」
「そうか。日を空けるんだな」
キリはそれだけ言って、袋の底を持ち上げた。中身の据わりを確かめるためらしく、すぐ下ろした。
「三十一日が終わったら、また来る」
「来ればいい。俺は動かん」
「終わったあとも、四つ角にいる」
「ああ。ほかに行くところが無い」
灯は自分の膝の上で、両手を組んだ。組んだ指の間に、石の粉が入っていた。積み場で土の上に鞄を置いた時のものになる。
灯は手を離して、服の横で二度こすった。粉は落ちた。
水をくんでいた二人が先に上がっていった。足の運びが同じ速さで、二人の間の距離も同じ幅。細い道のほうへ入って、そのまま見えなくなった。
足を洗っていた一人は、まだ縁に座っていた。洗い終わった足を石の上へ乗せて、乾くのを待っていた。
灯はその足を見ないようにして立ち上がった。
細い道は水場から西へ折れていた。両側の家の戸が低い。戸の上に札の掛かっている家と、掛かっていない家が混じっていた。灯は数えた。二十六軒のうち、札が二枚。九日前は四枚あった。
二枚減っていた。
減った二枚のうち、一つは棒だけが残っている。棒の先に、札を結んでいた糸が短く残っていた。もう一つは棒も無かった。戸の上の壁に、札の形の跡だけが薄く付いていた。
道の両側の壁は、腰より下だけがぬれていた。下から上がってくる湿りらしい。手を当てると、上の乾いたところより二度ぶんほど低い。
湿りの上の縁は、道の奥へ行くほど高くなっていた。
灯はその跡の前で足を止めた。跡の四角は、灯の手のひらより少し小さく見えた。周りより色の明るいのは、四角の内側。
「あの札、いつ外したの」
「知らん。外すのを見たことがない」
キリは足を止めないで答えた。灯は小走りで追いついた。
突き当たりが、キリの住むところだった。
戸は低い。キリは入る時に頭を下げた。灯は下げなくても入れた。入る前に、灯は道の側をもう一度見た。細い道の入口のところに、まだ日が残っていた。日の当たっている幅は、石で三つぶんほど。
*
中は前より暗かった。戸の下の隙間から入る光が細くて、床の板の上で一本の線になっていた。線は前に来た時より短くなっている。
油の匂いがした。木を削った粉のほうは、今日も無かった。灯は戸のところで一度、鼻から息を入れた。
棚は三つ。上の段の物は左から小さい順に並んでいた。灯は左から数えた。
十七。
九日前は二十一だった。四つ減っていた。
「九日で四つ売れたんだ」
「売れた。四つともあんたが帰ってからだ」
キリは袋を床へ下ろした。底が板へ当たる。その音は低い。中身が減っているぶんだけ低かった。
隅のたたんだ布は四枚のままだった。いちばん上だけが新しく、下の三枚は色が抜けていた。九日前に灯が敷いたのが、その四枚だった。畳み直した跡が、上から二枚目の角に残っていた。
二段目は金物と布と紙が段ごとに分けてあった。九日前と同じ分け方。三段目の四角い箱も同じ場所にあって、蓋の留め金は掛かったままだった。
天井の板の継ぎ目は三本。真ん中の一本だけが太い。灯はそれを見上げてから、目を下ろした。
棚の端の金物の輪も、糸で下げたままだった。輪の内側が擦れて、そこだけ色が抜けていた。
キリは火を起こした。木の箱から炭を三つ出して、下の一つを先に置いた。それから小さいほうを二つ、間を空けて置いた。順は毎回同じらしい。
鍋を掛けて、水を入れた。水は水場でくんできたものだった。中に入れたのは干した葉が二つかみと、それに細かく切った根が少し。灯は入れる順を見ていた。葉が先で、根が後だった。
火は下の炭から先に赤くなった。赤くなった面のふちだけが白く粉を吹いて、そこから薄く崩れていく。
灯は膝を抱えて、その崩れ方を見ていた。崩れた粉は下へ落ちる。火床の底では灰と同じ色。
鍋の底から泡が上がるまでに、灯は二十まで数えた。そこで一つ目が上がって、そのあとは続けて来た。
「それ、何の葉っぱ」
「名前は知らん。丘の下のほうに生えてる」
「それ、毒じゃないの」
「毒なら俺のほうが先に死んでる」
灯は鍋の中をのぞいた。葉は三枚とも底に沈んでいて、縁の丸いほうを上にしている。灯は肩の力を一度抜いて、膝を組み直した。
器は二つ出た。片方は縁が欠けていて、キリはそちらを自分の前へ置いた。
灯は欠けていないほうを持った。持つと、指に温さが移ってきて、熱いのは器の底の外側だけだと分かる幅で温かった。上は手で持てる。
飲むと薄い。葉の匂いが後から来た。
「これ、飲んだことある」
「どこでだ。こっちには無いはずだ」
「家にある。もっと苦いやつ」
「そうか。向こうにもあるんだな」
「これ、毎日飲むの」
「毎日だ。葉は七日ごとに取ってくることにしてる」
「明日も葉を取りに行くの」
「行かん。明日は朝から台を出す」
灯は器の中を見た。葉が二枚、底のほうで開いている。その縁は、乾いていた時よりずっと薄くなっていた。
灯は器の縁を指でたどった。欠けていないほうの縁は、どこも同じ高さでつながる一本の線。一周したところで、灯は指を止めた。
「これ、いくつあるの」
「今は二つだ。前は四つあった」
「あとは割れたんだ」
「そうだ。かけらのほうは捨ててない」
キリが顎で示したのは、棚の下の段。段の奥に、布に包んだものが一つ入っていた。包みの形は平たくて、角のところだけが立っていた。
キリは自分の器に口をつけて、二口で半分にした。それから床へ置いた。膝の右、いつも同じところ。
灯は器を両手で持ったまま、部屋の中をもう一度見た。
上着は壁に掛かっている。
戸の横の木の釘に、襟のところが引っかけて下げられていた。床から浮いている裾の高さは、灯の手のひら二つぶんほど。裾の片方だけが長くて、そこに縫い足した跡が残っていた。縫い足した布は元の布より新しく、色も別。
「ねえ、キリ」
「なんだ。言え」
「上着、書かせて」
キリは器を持ち上げなかった。床へ置いたままで、指も動かさなかった。
「その話なら前にした。七月だ」
「聞いた覚えがある」
「答えも同じになる。変える気は無い」
「答えは聞いてない」
「いらない、と言った。あの時もそう言った」
灯は器を下ろした。膝の上へ置くと、中身が縁の内側で一度だけ揺れる。
「明日、あたしは来ない」
「聞いた。さっきも言ってた」
「来ないから書く」
「来ん日に書いても、こっちは要らない」
キリはそこで初めて灯を見た。火の側だけ明るく浮いているのは、目の上の骨。もう片方は影になっていて、どこを見ているかは分からなかった。
「俺は物で商売する。名前のほうは要らない」
灯は口を開けて、閉じた。
「わかった。もう言わない」
キリが立ち上がる。器を持って戸のほうへ行った。
「水場へ行く。器を洗ってすぐ戻る」
戸が開いて、閉まる。開ける音と閉める音の間は、いつもより短かった。
部屋に残ったのは火の音だけ。鍋の中で、葉が一度回った。
灯は器を床へ置いた。膝の右ではなく、左。
立ち上がると、床の板が少し沈んだ。戸に近いほうの二枚が柔らかく沈んだ。灯はその二枚を避けて、壁のほうへ寄った。
上着はくぎに掛かったままだった。
手を伸ばして、襟の内側へ指を入れた。布に厚みがある。指を入れると、内と外で温さが違った。外の側は部屋の空気と同じで、内の側だけが少し温さを残していた。掛けてある布が、まだ体の温さを残していた。
灯は上着をくぎから外した。
外すと、思ったより重い。両手で受けて、床へ下ろした。裾の縫い足したところが、板へ先に着いた。
灯は上着の重さを腕で量った。乾いているのにこれだけ重いということは、雨の日はもっと重くなる。
肩の縫い目のところに、糸が二本出ていた。切れているのではなく、織りから抜けてきたものらしかった。灯はそれを指で押し込んだ。糸は戻らずに、そのまま内側へ入った。
灯は床に膝をついて、上着を裏返した。
裏の布は表より薄かった。色は表より明るくて、灰に近い。縫い目が縦に二本、肩から裾まで通っていた。二本の間は、灯の手のひら二つぶんほど。
肩の下のあたりが、他より少し濃かった。
灯はそこへ手を近づけた。目では分からなかった。指の腹を当てて、上から下へ滑らせる。
布の目が変わっているところがあった。
灯は手を止めた。今度は下から上へ滑らせる。目の変わっているところは同じ場所にあって、幅は灯の親指ほど。長さはその二つぶん。
灯は上着を火のほうへ向けた。火の側から光が来ると、布の目の上に影ができた。
二つある。
二つとも、同じ大きさの四角の内側に収まっていた。線の数が違っていた。左のほうは三本で、そのうち二本が横になる。右のほうは縦が二本しかない。
字になる。
灯はそれを読もうとした。読めなかった。線はどれも途中で消えて、そこだけ布が周りと同じ高さに戻っていた。
灯は指の先で、右の一つをなぞった。溝になっていた。押した跡が布の目の内側に残っていて、そこだけ指が引っかかった。四つ角の板に残った線を、灯は同じ指でなぞったことがある。
色は無い。
黒いところも、濃いところも、一つも残っていなかった。残っているのは押した跡だけ。
上着を持つ手の親指が、いつのまにか布の縁を折り込んでいた。折り目は指の幅の三つぶん。灯はそれを開いた。開いても、折れた線は残っている。膝の裏に入れていた力を抜くと、足の先が板へ当たった。
手を洗いたい、と灯は思った。
思ってから、灯は上着の襟の内側を見た。何も無い。袖の口の内側も見た。擦れた糸が二本出ているだけで、書いたものは無かった。
裾の縫い足したところの裏は、折り返した縫い代。その内側までは、指が入らなかった。
灯は指を離した。
誰かが書いた。書けるほうの者が。
いつかは分からない。溝の底の布が、周りと同じくらいに毛羽立っていた。新しい溝ではない。
火の中で炭が一つ位置を変えた。変わった時に、光の当たり方が少しずれた。ずれると、二つの溝の影も向きを変えて、それから元へ戻った。
灯は鞄へ手を伸ばした。
筆箱を出す。蓋はつぶれた側から先に閉める。開ける時は、そのままで開いた。
中には鉛筆が二本と、削り器が一つと、消しゴムが一つ。それに、二つに裂けた厚い紙が二枚。
灯は長いほうの鉛筆を取った。二本の差は、爪の半分ほどしかない。芯の先は、積み場で削り器の縁に当たって少し落ちていた。
穴へ差して、回した。
一回。二回。三回。
削りかすが削り器の中へ落ちた。中の粉は、朝より高いところまで来ていた。灯は蓋を開けない。
芯を見た。まだ丸い。もう三回回した。
六回で先が出た。細くなっている。横から見た影は、コンパスの針のように立った。灯は指の腹で先を触った。触ると、指に黒いものが少し付いた。
付いたぶんは、そのまま指の腹に残した。
*
灯は上着を床の上で平らにした。手のひらで一度、肩から裾へ向けてのばす。給食の白い布を、当番のあとで台の上へ広げる時と同じ手つきだった。
裏を上にして、肩の側を自分の膝のほうへ向ける。二つの溝は、灯の目の高さより少し下に来た。膝で押さえると布が引っ張られて、溝の形が伸びる。灯は膝を離した。
左の手のひらを、布の下へ入れた。手のひらを台にすると、布が沈まない。四つ角で木の札に書く時と同じやり方になる。札は硬いので手のひらは要らない。布は要る。
右手に鉛筆を持った。持ち方は学校で字を書く時と同じ。人差し指の第一関節に軸が当たる。
鉛筆を持った手を、灯は一度膝の上へ下ろした。
火の中で炭が鳴っていた。低い音で、続かない。三つ数える間に一度あって、そのあとは四つ数えても来なかった。
戸の外は静かになる。細い道は行き止まりで、通り抜ける者がいなかった。
灯はもう一度、鉛筆を持ち上げた。
書く場所を、灯は二つの溝の右に決めた。
溝の上でも下でもない。並べて置ける場所は、右にしか空いていなかった。
書く前に、灯は溝のほうをもう一度見た。
溝の二つは、四角の内側の同じ高さに並んでいた。上の縁からの空きと、下の縁までの空きが、目で見て同じだけあった。書いた者は、置く場所を先に決めてから書いたことになる。
灯は自分の書く四角を、頭の中で作った。溝の四角と同じ大きさにする。上の縁からの空きも合わせる。
合わせてから、指の腹で布を一度なでた。なでた向きは、書く線と直角になる向きにした。布の目がそろうと、芯が逃げにくい。
布は木の札より重い。手のひらの上で、上着の布は下へ垂れようとした。灯は指を四本開いて、布の下を広く受けた。受けると、書く場所の布だけが平らになる。
平らにしても、板の上とは違う。板は押せば返してくる。布は押したぶんだけ沈んで、そのまま戻らない。
灯は力の入れ方を、一度手で試した。何も書かずに、芯の腹で布の上を滑らせる。そこに跡は残らなかった。
灯は芯の先を布へ当てた。
当てただけでは、何も付かない。布の目が芯の先を逃がす。灯は少しだけ押した。押すと、目の間に芯が入った。
一つ目の字は、短い横の線から書く。右上がりに引いた。
線を引くと布が引かれて、先で少し寄った。そのぶんだけ線が曲がる。灯は引き終わってから、寄った布を左の手のひらで戻した。
その下に、もう一本。こちらは長い。
最後に、上から下へ縦を一本。下のところで少しだけ左へ抜く。そこで芯が布の目へ引っかかった。灯は力を弱めた。それから、もう一度同じ場所を通した。
一つ目ができた。
灯は顔を近づけた。線は黒い。木の札に書いた時より太くて、縁のところが少しにじんでいる。にじんだ縁は、布の目に沿って四方へ伸びていた。
二つ目へ移る。
二つ目は線が二本しかない。左に短い縦を一本。
引いている途中で、戸の外で足の音がした。
灯は手を止めなかった。
右に長いほうを一本。下まで来たところで内側へ寄せる。途中から細くする。誰にも教わっていない引き方だった。
書き終えた。
鉛筆を持った手を、灯は一度そのまま止める。止めている間に、火の中で炭が一つ音を立てた。
灯は鉛筆を布から離した。
布に入った線は、書いた先から濃くなった。薄くなったところは一つも無かった。
二つの字は、左の二つの溝と同じ大きさで並んだ。
字の上を、灯は指の腹でなでてみた。
黒いものが指に付いた。取れたのは表の粉だけで、線そのものは薄くならない。灯はもう一度、今度は逆の向きへなでた。同じだけ付いて、線は同じだけ残った。
灯は指の粉を、上着の裾の内側でこすった。裾の内側なら、外からは見えない。
書き終えたあとで、灯は左の手のひらを動かさなかった。動かすと布が戻って、字の形が変わるかもしれない。しばらくそのままでいた。
字の上に細い影を作っているのは、火の側から来る光。線の右側にだけ影が出ていた。芯が布の目を押し倒した向きになる。
押し倒された目は、起きてこなかった。
灯は上着の裏の、書いた場所へもう一度目を落とした。
二つの溝と、二つの字。四つが横に並んでいる。並びの間隔は同じではない。溝と溝の間より、字と字の間のほうが少しだけ広かった。
広いのは、灯の手が大きいからになる。木の札に書く時も、四つ角では二文字の札のほうが三文字の札より字の間が広い。
灯は間を詰めなかった。直すには、書いたほうを消すことになる。
灯は左の手のひらを布の下から抜いた。抜くと、布は元の形に戻る。戻っても、字の形は変わらなかった。
戸が開いた。
キリが入ってきた。器を二つ持っている。洗ってきたらしく、縁のところに水が残っていた。
灯は上着を裏返した。表を上にして、床へ置き直す。置き直した時も、板へ先に着いたのは裾の縫い足したところ。
キリは器を二つ重ねて持っていた。上の器の底が、下の器の縁に載っていた。載せ方は毎回同じで、欠けているほうが下になる。
入ってくる時、キリは頭を下げた。その高さは、戸の高さより少し余分に見えた。何度も当てた者の下げ方になる。
キリは器を棚の下の段へ入れた。入れてから、火を見た。炭は三つとも同じ場所にある。
部屋の空気は、灯が入ってきた時より少しだけ温くなっていた。火を起こしたぶんになる。天井のほうの空気は動いていない。
「もう帰るか、灯。日が落ちる」
灯はすぐには答えなかった。
「うん。支度する」
「日が落ちきる前に出ろ。細い道は先が暗い」
灯も立った。上着を両手で持って、壁のくぎのところまで行く。
襟を引っかけて掛けた。高さは、外した時と同じにした。裾が床から浮く幅も、灯の手のひら二つぶんに戻した。
キリは見ていない。火の前に膝をついて、炭の位置を一つだけ直していた。
鞄のひもを、灯は肩へ掛けた。
「輪、一つでいいんだよね」
「そうだ。さっき言った」
灯は鞄から輪を出した。二つのうち一つを、床の板の上へ置く。キリは取らなかった。取らないまま、炭のほうを見ていた。
「取らなくていいの」
「あとで取る。そこへ置いとけ」
灯は残った一つを鞄へ戻す。輪が筆箱の角に当たった。
「明後日は来るか。三十一日の次だ」
「行く」
「俺は四つ角にいる。板を二枚出す」
「知ってる。行く」
キリはそれ以上言わなかった。炭の位置を直した手を膝の上へ戻して、火のほうを見たままでいた。
灯は戸のところで一度、部屋の中を見た。棚が三つ。上の段に十七。隅にたたんだ布が四枚。天井の継ぎ目が三本で、真ん中の一本だけが太い。
戸のところで、灯は一度だけ振り返った。
壁の上着は動いていない。裏は壁の側を向いていて、こちらからは何も見えなかった。
外へ出ると、細い道はもう影。
細い道の壁の湿りは、来た時より上まで来ていた。灯の肩の高さのあたりで、縁が横に伸びていた。手を当てると、来た時より冷たかった。
道の突き当たりの戸は閉まっていた。戸の下の隙間から、細い光が外へ出ていた。光の幅は、灯の指の一本ぶんもない。
灯はその幅を目で測った。
水場のほうだけが明るい。灯は明るいほうへ歩いた。
水場には誰もいなかった。石の縁は昼の温さを残していて、上の面だけがまだ温さを持っていた。灯は座らなかった。
木の台の上の四角い跡は、暗くなってからのほうがはっきり見えた。周りの木が暗くなると、浮いて残るのは四角の内側。
灯は台の横を通った。通る時に、指の先で台の縁を一度なでた。木は乾いていて、ささくれが一本、指に引っかかった。灯はそこで手を止めて、指を開いた。
歩きながら、鞄の中で筆箱を手のひらで探した。当てて、蓋をつぶれた側から開ける。
中に鉛筆が二本。
指の腹で、二本の頭を順になぞった。片方の先だけが、いつまでも指の腹に当たらない。
長かったほうの先が、筆箱の中でもう一本より低い。




