第020話 取引
八月二十九日。地下の通路は、八日前より暗かった。
手前の電球は二つとも点いていた。三つ目は消えたままで、四つ目のかさの内側にも黒いところが広がっていた。灯は棚の右側の前で足を止めた。二百三十本。柄の色の並びは八日前と同じに見えた。数えなくても、端から三本目の赤いのと、その二つ隣の緑がすぐ目に入る。
左の棚は四十になっていた。八日前は三十四。六本増えていた。新しいほうの柄には札が付いていて、字は川辺さんのものだった。灯は二枚読んだ。拾った場所と日にちだけ。名前の欄は二枚とも空いていた。
右の棚の札は、どれも七月の日付のままだった。
灯は右の棚に手のひらを当てた。柄と柄の間に指を入れると、奥のほうは冷たい。手前の三本だけが、通路の空気の温さを持っていた。
あと二日。
口の中でそう言ってから、灯は通路の奥へ歩いた。棚の終わりの壁で止まる。縦の線が二本、上から下まで通っていた。取っ手を半分回して、手前へ引く。下の縁が床に擦れた。灯は両手にして、足を斜めに置いた。
外へ出ると、道の石が乾いていた。八日前は目地の土が黒かった。今日は白く上がっていた。灯はしゃがんで、目地へ指を差し入れた。粉になった土が爪の先に付く。
街灯は二本目までが点いていた。三本目は消えたままで、かさは下を向いている。灯は三本目の下で足を止めた。柱に背中を当てて、頭のところへ手を乗せる。下から三つ目の傷に、指が当たった。
当たった位置は前と同じだった。灯は手を離して、そのまま四つ角のほうへ歩いた。
道の右側の店は、戸が半分だけ開いていた。棒に赤い布は掛かっていない。中で何かを動かす音がして、それから戸が全部開いた。中年の男が桶を持って出てきて、道の端へ水をまいた。水は石の上で線を作る。線はすぐ細くなった。
「今日はどこも早い」
男は灯を見ないでそう言う。灯は答えなかった。答えないうちに、男は戸の内側へ戻っていた。
四つ角に台が三つ出ていた。八月十日は、数えるのをやめるほど台が並んだ。三つのうち一つは布が掛かったままで、後ろに人がいない。
キリの台は東の角にあった。板は二枚。脚は四本。灯はその前で止まった。
止まって、それから男の手のほうを見た。
手の甲の皮が、前より薄い。骨の形が上から透けて出ていた。指の関節のところだけが太くて、そこで皮が寄っていた。爪は短く切ってあった。切り口は斜めで、刃物で落としたものらしい。
灯は男の顔へ目を上げた。顎の下から首へ落ちる線が、前より近い場所にあった。髪の生え際は、こめかみのところで後ろへ寄っていた。
「二十四になってる」
灯が言うと、男は板の上の物を並べ直す手を止めなかった。
「そうなる。今日で二十四になった」
「一日で一年ぶんだ」
「そういう勘定になるな」
男は金物の輪を一つ、板の左の端へ寄せた。それから二つ目を、その隣へ置いた。並べ方は前と同じで、左から小さい順になる。
灯は自分の鞄を膝の上で開けた。中は筆箱と、水筒と、青い表紙のノートと、輪が三つ。それに、四つ角で名前を書いた紙が一枚。
輪を三つとも板の上へ出した。男は数えなかった。そのまま板の隅へ寄せる。
「あんたのだ。俺の勘定には入れん」
「それは知ってる」
灯は三つを鞄へ戻した。戻す時に、一つが指から落ちて板の上で回った。回りが止まるまで、二人とも取らなかった。
「二十七日、あんたは来なかったな」
「二十七日は行けなかった」
「そうか。行けん日はあるだろう」
男はそれだけ言って、布の端へ石を載せた。石は台の下から出したもので、灯の親指ほどの大きさをしていた。
二十七日。灯はその日のことを出そうとした。出てくるのは、家の台所と、母の勤めの丸と、千夏からの返事の五文字だけになる。あちらのことは一度も出てこなかった。
二十七日は、朝から雨だった。灯は家にいて、台所の窓の下で母の勤め表を見ていた。丸は月の後ろのほうに固まっていた。昼に千夏から電話があって、二学期の始業式の持ち物の話を十分ほどした。夕方に洗い物をして、夜は九時に寝た。
その一日のどこにも、地下の階段は入っていない。棚の右側の二百三十本も、四つ角の板も、名前を書いた札も入らなかった。
腹が立った。灯は袋のひもを肩へ掛け直した。
灯は台の後ろへ回った。板の下の段から、木の札の束を引き出す。四つある。厚みは八日前と変わらない。
「今日は名前を書かないんだ」
「書く奴が来んからな。今日は無い」
「行くところがあるの」
「トバリだ。向こうで勘定を締める」
「あたしもトバリへ行く」
「来い。荷はあんたが持て」
男は板の上の物を袋へ移しはじめた。移す順は右から左で、金物が先、布が後になる。灯は袋の口を開けて持った。袋は前より軽い。中身が減ったのではない。袋そのものが薄くなっていた。手のひらで挟むと、布の目が指の腹に出た。
「この袋、下のほうが破れてる」
「縫う糸が無い。買う気も無い」
「うちに縫う糸ならある」
「持ってくるな。あんたの物はこっちで消える」
灯は口を閉じた。閉じてから、袋の破れているところを内側へ折って持ち直した。
西の角の台の後ろに、一人だけ座っていた。年寄りではない。灯より背の高い者で、板の上に何も並べていない。板は空のまま日を受けていた。
「あの人、何も出してない」
「出す物が無いんだろ。俺は聞いてない」
「あたしなら出さない」
キリは西の角のほうを見なかった。見ないまま、袋の口をひもで一度巻く。
「三十一日までは台を出す決まりだ。出せば数に入る」
灯はその台のほうをもう一度見た。座っている者は動かなかった。板の木目の上に、手のひらを置いたままでいた。日は板の右の端まで来ていた。
東の道から荷を担いだ者が二人来て、四つ角を通り過ぎた。どちらも台を見ない。足の速さは同じで、二人の間の距離も変わらなかった。北の道へ入って、そのまま見えなくなった。
「四つ角の人が減った」
「減ってはいない。出てこんだけだ」
男は袋の口をひもで締めた。それから、板を二枚とも脚から外した。二枚は壁へ立てかける。脚は四本まとめて、布でくるんで台の下へ入れた。
「板は置いてくんだ」
「板は持って歩くもんじゃない。重い」
「置いといたら盗られるよ」
「盗る奴がいたら、それはそれで数に入る」
灯は板の立てかけてある側を見た。木の表面に、ここ何日かで付いた傷が三本あった。どれも浅い。灯が名前を書いた時に、札の下から板へ通った線もそこにある。線は三本より濃かった。
灯は指でその線をなぞった。なぞりながら、袋のひもを握り直していた。
*
東の道は四つ角を出てすぐ下りになる。石の目地は前より広く見えた。灯は袋を右の肩へ回した。回すと、破れているところが背中の側へ来る。
道の先が開けたところで、匂いが変わった。湿った紙と、古い布と、金物。地下の階段を下りた時の匂いに一番近いのが、この場所だった。
積み場は前より広く使ってあった。列は四つ。四つ目は他より短くて、まだ端が伸びる途中に見えた。高さは灯の背を越えていた。下から順に大きいものが置いてある積み方は、七月に見た時と同じだった。
列の高さは場所によって違っていた。手前は灯の背より高く、奥は肩のあたりまでしかない。奥のほうの箱は縄が白い。手前のは茶に寄っていた。
灯は一列目の横を歩いた。歩幅で数えると、端まで七十四歩あった。七月は六十二歩だった。端が十二歩ぶん先へ伸びている。
伸びた先の地面には、まだ何も置いていない土が続いていた。ならしてある。踏むと、靴の裏が沈まないくらいには固い。
荷を運んでくる者が三人いた。どの者も列の手前で下ろして、すぐ戻っていく。置く前に列の端を一度見る。その見方も同じだった。
四つ目の列の横に、人が立っていた。
灰色の上着の裾が、膝の下まであった。歩いても同じ形で揺れる。灯はその揺れ方を覚えていた。忘れられ横丁で、前を歩いていた背中が同じ揺れ方をした。
回収人だった。
手に帳面がある。開いたまま左の手のひらへ載せて、右手で線を引いていた。引く時に袖が下がって、手首から先だけが日に出た。
灯は近づいた。男は顔を上げない。
「今日はここなの」
「ここだ。三十一日の前は積み場だ」
灯は帳面のほうを見た。開いた面は上から下まで埋まっていた。番号ではない。
字だった。
二字のものが並び、その下に三字、その下に四字と続いていた。行の頭がそろっていて、間に線が一本ずつ入っていた。灯の位置からは、さかさまではない向きで見えた。
「そこに書いてあるの、名前」
「名前だ。回収した物は名で付ける」
「荷の札は番号しか書いてない」
「札は運ぶためだ。帳面は残すためになる」
男は右手を止めなかった。止めないまま、次の行へ移る。
灯は帳面の紙の厚みを見た。閉じている側が膨らんでいて、指の二本ぶんはある。書いてある紙のほうが、書いていない紙より厚い。
「全部、あなたの字だ」
「私が書いた。ほかに書く者はない」
「それ、何年ぶんあるの」
「数えていない」
男は線を引き終えて、帳面を閉じた。閉じてから、上着の内側へ入れる。差し込む先は決まっているらしく、手は迷わなかった。
灯は男の帳面の背を見た。糸でとじてある。糸の色は上のほうだけ濃くて、下へ行くほど薄くなっていた。同じ帳面を長く使うと、こうなるらしい。
「後ろのほうの余白が少ない」
「替える時は替える。余白はまだある」
男は列のほうへ体を向けた。
「三十一日の朝から回る。順は札の頭の数だ」
言ってから、灯ではなく、少し後ろのほうを見た。
キリが袋を提げたまま立っていた。
「そっちの台も入る。四つ角は最後に回る」
「知ってる。去年も同じことを言われた」
「締めは早いほうがいい。遅れは翌日にならない」
キリは何も言わずに、袋を持ち替えた。
灯は男の顔を見た。目のところに影が落ちていて、どこを見ているかは分からない。ほおの皮は乾いていた。割れてはいない。
「名前を書いてある物はどうなるの」
「書いてあれば、そう付ける」
「付けるだけ。それだけ」
男の右手は止まらない。線は同じ速さで下へ伸びていった。
「それだけになる」
列と列の間に、箱へ入っていない物が寄せてあった。小さいものばかりで、七月に見た山より広がっていた。ボタン。ひも。金具。布の切れ端。灯はしゃがんで、上から見た。
木のものが一つ、端のほうに出ていた。
灯は指で挟んで引いた。木の札だった。長さは灯の人差し指ほど。上のところに穴が開いていて、穴の縁が丸くなっていた。何度も通したあとらしい。
裏を返した。
字が二つ書いてあった。灯の字だった。
いつ書いたかは出てこない。四つ角で名前を書いたのは、この夏で十四になる。どれも同じ大きさで、同じ木で、同じところに穴が開いていた。灯は二つの字を指でなぞった。
木の面は日で白っぽい。字のところだけが濃かった。濃さは、書いた日から一度も薄くなっていないように見えた。
灯は札を山へ戻そうとして、途中で手を止めた。
「この札、あたしが持ってく」
「その山は持ち出せない。札も同じだ」
「持ち主があとから来たら」
「来るなら来る。私は数えるだけだ」
灯は札を山の上へ置いた。手を離した先は、抜いたところより少し手前だった。元の位置は覚えていない。
男は列の四つ目の端へ歩いた。歩幅が大きい。灯は三歩に一度、早足を混ぜないと横に付けなかった。
列の端に、束にした傘が寄せてあった。縄の掛け方は、七月に灯が一本抜いた束と同じ形。灯はその束の前で止まった。
「これ、まだ残ってる」
「同じ束ではない。前のは出た」
「前のは、ここにない」
「過ぎれば出る。ここには残らない」
灯は束の縄へ指を掛けた。そこで指が止まる。抜けば、また同じ場所へ戻すことになる。戻す場所は、七月と同じには見つからない。
灯は指を離した。
男は列の端に立って、上着の内側から帳面を出した。出して、開いて、また線を引いた。その音は、灯の位置からは聞こえない。ただ右手の甲だけが、一定の速さで下へ動いた。
「書く側なんだろう」
男はそう言った。灯のほうは見ていない。
「そう。あたしが書く」
「なら急げ。三十一日は延びない」
灯は口を開かずにいた。そのうちに、キリが東の道のほうへ歩き出した。灯は袋を持ち上げて、後ろに付いた。
二十歩ほど行ってから、灯は一度だけ振り返った。
男は四つ目の列の端に立ったままだった。帳面は開いている。積んである物の高さは、男の肩の少し上まで来ていた。
東の道へ戻ると、下りがきつくなった。石の敷き方が途中で変わって、目地の土が黒くなる。踏むと少し沈んだ。
「あの人、毎年来るんだ」
「毎年だ。この時期だけ道に出てくる」
「あの人、怒らないの」
「怒る仕事じゃない。数える仕事だ」
道の両側の家は、少しずつ低くなっていった。屋根の傘の色も薄い。三軒に一軒は布が張ってあって、字の残っている家が二軒あった。灯は歩きながら二軒目の字を目で追った。知っている字にはならない。
家が途切れて、塀も無くなった。道の両側が草になる。草の丈は灯の膝ほどで、道に近いほうが短かった。
*
境目の石は草の中に立っていた。灯の腰ほどの高さで、上が平たい。表面の苔は、日の当たる側だけ乾いていた。灯は手のひらを乗せた。乾いた側は温かく、影の側は冷たい。境目のところで温さが切れる。
石を過ぎて十歩ほどで、首の後ろの明るさが変わった。灯は立ち止まって上を見た。後ろと前で空の色が別になっていた。境目は線ではなく、少しずつ移っていく幅を持っていた。
三十歩でトバリに入った。
街灯が両側に並んでいる。灯は柱を右から数えた。十二。左は十一。八月八日は右が十四で、左が十三だった。
火の色は同じだった。赤と黄の間で、揺れない。消えている柱は、かさの内側まで黒くなっていて、そこだけ他の柱より細く見えた。
「二本ずつ減ってる」
「そうか。あんたは数えてるんだな」
キリはそれ以上言わなかった。灯も聞き直さなかった。
板の道は前と同じ幅で、両側に台が並んでいた。台の数は九つ。並びも変わっていない。板と板の継ぎ目のところで、足の裏の当たり方が変わった。
台の後ろの者は、九人のうち六人が起きていた。三人は腕を組んで下を向いていた。灯とキリが前を通っても、誰も声を掛けなかった。
取引所は板の道の突き当たりにあった。石の壁で、入口の上に屋根が張り出していた。張り出した下だけ光が届かない。
キリは入口の手前で袋を持ち替えた。
「中で待て。俺は奥へ行く」
「あたしはどこにいればいい」
「入口の左に椅子がある。動くな」
キリは奥の細い道のほうへ入っていった。上着の裾が、歩く度に同じ形で揺れる。灯は椅子のところまで歩いて、腰を下ろした。
椅子は木で、座るところが真ん中だけへこんでいた。灯は背をつけないで座った。膝の上に袋を置いて、両手で押さえる。
入口の奥に机が一つあって、書記が座っていた。八月八日に見たのと同じ人だった。紙の束を左から右へ移していて、移す度に右手の指をなめた。紙の音は、教室でみんなが一斉に問題用紙をめくる時の音に似ていた。ただし一人ぶんしかしない。
灯はその音を数えかけて、途中で数えるのをやめた。
壁に地図の板が掛かっていた。八月八日に見たものと同じ板だった。海の側の空白も同じ広さで、その手前の町の名だけが読める。灯はその字を目でなぞる。なぞっても、まだ知っている字にはならなかった。
入口の外を人が二人通っていく。話し声はしない。足の音だけが左から右へ動いて、それから消えた。
「灯さん」
灯は振り向いた。
ヨルが張り出した屋根の下に立っていた。上着の裾は膝の高さで、形が崩れていない。手には何も持っていなかった。
「名を覚えていました。前に一度、目に入っています」
「あの時、見てないって」
「ノートに書いてありました。開いた紙は、こちらからは見えません」
八月九日と同じ二つが、同じ順で続いた。灯は言い返す言葉を探して、見つからないまま口を閉じた。
ヨルはそう言って、灯の隣の椅子のほうへ手を向けた。座ってもいいかという形になる。灯は首を動かさずにいた。それを待たずに、ヨルは座らないまま壁ぎわへ寄った。
「あれから、数えていただけましたか」
灯が口を開くまでに、二つ数えるほどの間があった。
「十四あった」
「十四。それは書いた数ですね」
ヨルはその数を繰り返す。繰り返しただけで、褒めも驚きもしなかった。目は灯のところで止まっていた。
「では、こちらから値の話をいたします」
「値って、なんの」
「前に、数えた日にすると申しました。約束は守ります」
ヨルは上着の内側から、小さいものを出した。厚い紙の札だった。角が四つとも落としてある。表に判が一つ押してあって、判の縁が紙より少し盛り上がっていた。裏は白い。
ヨルはそれを灯のほうへ向けて持った。渡しはしない。
「三十一日に回るのは、探している者のいないぶんになります」
「それはもう知ってる」
「こちらから、探していると出せます。一人ぶんです」
灯は札を見た。判の中の形は読めなかった。線が三本と、その下に丸が一つ。
「これで、外れるの」
ヨルは札を持った手を、少しだけ下げた。下げても、灯の手の届く高さにはならない。
「その一人は、三十一日の順から外れます。翌年の同じ日まで持ちます」
「たった一年だけ」
「一年です。毎年出していただければ、毎年持ちます」
灯は札から目を上げた。
「毎年出すと、毎年値が付く」
「付きます。札もそのつど新しくなります」
ヨルは札を裏返した。白い面が上になる。
「使う時は、ここに名を一つ書いてください」
「書けるのは一つ」
「一つです。書き直しはできません。二つ書けば、どちらも通りません」
灯は自分の右手の指を見た。爪の横に、木の粉が少し残っていた。積み場で札をなぞった時のものらしい。
「その値段はいくら」
「思い出が一つになります。お一人ぶんです」
「どれが消えるの」
「こちらでは選べません。使った日にいただきます」
灯は膝の上の袋を持ち直した。袋は軽いままだった。
「使わなかったらどうなるの」
「取りません。札はこちらへ戻してください」
ヨルは札を灯のほうへ差し出した。灯は受け取らなかった。受け取らないでいる間、ヨルは手の高さを変えなかった。腕は下がらない。
「なんで、あたしに」
「書ける方が少ないからです。それだけになります」
「書ける人はほかにもいる」
「います。こちらの者が書いたぶんは、一年持ちません」
灯は札を受け取った。
紙は思ったより硬かった。指で曲げようとしても、曲がるのは端の少しだけになる。表の判のところは、なぞると爪が引っかかった。
灯は札を筆箱の内側へ差し込んだ。鉛筆と削り器の間に、平らに置く。置いてから、筆箱の蓋を閉めた。
ヨルの体が、壁の地図の板のほうへ向いていた。
「一つ、お聞きしてもいいですか」
灯は黙ったままでいた。返事を待たずに、ヨルは続けた。
「扉は、そちらの側から開くものですか」
「そんなの知らない」
「僕も知りません。開く時と開かない時があるとだけ聞いています」
ヨルは地図の板の、海の側の空白へ指を向けた。触れはしなかった。指の先と板の間に残っているのは、灯の指が一本入るだけの隙間。
「ここは十四年前まで、白くありませんでした」
「その先は消えたの」
「消えたのではありません。書き足す者がいなくなりました」
ヨルの指が下りた。指の跡は板に付かない。
灯は板へ目を戻した。空白の縁のところで、線が途中で切れていた。切れた先に、点が二つだけ残っていた。点は板の目に沿って少しにじんでいる。
奥の細い道から足の音がした。キリが戻ってきた。袋は行きより薄い。手には何も持っていなかった。
「そっちで俺の勘定は締まったか」
ヨルはキリのほうへ体を向けた。
「締まりました。四十一の方の勘定は、二十九日で零です」
「残るぶんはまだあるのか」
「残りません。三十日と三十一日のぶんは、こちらでは付けません」
キリは何も言わないで、袋の口のひもを結び直した。結び方は二重で、端を内側へ折り込む形をしていた。灯はその手を見ていた。指の関節のところで皮が寄る。寄り方は朝と同じだった。
「行くぞ。日が回ると坂が影になる」
灯は椅子から立った。立つ時に、膝の上の袋が滑って、床へ落ちかけた。灯は袋の口を握って止めた。握ったところで、筆箱の中の札が動く音を思った。音は実際にはしていない。
ヨルは入口の屋根の下まで一緒に歩いた。
「灯さん」
灯は板の上で足を止めた。
「札は水にぬらさないでください。ぬれると判が流れます」
「流れたらどうなるの」
「流れたら通りません。書き直しもできません」
灯はうなずいた。うなずいてから、初めてその名を口に出した。
「ヨル」
「はい」
*
板の道を戻る時、ヨルは灯の右を歩いた。歩き方は速くない。キリは二人より先を行っていて、袋を左の肩へ移したところだった。
台の後ろの者は、行きより一人多く起きていた。七人になる。そのうち二人がヨルのほうへ顔を向けて、向けただけで下ろした。
「これ、断ってもいいの」
灯は歩きながら言った。
「いつでも構いません。戻す日は決めていません」
「捨てる人だっているでしょ」
「います。ただ、捨てた札はこちらから探しません」
灯は筆箱の入っている側の鞄の腹を、外から手のひらで押さえた。厚い紙の角が、布ごしに指の付け根へ当たる。
「これ、一枚しかないの」
「いまお渡しできるのは一枚です。ほかにはありません」
板の道の左に、細い道の口があった。八月九日に入った道になる。奥のほうは暗くて、戸の形までは見えない。戸の上に下がっていた四角い板は、今日は横を向いていた。風は無い。
「あそこ、前に入った」
「まだやってる。今の時期がいちばん出る」
答えたのはキリの声。三歩先から、振り返らずに言った。
ヨルは何も足さなかった。そのまま灯の右を、同じ速さで歩いた。
板の継ぎ目が三つ続けて広くなっていた。灯は歩幅を少し縮めた。三つ目を越えると、板の下の水の面が見えた。面は動いていない。街灯の火が二つ、そこに落ちて止まっていた。
街灯の並びが終わるところで、ヨルは足を止めた。石の壁が切れて、その先は草になる。
「僕が出るのはここまでにします」
灯も止まった。キリはもう草のほうへ入っていて、背中だけが見えた。
ヨルは上着の袖を直した。直し方は、取引所で裾を直した時と同じ。
「札は一枚だけです。二枚目の値段は決めていません」
灯は返事をしなかった。返事の代わりに、鞄のひもを肩へ掛け直した。
ヨルは草のほうへは出てこなかった。石の切れているところに立って、そこから先へは足を置かない。灯は三歩進んで、それから振り返らなかった。四歩目で、首の後ろが一度こわばった。
草の中の道は行きより見つけやすい。踏まれたところだけ丈が短く、二人ぶんの幅で先へ続く。灯はキリの背中の三歩後ろを歩いた。
「ヨルは何を締めたの」
「勘定を締めてきた。それだけだ」
「零だって言ってた」
「借りも何も無いってことになる」
「零って、いいことなの」
「借りも貸しも無い。それだけだ」
キリは草を分けながら歩いた。分けた草は、灯が通る時にはもう戻りかけている。灯は肩で二度、草の先を受けた。腕の外側だけが少し湿る。
「あんた、あそこで何をもらった」
灯は答えなかった。
答えないでいると、キリはそれ以上聞いてこない。歩く速さも変えなかった。灯は鞄の腹を、もう一度外から押さえた。
草の丈は行きより低く見えた。灯は自分の足元を見た。影は行きの半分もない。歩くと、草の先が靴の甲を二度ずつ打った。
「三十一日、どこにいるの」
「四つ角だ。いつもどおり台は出す」
「その日も台を出すんだ」
「三十一日まで出す決まりになってる」
「あの人が回るって言ってた」
「回る。台を出してても回っていく」
灯は自分の歩幅を、キリの歩幅に合わせようとしてやめた。合わせると、草の短いところから足が外れる。外れた先の草は丈が高くて、膝の上まで来た。
空の色が前と後ろで別になった。境目は幅を持っていて、歩くほど後ろが暗く、前が明るくなる。灯は首の後ろの明るさが変わるところで一度立ち止まった。
東の斜面のほうから、灰色の線が一本、丘の裾へ下りていた。線は動いていない。灯は目でその端をたどって、草の切れているところで見失った。
「あれ、朝は無かった」
「朝からあった。日が回ると出てくる」
境目の石が草の中に立っていた。
上が平たい。日は石の右の半分まで来ていた。灯は袋を草の上へ置いて、石の乾いた側へ腰を下ろした。石は温かい。座ると、服ごしに温さが足の裏側まで来た。
「そこで休むのか。日はまだ高い」
「少しだけ休む」
キリは十歩ほど先で止まって、草の中に立ったままでいた。座らない。袋も下ろさなかった。
石の温さは、座っているところから外へ逃げていく。足の裏側はまだ温かい。手のひらを石の影の側へ移すと、そちらは日の当たっていた側より三度ぶんほど低かった。
草の向こうで、キリが袋を持ち替えた。それだけで、こちらへは来ない。
灯は鞄からノートを出した。ついでに、四つ角で名前を書いた紙も引き出した。紙は一枚で、たたんだ跡が三本ある。折り目のところの字だけが、他より薄くなっていた。
紙をたたんだまま、灯は膝の上でしばらく手を止めた。
灯は膝の上で紙を開いた。名前は十四あった。
紙の折り目のところで、字が一つ切れかけていた。上の横棒だけが残っていて、下は白い。灯はその字を指の腹でこすった。こすっても濃くはならない。折れたところの紙が薄くなっているだけで、字が消えたのではなかった。
灯は紙を裏返した。裏には何も書いていない。四つ角で書くのは表だけになる。
筆箱を開けて、札を出す。厚い紙の角が、鉛筆の軸に当たって少し鳴った。
札をその上へ置くと、四つが隠れた。灯は札を少し動かした。動かすと、別の四つが隠れる。
灯は札を紙の右の縁まで滑らせた。そこでは、隠れるのが二つだけになる。




