第019話 留まった三日間
その夜、男は灯を追い返さなかった。
追い返す代わりに、部屋の隅を指した。そこには、たたんだ布の山がある。上の一枚だけが新しくて、下の三枚は色が抜けていた。
男は火の始末をしながら、こちらを見ないで言った。言い方に、驚いた者の間が無い。
「そこの布を四枚とも敷け。板の上に直に寝ると、朝になって背中が痛い」
「厚くなりすぎない」
「三枚じゃ足りん。俺で試した」
灯は上着の袖で目のあたりを一度こすってから、布のほうへ行った。
布は四枚とも同じ大きさではなかった。いちばん下の一枚だけ、端が二か所ほつれていた。ほつれた糸は指で押さえると隠れる。
灯は布を下ろして、部屋の隅へ一枚ずつ重ねた。四枚重ねると、厚みが指二本ぶんになる。広さは灯が横になってちょうど埋まるだけあった。
男は帳面を棚の上へ戻して、火を落とした。炭の赤いところが、灰の下で細くなっていく。落としたあと、戸の内側の閂を掛けた。その音は低かった。
部屋の中は火を落とすと急に狭くなった。壁の位置は動いていない。灯は自分の手を目の前へ出してみた。指の形までは見えなかった。
「寝床が一日で一つだ」
「一つって、輪のこと」
「輪が一つ。飯を入れると、三日で三つになる」
灯は指を折った。今の取り分は三つになる。三日で無くなる。
三日で三つ。灯の指は三本のところで止まった。止まった指を開いて、もう一度折り直す。数は動かなかった。
三日ぶんの寝床と飯で、取り分がちょうど無くなる。灯は二度数えた。どちらも同じ数が出た。
「じゃあ働いて払う」
「そうしろ。台の後ろで名前を書け。一枚で一つ払う」
男は自分の寝る場所へ行って、壁に背を付けた。膝を立てて、その上へ手を置いた。座ったまま寝る形だった。灯は前にそれを見たことがない。
「座ったまま寝るんだ」
「慣れてる。板の上より、そのほうがましだ」
「あんた、家のほうはどうするんだ」
「言ってない。誰にも」
「そうか」
男はそれだけ言って、膝の上の手を組み替えた。そこで話は終わった。
灯は布の上へ横になった。天井のほうから、木の乾いた匂いが下りてきた。棚の板の匂いらしかった。昼の間は分からず、火を落としてから出てきた匂いになる。天井の板の継ぎ目が、上から三本見えた。三本のうち真ん中の一本だけが、ほかより太かった。
目を閉じて、開けた。まだ夜になる。
家のことを、灯は一度だけ考えた。母は今夜も勤めで、朝までは帰らない。祖母は地下から戻って、部屋の灯りを点けているはずだった。台所の紙の下の硬貨は、小皿へ移してある。
考えたのはそこまでで、その先は続かなかった。続かないまま、灯はもう一度目を閉じた。
布は思ったより薄い。板の固さが背中の三か所に当たった。当たる場所を少しずつずらして、四度目でどこにも当たらなくなる。
翌朝、灯は男より先に目を覚ました。
部屋の中は薄暗かった。戸の下の隙間から入る光が、床の板を一本ぶんだけ照らしていた。当たっている板の色が、そこだけ明るい。
灯は起き上がって、男のほうを見た。
寝ている顔は、起きている時より輪郭が緩んだ。灯は前に母の寝顔でそれを覚えた。この人の顔は緩んでいなかった。座ったまま寝ているので、顎が少し前へ出ていた。
顔は昨日と同じ形をしていた。顎の骨も、目のところの骨も、横の骨の白い傷も、昨日の夕方に見たままになる。灯はそれを確かめてから、布の四枚目をたたんだ。
たたんでいると、男が目を開けた。その時、体はもう動いている。
「顔を洗ってこい。水場は坂の下だ」
「場所は分かる。昨日、坂の下まで行った」
「なら早く行け。台は日が高くなる前に出す」
男は棚の下から布の袋を出して、中から乾いた何かを二つ取り出した。一つを灯のほうへ投げてよこした。灯は両手で受けた。手の中のものは平たくて、指で押すと少しへこんだ。
「食え。歩きながらでいい」
「これ、何なの」
「食い物だ。それ以上は聞くな」
口の中で潰すと、乾いた粉になった。粉のほうは、水を入れると一つにまとまった。灯は水場までそれを持っていって、水と一緒に飲み下した。
外の道はまだ人が少なかった。戸を開けている家が三軒あって、そのうち二軒から煙が出ていた。煙は上がらずに、屋根の高さで横へ流れる。
道の端の溝に、細い水が流れていた。水の上に葉が二枚浮いていて、二枚とも同じ速さで下っていった。灯は溝の縁を三歩ぶんついて歩き、それから道の真ん中へ戻る。
水場の石は朝のほうが冷たかった。灯は両手で水をすくって、二度顔へ当てた。そのあとで、水面に映った自分を見る。映りは細かく揺れて、形までは分からなかった。
四つ角へ着く前に、灯は扉のほうへ二十歩だけ戻った。三本目の街灯がそこに立っている。柱には根元から順に傷が刻んであった。灯は背中を柱へ当てて、頭の上を手で押さえた。指のところは、下から三つ目の傷になった。
昨日と同じ傷になる。
傷は指の幅で三つぶん下にもう一本あった。その下にもう一本。刻んだ者は一人ではないらしく、線の太さが交互に変わっていた。
着くと、男はもう板を渡していた。脚を四本立てて、その上に二枚。灯は木箱を運んだ。運ぶ時、上の箱の欠けた角に指が当たった。
「札を出せ。上の束からだ」
「何枚いるの」
「客の数だけだ。今日は分からん。二十枚出しておけ」
灯は棚から持ってきた束をほどいて、二十枚を数えた。それから、台の左端へ寄せる。その一枚を裏返すと、裏は白いままだった。
台の上の並べ方は、男の手が決めていた。灯が置いた札の位置は二度直された。直す時、男は何も言わない。指で一枚ずつ端を合わせるだけになる。
鉛筆は男のものを借りた。耳から抜いて、そのまま渡された。手に来た鉛筆は先が短かった。短いぶんだけ持ちにくい。
朝のうちの四つ角は、市の日より人が少なかった。通りの端に荷を下ろした者が三人いて、三人とも荷を開けずにいる。中を出す時間が決まっているらしかった。
灯は台の後ろの木箱に腰を掛けた。座ると、台の板が胸の高さに来た。書くには少し高い。灯は木箱を横へずらして、立って書くことにした。
一人目の客は、水筒を持った男だった。台の前で名を言って、灯が書いた。字は三つ。書いている間、客は台の板へ両手を置いて動かなかった。
書き終えた札を渡すと、客はそれを胸のところで持った。そのまま少し立っていて、それから離れていく。
灯は書き終えた字を、上から下へ目でなぞった。三つのうち、真ん中の一つだけが小さくなっていた。書く場所が狭かったせいで、そこだけ詰めて入れている。
「一つだ」
男が帳面へ線を引いた。長さは、ほかの線と同じになる。
*
昼を過ぎて、片手袋が来た。来る前に、台の下で布の擦れる音が三度した。
台の脚のところから、袋の指の部分だけが先に出てきた。そこから、残りが引っ張られるように上がってきた。灯は台の下をのぞいた。
「おねえさん、久しぶりだね。ずいぶん久しぶりだよ」
指の部分が二つ、こちらへ向いている。
「僕はずっとこのへんにいたんだけど、おねえさんはいなかったね」
「いない間に八回、丘のほうまで行ったんだ。行くたびに別の道を使ったよ。ねえ、道が八本って多くない?」
トトは指の一本で、土の上に短い線を引いた。線は八本にならずに三本で止まった。
「それでね、三本目の道の途中に、手袋が片方だけ落ちてたんだよ」
「見つかったの」
「違った。左だった。僕もそうなんだよ。並べても同じ側が並ぶだけなんだ。ねえ、それって一組?」
「並べてみたら、指の長さも違ってた。だから置いてきた」
トトは自分の指の部分を、順に一本ずつ折って見せる。
「置いてくる時に考えたんだけど、左が二つでも二つは二つだよね。おねえさん、どう思う」
「二つは二つになる」
「そうだよね。でも二つでも、そろってないと半分なんだ。ねえ、半分って、いくつになると思う?」
同じことを、灯は前にも聞いている。半分だから消えないという話は、今日は出なかった。
灯は台の下から目を戻した。そこで、二人目の客の影が道の先に見えた。まだ遠い。
灯は台の下をもう一度のぞいた。トトの下の土に、袋の形の跡が残っている。跡の内側だけ、色が少し濃くなっていた。夜の間そこにいたらしかった。
トトは台の上へ上がって、札の束の横へ並んだ。並ぶと、札とほとんど同じ厚みになる。
男は帳面から顔を上げなかった。そのまま、指で台の端を二度打った。音は板の下へ抜けて、そこで消えた。
「そこにいると邪魔だ。下へ落ちろ」
「落ちるのは得意なんだよ。落ちても痛くないし」
「あのね、僕が落ちても、誰かが拾ってくれるとは限らないよね。でも気にしてないよ」
トトは台の縁のところで、指の部分を一本だけ外へ出した。
「僕はもう三百年落ちてるからね。ねえ、三百年って長い?」
台の縁から、トトは自分で落ちた。下で一度ひっくり返って、それから起き上がる。その時に指の部分から順に伸びた。
灯は台の後ろに座ったまま、それを見ていた。口の端が少し上がって、そのまま戻らない。
「ねえ、トト。手袋って、右と左でどっちが多く落ちるの」
「それはね、数えたわけじゃないけど、右のほうがずっと多いんだ」
「左は少ないんだよ。僕もそっちだしね。ねえ、そのほうが探しやすいと思う?」
「でもね、探しにくいんだ。もともとの数が少ないと、はじめから落ちてないからね」
トトの指の部分が、そこで一度そろって止まった。
「おねえさん、これ困るよね」
「それは困る」
「困るよね。でも僕はへっちゃらなんだ。ねえ、そうやってると探せなくなる?」
台の向こうで、男が鼻から短く息を出した。笑ったのかどうかは、灯の側からは分からなかった。
二人目の客が来た。年寄りではなく、灯より少し背の高い者で、名は四つある。全部書き終えて渡すと、客は札の字を近くで見た。見てから、指で一字ずつなぞった。
「二つだ」
男が線をもう一本引く。
灯は書いた四つの字を、渡す前にもう一度見た。三つ目の字だけ、線の終わりが下へ落ちていた。芯の丸さが出ている。
二人目が離れてから、灯は台の後ろで手を握って開いた。鉛筆を持っていた指の腹が、少しへこんでいた。へこみは押すと戻った。
三人目は夕方に来た。名は二つで、書くのはすぐ終わった。そのあと、客は台の前を離れずにいる。
「その字は、あんたが書いたのか」
「あたしが書いた。今日から書いてる」
「そうか」
客はそれだけ言って、札を懐へ入れた。場所は胸のところで、そのうえから一度押さえた。
灯は書いた三枚を、頭の中で並べ直した。三つの字と、四つの字。それから、二つの字。合わせて九つの字を、今日この手で書いたことになる。
「三つだ。今日のぶんは終わりになる」
男が帳面を閉じた。その音は乾いていた。
灯は台の後ろで、書いた名を数え直した。今日で三人。四つ角で名前を書いた紙は、前に数えた時が十一だった。三つ足して十四になる。
数えている間、腹の底のあたりが軽くなる。腹が減ったのだと灯は思った。
道の向こうで、荷を担いだ者が三人、順に通り過ぎた。三人とも同じ方向へ行った。灯はその三人が角を曲がるまで数を保っていた。曲がった先で、三人が二人になった。一人がどこかで抜けたことになる。
板をたたむのは二人でやった。灯が一枚を持つと、男は何も言わずに残りを持った。前は二枚とも男が抱えていた。
「重いほうを持つ」
「あんたは軽いほうでいい」
「あたしにも持てる。前も持った」
「持てても、いい。落として角を欠くと、そのぶん値が下がる」
帰りの坂を、二人で下りた。トトは灯の鞄のひもへぶら下がって、揺れながらついてくる。
「おねえさん、今日はどこで寝るの」
「僕は屋根の下がいいんだけど、屋根の下は場所代がかかるんだよね。おねえさんは払うの?」
ひもの上でトトが一度ぶら下がり直した。
「お金を持ってないから、ずっと外で寝てるんだ。慣れると平気だよ」
「でも雨は嫌なんだ。水を吸うと乾くまでに二日かかるからね」
トトは揺れながら、指の部分を二本立てた。二本は、坂の傾きのぶんだけ後ろへ倒れた。
「中で寝ちゃだめかな。だめだよね」
「場所代は払えないからね。でも場所は取らないよ」
「厚みが札一枚ぶんしかないから、寝てても誰も踏まないと思うんだ。ねえ、踏むかな?」
「あたしは中で寝る。布を四枚敷いて」
「いいなあ。中はいいよね。中で寝ると、朝に背中が痛くないんだよね」
男が前を歩いたまま言う。
「布を四枚敷いた場合だけだ。三枚だと痛い」
トトは何か言おうとして、そこで揺れが大きくなった。灯が坂を下りる速さを上げていた。
*
二日目の朝、灯は自分の服の袖を鼻へ近づけた。
家の洗剤の匂いが薄くなっていた。三日前はここから出ていた匂いで、二度嗅ぐと分からなくなる。灯は反対の腕も鼻へ寄せた。そちらにも無い。
男はまだ壁に背を付けていた。灯は布をたたんで、そのまま外へ出た。
水場までの道は、朝のほうが人がいた。戸を開けている家の数が、昨日より二軒多かった。
その日は市の日ではないので、台は昼まで出さない。朝のうちは数え直す日になるらしく、男は起きてすぐ棚の前へ行った。上の段の物から先に、床へ下ろしていく。それから、一つずつ布で拭いた。
下ろす順は決まっていた。段は上から、物は左の端から。男は一つずつ両手で持って、床の布の上へ置いた。間隔も同じになる。
「これ、全部売り物なんだ」
「出す。買うかどうかは客が決める」
「売れないと、そのあとどうするの」
「棚へ戻す。二十一まで増えたのはそのせいになる」
並べた物の数は二十一だった。灯は左から数えて、途中で一度戻った。同じ形の金物が二つ並んでいる。二つは大きさが違った。
灯は拭く側へ回る。布を一枚もらって、金物の物から拭いていった。拭くと、指の腹が黒くなった。その指を布の端でぬぐって、また次を拭いた。
拭き終えた物は、拭く前より重く見えた。そう見えるのは色が濃くなるためで、持ってみると重さは同じになる。灯は二つ持ち比べて、それを確かめた。
金物の輪が一つ、糸で下げたままになっていた。灯はそれには触らなかった。
男は濃くなった順に左へ寄せた。そうすると、まだ手の付いていないものが右へ残る。残りは十四になった。
「あのさ、聞いていい」
「なんだ」
「ゲンヤって、どこにあるの」
男は手を止めない。拭いていた器を置いて、次の物を取った。
「知らん」
「この前もそう言ってた」
「言った。今も知らん」
灯は拭く手を止めた。手の下で、金物が少しずれた。
男は自分の拭いている物を布の上へ置いて、それから初めてこちらを見た。一度だけで、目はすぐ手元へ戻る。
男の手が、器の縁のところで一度止まった。ごく短い。止まってから、拭く速さが元へ戻った。
「行った奴の話なら聞いたことがある」
「どんな話だったの」
「そこの奴らは何も失くさん。失くさんから、何も探さん。探さんから、日が動かん」
男はそこで言い終わって、次の物を取った。それきり、灯のほうは見ていない。
日が動かない場所を、灯は見たことがなかった。学校の廊下の時計が止まっていた日はあった。あの日も、外の日は動いていた。
灯は聞いた言葉を口の中でもう一度並べた。並べても、三つの文が輪になって回るだけになる。
「日が動かないって、何が動かないの」
「知らん。行った奴がそう言った」
「その人は、今どこに」
「もう来ん」
灯は自分の膝を見た。二日目も同じ服で、膝のところに土が付いていた。それは乾いていて、指でこすると粉になる。粉は板の目の間へ落ちていった。
男は布を替えた。新しいほうは前より白い。そちらで、灯が拭き終えた物をもう一度拭いた。灯の拭き方では、まだ落ちていなかったらしい。
灯は拭き終えた金物を左へ寄せた。列は十四になった。右に残っているのは七つ。合わせて二十一で、朝に数えた数と合う。
拭き終えるまでに、灯の指は二度黒くなった。二度とも布の端でぬぐって、三度目からは黒くならなくなった。
日が真上を回ってから、二人は台を出した。客は昨日より少なかった。来た三人のうち、名を言った者は一人もいない。
名を言わない客がいることを、灯はこの日に知った。言わない者は札を買って、字の無いまま持って帰る。
書く仕事の無い時間が長かった。灯は台の後ろに座って、道の先を見ていた。道の先の街灯は、三本目がまだ下を向いている。
「ねえ、キリ」
「なんだ」
「あたしがここにいると、進まないの」
男は帳面へ線を引く手を止めた。少ししてから、また引いた。
「つまんねえだろ」
男の言い方は短い。短いのに、灯はその一言を二度、口の中で繰り返した。繰り返しても、意味が増えなかった。
「何がつまんないの」
「進まん場所は、つまんねえ。俺は行ったことがないが、そう聞いた」
灯は道の先を見たまま、返事をしない。返事をする代わりに、街灯の三本目を目で数えて、そこから二本目、一本目と戻った。
街灯の柱の前で、灯は背中を当てた。それから、頭の上を手で押さえた。指の下は下から三つ目の傷だった。
昨日と同じ傷になる。灯は押さえた指を離して、傷をもう一度上から見た。傷の縁に新しい木の色は出ていない。
帰りに、男は道の途中で一度立ち止まった。そこで、屋根のほうを見上げた。屋根の傘は色が薄い。上から二段目のところに、破れた一本があった。
「あれ、破れたままだよ」
「直す者がいる。俺じゃない」
「その人はいつ来るの」
「知らん。あの屋根は去年から破れてる」
灯は去年という語のところで足が止まりかけた。かけたまま、灯は歩いた。この人の去年が、どの年のことなのかは聞かなかった。
部屋の中は昨日と同じ匂いがした。油の匂いだけが残っていて、木を削った粉のほうは無い。灯は戸のところで一度、鼻から息を入れた。息の中に、昨日は無かったものが混じっていない。
部屋へ戻って、男は帳面を開いた。線の並んだ面を灯のほうへ向ける。指で押さえた行が四つ並んでいた。
「二日ぶんだ。寝床と飯で二つ。書いたぶんが三つ。差し引きで、あんたの取り分は四つになる」
灯は数を追いかけた。三つに三つ足して六つ。そこから二つ引いて四つ。合っている。
「一つだけ増えてる」
「今日はな。明日の夜でまた減る」
「明日で三日目になるよ」
「そうだ」
「数えるのはあんただ」
男は帳面の紙の端をそろえて、輪ゴムを掛けた。その時に指を二本使う。前は三本だった。
灯は自分の指を四本立てた。そのまま、しばらく下ろさずにいた。
「明日も台を出すんだ」
「昼までは立てる。朝のうちに来い」
男は帳面を棚の上へ戻して、火を落とした。炭が、消える前に一度だけ赤くなる。
灯は布を四枚敷いた。それから、天井の継ぎ目を目で探した。暗くて見えない。三本あることだけを覚えたまま目を閉じた。
寝る前に、灯は明日の数え物の順を口の中で決めた。天井。棚。札の束。光。四つになる。
*
三日目の朝、灯は目を開けてすぐ天井を見上げた。
天井の板の継ぎ目が三本。真ん中の一本だけが太い。棚の上の物が二十一。棚の下の段の札の束が四つ。戸の下の隙間から入る光が、板を一本ぶん照らしていた。
どれも一日目と同じ数になった。
灯は鞄を開けた。中の袋は口が緩んでいて、平たい粒が底で寄っている。一つ取ると、指の腹に付いた。三日ぶんの湿りが入っている。
乾いた粒は、こちらでは三日で戻らない。灯は袋の口を折り直して、鞄の底へ入れた。
灯は三日とも同じ順で数えている。順を変えると分からなくなる。
灯は男のほうを見た。壁に背を付けて、片膝を立てていた。座ったまま寝ているので、顎が少し前へ出ている。横の骨の白い傷は、同じ長さで同じ場所にあった。
布の下から、昨日置いた鉛筆が出てきた。転がった跡が板の上に細く残っている。灯は鉛筆を拾って、耳へ掛けようとした。掛からずに落ちた。もう一度やって、また落ちる。三度目でやめて、手に持ったままにした。
灯は自分の手のひらを見た。指の腹に、鉛筆の跡が薄く残っていた。跡は昨日より薄かった。夜の間に二度洗っている。
布は四枚とも同じ場所へたたんだ。三日とも同じ順で重ねている。いちばん下の一枚の、端のほつれた糸は二本のままになっていた。灯は指で押さえて、また離した。
男が目を開けた。
「顔を洗ってこい」
「もう済ませてある」
「なら板を出す。日が高くなる前だ」
外は晴れていた。三日のうちで、そうなったのは今日だけになる。日は屋根の上から来ていて、道の右側だけが明るかった。そちらの壁の色は、曇りの日より白く見える。
灯は四つ角の手前で、また扉のほうへ二十歩戻った。道の右側の店の、戸の上の棒に赤い布はまだ掛かっていない。棒の端の焼き付いた色も、初めて見た時と同じ濃さになる。
街灯の三本目は、かさが下を向いたままになっていた。灯は柱の前で足を止めた。
柱へ背中をつけて、灯は手のひらを頭の上へ乗せた。
その下にあったのは、一日目と同じ傷だった。
灯はそのまましばらく動かなかった。手を下ろしてから、傷の位置をもう一度目で追う。
灯のほうも、三日前と同じ高さになっていた。
かさの縁のほこりを、灯は指で触った。指に付いた量は、一日目に触った時と変わらなかった。指の腹の半分ぶん。灯は指を服でこすって、それから歩きだした。
道で会う者の顔は、三日とも知らないままだった。二日目に一度だけ、荷を担いだ者と同じ顔を見た気がして、灯は振り返っている。先の背中は違う荷を担いでいた。
広場の手前の掲示の板の紙は、四枚のままになっている。四枚とも縁が反り返っていた。反り返りの角度は、灯には測れない。
道の石の敷き方が変わる場所を、灯は行きと帰りで六度通った。どの回も同じところで沈んだ。沈み方の深さまで同じに思えた。
四つ角の台の前に、客が二人立っていた。
男が板を渡す前から待っていたらしい。二人とも籠を持っていた。灯は木箱を運んで、札の束をほどいた。今日も二十枚を数えて、台の左端へ寄せる。
一人目は名を言わなかった。二人目も言わなかった。
三人目は札を二枚買って、二枚とも懐へ入れた。四人目は札を見もしないで金だけ置いた。五人目は台の前へ来て、しばらく札を見てから、何も買わずに離れていった。
昼までに来た客は五人で、五人とも名を言わない。灯の前の札は十八枚に減った。字の入ったものは一枚も無い。
二十枚を数え終えて、灯は指を止めた。出す枚数は一日目と同じで、減り方だけが違う。一日目は三枚に字が入って、今日は二枚とも白いまま出ていった。
「今日は名前を書かないんだね」
「書く客と、書かん客がいる」
「一日目は三人ぶん書いた」
「そういう日もある」
「明日はどうなの」
「俺は明日の勘定はしない」
男は帳面へ線を引いた。引く線の数は、昨日より多かった。物のほうは売れているらしい。
灯は台の後ろで、鉛筆を一度だけ持った。札の裏へ何も書かずに戻した。戻す時、鉛筆の先が板に当たって、短い跡が残る。跡は指でこすると消えた。
影が短くなりきったころ、トトが台の下から出てきた。場所は昨日と同じで、脚の後ろの影のところになる。
「おねえさん、まだいたんだね。僕はてっきり帰ったと思ってたよ」
「おねえさんはいつも急にいなくなるからね」
トトは台の脚を半分ほど上って、そこで一度止まった。
「それでね、僕は昨日の夜に丘の三本目の道をもう一回行ってみたんだ」
「左の手袋はまだ落ちてた。誰も拾ってなかった」
「三百年って言ったけど、たぶんもっと短いんだ。途中で数え間違えたからね。ねえ、それはどっちに入れるの?」
「間違えても三百年は長い」
「そうかなあ。間違えたぶんが多いのかもしれないよ。ねえ、どう思う?」
道の向こうの家の戸が開いて、女が一人出てきた。水の入れ物を持って、中身を道へ流す。流れた先を目で追っていた。追い終わると、女は中へ入っていった。三日とも同じ時刻に同じことをしていた。
灯は台の下へ手を伸ばして、トトの指の部分を一本つまんだ。つまむと、布の中に何も入っていないのが分かる。それでもトトは指を動かした。
トトは台の脚へ寄りかかって、そのまま動かなくなった。動かないまま、指の部分だけが時々ひらいた。
「トト、ここって進んでる」
「進んでるよ。毎日ちゃんと歩いてるからね。ねえ、歩いてたら進んでることになる?」
「でもね、歩いても着かないんだよ」
トトの指の部分が、台の板の上で二度ひらいた。
「でも、どこにも着かないんだ。三百年ずっとそうだよ。おねえさんはどう思う?」
「あたしには分かんない」
「分かんないよね。僕もだよ。ずっとそのままなんだ。ねえ、そういうのって、いつか分かる?」
男が帳面から顔を上げないまま言った。
「そいつに聞くな。そいつは日にちを数えたことがない」
「数えたことあるよ。二回ある。ねえ、二回って少ない?」
「二回とも途中でやめたけど、やめたのは飽きたからじゃないんだ」
「数えてる間に相方が通ったらどうしよう、って思ったからなんだよ」
灯は札を一枚裏返した。裏は白い。返してまた表へ戻した。
道の先から、荷を担いだ者が二人来た。どちらも台の前を通って、足を止めなかった。灯は二人の背中を見送った。先の角で、二人は別々の方向へ分かれた。
夕方の光が、台の板の右の端まで来ていた。来た位置を、灯は覚えている。一日目の夕方も、同じ端まで来ていた。
板をたたむ前に、男は帳面を広げた。出てきた面へ、線を一本引く。
「三日ぶんだ。寝床と飯で三つ。書いたぶんが三つ。あんたの取り分は、はじめと同じになる」
「増えても減ってもない」
「そうなる。入って出て、同じ数だ」
灯は指を折って、八月三十一日までを数えた。あと七日ある。三日前は十日あった。
灯は男の顔を見た。顎の骨。目のところの出っ張り。横に走る白い傷。
それから手の甲へ目を移した。筋。指の関節。四角い爪の先。左の親指にある縁の割れ。
最後にトトを見た。指の部分が四本、同じ長さで並んでいた。
三日目、誰も歳を取っていなかった。
台の上の札は、十八枚。




