第018話 二十三歳のキリ
八月二十一日の朝、机の上の袋はまだ開いていなかった。
テープの端は、押さえた日よりも大きくはがれていた。はがれた下の粘りが白く濁っている。袋の口はそのぶんだけ開いて、中の粒が三つ、机の上へ出ていた。
灯は三つを指で集めて、袋の中へ入れ直した。戻す時に、粒の片面の白いところが指へ触れた。粒は三つとも同じ大きさで、同じ向きに転がる。まだ乾いていた。まだ湿ってはいなかった。
袋は九日、そこにあった。灯は九日の間、朝に一度ずつ袋を見た。見て、そのままにした。渡す日を決めていなかった。決めないでいると、日のほうが先へ行く。
千夏とは十八日に会っていた。プールの日陰の側で、二人並んで足だけ水に入れていた。袋のことは出さなかった。千夏も聞かなかった。二人の間の水面に、足の影が四つ。二人で話したのは、水泳の級と、二学期の席替えの二つになる。
机の引き出しを開けた。名札があって、その下に四月のノートが入っていた。灯はノートを出して、一枚目を開けた。
日付が三つ並んでいた。七月二十四日。七月二十六日。二つの間の一日に丸が付けてある。下に、八月十二日。その横には、十九と書き入れていた。
灯は鉛筆を持って、四つ目を書いた。
八月二十一日。
横に書く数を出そうとして、灯は指を折った。八月三十一日まで、あと十日あった。灯は十と書いた。
十九と十の間を、灯はもう一度見た。
九。
八日ぶん、この紙には何も書いていない。
日付を書くのは、決めた日だけになる。四月にノートをもらってから、灯が書いたのは四つしかなかった。四つのうち二つは同じ日に書いた。
灯は八日ぶんを思い出そうとして、そのまま全部思い出した。十三日はプールで、二十五メートルを三回。十四日は図書室で、借りたのは二冊。十五日は母が休みで、二人で網戸を外して洗った。十六日と十七日は自由研究の絵を描いて、色を塗る前でやめた。十八日にプールでもう一度千夏に会って、二人で日陰の側に座った。十九日は何もしていない。二十日は洗濯物を三回入れ直した。
全部ある。抜けているところは一つも無い。
プールの水は塩素の匂いがして、上がったあとも髪に残った。図書室の本は二冊とも読み終えて、返す日はまだ先になる。網戸を洗った日の水は、はじめの一枚だけが茶色く濁った。絵の具は青と黄を混ぜたところで止めていた。
どれも思い出せる。思い出せるのに、灯は九という数のところへ戻った。
灯はノートを閉じた。
閉じた手が、途中で止まった。
止まったところで、灯は自分が何を思い出そうとしたのか分からなくなった。九日ぶんの中に、抜けたところは一つも出てこない。抜けていないのに、灯は九という数のところを二度見ていた。
灯はノートを引き出しへ戻した。奥の鉛筆は、まだ奥にあった。手を入れれば届く場所に、九日そのままあった。
引き出しを閉めて、灯は袋を鞄へ入れた。中で粒が底の片側へ寄る。寄った音は小さい。九日前と同じ音になる。
階下で戸の開く音がした。祖母が出る時間になる。
灯はもう一度、袋の口のテープを指で押さえた。端は、指を離すとまた浮く。三度やって、三度目でやめる。
灯は下りた。玄関で祖母が靴を履いていた。履き終わって、傘立ての前で足を止めた。傘の柄を手で一度包んで、離した。
「今日は出るの」
「出る。地下のほうに行ってくる」
祖母は灯の顔を見なかった。うなずきもしなかった。返事の代わりになるのは、戸の音だけになる。戸を開けて、閉めた。二つの音の間は、いつもと同じだけ空いていた。
灯は傘立ての中を見た。いちばん奥に、祖母のぶんが抜けた形の空きが残っていた。自分の傘を抜くと、三本が二本になった。
台所に母の姿は無い。台の上に紙が一枚あって、勤めに出たと書いてあるだけになっていた。字が斜めに寄っていた。急いで書くと母の字は右へ上がる。
冷蔵庫の扉の紙を、灯は見た。今月の勤めの丸は、後ろのほうに固まっていた。今日のところにも丸が付いている。
外は曇っていた。空の白さは、上のほうと下のほうで同じに見える。塀の影が出ていなかった。日の当たる側と影の側の境目も無くて、道が端から端まで同じ色に見えた。
母の紙の下に、硬貨が三枚出ていた。百円が二枚と、十円が一枚。灯は三枚とも小皿へ移して、そのままにした。今日は買うものが無い。弁当も無かったので、鞄は行きより軽くなっている。
駅までの八百歩を、灯は数えなかった。歩数を置いていくと、着くのが早くなった。
途中の角の家で、ハナが柵の内側から顔だけ出した。尾の音が板に二度当たって、そこで止まる。灯は柵の前で足を止めて、二度目まで数えた。
空き地の角は通らない道を選んだ。避けたことに、あとで気付いた。
地下へ下りる階段は、一段目から涼しくなっていた。暑さの切れる段が今日は出てこない。曇っているぶんだけ、上と下の差が小さくなっていた。
遺失物センターの窓口の内側に、祖母がいた。板の向こうの、いつもの位置。細長い紙に何か書いていた。灯は板の前を通ったが、声は掛けなかった。
板の内側では、束になった紙に輪ゴムが掛かっていた。祖母の手はその束の上を動いている。灯の側からは字が上下さかさまで、細かいところは読み取れない。
窓口の横の戸を押して、内側の通路へ入った。
通路の空気は上より二度ぶんほど低い。腕の外側だけが先に冷えて、内側はしばらく暖かさを残した。灯は腕をこすらずに、そのまま歩いた。
棚の右側は、十日前と同じに見えた。二百三十本。柄の色の並びも、詰めて立ててあるところも変わっていなかった。左側の棚は増えていて、灯は数えた。三十四。九日前は二十七になる。
七本増えて、右側は一本も減っていない。
増えたぶんの柄には、まだ札が付いていた。札の字は川辺さんのもので、角があって、線が一度も曲がっていない。灯は三枚読んだ。どれも、拾った場所と日にちしか書いていない。名前の欄は三枚とも空いていた。
棚の上から二段目には、傘ではないものが並んでいた。手袋の片方が四つ。水筒が二つ。子供用の靴が片方だけ、爪先を上に向けて置いてあった。灯はその靴の大きさを、自分の手のひらと比べた。手のひらより少し大きい。
棚の札の日付は、どれも去年の夏のものになる。今年になってから来たものは、まだ左の棚にある。右へ移るのは年に一度、処分の日のあとらしい。
灯は右の棚の前で、あと十日と口の中で言った。それから、通路の奥のほうを見た。
奥の電球は、手前の二つだけ点いていた。三つ目から先は、かさの内側が黒くなっていた。その先は闇へ続く。
灯は歩いた。棚の終わりまで行って、壁のところで止まった。壁は棚と同じ色に塗られていた。塗ってあるので、離れたところからは壁にしか見えなかった。
縦の線が二本、上から下まで通っている。
灯は取っ手を回した。半分回ったところで、手前へ引いた。下の縁が床に擦れて、擦れるぶんだけ重かった。灯は両手にして、足を斜めに置いた。
*
扉の外は道に出た。石の壁と、その壁と同じ色の木の扉。灯は肩を先に出して、そこから体を通した。
道は覚えている形をしていた。石の敷き方が変わる場所も、右へ折れる角の位置も、十日前と同じになる。
違うところが二つ出てきた。
一つは、道の右側にあった店。前は戸の上に赤い布が下がっていた。今はその布が無い。棒だけが残っていて、棒の端に布の色が少し焼き付いていた。
もう一つは、街灯になる。前に通った時は、入口から数えて三本目まで点いていた。今日は二本目までしか点いていなかった。三本目はかさが下を向いている。
その柱に、傷が刻まれていた。下から順に並んでいて、いちばん上は灯の背より高い。刻んだのは背比べらしい。灯は柱へ背を当てて、頭のところを手で押さえた。指は三つ目の傷に合った。
灯は三本目の下で足を止める。かさの縁に、ほこりが指の腹ぶんくらい積もっていた。積もるには日が要った。
道で会う者の顔は、どれも知らないものに変わっていた。前は三人か四人、見た覚えのある顔がいた。今日は一人も出てこない。すれ違う者はこちらを見なかった。そこだけは前のままでいた。
広場の手前の掲示の板に、紙が四枚貼ってあった。四枚とも縁が反り返っていた。灯は一枚目の字を読もうとして、途中でやめた。読めない字のほうが、行の頭に来る。読める字と読めない字が混ざる。
四つ角までは、いつもの道を行った。
角の手前で、灯は台を見た。板を二枚渡した台で、脚は四本。台の上に木の札が並べられていた。並べ方は覚えているとおりになる。左から小さい順で、いちばん右に大きいのが二枚。
台の後ろに、男が一人立っていた。
背が高い。灯の頭より、頭一つと少し上に顔が来ていた。上着を着ていて、袖を肘のところまで折り返していた。内側の布は、外側より色が薄く抜けている。折り目の線が二本、腕の同じ高さに残っていた。
台の下に木箱が二つ、重ねて置いてある。上の箱の角が欠けていた。古い割れ方をしている。灯は箱の欠けを見てから、台の上へ目を戻した。
男は帳面に何か書きつけていた。書きながら、客の一人へ答えを返す。客は籠を抱えた年寄りで、籠の中は空になっていた。
「三つだ。四つと言われても足りん。物のほうが減ってる」
「二つでどうにかならんかね」
「ならん。三つで持っていくか、置いて帰るか、どっちかだ」
年寄りは籠を持ち直して、少し考えてから、木の札を三枚置いた。置く手が三度、板の上で迷う。男はそれを受け取って、帳面に線を一本引いた。
台の右の端に、欠けた石が一つ載せられていた。石は文鎮の代わりで、その下に紙が三枚はさんであった。風は無い。それでも石は載せられていた。
灯は台の横に立った。年寄りが籠を抱えて離れていく。籠は空のままだった。三つ払って、持っていったのは札だった。書いてある物のほうは明日になるらしい。年寄りはそれを二度確かめて、二度とも同じ答えをもらっていた。
「明日の朝だ。朝のうちに来れば渡す」
その言い方に、灯は足を止めた。
台の板の上に、値を書いた紙が三枚。どれも角が丸くなっていて、右の端だけ手で押さえた跡がついていた。灯はその跡の位置を覚えている。前も同じ場所に指を置いていた。
男が顔を上げた。
上げて、灯を見た。見て、そこで止まった。手に持った炭の棒が、紙の上で一度だけ跳ねた。それだけになる。
灯はその顔を知らなかった。
台の上の札を一枚取ろうとして、灯の手が出た。出した手より先に、男の手が動いた。札は男の指のほうへ寄って、灯の指は板に触れただけになる。
男は札を並べ直して、いちばん右へ置いた。取り上げたのではない。位置を戻しただけだった。それでも灯の手は空になっている。
顎の形が違っていた。首が太い。目のところの骨が前へ出ていて、目そのものは奥へ引いていた。横の骨のところに細い傷が一本あって、傷は古いものになっていた。古いものは白くなる。
知らない顔なのに、灯は台の前から動けずにいた。動かない理由が自分でも分からない。
「キリはどこにいるの」
「俺だ」
灯は台の板へ目を落とした。木目を二本たどって、そこから男の手へ目を移した。手の甲に筋が浮いていた。指の関節が太く見えた。爪の形だけが、灯の知っている形をしていた。先が四角い。左の親指だけ、縁が割れている。
「あんた、来たのか。しばらく見なかったな」
声が低くなっていた。低いだけでなく、言い終わりが下へ落ちた。灯の知っている声は、言い終わりが上へ残った。
「キリは、あたしと同じくらいの背だった」
「そうだったな。だいぶ前だ」
男は帳面を閉じた。それから、台の上の札を右から順に寄せた。手の運びが同じになる。右から左へ、一枚ずつ端を合わせていた。灯は十日前に、同じ手つきを見ている。
「十日ぶりだよ」
「九年だ」
男はそれだけ言って、また帳面を開いた。上のほうに、線が何本も引かれていた。灯の側からは数までは見えなかった。
灯は口の中で数を並べた。十日。九年。並べても、二つは同じところへ行かない。
「そんなのうそだ」
「勘定は合ってる。俺は数を間違えん」
「十日だってば。あたしは十日だよ」
「あんたのほうは十日だ。こっちは違う」
台の向こうで、男は札を一枚裏返した。裏には数が書き入れてあった。書いた字は細くて、線の終わりが真下で止まっていた。灯の知っている字と、止まり方が同じになる。
男は炭の棒を耳に掛けた。その位置が高くなっていた。灯の知っているキリは、そこへ掛けられなかった。二度落として、三度目でやめている。
「九年って、何してたの」
「仕事だ。ほかにやることがない」
「それだけなの」
「それだけだ。聞いても増えん」
男は帳面をめくった。めくった先にも線が並んでいた。答えはそこで終わった。
灯は一歩退いた。下がった先の土が、靴の下で少しへこむ。
下がってから、面倒くさい、と思った。
台の脚のところに、灯の袋の口が触れた。先で紙の擦れる音がして、灯は鞄を前へ回した。
「あんた、金は持ってるのか。手ぶらで来る客は困る」
「輪が四つある。この前、自分で数えた」
「三つだ」
「四つだってば。この前ちゃんと数えた」
「預かってた。九年ぶん置いといたぶんで一つ引く」
男は帳面の後ろのほうを開いて、指で一行を押さえた。そこを灯のほうへ向ける。灯には字が読めなかった。読めないが、線の長さが三本ぶんになっているのは分かった。
「いつから預かってたの」
「あんたが置いてった日からに決まってる」
「置いてってなんかない」
「取りに来ない物は、預かりになる」
男は帳面を前のほうへ戻して、上のほうの行を指した。指の腹が紙に当たって、そこだけ紙が沈む。灯はその行の長さを見た。三本ぶんではなく、四本ぶんあった。
「四つ。引いて三つ。ここに書いてある」
「それ、高いよ」
「九年だぞ。置き場代を入れりゃ、むしろ安い」
*
昼を過ぎて、台をたたんだ。
板を二枚外して、脚を折った。折る順が決まっていて、男は迷わなかった。灯は横で見ていた。前は板が重くて、二人で一枚ずつ持った。今日は男が二枚まとめて抱えた。
「持つ。一枚なら持てる」
「いい」
「持てるってば」
「持てても、いい。落とすと角が欠ける」
男は板を肩に載せて、木箱を片手で提げた。肩の板は水平のまま、揺れていない。灯の手には何も残らない。灯は空いた手で鞄のひもを握る。
板を持たせない理由を、男は言わなかった。灯は横で二歩ぶん遅れて、それから並んだ。並ぶと、男の歩幅がもう一度広がった。灯は小走りになる。
小走りになったところで、男が止まった。そこで、灯が追いつくのを待つ。待ってから、また歩きだした。今度の歩幅は灯に合っていた。合わせたとは言わない。
坂の入口の家の前で、女が水の入れ物を出していた。水を道へ流して、流れた先を目で追っていた。それから、女は戸の内側へ入った。灯とは目が合わない。
道は下り坂へ変わった。坂の途中で男は歩幅を落とした。落とした先の速さで、そのまま下りていく。
坂の途中に井戸があって、蓋が半分ずれていた。ずれた隙間から冷たい空気が上がってきた。灯は蓋の縁へ手を触れて、すぐ離した。石の縁は日に当たっていない側だけが湿っている。
坂の下の水場で、男は板を降ろした。水を入れ物に取って、手についた墨を洗った。指の股のところを一本ずつ洗っていた。爪の中は落ちていなかった。落ちないところで手を止めて、そのまま拭いた。
水は上から木の樋で落ちてきた。当たる先の石が、そこだけ深くくぼんでいる。くぼみの縁は丸くなっていた。丸くなるには水が要る。
男は入れ物の水を二度替えた。一度目は墨で黒くなって、二度目は薄い灰色になった。三度目は替えない。
水場の脇に、木の台が一つ据えられていた。台の上には何も載っていなかった。載せた跡だけが四角く残っていて、その内側だけ木の色が明るく抜けていた。
灯は水場の縁へ腰を下ろした。石は冷たい。座ると、右手が勝手に一本目を数えた。
九日。八月十二日から二十日まで。十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十。八つ。それに十二日を足して九つ。
九日で、九年。
九本が折れたままになった。灯はそれを開かずにいた。
その九日のうち、はじめは千夏の家の角から引き返した日になる。水に入ったのが二日。図書室と網戸で二日。絵が二日あって、片方は色を作っただけで終わった。何もしていない日をはさんで、最後は洗濯物を三回入れ直している。
もう一度やっても、数は同じところで止まった。
「一日で一年になるんだ」
拭き終わった布を、男は袋へしまう。灯のほうは見ない。
「そうなるな。あんたが出した数だ」
「前から知ってたの」
「知らん」
「うそだよ、それ」
「勘定は合ってる。それだけだ」
入れ物を伏せて、その上へ片足が乗った。掛けたまま、坂の上のほうを見ていた。坂の上には屋根が続いていて、屋根の傘の色が前より薄くなっていた。
灯は自分の手へ目を落とした。九本折って、開く。三度目の時、右の小指だけが遅れた。
水場の向こうを、荷を担いだ者が二人通った。どちらも足を止めない。灯はそちらを見て、それから男の顔へ戻った。顔の側は、さっきから何も動いていない。
前に分かったのは、行かない日をはさむとこの人が大きくなる、というところまでだった。何日で何年かは、そこから先になる。
今日、数が出た。
出た数は簡単すぎた。一日で一年。三日休めば三年。夏休みは四十日ある。二学期は百日を超えた。
百のところまで来て、灯は指を止めた。折る指が足りない。もう一方の手を出そうとして、出す前にやめた。
男は袋の口を結んだ。結ぶ手つきが速くなっていた。結び目を作って、余ったところを内側へ押し込んだ。灯はその手つきを知っていた。前は同じことを、指を三本使ってやっていた。今は二本で済む。
「その結び方、前からのだ」
「前からだ。誰にも教わってない」
「前は指、三本使ってたよ」
「三本でも二本でも結べる。速いほうを使う」
男は袋を腰へ下げた。その位置が高くなっていた。灯の目の高さより上に来ていた。
「あんた、顔が白いぞ。水を飲んどけ」
「暑いからだよ」
「今日は曇りだ」
足が入れ物から下りた。下ろして、板を担ぎ直す。担ぐ時に肩の位置を二度直した。
立ち上がろうとして、灯は石の縁に手をついた。男は入れ物を袋へしまっていた。
灯は自分で立った。石から離れた足の裏が、冷たいところと、そうでないところに分かれた。
道を歩きながら、灯は男の背中を見た。上着に、縫い直したところが一本ある。縫い目は新しく見えなかった。灯の知っている上着に、その縫い目は無かった。無かったのか、見ていなかったのかは分からない。
「その上着、前からのだ」
「前からのだ。買い替える金がもったいない」
「破れたことあるの」
「破れた。二回だ。どっちも肩のところから」
男はそれ以上を言わずに済ませた。二回のうち、いつが一回目でいつが二回目かも言わない。
灯は縫い目の長さを目で測った。指の幅で三つぶんあった。縫った糸の色は上着より濃く見えた。同じ色が無かったのか、同じ色を買わなかったのかは分からない。
「それ、自分で縫ったの」
「縫った。針は借りた」
「あんまり上手じゃない」
「金を掛けてない。糸は余りものだ」
道の途中で、男は左へ折れた。灯の知っている道ではなかった。灯は少し遅れて折れた。
折れた先は細い道で、両側の家の戸が低くなっていた。戸の上に札が掛かっている家と、掛かっていない家が混じる。掛かっている家のほうが少なかった。灯は数えた。二十六軒のうち、札が四枚。読めるのは一枚だけ。
前に灯が数えた通りは、二十七軒に二十七枚になる。次に数えた通りは、三十四軒に二十二枚で、読めたのが三枚になる。
この通りは、そのどちらでもなかった。
「ここ、札のある家が少ない」
「あった。今もある。人が減っただけだ」
男は歩く速さを変えない。灯は札の掛かっていない戸を数えながらついていった。十軒、十五軒、二十軒。二十二軒めで道が終わった。終わりまで数えても、札は四枚のままになる。
*
細い道の突き当たりが、男の住むところだった。
戸が低い。男は入る時に頭を下げた。その動きが慣れていた。灯は下げなくても入れた。
中は思っていたより狭かった。壁際に棚が三つ。上の段の物は、左から小さい順に置いてあった。四つ角の台と同じ並べ方になる。
部屋は油の匂いがした。木を削った粉のほうは無い。四つ角の台の下の木箱には、いつもそれが残っている。灯は戸のところで一度、鼻から息を入れた。
隅に、たたんだ布が積んであった。高さは灯の膝より少し上。いちばん上だけが新しく、下の三枚は色が抜けていた。灯は端をつまんで、すぐ戻した。
灯は棚の前に立って、左から数えた。二十一。
「二十一ある」
「増えた。売れなかったぶんだ。九年ぶん残る」
男は板を壁へ立て掛けて、木箱を床へ下ろした。置いてから、帳面を棚のいちばん上へ載せた。その段が高くなっていた。灯の手は届かなかった。
二段目は、金物と布と紙が段ごとに分けてあった。三段目に四角い箱が一つあって、蓋には留め金が付く。灯の手がそちらへ動きかけた。動きかけたところで、男が背中でこちらを向いた。
灯は棚の端の物へ目を向けた。金物の輪が一つ、糸で下げてあった。輪の内側が擦れて、そこだけ色が抜けていた。
「これ、売り物じゃないんだ」
「売り物じゃない。ずっとある」
「これは売れないの」
「値を付けてない。棚の端から動かしてもいない」
男は火のところへ行って、鍋を掛ける。その間、こちらへは顔を向けなかった。
棚の下の隅に、布をかぶせたものが一つ置かれていた。布の下の形は角ばって見えた。灯は布の端へ目をやる。端がほつれて、糸が三本、床のほうへ垂れていた。
灯は棚の前へ腰を下ろした。座ると、棚の下の段が目の高さに来る。下の段には木の札が積まれていた。積んだ束が四つ。灯は上の束の厚みで見当をつけた。四つとも、灯の指の幅より厚く見える。
「これ、名前を書く用のやつだ」
「そうだ。客の名前を書く用の札になる」
「あんまり使ってないの」
「使ってる。前ほどは出んがな。頼む奴が減った」
「なんでなの」
「書ける奴が来んからだ。それだけになる」
男は火のところで手を止めずにいた。灯は束の角を指で押した。先が少しへこんで、指を離すと戻った。紙ではなく木なので、へこんだのは灯の指のほうだった。
湯が沸くまでの間、灯は数を口の中で並べ直した。
九日で九年。一日で一年。半日で半年。
一時間なら何日になるのか。灯はそこを出そうとして、二十四で割る割り方を思い出せなかった。学校でやったのは、割り切れる数のほうになる。
半日で半年、という並びのところで、灯は口を閉じた。
十九日に、灯は何もしていない日を一日はさんでいる。
鞄の中の袋が、座った膝の上のところに当たっていた。灯は鞄を横へどけた。どけた時に、中の粒が片側へ寄る。九日前と同じ音がした。
火の上の鍋から、湯気が細く立った。天井の板に当たって、そこで横へ曲がった。曲がった先は戸のほうへ流れて、隙間から出ていく。灯はその筋を目で追いかけて、戸のところで見失った。
男が湯を注いだ。器を二つ出して、片方を灯の前へ置いた。その器を、灯は知らない。四つ角で水を飲む時に使っていたのは、縁の欠けたほうだった。
「欠けてたやつはどうしたの」
「割れた。落としてはいない。棚から先に落ちた」
「いつ割れたの」
「覚えてない。もう何年か前だ」
男は湯を注ぐ前に、器の内側を布で一度ぬぐった。ぬぐった布は、さっき手を拭いたのと同じものになる。灯はそれを見て、口には出さなかった。四つ角では洗いもしなかった。今日は拭いている。
灯は器を両手で支えた。器は熱かった。持ち替えて、指の腹だけを当てた。
男は自分の器を床へ置いたまま、口をつけていない。壁に背を付けて、片膝を立てていた。膝の上に手を置いている。その手の甲を、灯は横から見た。
筋が浮き出ている。血の管が二本、手首のほうから指の付け根まで通っていた。灯の知っている手に、その二本は見えていなかった。
「その手、前と違う」
「同じ手だ。数えれば指も五本ある」
「前は筋が出てなかった」
男は手を裏返した。しばらくそのままにする。それから元へ戻して、また膝の上へ置いた。裏の側にも、灯の知らない線が何本か走っていた。
「あたしが来ない日は」
「働いてる。ほかに何があると思ってるんだ」
「そうじゃなくて、来ない日のこと」
「そうだ。それで合ってる」
「台、毎日出してるの」
「出す日と出さない日がある。天気で決める」
「八月の十二日は出したの」
「覚えてない。台の日は帳面に付けてない」
男の言い方は、割れたと言った時と同じ長さだった。同じ長さの答えが二つ続くと、そこから先は聞いても同じになる。灯は聞くのをやめた。
男は言い切って、それきり黙った。灯は器の中へ目を落とした。湯の面に、天井の板が細く映っていた。灯が動くと形を変える。
灯は器の湯を半分飲んだ。中身は白湯で、味は無かった。飲んだあとで、口の中に金物の味が残った。器の内側の上塗りが剥げているのだと、灯は指で触って確かめた。
男はまだ口をつけずにいた。器の湯から出ていた湯気が、いつのまにか出なくなっていた。
外が暗くなりはじめる。戸の下の隙間から入る光が、細くなって、色を変えた。
外で、誰かが通った。足の音が二つ分。行き過ぎるまで、男は少しだけそちらへ首を回していた。客ではないと分かる音になるらしい。
戸のほうへ、灯は目を上げた。
灯は器を床へ下ろした。置いた音が、思ったより高く鳴る。
膝の前の板を、灯は見た。目が三本、そこで途切れている。先は継ぎ足しになっていて、色が少しだけ濃かった。
「もう帰らない」
男は膝の上の手を動かさなかった。目だけがこちらへ来て、そこで止まる。それから壁のほうへ落ちた。
灯は男の顔を見た。顎の骨のところに、夕方の光が細く差している。差した幅の内側だけ、白い傷が出ていた。




