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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第一巻 わすれもの

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17/50

第017話 千夏の誕生日

 台所は、朝のうちだけ匂いが違う。


 だしの匂いと、卵を焼いた匂いと、その下に洗剤の匂いが混じっていた。三つとも昼には無くなった。灯は階段の途中で足を止めて、三つを順に分けてから下りた。分けられたのは二つで、いちばん下のは名前が出てこなかった。


 母は流しの前に立っていた。夜勤明けで、髪をまとめたままにしていた。まとめたままの日は、顔の形がいつもと違って見えた。目の下だけ影の付き方が濃い。


 台の上に弁当箱が二つ並んでいた。一つは布で包んである。もう一つは包まないままで、蓋の上に輪ゴムが二本掛かっていた。輪ゴムは二本とも色が違う。太いほうが黄色で、細いほうは色が抜けていた。


 「包んだほうがばあちゃんの。十一時までに届けてくれる?」


 「先に行く。帰りは遅くなる」


 「冷たいうちのがいいから、なるべく早めに出てね。あと、お金は棚の小皿に出しといたから、行きに使っていいよ」


 「うん。何買ってもいいの」


 「今日でしょ、千夏ちゃんの。持ってくもの、まだ買ってないって言ってたじゃない。前に」


 灯は言った覚えがあった。いつ言ったかは出てこない。


 「これ、何が入ってるの」


 「玉子と、昨日の煮たのと、あと梅。ばあちゃんのは梅二つね」


 「梅が二つ。あたしのは一つ」


 「一つだと足りないんだって。前に言われた」


 母は流しの水を止めて、手を拭いた。拭き方が速かった。拭いてから、台の端に置いてあった電話を灯のほうへ滑らせた。滑った先で、電話は弁当箱の角に当たって止まっていた。


 「さっき鳴ってたよ。あんた宛てのやつ」


 画面に字が並んでいた。行が四つ。上から順に、あかり今日二時ね、去年と同じに早く来ないでよ、と続いていた。三行目は、二時って言ったら二時ね。最後の行だけ長さが違っていた。


 あかり最近ぼんやりしてない?


 灯は最後の行を二度読んだ。それから、上の三行へ戻った。二時という字が三回出てきた。どれも同じ大きさで、三回目のほうに点が付いていた。


 千夏はいつも行を分けない。まとめて書いて、最後にだけ短いのを足す。行の終わりには何か付いている。点か、問いか、笑いになる。足したぶんが本題になる日と、ならない日がある。灯はどちらか決めないまま、指を画面に置いた。


 置いたところで、母が電話を取り上げた。


 「あたし寝るから、これ部屋に持ってくね。返すのは起きてからでいいよ」


 「何時に起きるの。夜も出るの」


 「七時。ごはん作るから、それまでには帰っててね」


 母は電話を持って階段を上がっていった。踏む音が七つ。そこから先は聞こえなくなった。上で戸の閉まる音が一度した。


 灯は台の上の弁当箱を二つとも見た。形は同じで、蓋の色だけが違う。包んだほうの布は、端が台の縁から少し出ていた。灯は端を押し込んで、包んだほうを鞄(かばん)へ入れた。入れると鞄の底の形が変わって見えた。


 もう一つは冷蔵庫の中段へ移した。そこには母の作り置きが三つ並んでいて、弁当箱を入れると、いちばん奥の一つが見えなくなった。見えなくなったのは煮た物で、蓋の色だけ覚えていた。灯は扉を閉めた。


 冷蔵庫の扉に、母の書いた紙が留めてある。今月の勤めの日が丸で囲んであって、丸は月の後ろのほうに固まっていた。灯は今日のところを目で探した。今日は丸の付いていない日だった。


 棚の小皿に硬貨が入っていた。小皿の硬貨は四枚だった。数えると四百円ある。小皿の底に硬貨の跡が四つ、丸く残っていた。灯は四枚ともポケットへ入れた。


 持っていくものは、昨日のうちに決めてあった。寝る前にそう決めて、そこから一度も変えていない。千夏の部屋には物が多い。机の上にも棚にも、灯の家より物が多く並んでいた。そこへ足しても分からなくなるものは選ばないことにした。


 千夏が数えるものにした。それだけ決めていた。


 玄関で祖母が靴を履いていた。


 祖母は今日も早い。灯が下りてくるより前から玄関にいて、下りてきても顔を上げなかった。履くのに時間を掛けていた。かかとを一度入れ直して、それから立ち上がった。


 立ち上がると、傘立ての前で足を止めた。


 中の一本の柄を、手で一度だけ包む。それから離した。毎朝そうする。理由は一度だけ聞いて、答えは返ってこなかった。それきり聞いていない。


 「傘は持ったの」


 「持ってく。降らなくても」


 祖母はそれだけ聞いて、戸を開けた。戸の音は二つになる。開ける音と、閉める音。その間は、いつもより詰まっていた。今日は降らない日だと、玄関の外の明るさで分かる。


 傘立てには三本残っていた。母のと、灯のと、父のと。父のは去年の春から動いていなかった。柄のところにほこりが薄く付いていて、指でなぞると線になった。


 灯は自分のを抜いた。抜くと二本になる。柄の内側に名前が書いてある。祖母の字で、いつのものかは知らない。指でこすっても、字は消えなかった。


 その一本を右手に持ったまま、灯は台所へ戻った。


 窓の下の框(かまち)へ手を伸ばした。


 伸ばして、途中で止めた。框には何も無い。朝の光が板の木目のところだけ濃く見えていた。灯は手を引っ込めた。引いた手を、いちど握って開いた。


 何か持っていくつもりだった。


 何を持っていくつもりだったのかが、出てこなかった。


 灯は框をもう一度見た。窓の外は、隣の家の塀。それから灯は台所を出た。出る時に、冷蔵庫が短く動きはじめた。その前と後で、台所の中の音が一つ増えた。


 玄関で靴を履きながら、灯は指で日を数えた。八月十二日。地下の棚の傘が処分に出るまで、あと十九日ある。


 数えたのは今朝二度目だった。はじめは起きてすぐ、布団の中で数えている。そこで数えると、いつも一日多く出る。灯は二度数えることにしていた。


 戸を開けると、外の空気が重かった。塀の影は細くて、道の半分から先には残っていない。灯は残っている側から歩きだした。影は道の右側にだけ残っていた。


 道の途中で、灯は一度だけ振り返った。家の窓に人は出ていない。母の部屋の窓は閉まっていて、内側のカーテンが半分だけ寄せてある。灯は前へ向き直った。


 角の家の犬は柵の内側で伏せていた。名前はハナ。灯を見て、尾を二度だけ動かした。顎はすぐ前足へ戻った。


 *


 駅前の店は、生き物の物だけを置いている。


 外に犬の首輪が下がっていて、その内側が鳥と魚と、それより小さいものの棚になっていた。灯は三度しか入ったことがなかった。入ると匂いが変わった。乾いた草に近い匂いが、天井の高さまで詰まっていた。奥へ行くほど、その下に別の匂いが混ざっていた。


 棚は左から鳥、その次が魚、いちばん奥がハムの棚。奥の棚は下から二段目までしかない。二段目より上は空いている。値札だけが四枚残っていた。


 灯はしゃがんで、袋の並びを見た。奥の棚の前だけ、床の色が薄くなっていた。


 混ざっているのが四種類あった。黄色いのと茶色いのが多くて、平たいのが少し入っている袋。四つとも同じ作りで、大きさだけが違った。裏を返すと、粒の絵が印刷してある。絵の中の粒の数は、四つとも同じだった。


 いちばん端に、平たいのだけの袋があった。


 袋の上のほうに、小さい字で中身の書いてある帯がついている。灯はそこを読んだ。読める字だけを拾うと、二つの語が出た。


 灯は袋を持ち上げた。中で粒が動いて、袋の底の角へ集まった。平たいのは片面が白くなっていた。千夏の家で二すくい取った時に数えたのは四つで、その四つも片面が白かった。


 平たいのは最後に食べる。ためこんで、頬(ほお)に入れて、あとで出して食べる。千夏はそう言って、自分の頬を片方だけふくらませた。そのまま何か言おうとして、口の端から空気が先に出た。


 この袋は、全部それだった。ためこむ必要が無い。


 灯は袋を持ったまま、しばらくしゃがんでいた。膝の下の床が冷えている。店の床だけ、外より冷えていた。


 値札は三百二十円。ポケットの四百円で足りる。


 台のところへ持っていくと、店の人が薄い紙で包もうとした。灯は包まなくていいと言った。包むと中が見えなくなった。


 「そのままでいい?」


 「そのままでいい」


 店の人は袋の口の折り返しを指で押さえて、それから台の上を滑らせて返した。滑った距離は短い。


 おつりは八十円だった。硬貨が八枚あって、受け取ると手のひらに重さが来た。八枚とも十円で、灯は数えてからポケットへ入れた。ポケットの中で、八枚は一つの塊にならずに散った。


 外へ出ると、匂いがすぐ消えた。消えたことのほうが分かる。灯は袖を嗅いでみた。袖には何も残っていなかった。


 駅の入口から地下へ下りた。階段は上から数えて三段目で暑さが切れる。その段は日によって違う。今日は三段目になる。前に来た時は五段目まで暑さが続いていた。


 下りきると天井が低くなって、電車の音が上から来た。音は下りてこなかった。下りてくるのは動きのほうで、天井の板が細かく動いた。


 遺失物センターの窓口は通路の突き当たりにある。板の内側に祖母がいた。細長い紙に何か書いていて、手を止めない。同じ形の紙が束になって、輪ゴムで留めてあった。


 灯は板の高さから中をのぞいた。板の内側は、外より少しだけ明るかった。


 「弁当。冷たいうちにって」


 祖母は手を止めずに顔だけ上げた。灯を見て、それから板の上の空いているところを指した。灯は包みを置いた。置いた時に、包みの結び目が横を向いている。


 「もう食べたの」


 「まだ。うちで食べる」


 祖母はうなずいた。うなずいてから、また紙へ戻った。書く場所だけ、指の横が黄色くなっていた。同じところにずっと当たると、そうなる。


 「今日はどこか行くの」


 「うん。このあと用がある」


 祖母はそれ以上聞かなかった。包みは板の上に置かれたままになった。書き終わるまで手を出さない。灯はそれを知っていたので、待たなかった。


 窓口の横に戸が一つ。灯はその戸を押して、内側の通路へ入った。内側は窓口より一段低くなっていた。入ると靴の下の音が変わった。


 棚は左の壁いっぱいにあった。上から四段あって、下の二段が傘。


 傘は柄を上にして立ててあった。柄の色は全部違っていた。黒が多くて、次が紺。赤は三本混じっていた。灯は左から数えはじめた。


 「二十七までですよ」


 川辺さんが台車を押して通った。台車の上に段ボールが二つ載っていた。下の一つのほうが大きく見えた。


 「二十七。それより先は」


 「今年に入ってからのぶんです」


 灯は棚の右の端を見る。境目に印は無い。


 「そこから右は、三十一日に出すぶんです」


 灯は右の棚を見た。柄の並びが違っていた。詰めて立ててあるので、間が無かった。


 「先月のは、いつまで」


 「八月三十一日です。動きません」


 川辺さんは台車を押していく。車輪の音は通路の奥で止まって、それきりになる。段ボールを下ろす音がしてから、戻ってくる音はしなかった。


 灯は右の棚の前に立った。立つと、柄の先が目より下に並んでいた。


 二百三十本あった。数えたのは七月で、その時から本数は変わっていない。増えないし、減らない。取りに来る人がいれば減るが、七月の終わりからは一本も減っていなかった。


 棚の横の壁に紙が一枚貼ってあった。前に来た時と同じ紙で、四隅のうち一つだけ留め具が外れて垂れている。上のほうに大きい字で日にちが書いてあって、その下は字が細かくなっていた。細かいほうを灯は読んだ。意味の取れる行と、取れない行があった。


 取れた行は三つ。取りに来た人がいれば返す。取りに来ない物は、日にちの来た順に出す。日にちは動かさない。


 紙の下の隅に、番号のふり方の表があった。傘は一つの数字で始まる。この棚の傘は全部その数字だった。灯は表の中の、傘の行だけを二度見る。


 棚の下の段に、灯の傘と同じ形のものが一本あった。柄の色が違っていた。灯は自分の傘の柄を、棚の柄と並べてみる。太さは同じで、先の丸さが違った。並べた手を戻すと、自分のほうだけ手の温さが移っていた。


 柄の内側に名前があるかを見た。この一本には無かった。灯は隣も見る。そちらにも無かった。三本目で、消えかけた字が出た。読めるのは一字だけで、あとは薄い。


 灯はその一本を戻した。戻す時に、隣の柄と当たって、当たった先が少し傾いた。灯は指で直した。


 通路の奥は暗い。突き当たりまで棚が続いていて、その先が処分済みのぶんだった。天井の電球は手前の二つだけ点いていた。


 灯は奥のほうを見た。見て、そこで目を戻した。


 通路には椅子が一つ置いてあった。灯はそこへ腰を下ろす。座ると棚の下の段が目の高さへ来た。はじめてここへ入った時は、柄の先しか見えなかった。


 事務室の電話が鳴りだした。二回で止まって、しばらくして、また鳴る。灯は数えた。七回でやめた。やめたあとも鳴っていた。


 窓口の内側から祖母の声がした。誰かに答えていた。言葉までは、ここまで届かない。声の高さだけが二度上がって、その後で下りた。


 誰かが通路の入口を通った。窓口へ用のある人で、板の前で足を止めた。祖母の声と、その人の声が交互にした。長さは祖母のほうが短い。二度、祖母の声だけが上がった。そこは聞き返した時で、聞き返されると相手のほうが長く答えた。


 やりとりは五回で終わった。その人は板から離れて、来たほうへ戻っていく。持ってきた物は持ったままだった。


 灯は棚の傘を見ていた。その間、頭の中では何も動かなかった。


 通路の壁の時計は、一時二十分。


 灯は立ち上がった。立ち上がって、鞄のひもを掛け直した。中で袋が動いて、平たい粒が袋の角へ寄った。


 窓口の内側で、祖母は紙の束を引き出しへ入れているところだった。引き出しは半分までしか開かない。止まるところで手を止めて、入れてから閉めていた。


 窓口の板の上から、包みは無くなっていた。


 *


 駅から家の前までは八百歩ある。


 灯は数えながら歩いた。着いた時は八百ちょうどだった。去年の冬に数えた時は八百十六で、今日は十六少ない。信号で止まったぶんは数に入れていない。


 そのまま門を通り過ぎた。ここから千夏の家までは、あと四百二十歩になる。


 塀の上に鉢を並べている家は、今日も二軒だった。多いほうは十一で、前と同じ。少ないほうは七つあって、そのうち二つが空になっている。空の鉢には土だけ入っていた。


 日陰を選んで歩いた。片側しか無い時間になる。日の当たる側の壁は白く見えて、影の側は色が濃い。同じ壁が、境目のところで切り替わっていた。


 鞄の中で袋が動いた。歩くと動く。灯は肩のひもを握って、鞄を体に付けた。そうすると動かなくなった。


 道の途中で、灯は袋を鞄から出して持ち替えた。持って歩くほうが、中の粒が寄らない。持ち替えてから、袋の表を上に向けた。平たい粒の白い面が並んで見えた。


 千夏は数えるはずだった。袋を開けて、まず数える。四つでやめて、それから全部だと気付く。その時に何と言うかまでは、灯は決めていなかった。


 二つ目の角で、灯は足を止めた。


 角の空き地は前と同じに見えた。基礎のコンクリートだけが四角く残っていて、その内側の土が出ている。土は道の色をしていなかった。赤に近い色をしていた。


 囲いの網に指を掛けた。網は日に当たっていて熱かった。すぐ離す。指の腹に四角い跡が三つ残った。歩くうちに消えるはずだった。


 ここには先月まで家が建っていた。門の柱の高さは出てくる。郵便受けのさびた蓋も出てくる。


 屋根の色は、今日も出てこなかった。


 灯は網から手を離して角を曲がった。もう一つ先も同じにして、三つ目の手前で足の速さが落ちた。遅くなったのは自分でも分かった。分かってから、また速さを戻した。


 三つ目の角から先に、千夏の家がある。角から三軒目。


 灯は角のところで止まった。そこに影は無い。日はまだ道の上にあった。


 柵の内側に自転車が三台あった。一台は千夏のもので、籠に何も入っていない。荷台のゴムが片方垂れていた。あとの二台は知らない自転車で、どちらも背が低く見えた。車輪が二回りほど小さい。子供の乗るものになる。


 道には車が一台、塀へ寄せて停めてあった。灯の家の前の道には車が停まらない。ここは道が少し広かった。車の後ろの窓の内側に、何か貼ってある。黄色い四角で、字までは見えなかった。


 玄関の戸が開いていた。開けたままにしてあった。上がり口から外まで靴が出ていて、灯はそれを数えた。大人の靴が六。子供のが四。合わせて十。


 十のうち、千夏のがどれかは分かった。かかとの内側が片方だけ潰れていた。左のほうだった。


 柵の内側で、小さい男の子が二人走っていた。先へ行くほうと、追いかけるほうがいる。後ろのが石につまずいて、手をついた。ついたまま、少し動かない。


 玄関から女の人が出てきた。つまずいたほうを起こした。それから、両手で土を払った。払い方が速い。


 その人が笑った。


 笑い方の形が、千夏と同じだった。声の高さは違う。低いのに、切れ目の入るところが同じで、玄関の天井に当たって返ってくる形まで重なっていた。灯は柵の外から、その形を二度聞いた。


 女の人は男の子を二人とも中へ入れた。それから玄関の横の鉢に水をやった。鉢は三つ。どれも底から水が出るまで待っていた。待つ間、家の中へ顔を向けて何か言った。言い終わる前に、中から返事が来た。


 玄関から男の人が出てきて、車の後ろを開けた。中から平たい箱を二つ出す。どちらも両手で持って、上のほうが少し傾いた。そこで足を止めて、直してから運んだ。


 箱の側面に、店の名前らしい字が印刷してあった。角から読める大きさではない。灯はその字の形だけ見た。丸い字。


 箱が中へ入ると、玄関の内側で声が集まった。一度高くなって、それから下りた。


 柵の内側の、日陰になっている側に椅子が一つ置いてあった。年寄りの女の人が座っていた。灯はその人を見たことがない。柵に杖(つえ)が立てかけてあって、握るところだけ色が濃かった。


 その人は動かなかった。膝の上で手を組んで、玄関のほうを見ていた。子供が二人、その前を通っても顔の向きが変わらなかった。


 家の中から千夏の声がした。


 何を言っているかは分からない。分からないが、千夏の声だった。声のあとで、家の中の何人かが一度に笑いだした。三つか四つ重なって、そのうち一つが女の人のだった。


 女の人が、鉢の前から顔を上げた。そのまま道の先へ顔を向ける。灯の立っている角のほうを見た。


 灯は塀の内側へ半歩下がった。塀の角が肩の前に来て、柵が見えなくなった。


 灯が自分の下がったことに気付いたのは、その後になる。


 塀の向こうで、玄関の戸が動く音がした。閉まりはしない。開けたままにしてある戸を、誰かが一度押しただけだった。


 灯は角に立っていた。


 三軒ぶん歩けば柵に着いてしまう。四百二十歩のうち、残りは四十歩くらい。教室の端から端を、往復するのと同じくらいになる。


 柵の内側の子供は、二人とも灯より小さい。千夏に弟がいないことを、灯は知っている。いる人のことは、一人も知らない。


 灯は千夏の家の廊下を思い出した。板が新しくて、歩くと足の裏に冷たいところがある。突き当たりが千夏の部屋で、途中の壁に写真の額が四つ並んでいる。


 四つとも、中身が出てこなかった。


 毎回そこを通っていた。数えたことはない。前を過ぎる時、灯は顔をそちらへ向けなかった。


 額の形だけは出た。四角いのが三つと、横に長いのが一つ。


 今、その四つの中に写っている人が、この柵の内側にいる。


 灯は手のひらを見た。網の四角い跡は、もう消えていた。


 ポケットに手を入れた。十円が八枚。数えなくても指で分かる。それでも、灯は数えた。


 まぶたが重い、と灯は思った。


 灯は角の内側へ足を下ろした。足はそのまま向きを変えて、来たほうへ戻った。


 三軒ぶんを、灯は歩いていない。


 空き地の角まで戻ったところで、灯は一度だけ振り返った。角の先は塀で切れていて、千夏の家は見えない。あるのは塀の上の鉢と、その上の空だけだった。


 鉢の数を、灯はもう一度数えた。十一。さっきと同じ数。


 家の前まで八百歩ある。灯は数えなかった。


 *


 部屋へ上がると、日は西の壁まで来ていた。


 帰ってすぐ、灯は傘を傘立てへ差していた。柄を先に入れて、根元まで落とす。一日持って歩いて、一度も広げていない。使わなかった日の傘は、朝と同じ重さのままだった。


 中は、また三本になっていた。祖母のはまだ帰っていない。空きが、いちばん奥に一つ残っている。


 灯は鞄を床へ下ろした。袋を机の上へ置く。置いた時に、中の粒が片側へ寄った。袋の形が斜めになって、灯は直さなかった。


 机の引き出しを開けた。いちばん上の段。名札があって、その下に四月のノートが入っていた。


 灯はポケットの十円を出した。八枚とも、名札の横へ入れた。重ねずに並べる。八枚のぶんだけ、引き出しの底の紙の色が見えなくなった。八枚のうち二枚は縁が黒ずんでいた。古いほうが黒くなる。


 名札は四月から同じところに入っていた。組と名前が印刷してあって、その下に手で書いた欄が一つ空いていた。四月に何を書く欄なのか聞きそびれて、そのままになっている。


 ノートを出して、一枚目を開いた。


 一枚目には日付が二つ並んでいた。七月二十四日と、七月二十六日。間の一日に丸が付けてある。線は一度なぞり直してあって、そのぶんだけ太くなっていた。


 灯は鉛筆を持った。二つの下に、三つ目を書いた。八月十二日。それから、その横に十九と足した。


 字は前の二つより小さくなった。七月の灯は、日付を大きく書く子供だった。


 三つの日付。灯はそれを上から順に見た。同じ紙の上に並んでいるだけだった。


 ノートを閉じて、引き出しへ戻した。


 閉める途中で、鉛筆が一本、中で転がった。そのまま奥へ行った。手を入れれば届く。


 灯は入れなかった。引き出しを閉めて、閉めたところで手を離した。


 夜まで、部屋の外で音がしなかった。母の部屋の戸は閉まったまま。灯は宿題のドリルを出して、二枚やった。三枚目の途中でやめた。やめたところで、日が壁から下りて床へ移っていた。


 五時を過ぎた頃、灯は机の上の袋を取る。取って、鞄へ入れた。ひもを肩へ掛けた。そのまま、部屋の戸のところまで行った。


 戸は開けなかった。灯は鞄を下ろす。袋をまた机へ戻した。置いた位置は、さっきと同じところだった。


 その後、袋には触っていない。


 床の光は窓の枠の形をしていた。枠の形は、机の脚のところで折れ曲がっていた。灯はその角を指でなぞる。指のほうには何も付いてこなかった。


 夕方の風が入って、ドリルの紙が一枚めくれた。めくれた先には、まだ何も書いていない行が並んでいた。灯は元へ戻して、ドリルを閉じた。


 七時に階段の音がした。段を踏む数が七つ。


 台所で母が米を研いでいた。研ぐ音は水の音に近い。研ぎながら、台の端の電話を顎で指した。


 「返しといて。ずっと鳴ってたよ、昼のあいだ」


 灯は電話を取った。取る前に、手のひらを服の横で一度こすりつけた。手はもう乾いている。


 画面に字が並んでいた。行が増えていた。時刻が横に付いていて、二時十五分と、二時四十分と、三時と、三時二十分。そこから先は空いていた。


 上から順に読んだ。どこにいるの。まだ? ハム出したよ。もう籠の外にいる。


 最後の行のあとに、字は一つも足されていない。三時二十分から今までの間が、画面の上では何も無い場所になっていた。


 灯は画面の前で指を止めた。そのまま、しばらく動かさずにいた。母が米の水を替える音が二度した。あとのほうが長かった。


 それから灯は書いた。


 行かなくてごめん。おめでとう。


 書いてから、上の行をもう一度読んだ。それから、書いた二行に足すものを探した。足す字は出てこなかった。


 二行のまま送る。送ってから、電話を台の上に伏せて置いた。


 「ごはん、あと二十分ね」


 「うん。手を洗ってくる」


 「牛乳あるから、先に飲んじゃっていいよ」


 灯は冷蔵庫を開けなかった。流しの横に立って、窓の外を見ていた。外はもう暗い。向かいの家の窓が二つ点いていて、そのうち一つが途中で消えた。暗くなったほうの窓は、点いていた時より黒く見えた。


 母が冷蔵庫から何かを出して、台の上へ置いた。音が二度した。灯は振り向かなかった。そのまま、向かいの家の、消えていないほうの窓を見ていた。窓の内側で、人の形が一度だけ横を通る。通ってから、そこは動かなくなった。


 母が鍋に水を入れた。音は、高いところから低いところへ変わる。


 母は米を炊飯器へ移して、蓋を閉めた。それから、冷蔵庫を開けて中を上から下まで見た。中段の弁当箱を見つけて、取り出して、こちらを見た。


 「これ、食べてないの」


 「うん。あとでと思ってた」


 「じゃあ今日ので出すね。あっためたほうがいい?」


 「そのままでいい」


 台の上の電話が、伏せたまま一度だけ明るくなった。


 灯は取り上げて、裏返した。


 ありがとう。


 返信は、五文字だった。


 点も、問いも、笑いも付いていない。


 灯は画面の字を、指でなぞらずに見ていた。字は五つのまま増えない。


 画面が暗くなるまで、灯はそれを持っていた。それから電話を母へ返した。母は手を拭いてから受け取って、台の隅へ置いた。


 「ごはん、呼ぶから」


 「部屋にいる。呼んだら下りる」


 部屋へ戻ると、机の上の袋はさっきのまま置かれていた。斜めになったところも同じ。口を留めたテープの端が、少しだけ浮いていた。


 灯は指で押さえた。いちど浮いた端は、もとに戻らなかった。


 浮いた隙間から、匂いが上がってきた。千夏の部屋で嗅いだのと同じ匂いだった。

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