第016話 鍵の塔
八月十一日。窓口の内側は空だった。
机の上に届出票の束があって、判はその横に置いてあった。伏せてはいない。灯は束の高さを目で測った。昨日より低い。
机の端の紙は、まだ同じ場所にあった。角が机の縁とそろっていた。上に何も載っていなかった。
棚の傘は九本。灯は下から二段目の空きを二つ確かめて、それから指を折った。八月十一日。処分の日まで、あと二十日。
二十は指で足りる。両手を二度使えばいい。灯は二度使って、二度目の最後の指を折ったところで手を開いた。
扉の前で、灯は中身を出さずに鞄の重さだけ量る。昨日より重い。増えたぶんは輪で、六つ。木の札は一枚、ノートの下へ回っていた。
輪は六つ。朝、家を出る前にも数えている。昨日の市で入ったのが四つで、あとは前から持っていた。灯は指で半分に分けて、また寄せた。
外は風があった。
傘立ての金物が鳴っていた。低いほうから高いほうへ、順に鳴って、また低いほうへ戻る。灯は音の順を目で追った。その先に金物は無くて、音だけが動いていた。
四つ角にキリがいた。台は畳んであった。板は立てかけてあって、上の布は石で押さえてあった。
石は四つ。右の手前の一つに、昨日、灯が自分で置いた跡が付いている。跡は雨にも風にも消えていなかった。
「今日はどこへ行くの」
「北だ。丘の先まで行く。上りが長いから、朝のうちに出る」
「丘の先は行ったことない」
「あんたが昨日、そう言ってたのを聞いてる」
灯はキリの顔を見た。キリは布の端を石で押さえ直していた。顔は上げなかった。
昨日カガリに言ったことを、キリは聞いていたことになる。灯はそれを口に出さなかった。
「縄が二本要る。持ってるが、あんたのぶんから二つ引くぞ」
灯は鞄の中の輪を思った。朝、確かめた時は六つ。二つ引くと四つになる。
「なんであたしのから引くの」
「あんたが一本使うからだ。俺のぶんは俺のから引く」
「先に言うの、ずるい」
「あとで引かれるより、いま聞いたほうがいいだろ」
灯は口を閉じた。開けかけて、閉じた。
輪を六つとも出して、そこから二つをキリの手のひらへ載せた。大きさの違うほうが先。
キリは二つを袋へ落とした。数えなかった。
「数えなくていいの」
「二つだと言ったのはあんただ。それで足りる」
残った四つを、灯は鞄の底へ戻した。戻すと、底が前より平たくなる。肩へ掛けても腰の骨に当たらなくなっていた。
四つ角の北の道は、灯の知っている上りだった。石の敷き方が途中で変わる。丘の下までは三度歩いていた。
三度のうち二度は七月で、残る一度が四日前だった。その日は丘の上まで行って、それから板の下へ二つ置いた。
今日は丘へは上がらない。灯はそれを、道が二つに分かれる前から知っていた。キリが北と言ったからではない。北で丘に用があるなら、縄は要らない。
歩きはじめて、灯は数を口の中へ置いた。四つ。歩くうちに、その四つが石を踏む拍と合ってきた。
「今日は何を持ってくの」
「持たん。今日は取りにいくほうだ。鍵を一本、頼まれてる」
「鍵、塔にあるんだ」
「塔そのものが鍵だ。行けば分かる」
灯は言われた言葉を頭の中でもう一度置いた。形にならない。
丘の下で、道が二つに分かれた。左は斜面へ上がる道で、灯が三度通った側になる。右は草の中へ入っていた。
キリは右へ入った。
草は灯の腰より高かった。歩くと膝から下が見えなくなる。灯は前のキリの背中を目印にした。背中が沈むと、そのぶんだけ道が下っていた。
草の匂いがした。切ったばかりの匂いではない。乾いて、その下に土の匂いが混ざっていた。学校の裏の、体育倉庫の脇の草を刈った日に、同じ匂いを嗅いでいる。
「この道、ほかの人も通るの」
「通る。年に何度かはな。用は俺と同じで、取りにくるだけだ」
灯は草をかき分ける手を止めた。すると前の背中が二歩ぶん離れた。
草の葉は縁が細かく切れていて、握ると手のひらの内側が赤くなる。灯は握らずに、腕の外側で押して歩いた。
二度、道が消えた。その先は草が倒れていなくて、灯は前の背中の沈み方だけで方角を決めた。二度とも当たっていた。
草が切れた。切れ目は急で、二歩前まで何も見えなかった。
目の前が開けて、地面が下がっていた。その先は広いくぼみで、くぼみの底に何かが立っていた。
灯は足を止めた。
塔だった。
高さは学校の校舎の三階ぶんほど。上へ行くほど細くなっていて、いちばん上は灯の目からは点に見えた。
色は灰色ではなかった。灰色と、鉄の色と、黄色っぽい色が混ざっていた。まざり方は場所によって違っていて、下のほうほど黒い。
灯は目を細めた。すると、一つずつの形が見えた。
鍵だった。
全部、鍵でできていた。大きいのも小さいのもある。輪だけのものと、歯の欠けたものが、組み合わさって積まれていた。積み方に決まりがあるようには見えない。それなのに崩れていない。
鍵の塔は、音楽室の壁いっぱいの棚に似ていた。ただし棚は全部、鍵だった。
「これ、誰が積んだの」
「知らん。話は聞いたことがあるが、俺は信じてない」
灯はくぼみへ下りはじめた。斜面は草が短くて、足の裏が滑る。灯は横向きになって、かかとから下ろした。
下りきると、塔の根元が見えた。
根元は太い。灯が両手を回しても半分も届かない太さで、そこだけ鍵が大きかった。門扉の鍵ほどの、手のひらより長いものが縦に並んでいた。
灯は一本に触れた。
冷たかった。朝の傘立てより深く冷えていた。指を離すと、離した先の面に指の跡が残った。跡はすぐに消えた。
消えたところを、灯はもう一度触った。
音がした。
低い音。触った鍵ではなく、その上の一本が鳴っていた。灯は見上げた。二本目が鳴り終わる前に、三本目が鳴った。
音は上へ上がっていった。
一本鳴るたびに、次の音が少し高くなる。上へ行くほど高い。灯は口を開けたまま、音の行く先を目で追った。目では追いつかない。音のほうが速い。
いちばん上まで行くと、音は止まった。少し間があって、それきりになる。
「押したのは下なのに、上のが鳴った」
「鳴る。いつも下から上へ抜ける。なんでかは知らん」
灯はもう一度触った。今度は指の腹を押しつけた。
同じ順で、同じ高さで、音が上がっていった。二度目は長い。初めから上を見ていた。
三度目に触ろうとして、キリが手を出した。
「何度もやるな。上で聞いてる奴がいたら迷惑になる」
「誰かいるの」
「いない。だが、いないと分かってるのは俺で、あんたじゃない」
キリは袋を下ろした。中から縄を二本。一本を灯へ渡した。渡された縄は、灯の腕より太かった。
「腰に回して結べ。ここの高さだ」
「このへんでいいの」
キリは自分の腰の高さを指した。灯は縄を回して、前で結んだ。結び方は縦になった。
キリが見た。見て、手を出して、結び目をほどいた。
「それは解ける。引くとほどける結びだ」
「ほどけないように結んだ」
「縦にすると解ける。横へ食い込ませないと止まらん」
キリはやり直した。手の動きは速くない。灯は横から見て、順を目で追った。端を下から回して、輪の内側へ入れて、それから引く。
「もう一回やって。今度は見てる」
キリはもう一度やった。今度は途中で手を止めて、灯の指を結び目へ入れさせた。
「ここが食い込む。食い込んだら、引いても解けん」
灯は指で食い込んでいるところを押した。押すと縄が少し沈んだ。沈んだ跡は戻らなかった。
「覚えた。指の入れる場所も」
「覚えたなら、次からは自分で結べ。俺は見てるだけにする」
灯は腰の縄を両手で持って、引いてみた。締まった。腰の骨の上で止まる。
残りの縄は塔の根元へ回して、キリが自分の腰へ結んだ。二人の間の縄は、灯が三歩下がってやっと張るくらいの長さになった。
「これ、登るんだ」
「登る。上まで行く」
灯は上を見た。上は細い。点になっている。
鞄を下ろしていくかどうか、灯は少し考えた。それから肩へ掛け直した。中には筆箱と、水筒と、青い表紙のノートと、輪が四つ。
「その鞄、持ってくのか。落とすぞ」
「落とさない。ひもを短くする」
灯は鞄のひもを短くした。すると鞄が背中の高いところへ来て、腕の動きに掛からなくなった。
根元の鍵の一本に、足を掛けた。輪の部分がちょうど靴の幅で、体重を乗せても動かない。手は上の一本を握った。その先は歯の欠けた鍵で、欠けた側を避けて持つと親指が余る。
登ると、音が鳴った。
足を乗せた鍵ではなく、その上のが鳴る。灯が二段上がる間に、音は三段ぶん先へ行っていた。
「音が先に行く。あたしより速い」
「音のほうが速いに決まってるだろ」
灯の口が開いた。開いた拍子に手が緩んで、灯は握り直した。
*
五段めで、灯は下を見た。
地面はもう少し遠かった。くぼみの底の草は、上から見ると同じ向き。向きの中心は塔の根元にあった。風がそこで回っているのだと分かる。
六段め。七段め。灯は数えながら登った。
鍵の形は、上へ行くほど小さくなっていった。根元にあるのは門扉のもの。灯の胸の高さでは家の戸で、そこから上は引き出しや箱に変わる。
音も変わった。低いところは腹に来る音で、上は耳の中で鳴る音になる。灯が今いる高さの音は、その中ほどだった。
八段めの手前で、灯は握る先を選び直した。真上の一本は歯が上を向いていて、握ると手のひらに三つ当たる。灯は半歩だけ横へ動いて、輪の太い一本を取った。
その先の足場が狭い。つま先の半分しか乗らない。灯は片方の膝を鍵の面へ付けた。膝の下で金物が冷えていた。冷たさは布を通って、膝の皿の裏まで来る。
「下から上まで全部、鍵なの」
「全部だ」
「持ち主はどうしていないの」
キリからは何も返ってこなかった。三段上で足を止めて、右手で上の一本を握り直していた。
灯は聞き直さなかった。
代わりに、自分の握っている鍵を見た。歯が三つある。三つとも高さが違う。真ん中がいちばん高い。灯は指の腹で歯の間をなぞった。なぞると、指が三度引っかかる。
この鍵に合う扉が、どこかにある。
灯は握り直して、次の一本へ手を伸ばした。
十段めで、風が来た。
塔が鳴った。
触っていない鍵まで一斉に鳴って、下から上へ音が走った。灯は縄が張るのを腰で感じた。張ってすぐ緩んだ。
「動くな。息も止めるな」
「動いてない」
「止めると手が固くなる。吐いてから吸え」
灯は息を吐いた。それから吸って、もう一度吐いた。三度目で肩が下りた。
風が抜けた。音が止まるまでに、灯は八つ数えた。八つで下から上まで抜ける。塔の高さが、初めて数で分かった。
「あと、どれくらい」
「半分だ。上ほど細くなるから、細いほうが速い」
キリの言った通りだった。塔は上へ行くほど細くなって、手を伸ばす幅が短くなる。灯は同じ動きで二段ずつ上がれるようになった。
「歌ったら落ちる」
「落ちる。歌え。俺のほうが先に落ちる」
灯は歌わなかった。代わりに、足を掛けるたびに鳴る音を、口の中で数の名前に付け替えた。低いのが一、次が二、その上が三。四まで行ったところで、四の音がもう一の音より高くなっていた。
付け替えるのをやめて、灯はただ登った。
十五段めで、灯は手袋を思い出した。
丘の斜面に置いてきた片方だけの手袋のことではなかった。学校の冬に、暖房の上へ並べて置いた自分の手袋のことになる。指の先だけ乾きが早くて、いつも根元が湿っていた。
鍵を握る手が、その時と同じ形をしていた。指の先だけが乾いていて、根元が湿っている。
「あんた、さっきから何を笑ってる」
「笑ってない。口が勝手に上がった」
灯は口の形を自分で確かめた。たしかに口の端が上がっている。
「手が冬の形になってる」
「夏だ」
「知ってる。それでも同じ形」
十八段めで、灯は右手の下に紙が挟まっているのを見つけた。
鍵と鍵の間から、白い端が出ていた。灯は指でつまんで引いた。破れずに出てきた。
札だった。四つ角の木の札ではなく、紙の札で、角に穴が空いていた。穴に通っていたはずの糸は無い。
表に字があった。二文字。上の字は横棒が三本で、下の字は読めない。灯は日へ向けて透かした。裏から書いた跡が見えた。同じ字を裏からもなぞってある。
「これ、名前。二文字ある」
「たぶんな。札の主か鍵の主か、どっちかは分からん」
灯は札を鍵の間へ戻した。戻す時に、出ていた向きと同じ向きにした。
戻してから、灯は指を上着でぬぐわなかった。紙は乾いていた。
二十段めを過ぎたところで、鍵の一本が動いた。
灯が乗せた足の下で、輪が半分だけ回った。半分で止まって、それ以上は動かない。灯は足を止めた。
「回った。半分だけ」
「そこは乗るな。抜いて、上へ回す」
「抜いても崩れない」
キリは片手を伸ばして、その鍵を引いた。抜けた鍵は思ったより長かった。抜けた跡に穴が空いて、下が見える。
塔は崩れなかった。
キリは抜いた鍵を、自分の頭より上の隙間へ入れた。そこがぴったり埋まった。
「なんでそこに合うの」
「合うところへ入れただけだ。見れば分かる」
「あたしにも分かる」
「二年やれば分かる。それより早い奴は見たことがない」
灯は空いた穴を見た。穴の縁は丸かった。何度も抜き差しされた形になる。
差した先の鍵は、下の一本と大きさが合っていない。
灯は穴へ指を入れて、すぐ抜いた。
二十五段め。
音が高くなっていた。もう腹には来ない。耳の内側の、いちばん細いところで鳴る。灯は自分の靴が鳴らす音を数えようとして、途中でやめた。数えるより先に次が鳴る。
二十六段め。灯は片手を離して、握った手のひらを開いた。指の間に汗があった。汗は金物の粉と混ざって、線の形になっている。灯は指を閉じて、また開けた。線は同じ場所にある。
その次の一本を、灯は鳴らそうとした。二十七段めになる。
鳴らなかった。
灯は指を離して、もう一度押した。音は出ない。上へも下へも行かない。
右隣の一本を押した。鳴った。左隣も鳴った。真ん中の一本だけが黙っている。
「これ、鳴らない。上も下も鳴ってる」
「鳴らんのはある」
キリは答えなかった。黙ったまま二段上がって、それから下を見た。
「触るな、とは言わん。触っても何も起きん」
灯は黙っている鍵をもう一度押した。指の腹で、さっきより強く押した。
押した先で、金物は冷たいまま。上下の鍵は鳴っていた。その二本の音の間だけが、抜けていた。
灯は指を離した。それから、その一本の形を覚えた。歯が二つで、輪の上に細い傷が横に一本ある。
「疲れたか。腕が下りてるぞ」
「疲れてない。伸ばしてるだけ」
灯は自分の右腕を見た。肘が伸びきっていた。伸ばすと楽で、楽なぶん次の一段が遠くなる。灯は肘を曲げ直した。腕の内側が痛んだ。
風が抜けたあと、灯は自分の手のひらを見た。鍵を握った跡が横に一本ついていた。跡は白くて、縁だけ赤かった。灯は手を握り直した。握ると跡は見えなくなった。
「あんた、初めてでここまで来たな」
「まだ上がある」
「上はもっと楽だ。細いぶん手が近い」
「キリは何回登ったの」
「数えてない」
「あたしは数えてる。全部」
「そうだろうな」
灯は次の一段へ足を掛けた。その先が鳴って、音が上へ抜ける。上まで行くのに三つ数えた。下のほうでは四つ数えていた。
上へ行くほど、音の抜ける時間が短くなる。灯はそれを二度ぶん確かめて、確かめたことを口に出さなかった。
三十段めで、鍵の間から向こう側が見えた。
塔がそこだけ薄くなっていた。歯の欠けた小さい鍵ばかりで、隙間は指二本ぶんの幅。灯は片目を寄せた。
向こう側に、丘が見えた。
片手袋の丘だった。斜面の色が二つに分かれていた。日の当たっている側と、当たっていない側になる。灯はその境目を目で追った。行き着く先は、いつも自分が座っていたあたりになる。
石の上に何か置いてあるはずだった。ここからでは点にもならない。
灯は目を離した。
離してから、もう一度寄せた。
「何を見てる」
「丘。石は見えない」
「石は見えん。ここからは屋根の傘も見えん」
灯は隙間から目を離して、上を向いた。
三十五段め。
鍵はもう、灯の親指ほどの大きさになっていた。歯が細かい。握ると手のひらに全部入る。足を掛けるところが小さくて、灯はつま先だけを乗せた。
乗せた足の下で、音が鳴った。
いちばん高い音だった。学校の音楽室の、いちばん右の鍵盤より高い。灯はその音を口の中で真似ようとして、出なかった。
「あんた、そこでいったん止まれ」
キリが上から言った。声は近い。
灯は顔を上げた。
キリの足が、灯の目の高さにあった。その上にキリの背中があって、背中の向こうに空がある。空はもう、下から見た時より青くなかった。白い。
「頭を出せ。ゆっくりだ」
灯は両手で上の一本を握って、体を引き上げた。
塔の上に出た。頭から先に、肩、腕の順で出た。
風が強かった。
上は平らではない。鍵の先が上を向いて並んでいて、その上へ座る場所は無い。灯は腹をつけて、腕を回した。その先に、キリが握っているのと同じ太い鍵があった。
「座るな。腹で乗って、腕を回せ」
「乗ってる」
息が上がる。灯は口で吸って、鼻から出した。三度そうすると、肩の力が抜けた。
*
灯は顔を上げた。
上から見えたのは、レポではなかった。
丘の向こうに、白いところがあった。輪郭の無い白さで、空との境目が分からない。取引所の地図に、同じ白さがあった。あれは何も書いていない白さで、こちらは何も無い白さになる。
灯はしばらく見ていた。
目が慣れると、白さの中に線が一本あった。横に長い線で、真ん中あたりで少し上がっていた。持ち上がった先に、何かが立っていた。
線の上のほうが、少しだけ濃かった。濃いところは動かない。灯は目を離して、また戻した。線は同じ場所にあった。
「あれ、なに。線がある」
「何も無い」
「あるよ。真ん中で上がってる」
「無い」
キリは向こうを見ていなかった。顔は灯の反対側を向いていた。
灯はもう一度見た。線はまだある。
言い直そうとして、灯は口を閉じた。そのまま、目だけで線をなぞった。なぞり終わっても、線は増えも減りもしなかった。
灯は白いところから目を離して、塔の上をもう一度見渡した。鍵の頭が日を受けていた。当たっている面だけが白くて、影の側は黒い。白い面は、日の回るぶんだけ入れ替わる。
「頼まれたのはこれだ」
キリの声で、灯は振り向いた。
キリが一本の鍵を持っていた。塔の上のほうから抜いたもので、灯の指ほどの太さがある。歯は二つ。二つとも欠けていない。
「それ、下のとどう違うの」
「音が違う。この高さのは、この高さのにしか合わん」
「合う扉はどこ」
「無い。無いから塔にある」
キリはそれを袋へ入れた。落としてから、袋の口を二度確かめた。
灯は自分の周りを見た。
塔の上は、腕を広げたくらいの広さしかない。その内側に、鍵が何百本も上を向いて並んでいた。灯は一本ずつ見た。見ていくと、途中で目が止まった。
一本だけ、向きが違った。
ほかの鍵は歯を上へ向けているのに、その一本だけが横を向いている。向いた先に、輪の穴が空いていた。穴の向こうに空が見える。
灯はその穴へ目を寄せた。
穴の向こうに、扉があった。
空の中にあった。地面から離れて、何にも付かずに立っている。木の扉で、灯の家の玄関より少し細い。取っ手は右側にあって、丸い。上のほうに横の板が三枚、下に二枚。
塗ってあった。色は白に近い灰色で、下の隅だけ剥げている。
灯は穴から目を離した。素の目で同じ方向を見た。
何も無い。
もう一度、穴へ寄せた。
扉はあった。
「キリ、こっち来て」
「なんだ」
「ここ、穴から見て」
キリが体を回す。回して、灯の指した鍵を見た。それから穴へ目を寄せて、寄せたまま動かなくなった。
三つ数える間、動かない。
「見えた」
「見えたよね。あれ何」
「知らん」
「開くのかな」
「知らん。それも知らん」
キリは体を起こした。それから、灯の顔を見た。この日、初めてまっすぐ見た。
「あんた、あれが見えるのか」
「見えるよ。キリも見えたでしょ」
「見えた。それは言った」
キリはそれだけ言って、袋の口をもう一度確かめた。
灯は穴へ戻った。
扉は同じ場所にあった。同じ大きさで、同じ向きで、取っ手が右にある。近づいても遠ざかってもいない。
灯は手を伸ばした。
穴の中へは指が入らない。輪の内側が細くて、灯の人差し指の第一関節で止まる。灯は指を抜いて、鍵の上から手を伸ばした。
伸ばした先には空しかなかった。
もう一度伸ばした。今度は腹を浮かせて、肩まで出した。腰の縄が張った。そこで止まって、それ以上は行かない。
「落ちるぞ。腰の縄はもう張ってる」
「もう少しで届く」
「その先には何も無い」
「あるってば。さっき見た」
灯は指を開いた。指の先で、空気が動いた。それだけになる。
扉は、そこにあった。手が届かなかった。
腕が戻り、腰の縄が緩んだ。
肩を鍵の上へ下ろして、顔を横へ倒した。目の先に、キリの靴があった。底の外側だけが擦り減って薄い。
目を閉じて、また開けた。空はさっきより白い。
上ってきたせいで、目の縁が熱かった。
灯は袖を目に当てた。当てた布が、少しだけ湿りを含んだ。
顔を上げて、穴のある鍵の輪へ指を置いた。丸くなっているところを、二度なぞった。それから手を下ろした。
「下りるぞ。日が回る。下りは影になって足元が見えん」
「まだ。もう少し」
もう一度だけ穴へ目を寄せた。扉はあった。剥げているのは下の隅で、右側。灯はその形を頭の中でなぞって、口の中へ置いた。名前を置くところと同じになる。
「下りる」
下りは、登りより手が要った。足を下ろす先が見えない。灯は先に足を出して、つま先で探した。当てるまでに二度、空を蹴った。
「見るな。足の先で探せ」
「探してる。二回、空を蹴った」
「見ると足が固くなる。当たるまで待て」
三度目で当たる。当てた先の鍵が鳴った。
登りと同じで、音は上へ行く。下りているのに、音だけが上へ抜けていく。灯は自分と音が反対へ動くのを背中で聞いた。
十段下りたところで、灯は数えはじめた。
登る時に数えた段は、三十八だった。腹で乗る前の最後の一段が三十八で、そこから頭を出した。
下りながら、灯はもう一度数えた。足を乗せた段だけを勘定に入れた。
二十。三十。三十五。
三十七で、足が地面に着いた。
灯は足を止めたまま、上を見た。塔は同じ形で立っていた。細くなる具合も、下りる前と変わらない。
灯はもう一度、下から数え直した。目で追えるのは二十まで。それより上は形が小さすぎて、一本ずつには分けられない。
「三十七だった。下りた段」
「何が違う」
「登った時は三十八。同じ数え方」
キリは縄をほどいていた。ほどく手を止めずに、上を見もしない。
「数え違いだろ。上りと下りじゃ足の掛け方が違う」
「二回とも数えた」
「なら一本抜けたんだろうな」
「キリが抜いたの」
「抜いてない。俺が抜いたのは上のだ。あれは差し直してある」
塔の影が、くぼみの底を横切っていた。灯は影の縁を靴の先でなぞった。なぞった土は、影の内側だけ湿っていた。
灯は自分の腰の縄をほどいた。ほどく順は、教わった通りにやった。食い込んでいるところを押して、それから端を引く。一度で解けた。
縄を巻きながら、灯はもう一度上を見た。どこが抜けたのかは分からない。塔は崩れていない。
「また来る。下から順に数える」
「来て数えて、どうする」
「合ってるか知りたい」
キリは縄を袋へ入れた。それから、初めて上を見た。一度だけで、すぐ戻した。
「好きにしろ」
灯は水筒を出して、二口飲んだ。口の中の粉っぽさが消えた。
その間、キリは縄の跡を手で払っていた。払うと鍵の面の土が落ちた。
「跡を消してる」
「消さん。触った物を元へ戻すだけだ」
灯は水筒を鞄へ戻した。戻す時に、中の輪が四つ、木の札に当たった。当たった数は二度。
根元の鍵に、二人の靴の跡が残っていた。灯の跡は小さい。キリの跡は外側だけ深かった。
くぼみを上がって、草の中へ入った。
草は行きより倒れている。二人の通った跡が、そのまま道になっていた。灯はその跡を踏んだ。行きより歩きやすい。
丘の下まで戻ると、日が回っていた。斜面の色の分かれ目が、逆の側へ移っている。
灯は足を止めて、斜面を見た。石は見えなかった。ここからでは、置いてきたものは何一つ見えない。
丘の下の分かれ道で、灯は左のほうを見た。斜面へ上がる道は、行きより影が伸びていた。
「明日は」
「四つ角だ。台を出す。朝のうちに来い」
「じゃあ行く」
北の道は、下りのほうが速かった。石の敷き方が変わる場所を、灯は行きと同じところで踏んだ。沈み方も同じだった。
途中で、荷を担いだ者が二人、下から上がってきた。二人とも縄を持っていない。灯は端へ寄って通した。二人は草の道へは入らず、丘の斜面のほうへ上がっていった。
北の道を下りながら、灯は後ろを一度だけ振り返った。
草の向こうに塔は無い。くぼみの底にあるので、この高さからは見えない。
見えないのに、音が聞こえた。
風が入ったのだと分かる。低いほうから高いほうへ、順に上がっていく。灯は足を止めて、終わりまで聞いた。
終わりの音は、いちばん細いところで鳴って、それから止まった。




