↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第一巻 わすれもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/50

第016話 鍵の塔

 八月十一日。窓口の内側は空だった。


 机の上に届出票の束があって、判はその横に置いてあった。伏せてはいない。灯は束の高さを目で測った。昨日より低い。


 机の端の紙は、まだ同じ場所にあった。角が机の縁とそろっていた。上に何も載っていなかった。


 棚の傘は九本。灯は下から二段目の空きを二つ確かめて、それから指を折った。八月十一日。処分の日まで、あと二十日。


 二十は指で足りる。両手を二度使えばいい。灯は二度使って、二度目の最後の指を折ったところで手を開いた。


 扉の前で、灯は中身を出さずに鞄(かばん)の重さだけ量る。昨日より重い。増えたぶんは輪で、六つ。木の札は一枚、ノートの下へ回っていた。


 輪は六つ。朝、家を出る前にも数えている。昨日の市で入ったのが四つで、あとは前から持っていた。灯は指で半分に分けて、また寄せた。


 外は風があった。


 傘立ての金物が鳴っていた。低いほうから高いほうへ、順に鳴って、また低いほうへ戻る。灯は音の順を目で追った。その先に金物は無くて、音だけが動いていた。


 四つ角にキリがいた。台は畳んであった。板は立てかけてあって、上の布は石で押さえてあった。


 石は四つ。右の手前の一つに、昨日、灯が自分で置いた跡が付いている。跡は雨にも風にも消えていなかった。


 「今日はどこへ行くの」


 「北だ。丘の先まで行く。上りが長いから、朝のうちに出る」


 「丘の先は行ったことない」


 「あんたが昨日、そう言ってたのを聞いてる」


 灯はキリの顔を見た。キリは布の端を石で押さえ直していた。顔は上げなかった。


 昨日カガリに言ったことを、キリは聞いていたことになる。灯はそれを口に出さなかった。


 「縄が二本要る。持ってるが、あんたのぶんから二つ引くぞ」


 灯は鞄の中の輪を思った。朝、確かめた時は六つ。二つ引くと四つになる。


 「なんであたしのから引くの」


 「あんたが一本使うからだ。俺のぶんは俺のから引く」


 「先に言うの、ずるい」


 「あとで引かれるより、いま聞いたほうがいいだろ」


 灯は口を閉じた。開けかけて、閉じた。


 輪を六つとも出して、そこから二つをキリの手のひらへ載せた。大きさの違うほうが先。


 キリは二つを袋へ落とした。数えなかった。


 「数えなくていいの」


 「二つだと言ったのはあんただ。それで足りる」


 残った四つを、灯は鞄の底へ戻した。戻すと、底が前より平たくなる。肩へ掛けても腰の骨に当たらなくなっていた。


 四つ角の北の道は、灯の知っている上りだった。石の敷き方が途中で変わる。丘の下までは三度歩いていた。


 三度のうち二度は七月で、残る一度が四日前だった。その日は丘の上まで行って、それから板の下へ二つ置いた。


 今日は丘へは上がらない。灯はそれを、道が二つに分かれる前から知っていた。キリが北と言ったからではない。北で丘に用があるなら、縄は要らない。


 歩きはじめて、灯は数を口の中へ置いた。四つ。歩くうちに、その四つが石を踏む拍と合ってきた。


 「今日は何を持ってくの」


 「持たん。今日は取りにいくほうだ。鍵を一本、頼まれてる」


 「鍵、塔にあるんだ」


 「塔そのものが鍵だ。行けば分かる」


 灯は言われた言葉を頭の中でもう一度置いた。形にならない。


 丘の下で、道が二つに分かれた。左は斜面へ上がる道で、灯が三度通った側になる。右は草の中へ入っていた。


 キリは右へ入った。


 草は灯の腰より高かった。歩くと膝から下が見えなくなる。灯は前のキリの背中を目印にした。背中が沈むと、そのぶんだけ道が下っていた。


 草の匂いがした。切ったばかりの匂いではない。乾いて、その下に土の匂いが混ざっていた。学校の裏の、体育倉庫の脇の草を刈った日に、同じ匂いを嗅いでいる。


 「この道、ほかの人も通るの」


 「通る。年に何度かはな。用は俺と同じで、取りにくるだけだ」


 灯は草をかき分ける手を止めた。すると前の背中が二歩ぶん離れた。


 草の葉は縁が細かく切れていて、握ると手のひらの内側が赤くなる。灯は握らずに、腕の外側で押して歩いた。


 二度、道が消えた。その先は草が倒れていなくて、灯は前の背中の沈み方だけで方角を決めた。二度とも当たっていた。


 草が切れた。切れ目は急で、二歩前まで何も見えなかった。


 目の前が開けて、地面が下がっていた。その先は広いくぼみで、くぼみの底に何かが立っていた。


 灯は足を止めた。


 塔だった。


 高さは学校の校舎の三階ぶんほど。上へ行くほど細くなっていて、いちばん上は灯の目からは点に見えた。


 色は灰色ではなかった。灰色と、鉄の色と、黄色っぽい色が混ざっていた。まざり方は場所によって違っていて、下のほうほど黒い。


 灯は目を細めた。すると、一つずつの形が見えた。


 鍵だった。


 全部、鍵でできていた。大きいのも小さいのもある。輪だけのものと、歯の欠けたものが、組み合わさって積まれていた。積み方に決まりがあるようには見えない。それなのに崩れていない。


 鍵の塔は、音楽室の壁いっぱいの棚に似ていた。ただし棚は全部、鍵だった。


 「これ、誰が積んだの」


 「知らん。話は聞いたことがあるが、俺は信じてない」


 灯はくぼみへ下りはじめた。斜面は草が短くて、足の裏が滑る。灯は横向きになって、かかとから下ろした。


 下りきると、塔の根元が見えた。


 根元は太い。灯が両手を回しても半分も届かない太さで、そこだけ鍵が大きかった。門扉の鍵ほどの、手のひらより長いものが縦に並んでいた。


 灯は一本に触れた。


 冷たかった。朝の傘立てより深く冷えていた。指を離すと、離した先の面に指の跡が残った。跡はすぐに消えた。


 消えたところを、灯はもう一度触った。


 音がした。


 低い音。触った鍵ではなく、その上の一本が鳴っていた。灯は見上げた。二本目が鳴り終わる前に、三本目が鳴った。


 音は上へ上がっていった。


 一本鳴るたびに、次の音が少し高くなる。上へ行くほど高い。灯は口を開けたまま、音の行く先を目で追った。目では追いつかない。音のほうが速い。


 いちばん上まで行くと、音は止まった。少し間があって、それきりになる。


 「押したのは下なのに、上のが鳴った」


 「鳴る。いつも下から上へ抜ける。なんでかは知らん」


 灯はもう一度触った。今度は指の腹を押しつけた。


 同じ順で、同じ高さで、音が上がっていった。二度目は長い。初めから上を見ていた。


 三度目に触ろうとして、キリが手を出した。


 「何度もやるな。上で聞いてる奴がいたら迷惑になる」


 「誰かいるの」


 「いない。だが、いないと分かってるのは俺で、あんたじゃない」


 キリは袋を下ろした。中から縄を二本。一本を灯へ渡した。渡された縄は、灯の腕より太かった。


 「腰に回して結べ。ここの高さだ」


 「このへんでいいの」


 キリは自分の腰の高さを指した。灯は縄を回して、前で結んだ。結び方は縦になった。


 キリが見た。見て、手を出して、結び目をほどいた。


 「それは解ける。引くとほどける結びだ」


 「ほどけないように結んだ」


 「縦にすると解ける。横へ食い込ませないと止まらん」


 キリはやり直した。手の動きは速くない。灯は横から見て、順を目で追った。端を下から回して、輪の内側へ入れて、それから引く。


 「もう一回やって。今度は見てる」


 キリはもう一度やった。今度は途中で手を止めて、灯の指を結び目へ入れさせた。


 「ここが食い込む。食い込んだら、引いても解けん」


 灯は指で食い込んでいるところを押した。押すと縄が少し沈んだ。沈んだ跡は戻らなかった。


 「覚えた。指の入れる場所も」


 「覚えたなら、次からは自分で結べ。俺は見てるだけにする」


 灯は腰の縄を両手で持って、引いてみた。締まった。腰の骨の上で止まる。


 残りの縄は塔の根元へ回して、キリが自分の腰へ結んだ。二人の間の縄は、灯が三歩下がってやっと張るくらいの長さになった。


 「これ、登るんだ」


 「登る。上まで行く」


 灯は上を見た。上は細い。点になっている。


 鞄を下ろしていくかどうか、灯は少し考えた。それから肩へ掛け直した。中には筆箱と、水筒と、青い表紙のノートと、輪が四つ。


 「その鞄、持ってくのか。落とすぞ」


 「落とさない。ひもを短くする」


 灯は鞄のひもを短くした。すると鞄が背中の高いところへ来て、腕の動きに掛からなくなった。


 根元の鍵の一本に、足を掛けた。輪の部分がちょうど靴の幅で、体重を乗せても動かない。手は上の一本を握った。その先は歯の欠けた鍵で、欠けた側を避けて持つと親指が余る。


 登ると、音が鳴った。


 足を乗せた鍵ではなく、その上のが鳴る。灯が二段上がる間に、音は三段ぶん先へ行っていた。


 「音が先に行く。あたしより速い」


 「音のほうが速いに決まってるだろ」


 灯の口が開いた。開いた拍子に手が緩んで、灯は握り直した。


 *


 五段めで、灯は下を見た。


 地面はもう少し遠かった。くぼみの底の草は、上から見ると同じ向き。向きの中心は塔の根元にあった。風がそこで回っているのだと分かる。


 六段め。七段め。灯は数えながら登った。


 鍵の形は、上へ行くほど小さくなっていった。根元にあるのは門扉のもの。灯の胸の高さでは家の戸で、そこから上は引き出しや箱に変わる。


 音も変わった。低いところは腹に来る音で、上は耳の中で鳴る音になる。灯が今いる高さの音は、その中ほどだった。


 八段めの手前で、灯は握る先を選び直した。真上の一本は歯が上を向いていて、握ると手のひらに三つ当たる。灯は半歩だけ横へ動いて、輪の太い一本を取った。


 その先の足場が狭い。つま先の半分しか乗らない。灯は片方の膝を鍵の面へ付けた。膝の下で金物が冷えていた。冷たさは布を通って、膝の皿の裏まで来る。


 「下から上まで全部、鍵なの」


 「全部だ」


 「持ち主はどうしていないの」


 キリからは何も返ってこなかった。三段上で足を止めて、右手で上の一本を握り直していた。


 灯は聞き直さなかった。


 代わりに、自分の握っている鍵を見た。歯が三つある。三つとも高さが違う。真ん中がいちばん高い。灯は指の腹で歯の間をなぞった。なぞると、指が三度引っかかる。


 この鍵に合う扉が、どこかにある。


 灯は握り直して、次の一本へ手を伸ばした。


 十段めで、風が来た。


 塔が鳴った。


 触っていない鍵まで一斉に鳴って、下から上へ音が走った。灯は縄が張るのを腰で感じた。張ってすぐ緩んだ。


 「動くな。息も止めるな」


 「動いてない」


 「止めると手が固くなる。吐いてから吸え」


 灯は息を吐いた。それから吸って、もう一度吐いた。三度目で肩が下りた。


 風が抜けた。音が止まるまでに、灯は八つ数えた。八つで下から上まで抜ける。塔の高さが、初めて数で分かった。


 「あと、どれくらい」


 「半分だ。上ほど細くなるから、細いほうが速い」


 キリの言った通りだった。塔は上へ行くほど細くなって、手を伸ばす幅が短くなる。灯は同じ動きで二段ずつ上がれるようになった。


 「歌ったら落ちる」


 「落ちる。歌え。俺のほうが先に落ちる」


 灯は歌わなかった。代わりに、足を掛けるたびに鳴る音を、口の中で数の名前に付け替えた。低いのが一、次が二、その上が三。四まで行ったところで、四の音がもう一の音より高くなっていた。


 付け替えるのをやめて、灯はただ登った。


 十五段めで、灯は手袋を思い出した。


 丘の斜面に置いてきた片方だけの手袋のことではなかった。学校の冬に、暖房の上へ並べて置いた自分の手袋のことになる。指の先だけ乾きが早くて、いつも根元が湿っていた。


 鍵を握る手が、その時と同じ形をしていた。指の先だけが乾いていて、根元が湿っている。


 「あんた、さっきから何を笑ってる」


 「笑ってない。口が勝手に上がった」


 灯は口の形を自分で確かめた。たしかに口の端が上がっている。


 「手が冬の形になってる」


 「夏だ」


 「知ってる。それでも同じ形」


 十八段めで、灯は右手の下に紙が挟まっているのを見つけた。


 鍵と鍵の間から、白い端が出ていた。灯は指でつまんで引いた。破れずに出てきた。


 札だった。四つ角の木の札ではなく、紙の札で、角に穴が空いていた。穴に通っていたはずの糸は無い。


 表に字があった。二文字。上の字は横棒が三本で、下の字は読めない。灯は日へ向けて透かした。裏から書いた跡が見えた。同じ字を裏からもなぞってある。


 「これ、名前。二文字ある」


 「たぶんな。札の主か鍵の主か、どっちかは分からん」


 灯は札を鍵の間へ戻した。戻す時に、出ていた向きと同じ向きにした。


 戻してから、灯は指を上着でぬぐわなかった。紙は乾いていた。


 二十段めを過ぎたところで、鍵の一本が動いた。


 灯が乗せた足の下で、輪が半分だけ回った。半分で止まって、それ以上は動かない。灯は足を止めた。


 「回った。半分だけ」


 「そこは乗るな。抜いて、上へ回す」


 「抜いても崩れない」


 キリは片手を伸ばして、その鍵を引いた。抜けた鍵は思ったより長かった。抜けた跡に穴が空いて、下が見える。


 塔は崩れなかった。


 キリは抜いた鍵を、自分の頭より上の隙間へ入れた。そこがぴったり埋まった。


 「なんでそこに合うの」


 「合うところへ入れただけだ。見れば分かる」


 「あたしにも分かる」


 「二年やれば分かる。それより早い奴は見たことがない」


 灯は空いた穴を見た。穴の縁は丸かった。何度も抜き差しされた形になる。


 差した先の鍵は、下の一本と大きさが合っていない。


 灯は穴へ指を入れて、すぐ抜いた。


 二十五段め。


 音が高くなっていた。もう腹には来ない。耳の内側の、いちばん細いところで鳴る。灯は自分の靴が鳴らす音を数えようとして、途中でやめた。数えるより先に次が鳴る。


 二十六段め。灯は片手を離して、握った手のひらを開いた。指の間に汗があった。汗は金物の粉と混ざって、線の形になっている。灯は指を閉じて、また開けた。線は同じ場所にある。


 その次の一本を、灯は鳴らそうとした。二十七段めになる。


 鳴らなかった。


 灯は指を離して、もう一度押した。音は出ない。上へも下へも行かない。


 右隣の一本を押した。鳴った。左隣も鳴った。真ん中の一本だけが黙っている。


 「これ、鳴らない。上も下も鳴ってる」


 「鳴らんのはある」


 キリは答えなかった。黙ったまま二段上がって、それから下を見た。


 「触るな、とは言わん。触っても何も起きん」


 灯は黙っている鍵をもう一度押した。指の腹で、さっきより強く押した。


 押した先で、金物は冷たいまま。上下の鍵は鳴っていた。その二本の音の間だけが、抜けていた。


 灯は指を離した。それから、その一本の形を覚えた。歯が二つで、輪の上に細い傷が横に一本ある。


 「疲れたか。腕が下りてるぞ」


 「疲れてない。伸ばしてるだけ」


 灯は自分の右腕を見た。肘が伸びきっていた。伸ばすと楽で、楽なぶん次の一段が遠くなる。灯は肘を曲げ直した。腕の内側が痛んだ。


 風が抜けたあと、灯は自分の手のひらを見た。鍵を握った跡が横に一本ついていた。跡は白くて、縁だけ赤かった。灯は手を握り直した。握ると跡は見えなくなった。


 「あんた、初めてでここまで来たな」


 「まだ上がある」


 「上はもっと楽だ。細いぶん手が近い」


 「キリは何回登ったの」


 「数えてない」


 「あたしは数えてる。全部」


 「そうだろうな」


 灯は次の一段へ足を掛けた。その先が鳴って、音が上へ抜ける。上まで行くのに三つ数えた。下のほうでは四つ数えていた。


 上へ行くほど、音の抜ける時間が短くなる。灯はそれを二度ぶん確かめて、確かめたことを口に出さなかった。


 三十段めで、鍵の間から向こう側が見えた。


 塔がそこだけ薄くなっていた。歯の欠けた小さい鍵ばかりで、隙間は指二本ぶんの幅。灯は片目を寄せた。


 向こう側に、丘が見えた。


 片手袋の丘だった。斜面の色が二つに分かれていた。日の当たっている側と、当たっていない側になる。灯はその境目を目で追った。行き着く先は、いつも自分が座っていたあたりになる。


 石の上に何か置いてあるはずだった。ここからでは点にもならない。


 灯は目を離した。


 離してから、もう一度寄せた。


 「何を見てる」


 「丘。石は見えない」


 「石は見えん。ここからは屋根の傘も見えん」


 灯は隙間から目を離して、上を向いた。


 三十五段め。


 鍵はもう、灯の親指ほどの大きさになっていた。歯が細かい。握ると手のひらに全部入る。足を掛けるところが小さくて、灯はつま先だけを乗せた。


 乗せた足の下で、音が鳴った。


 いちばん高い音だった。学校の音楽室の、いちばん右の鍵盤より高い。灯はその音を口の中で真似ようとして、出なかった。


 「あんた、そこでいったん止まれ」


 キリが上から言った。声は近い。


 灯は顔を上げた。


 キリの足が、灯の目の高さにあった。その上にキリの背中があって、背中の向こうに空がある。空はもう、下から見た時より青くなかった。白い。


 「頭を出せ。ゆっくりだ」


 灯は両手で上の一本を握って、体を引き上げた。


 塔の上に出た。頭から先に、肩、腕の順で出た。


 風が強かった。


 上は平らではない。鍵の先が上を向いて並んでいて、その上へ座る場所は無い。灯は腹をつけて、腕を回した。その先に、キリが握っているのと同じ太い鍵があった。


 「座るな。腹で乗って、腕を回せ」


 「乗ってる」


 息が上がる。灯は口で吸って、鼻から出した。三度そうすると、肩の力が抜けた。


 *


 灯は顔を上げた。


 上から見えたのは、レポではなかった。


 丘の向こうに、白いところがあった。輪郭の無い白さで、空との境目が分からない。取引所の地図に、同じ白さがあった。あれは何も書いていない白さで、こちらは何も無い白さになる。


 灯はしばらく見ていた。


 目が慣れると、白さの中に線が一本あった。横に長い線で、真ん中あたりで少し上がっていた。持ち上がった先に、何かが立っていた。


 線の上のほうが、少しだけ濃かった。濃いところは動かない。灯は目を離して、また戻した。線は同じ場所にあった。


 「あれ、なに。線がある」


 「何も無い」


 「あるよ。真ん中で上がってる」


 「無い」


 キリは向こうを見ていなかった。顔は灯の反対側を向いていた。


 灯はもう一度見た。線はまだある。


 言い直そうとして、灯は口を閉じた。そのまま、目だけで線をなぞった。なぞり終わっても、線は増えも減りもしなかった。


 灯は白いところから目を離して、塔の上をもう一度見渡した。鍵の頭が日を受けていた。当たっている面だけが白くて、影の側は黒い。白い面は、日の回るぶんだけ入れ替わる。


 「頼まれたのはこれだ」


 キリの声で、灯は振り向いた。


 キリが一本の鍵を持っていた。塔の上のほうから抜いたもので、灯の指ほどの太さがある。歯は二つ。二つとも欠けていない。


 「それ、下のとどう違うの」


 「音が違う。この高さのは、この高さのにしか合わん」


 「合う扉はどこ」


 「無い。無いから塔にある」


 キリはそれを袋へ入れた。落としてから、袋の口を二度確かめた。


 灯は自分の周りを見た。


 塔の上は、腕を広げたくらいの広さしかない。その内側に、鍵が何百本も上を向いて並んでいた。灯は一本ずつ見た。見ていくと、途中で目が止まった。


 一本だけ、向きが違った。


 ほかの鍵は歯を上へ向けているのに、その一本だけが横を向いている。向いた先に、輪の穴が空いていた。穴の向こうに空が見える。


 灯はその穴へ目を寄せた。


 穴の向こうに、扉があった。


 空の中にあった。地面から離れて、何にも付かずに立っている。木の扉で、灯の家の玄関より少し細い。取っ手は右側にあって、丸い。上のほうに横の板が三枚、下に二枚。


 塗ってあった。色は白に近い灰色で、下の隅だけ剥げている。


 灯は穴から目を離した。素の目で同じ方向を見た。


 何も無い。


 もう一度、穴へ寄せた。


 扉はあった。


 「キリ、こっち来て」


 「なんだ」


 「ここ、穴から見て」


 キリが体を回す。回して、灯の指した鍵を見た。それから穴へ目を寄せて、寄せたまま動かなくなった。


 三つ数える間、動かない。


 「見えた」


 「見えたよね。あれ何」


 「知らん」


 「開くのかな」


 「知らん。それも知らん」


 キリは体を起こした。それから、灯の顔を見た。この日、初めてまっすぐ見た。


 「あんた、あれが見えるのか」


 「見えるよ。キリも見えたでしょ」


 「見えた。それは言った」


 キリはそれだけ言って、袋の口をもう一度確かめた。


 灯は穴へ戻った。


 扉は同じ場所にあった。同じ大きさで、同じ向きで、取っ手が右にある。近づいても遠ざかってもいない。


 灯は手を伸ばした。


 穴の中へは指が入らない。輪の内側が細くて、灯の人差し指の第一関節で止まる。灯は指を抜いて、鍵の上から手を伸ばした。


 伸ばした先には空しかなかった。


 もう一度伸ばした。今度は腹を浮かせて、肩まで出した。腰の縄が張った。そこで止まって、それ以上は行かない。


 「落ちるぞ。腰の縄はもう張ってる」


 「もう少しで届く」


 「その先には何も無い」


 「あるってば。さっき見た」


 灯は指を開いた。指の先で、空気が動いた。それだけになる。


 扉は、そこにあった。手が届かなかった。


 腕が戻り、腰の縄が緩んだ。


 肩を鍵の上へ下ろして、顔を横へ倒した。目の先に、キリの靴があった。底の外側だけが擦り減って薄い。


 目を閉じて、また開けた。空はさっきより白い。


 上ってきたせいで、目の縁が熱かった。


 灯は袖を目に当てた。当てた布が、少しだけ湿りを含んだ。


 顔を上げて、穴のある鍵の輪へ指を置いた。丸くなっているところを、二度なぞった。それから手を下ろした。


 「下りるぞ。日が回る。下りは影になって足元が見えん」


 「まだ。もう少し」


 もう一度だけ穴へ目を寄せた。扉はあった。剥げているのは下の隅で、右側。灯はその形を頭の中でなぞって、口の中へ置いた。名前を置くところと同じになる。


 「下りる」


 下りは、登りより手が要った。足を下ろす先が見えない。灯は先に足を出して、つま先で探した。当てるまでに二度、空を蹴った。


 「見るな。足の先で探せ」


 「探してる。二回、空を蹴った」


 「見ると足が固くなる。当たるまで待て」


 三度目で当たる。当てた先の鍵が鳴った。


 登りと同じで、音は上へ行く。下りているのに、音だけが上へ抜けていく。灯は自分と音が反対へ動くのを背中で聞いた。


 十段下りたところで、灯は数えはじめた。


 登る時に数えた段は、三十八だった。腹で乗る前の最後の一段が三十八で、そこから頭を出した。


 下りながら、灯はもう一度数えた。足を乗せた段だけを勘定に入れた。


 二十。三十。三十五。


 三十七で、足が地面に着いた。


 灯は足を止めたまま、上を見た。塔は同じ形で立っていた。細くなる具合も、下りる前と変わらない。


 灯はもう一度、下から数え直した。目で追えるのは二十まで。それより上は形が小さすぎて、一本ずつには分けられない。


 「三十七だった。下りた段」


 「何が違う」


 「登った時は三十八。同じ数え方」


 キリは縄をほどいていた。ほどく手を止めずに、上を見もしない。


 「数え違いだろ。上りと下りじゃ足の掛け方が違う」


 「二回とも数えた」


 「なら一本抜けたんだろうな」


 「キリが抜いたの」


 「抜いてない。俺が抜いたのは上のだ。あれは差し直してある」


 塔の影が、くぼみの底を横切っていた。灯は影の縁を靴の先でなぞった。なぞった土は、影の内側だけ湿っていた。


 灯は自分の腰の縄をほどいた。ほどく順は、教わった通りにやった。食い込んでいるところを押して、それから端を引く。一度で解けた。


 縄を巻きながら、灯はもう一度上を見た。どこが抜けたのかは分からない。塔は崩れていない。


 「また来る。下から順に数える」


 「来て数えて、どうする」


 「合ってるか知りたい」


 キリは縄を袋へ入れた。それから、初めて上を見た。一度だけで、すぐ戻した。


 「好きにしろ」


 灯は水筒を出して、二口飲んだ。口の中の粉っぽさが消えた。


 その間、キリは縄の跡を手で払っていた。払うと鍵の面の土が落ちた。


 「跡を消してる」


 「消さん。触った物を元へ戻すだけだ」


 灯は水筒を鞄へ戻した。戻す時に、中の輪が四つ、木の札に当たった。当たった数は二度。


 根元の鍵に、二人の靴の跡が残っていた。灯の跡は小さい。キリの跡は外側だけ深かった。


 くぼみを上がって、草の中へ入った。


 草は行きより倒れている。二人の通った跡が、そのまま道になっていた。灯はその跡を踏んだ。行きより歩きやすい。


 丘の下まで戻ると、日が回っていた。斜面の色の分かれ目が、逆の側へ移っている。


 灯は足を止めて、斜面を見た。石は見えなかった。ここからでは、置いてきたものは何一つ見えない。


 丘の下の分かれ道で、灯は左のほうを見た。斜面へ上がる道は、行きより影が伸びていた。


 「明日は」


 「四つ角だ。台を出す。朝のうちに来い」


 「じゃあ行く」


 北の道は、下りのほうが速かった。石の敷き方が変わる場所を、灯は行きと同じところで踏んだ。沈み方も同じだった。


 途中で、荷を担いだ者が二人、下から上がってきた。二人とも縄を持っていない。灯は端へ寄って通した。二人は草の道へは入らず、丘の斜面のほうへ上がっていった。


 北の道を下りながら、灯は後ろを一度だけ振り返った。


 草の向こうに塔は無い。くぼみの底にあるので、この高さからは見えない。


 見えないのに、音が聞こえた。


 風が入ったのだと分かる。低いほうから高いほうへ、順に上がっていく。灯は足を止めて、終わりまで聞いた。


 終わりの音は、いちばん細いところで鳴って、それから止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。