第015話 カガリ
八月十日。踊り場の先から、湿った紙の匂いが上がってきた。
三つ目の電球の下で、灯は足を止めなかった。かさの中の虫は、数えなくても同じ数だと分かる。
祖母は窓口にいた。届出票の束は昨日より低くなっていた。判は机の上に置いてあって握られていない。祖母は紙を表に返していた。
机の端の紙は、昨日の位置から動いていなかった。角は机の縁とそろったままで上に何も載っていない。灯は横を通りながら日付だけを見た。昨日と同じ日付だった。
棚の傘は九本。下から二段目の空きが二つ、左から三番目と六番目。並びは変わらない。柄の向きは、四日前から一本もずれていない。灯は数だけ確かめて通った。
扉の前で、灯は鞄の口を開けた。中は筆箱と、水筒と、青い表紙のノートと、輪が二つ。木の札が一枚、ノートの上に載っている。昨日の札だった。
札の面の数を、灯は指の腹でなぞった。二本の横棒が二つ。二十二。
指を折って数え直した。八月十日。棚の傘が処分に出るまで、あと二十一日。札の数は二十二のままだった。
二つの数は、昨日は同じ日を指していた。今日は一日ずれている。灯は札を鞄の底へ戻した。
外は晴れていた。
四つ角に着く前から、音が違った。石を踏む音の間に、木を打つ音が混ざっていた。近づくと、間が詰まった。
東の入口に、市の枠が二つ立っていた。昨日は立てかけてあったものが、今日は組んである。脚が四本ずつ、石の上に開いていた。上の横木は二本とも、灯の頭より高い位置にあった。
枠の下を、荷を持った者が続けて通った。灯は端に寄って、七人まで数えた。そこで目で追うのをよした。
七人目と八人目が、同じ形の箱を持っていたからになる。
匂いが来た。干した草と、焼いた粉ものと、その下に油。昨日のトバリの匂いとは違っていた。あちらは乾いていた。こちらは湯気が混ざる。
灯は口を閉じて鼻だけで吸った。
吸うと、下のほうに紙の匂いがあった。地下の窓口の紙とは違う。あちらは湿っている。ここのは日に当たった匂いだった。
四つ角の広場に、台が並んでいた。灯の知っている台は一つだけで、あとは全部知らない台になる。
台と台の間は、人が二人すれ違える幅だった。すれ違う時に、荷が当たる。どちらかが先に道を空けた。先に動く側は決まっていない。
灯は三度すれ違って、三度とも自分が先に空けた。
キリの台は、いつもの場所に出ていた。板が四本の脚に載っていた。脚の下に石が四つ。灯は右の手前の石を見た。昨日、自分で置いた石だった。位置は動いていない。
板の上には物が並んでいた。左から順に、金物の輪が三つ、櫛が二本、木の匙、それに包みが一つ。包みは開けていなかった。
「早いな。まだ半分も出てない」
「起きたら朝だった。それだけ」
「石は動いてない。あんたの置いた側だ」
「見た。朝から動いてない」
キリのほうは板の端に腰を掛けていた。両手は膝の上で、指は組んでいない。灯は台の横に立った。
「これ、いくらで売るの」
「輪三つの物から、輪一つの物まである。左から高い」
「なんで左のほうが高いの」
「客は左から見る。目の高さで、左が先に入る」
灯は台の左端へ回った。そこから見ると、先に目へ入るのは金物の輪。それから櫛が入って匙は最後だった。
「あたしも、左から見た」
「そうだろうな。誰でも左から見る」
最初の客が来た。年寄りの男で、包みを持っていた。キリは包みを開けさせて、中の物を日に当てた。次に縁をこする。使う指は二本。
値を言うまでに、キリは三度こすった。
「四つだ。それ以上にはならん」
「五つにならんか」
「ならん。縁が二か所欠けてる」
男は五つとは言わなかった。四つで手を打って、輪を四つ受け取って帰っていく。帰る背中を、灯は見ていた。荷は軽くなっているのに、歩き方は来た時と変わらない。
次に来たのは女の人で、板の上の櫛を一本取った。日に当ててから板へ戻した。戻す時に元の場所と少しずれた。キリは指でまっすぐに直した。
「ここへ座ってろ。板の端でいい」
指したのは板の端だった。灯は座った。板は日で温まっていて、座ったところだけが熱い。
「札を持ってくる客がいる。あんたが書け」
「あたしが書く。名前を」
「あんたが書いたぶんは、あんたの取り分になる」
三人目が来た。灯より少し年上の女の子で、手に木の札を持っていた。札は新しくて、縁がまだ角ばっていた。
「名前、教えて」
「なぎ」
ノートを鞄から出した。上に載せた鉛筆を取ってまず紙の端で先を確かめた。それから札の面へ字を書いた。
二文字。上の字を書いて、下の字を書いた。その間、女の子は札のほうを見ずに、灯の手のほうを見ていた。
書き終わると、字が濃くなった。
濃くなり方は、上の字が先で、下の字が後になる。差は三つ数える間ほど。濃くなった字の縁は、書いた線より少しだけ外へ出た。
灯は札を返した。女の子は両手で受け取ってそのまま行った。礼は言わなかった。
「輪が一つだ。あんたのぶんに付ける」
「もう付いた。今の一つ」
「今日の終わりに勘定する。それまで覚えとけ」
灯はもう一度ノートを開いた。名前の並んでいる紙まで戻して一番下の空いているところへ、もう一つ足した。
なぎ。
指で押さえて、上から順に数え直した。十一。
書けているのは九つ。点が二つ。数え終わってから灯はノートを閉じて鞄へ戻した。
「姉さん、それ、どうやって濃くするんですか」
声は台の後ろから来た。
灯が顔を上げると、板の向こうに男の子が立っていた。背は灯より頭一つ高い。髪は短くて、前だけが額に落ちていた。上着は袖が長くて、手の甲の半分まで隠れていた。
「書いたら濃くなる。あたしは」
「姉さん、その鉛筆はどこの物ですか」
灯の口は閉じた。言いかけた続きは、口の中に残った。
男の子は板の上へ両手を置いた。置き方は、物を押さえる置き方ではない。手のひらを上へ向けて、指を開いていた。
「姉さん、僕はあなたのことを知ってますよ」
「知らない」
「姉さん、その札の女の子、さっき泣きそうでしたか」
泣きそうではなかった。灯はそう言おうとして言う前に相手の顔を見た。
男の子は笑っていた。笑い方は目のほうが先。口は後になる。答えを待っている顔ではなかった。
「カガリ」
キリが言った。板の上の物を並べ直しながら、顔は上げない。
「姉さん、この人、僕の名前を知ってるんですよ」
「今、キリがそう呼んでた」
「姉さん、名前って、覚えられると得なんですか」
灯は答えを作りかけた。途中で、カガリはもう板の上の櫛を持ち上げていた。
カガリは櫛を日に当てた。角度はキリと同じ。縁を上へ向ける。ただし指ではこすらなかった。
「姉さん、これは三つですか」
「二つだ。値を聞く前に触るな」
「姉さん、二つって、高いんですか」
灯は台の上の物の値を思い出した。輪が三つ、櫛が二本、木の匙。値の高い順に並んでいた。二つは、櫛の値になる。
「安いほう。輪三つのより下」
「姉さん、じゃあ僕でも買えますね」
カガリは櫛を板へ戻した。位置は取った場所より右へ二つぶんずれていた。キリはそれを黙って戻した。
カガリの手が、戻す時に灯の手の甲へ当たった。触れたところが温かかった。灯の手より熱い。
「姉さん、昼まではここにいます」
言ってからカガリは台の横を離れた。二つ隣の台の前でしゃがんだ。しゃがんだまま、下から台の板の裏を見ていた。
灯はキリのほうを見た。キリは包みの結び目を直していた。
「あれ、誰」
「カガリだ。ゲンヤから来た」
「ゲンヤ」
「そういう場所だ。それ以上は聞くな」
キリは結び目を二重にした。そのまま端を下へ引いた。昨日と同じ、置く結び。
灯は二つ隣の台のほうを見た。カガリはまだしゃがんでいた。台の後ろの人が何か言ってカガリが顔を上げて、また何か聞いた。台の人は答えかけて、途中でやめる。
カガリは立ち上がって次の台へ行った。
灯は座ったままその背中を目で追った。台の間を抜ける速さは、荷を持った者より速い。持っていないからだと分かった。
四つ目の台の前で、カガリはまたしゃがんだ。しゃがんだ形は、さっきと同じだった。膝の間に両手を入れて、下から板の裏を見る。
「あれ、さっきから何を見てるの」
「値の付いてない物を見てる」
「なんで裏なんか見るの」
「裏には札が貼ってある。表に出てる物は、もう値が付いてる」
座っている板の裏を、灯は思った。手を伸ばして、指の先で触った。指に当たったのは木の目だけで、紙は無い。
キリの台の裏には、何も貼っていなかった。
*
日が高くなると、市の音が一度低くなった。
声の数は変わらないのに、高い声だけが減る。灯は台の上の影を見た。影は板の上に短く落ちて、物の形の下に隠れかけていた。
「昼までに一度、空く。そのあとまた入る」
「じゃあ、そのあいだ見てくる」
「歩いてこい。台は動かさん」
灯は板から下りた。座っていたところの熱が、太ももの裏に残っていた。歩き出すと、二歩で消えた。
台の間を歩くと、匂いが数歩ごとに入れ替わった。焼いた粉ものの前を過ぎると、次は乾いた草の束で、その次は何も匂わない台になる。その台には金物だけが並んでいた。
金物の台の前で、灯は足を止めた。並んでいるのは鍵ばかりで、大きさが違う。数えると十七あった。十七のうち、同じ形は二つしかない。
売っている者は、灯のほうを見なかった。鍵を一つ取って布でこすった。また元の場所へ置いた。置く場所は取った場所と同じになる。
「姉さん、その中に開くのがありますか」
カガリが横に来ていた。来る音は聞こえなかった。
「分かんない。鍵は見ただけ」
「姉さん、僕は三つ持ってるんですよ」
カガリは上着の内側から鍵を出した。三つともひもで束ねてある。ひもは一度切れたものを結び直したもので、結び目が中ほどに一つあった。
「三つのうち、どれが開くの」
「姉さん、これは落としても戻ってくるんです」
灯は聞いたことに答えが来なかったことに気付いた。もう一度同じことを聞こうとして、やめた。
カガリは鍵の束を灯の手のひらへ載せた。すぐに自分の手を引いた。
重さは思ったより軽い。三つあるのに、木の札一枚と変わらないほどだった。灯は手のひらの上で束を回した。鍵の一つは先が丸くなっていた。使われた跡が無い。
「これ、使ってないでしょ」
「姉さん、三度落としました。三度とも戻ってきましたよ」
「三度とも、誰が拾ったの」
「姉さん、拾った人には会ってないです」
カガリは灯の手から束を取り戻した。取る時、指が灯の手のひらの内側へ入った。爪は短く切ってある。
灯は自分の手のひらを見た。鍵の当たっていたところが、まだ温かい。
「カガリは、じゃあ」
「姉さん、僕は一度も失くしたことがないんです」
言い終えると、カガリは灯の顔を見た。見ているのに、待っていなかった。灯が口を開けかけると、カガリはもう次の台のほうへ体を向けている。
閉じた口はそのままにした。少ししてから、灯は自分の鞄の口を握り直した。
言おうとして言わなかった。相手はもう二つ先の台の前にいた。
灯は歩く速さを上げた。追いついた先でカガリは布の台の前に立っていた。台の上には子供の靴。片方だけのものが多かった。
「姉さん、この中に、僕のはありますか」
「あるわけない」
「姉さん、僕の靴はいつも両方そろってます」
台の後ろの人が笑った。それからカガリのほうへ靴を一つ押し出した。靴は右足のもので、底がすり減っている。
「持ってけ。片方だけじゃ売れん」
「姉さん、僕はいりません」
カガリは受け取らなかった。断り方は早い。手も出さなかった。
台の後ろの人は靴を戻した。並びは一足ぶんずれたまま。
灯はそれを見ていた。もらわない理由を、カガリは言わない。台の後ろの人も、それ以上は勧めなかった。
二人はまた歩いた。歩く速さはカガリのほうが速くて、灯は半歩後ろになった。カガリは時々振り返る。何か聞いて、また前を向く。
振り返る間隔は、だいたい五歩だった。四歩の時もあれば、六歩の時もある。数えているうちに、灯は歩幅を相手に合わせていた。
「姉さん、ゲンヤに来たことはありますか」
「無い。どこにあるの」
「姉さん、あそこは市が立たないんです」
灯は道の名前を思い出そうとした。レポの東はトバリで、北は丘になる。丘の先は行ったことがない。ゲンヤという名を、灯は今日初めて聞いた。
「北のほう。丘の先は行ってない」
「姉さん、北って、どっちですか」
カガリは本当に分からない顔をした。分からない顔のまま、次の台へ行く。
灯は丘のほうを指した。指した先を、カガリは見なかった。四つ角は道が四本あって地下の入口が南にある。そこまでは灯にも分かる。その先は出てこなかった。
台が途切れた。広場の端に、水の桶が三つ並んでいた。桶の縁はぬれていた。色の濃いのは下の石。
カガリは桶の水を手ですくい上げた。すくって、飲まずに手を洗った。そのまま上着の内側でぬぐった。
「姉さん、手、洗いますか」
「洗う。土が付いてる」
灯も手を入れた。水は思ったより冷たい。指の付け根まで入れると、朝から歩いたぶんの熱が、そこから抜けていった。
「姉さん、ここの水が好きなんです」
「あたしも。冷たいのがいい」
言ってから灯は自分の言った言葉を聞いた。好きかどうかは、まだ決めていない。
カガリは笑った。それから桶の縁に腰を掛けた。その拍子に桶が少し傾いて、水が縁から石の上へこぼれた。こぼれた水は石の目地へ入ってすぐに見えなくなる。
「姉さん、僕の話を聞きますか」
「聞く」
「姉さん、ゲンヤには、僕みたいなのが何人いると思いますか」
灯は数を言おうとした。言いかけてから、言う数を持っていないことに気付いた。
「分かんない。数えたことない」
「姉さん、僕は数えたことがないんです」
カガリは桶の縁で足を振った。靴の先が石に当たる。音は二度で止まった。
「姉さん、今までに何人の名前を書きましたか」
灯は鞄の中のノートを思った。さっき数えた数が、まだ口の中に残っている。
「十一」
「姉さん、それは多いんですか」
多いのか少ないのかを、灯は決めていない。それでも口が動いた。
「多くない。まだ十一日ぶん」
「姉さん、僕は一つも書いてもらったことがないんですよ」
カガリはそう言ってまた笑った。
灯は書きましょうかと言いかけた。語の頭が口から出る前に、カガリは桶から下りていた。
「姉さん、あの人とはどういう間柄ですか」
カガリが指したのはキリの台のほう。人の間から、板の端だけが見えていた。
「知り合い」
「姉さん、知り合いって、いつからですか」
灯は日を数えようとした。七月の二十四日からだから、二週間より多い。数え終わる前に、カガリは歩き出していた。
二人は台の列を戻った。戻る道は行きと同じで、匂いの順だけが逆になった。何も匂わない台から始まって、乾いた草の束、焼いた粉ものの順になる。
途中で、カガリは足を止めた。その先には何も無い。台と台の間の、人の通る隙間だった。
「姉さん、ここに昨日は台がありました」
「今日は無いね」
「姉さん、無くなった台は、どこへ行くんですか」
片づけて帰ったのだと言えばいい。それなのに、口の中で止まった。カガリは次の台へ行かずに、そこに立っていた。立ったまま灯の顔を見ていた。
見ているのに、答えを待っていない。
灯は口を閉じた。内側で、舌が上あごに付いた。
「姉さん、僕はこういうところを覚えるのが得意です」
カガリは隙間の石を靴の先でなぞった。なぞった跡に土の線が一本残る。
「姉さん、明日ここに台が戻ったら、僕は分かりますよ」
灯は隙間の石を見た。石は四つ並んでいて、四つとも同じ大きさに見える。どれがどれかは、灯には分からない。
カガリはもう歩き出していた。
台の列を抜けると、キリの台が正面に来た。板の上の物が減っていた。金物の輪が二つと、櫛が一本。木の匙は無くなっていた。
板の後ろにキリが立っていた。そのまま包みの上に手を置いている。
「売れた。匙が無くなってる」
「匙が出た。輪が一つと、櫛が一本。包みはまだだ」
「あたしの札は」
「一つだ。終わりの勘定で足す」
灯は板の端に手を掛けた。板は朝より熱くなっていた。手を離すと、手のひらに木の目の跡が薄く残った。
カガリが台の横に立っていた。場所は朝と同じ側。板の上へ手を置く形も同じで、手のひらは上を向いている。
「姉さん、この台のものを一つも買ってません」
「買わなくていいでしょ」
「姉さん、買わないと、僕はここに何も残せないんですよ」
キリが顔を上げた。目はカガリの手のほうへ行った。手は板の上に置いてあるだけで、物には触れていない。
「姉さん、僕は触ってません」
「分かってる。触らんのは知ってる」
それだけ言うと、キリは包みの結び目へ目を戻した。
灯は二人の間に立っていた。そこからだと、キリの顔とカガリの顔が同じ高さに見えた。
同じ高さのまま、二人は別のほうを見ていた。
*
昼を過ぎると、市が空いた。
人の数が減るのは、端の台からだった。広場の縁に近いほうが先に片づいて、真ん中が最後まで残る。灯は端から順に、畳まれていく台を数えた。六つまで行って、七つ目でやめた。
残った台の前を、荷を持たない者が通っていく。買う顔ではない。歩く速さだけが、行きより遅かった。
灯は畳まれた台の跡を見た。跡には四つのへこみが残っている。どの台も同じ形で、へこみの底だけ色が濃い。並べてみると、跡の間隔は台ごとに違っていた。
広いところと狭いところがある。狭いほうの台は、朝から人の多かった台だった。
キリは板の上の物を包みへ移した。移す順は右から。値の安いものが先になる。最後に金物の輪を包んだ。
「勘定する。指を出せ」
「出す。指で数える」
「今日は輪が六つ出た。半分で三つ。札が一つ。四つになる」
「包みは」
「値が付かん。持って帰る」
灯は指を折った。朝の鞄の中に二つ。そこへ四つ足す。
「二つに四つで、六つ」
「そうだ。持っとくか、預けとくか」
「持っとく。鞄の底に入れる」
キリは包みの中から輪を四つ出して灯の手のひらへ載せた。四つとも大きさが違う。重ねると、指の付け根まで届いた。
輪は日で温まっていた。持っていると、手のひらの真ん中だけが熱くなる。灯は鞄の口を開けて、四つとも中へ落とした。落ちた先で、木の札に当たった。
当たった数は二度だった。
キリは板を脚から外した。次に脚を畳んだ。脚を布でくるんで、板を立てて、上から布をかぶせる。
石は最後になる。
「石、あたしが置く。昨日と同じで」
「やれ。右の手前からだ」
灯はしゃがんで、右の手前の石を抱えた。昨日より軽い気がした。持ち上げてみると、下の土が指の跡の形にへこんでいる。へこみの底だけ、色が濃かった。
石を布の端へ移した。置いた先で、石は土へ半分沈んだ。灯は残りの三つも同じように移した。四つ移すと、脚のあったところに、へこみが四つ残った。
へこみの底だけ、色が濃い。
「四つとも動いた」
「そうだ。四つとも据わった」
布の上に手を置くと、下の板の形が指に当たった。板は四枚あって真ん中の二枚だけ縁が丸い。使われた回数が違うのだと、灯は縁の形で分かった。
「毎日おんなじ場所なの」
「同じだ。場所が変わると、客が来ん」
「覚えてくれてるんだ」
「覚えてるんじゃない。場所を覚えてるだけだ」
キリは布の端を石で押さえた。手の土は上着の腰で落とした。
灯が見たのは東の入口。朝に組んであった枠が、今は片方だけ外れていた。横木が一本、脚に立てかけて置いてあった。
外している者は二人いた。二人とも上を見ずに手を動かしていた。上の横木を外す時だけ、片方が背伸びをした。
外れた枠の脚は石の上へ横に倒される。倒れた脚の下から、乾いた土が細く出た。
灯は倒れた脚の先を見た。先には土が固まって付いていた。朝に立てた時のもので、乾いて白い。
白いところを指でこすると、粉になって下へ落ちた。行き先は石の目地で、そこだけ色が変わらなかった。
「明日は立たないの」
「七日後だ。市は七日ごとに立つ」
七日を、灯は指で数えた。八月十日から七つ数えると、八月十七日になる。処分の日までは、そこからさらに二週間ある。
数え終わって、灯は指を開いた。手のひらに石の土が付いている。土は乾いていた。こすると粉になって落ちた。
広場の音が、また一段低くなった。畳まれた台の数のぶんだけ、声が減っている。
立ち上がると、影が長くなっていた。朝より東へ伸びていた。灯は自分の影の先を目で追った。その先に、靴が二つ並んで立っていた。
「姉さん、まだいますか」
カガリだった。
カガリはキリの横に立った。並んだ場所は、布をかぶせた板の前になる。二人とも同じ向きを向いていた。
灯はそれを正面から見た。
背の高さが同じだった。頭の上の線が、同じところに来ている。肩の位置も並んでいて、腕の長さも、たぶん変わらない。
二人の手が、両方とも下がっていた。指の長さは違う。カガリのほうが細くて、キリのほうが節が太い。ただし手のひらの大きさは、どちらも変わらなかった。
灯は自分の手に目を落とした。二人のどちらより小さい。指を並べると、長さが半分ほどしかない。指を開くと、爪の先に朝の土がまだ残っていた。石を持ち上げた時に入ったものだった。
落とそうとして灯は指をこすり合わせた。こすっても、爪の内側のぶんは落ちない。
二人の影が石の上に伸びていた。影の先は、市の跡のへこみの手前で切れる。二つとも東を向いて、長さが同じ。先の形だけが違った。片方は頭のところで丸く、もう片方は前へ落ちた髪のぶんだけ細くなっている。
灯は影の根元を見た。二人の靴の間は、灯の手のひら二枚ぶんほど空いていた。
風が来て、布の端が動いた。動いたのは石で押さえていない側。板の縁が少しだけ出た。カガリは布のほうを向かなかった。キリも動かない。
布は自分で落ちた。
キリは何も言わなかった。カガリのほうも黙っている。その間、二人は同じ向きの、別のところを見ていた。
カガリが先に口を開いた。開く前に、一度だけ足の位置を直した。動いた先は、キリの立っている石の上になる。
二人は同じ石に立った。石は一枚で、大人が二人並ぶには狭い。それでも二人の肩は触れていなかった。
灯は触れていない幅を目で測った。指を二本入れれば、それで埋まる。
「姉さん、この人、いくつですか」
灯は答えられなかった。数を持っていない。
「知らない。聞いたことがない」
「姉さん、僕は十四です」
カガリはそう言ってキリのほうを見た。キリは顔を動かさなかった。動かさないまま布の端の石をもう一度据え直した。
「姉さん、この人も、たぶん失くしたことがないですよ」
「なんで分かるの」
カガリは灯の顔を見た。見てから口の端だけを上げる。
「姉さん、僕たち、同じだね」
灯は口を開けた。開けたところで、カガリはもう体の向きを変えている。
「姉さん、そろそろ帰ります」
「どこへ帰るの。ゲンヤ」
「姉さん、これ、持っててください」
カガリは上着の内側から鍵の束を出した。束から一つだけ外して、灯の手のひらへ載せた。その上から自分の手を重ねた。
重ねている時間は短い。三つ数える間も無かった。
手を離すと、鍵が手のひらの上に残った。先が丸くなっているほうの鍵。使われた跡の無い一つになる。
「いらない」
「姉さん、いらなくてもいいんです」
カガリは残りの二つをひもで束ね直した。結び目は前と同じ場所に来た。それから灯の顔を見て、東ではないほうへ歩き出した。
行く速さは、市を歩いていた時と同じだった。台の間ではないのに、同じ速さで抜けていく。
途中で、片づけている台の人と行き合った。カガリは何か聞いた。台の人は手を止めて、答えかけた。カガリはもう二歩先へ行っている。
台の人は口を閉じてまた布を畳みはじめた。
灯はその場面を離れたところから見た。
広場の端で、カガリは一度だけ振り返った。向いた先は灯のほうだった。手は上げない。
それから角を曲がって見えなくなった。
曲がった角の先は、灯の行ったことのない道だった。
灯は手のひらの鍵を見た。まだ温かい。温かいのは、自分の手の熱ではない。
鍵の面には、細かい傷が縦に何本も入っていた。数は数えなかった。根元のほうだけ深く、どれも同じ向きへ寝ている。
言いかけた語は二度とも口の中で止まった。あとのほうが長く残っていた。
灯は眠かった。朝が早い。
あくびをすると、目に水が来た。灯は手の甲でそれを押さえた。その手には鍵を握ったままで金物の縁が横の骨に当たった。
冷たくなっていた。
キリは布の上に立っていた。台はもう畳んである。包みは肩に掛けて、両手は空いていた。
「もらったのか。あいつから」
「もらった。返そうとしたけど、返せなかった」
「もらうな。あいつの物は、あいつへ帰る」
灯は手を開いた。
鍵は手のひらの真ん中にあった。置いた覚えは無いのに、そこから動いていない。握っていた時間のぶん、指の付け根に三本の線が付いている。赤くて、まっすぐではない。
灯は指を順に伸ばした。線はしばらく残る。




