第014話 値段のつく親切
八月九日。階段の下まで影が切れなかった。電球が四つとも点いていた。
灯は三つ目の下で足を止めずに通った。見なくても数の分かる、かさの中の虫。
窓口に祖母がいた。届出票の束は、昨日より高く積まれていた。判は握られたままで、灯が通る間に三度落ちた。祖母は顔を上げない。
机の端に、紙が一枚だけ別に置いてあった。ほかの紙と向きが違っていた。角が机の縁とそろっていて、そこだけ誰かが直したように見えた。灯は横を通りながら、その紙の上の字を目で追った。追えたのは日付だけだった。
棚の傘は九本。並びも変わらない。下から二段目の空きが二つ、左から三番目と六番目。灯は形だけ見て通った。傘の柄の向きは、三日前から一本もずれていなかった。
扉の前で、灯は鞄の中を確かめた。昨日の包みが底にある。布の結び目は置く結びで、端が二本とも下を向いていた。ほどけていない。
外は曇っていた。傘立ての金物が湿っていて、触った指に水が付いた。灯は指を上着でぬぐった。
空の白さは均一ではない。西のほうが薄くて、東は厚い。灯は上を見てから、足元へ目を戻した。石の上に影が無かった。
四つ角の人出はふつう。市の枠は、東の入口に立てかけたまま。組むのは明日になった。
キリは台を出していない。板は昨日と同じ形で立てかけてあって、上の布も同じ位置に石で押さえてあった。
石は四つ。どれも脚の下から抜いて、布の端へ移してあった。灯は脚のあった場所を見た。土がへこんでいて、へこみの底だけ色が濃い。
板の下の隙間は、昨日と同じだけ空いていた。中に何も入っていない。灯は指を入れて確かめてから、抜いた。指の先に、細かい土。
「今日も東。あたしも行く」
「東だ。昨日より早く出る。向こうで用がある」
「あたしにも用がある。昨日そう言った」
「あんたは持つだけだ。持って、置いて、札をもらう。それで終わる」
キリは肩に袋を掛けていた。昨日と同じ袋で、今日は下のほうが平たい。中身が違うのだと、灯は袋の垂れ方で分かった。
灯は指を折って日を数えた。八月九日。棚の傘が処分に出るまで、あと二十二日ある。
指は四本折って、そこから数え直した。二十二は指では足りない。余った数は口の中で置くことにしていた。
置いた数は、歩きはじめると一度消えた。それからまた戻ってきた。
東の道は石の敷き方が途中で変わって、目地の土が黒くなる。踏むと沈む場所も同じだった。
人は昨日より多い。前を行く者が四人。みな荷を持っていて、持ち方はそれぞれ違っていた。頭に載せる者と、肩に掛ける者と、両手で抱える者。
灯は追い越さないでいた。追い越すと、後ろから来る者に道を空けることになった。細い道でそれをやると、荷が当たった。昨日それで肩をかすめられた。
道の端の草に、水の粒が並んでいた。粒は葉の縁にだけ付いていて、真ん中には無い。灯は指で一つ落とした。落ちた先は見えない。
境目の石は、両側とも冷たかった。日が出ていないので、乾いた側も温まっていなかった。灯は手のひらを乗せて、すぐ離した。
草の丈は道に近いほうが短い。
草の中の石は、上がぬれていた。夜のうちに降ったのだと、灯は指で触って分かった。触った指は、そのままにした。
道の端の車輪の跡は、昨日より深くなっていた。跡の底に水がたまっていた。水は動いていない。
境目を過ぎると、道の色が変わった。石が減って土が増えた。灯は歩幅を戻した。
「昨日のこれ、なんで預けるの」
「値が付かんからだ。市に出しても、あの街でしかさばけん」
「じゃあ売ればいいのに。そのほうが早い」
「売らん。預けると戻ってくる。売ると戻らん」
坂を下ると、風の向きが変わって匂いが来た。油と、少し焦げたもの。灯は昨日より早く気付いた。二度目になる。
気付いてから、灯は口で息をした。昨日は鼻だけで吸って、途中で足りなくなった。今日は初めから口を開けていた。
前が暗く、後ろが明るい。
柱の火は、入口から見える範囲で右に十四。左は十二だった。昨日は十三で、その前が十四になった。
灯は左の列をもう一度見た。消えているのは二本。昨日から消えたほうは、入口から数えて四本目になった。柱は立っていた。皿も付いていた。中だけが黒く見えた。
灯は数えてから、キリの背中を見た。キリのほうは数えていない。
「柱の火、また一本減ってる。昨日から」
「そうか」
キリはそれだけ言って歩いた。歩く速さは変わらない。柱の下を通る時、灯は上を見上げた。皿の縁は昨日と同じ形で、欠けても曲がってもいない。
通りに入ると、板の道が乾いてきた。台はもう出ていた。積み方は上から取れるようになっている。
台の数は、入口から見える範囲で九つ。昨日と同じかどうかは分からない。昨日は数えていない。
台の後ろの人は、昨日とは別の顔。少なくとも一番手前の一人は違っていた。昨日の人は左の耳の上が白かった。今日の人は両方とも黒かった。
キリは昨日の建物を通り過ぎた。取引所の看板の前で足を止めずに行った。
灯は看板を横目で見た。読めるのは昨日と同じ二文字だけ。残りの二文字は、今日も欠けたところが埋まっていなかった。
戸は閉まっていた。中の光は、戸の下の隙間から細く出ていた。
通りの二つ目の角で、キリが右へ折れた。
道が細くなった。板は途中で終わって、そこから先は土になった。両側の建物が近い。灯は肩をすぼめて歩いた。
両側の壁に窓は無い。板の継ぎ目だけが縦に並んでいた。継ぎ目の間は、灯の肩幅より少し広い。
足の下の土は湿っていた。踏むと形が残った。灯は自分の靴の跡を一度だけ振り返って見た。跡は二つぶんだけ残っていて、その先は消えていた。乾いているところと湿っているところが、交互に来ているらしい。
道の途中に、木の箱が二つ積んで置いてあった。上の箱の蓋が開いていた。中は空。底に土がたまっていて、隅のほうだけ厚い。
灯は箱の横を通った。通る時に、蓋の縁へ指が当たった。木は湿っていない。この道で乾いているのは、この箱だけになった。
突き当たりに、戸が一つあった。
建物は低い。屋根が平らで、縁に火が並んでいなかった。柱の火も、この道には二本しかなかった。二本とも建物の手前で、突き当たりの側は暗い。
屋根の縁に、金物の受け皿だけが並んでいた。数は五つ。どれも中が黒い。火の付いていた跡が残っていた。灯は下から数えて、それから目を下ろした。
戸の上に、板が横に渡してあった。板に字は無い。代わりに、丸い金物が三つ打ってあった。三つとも大きさが違った。
左が一番大きい。右へ行くほど小さくなる。灯は三つの間の幅を目で測った。幅は同じ。大きさだけが違う。
金物の表面は磨いてあった。曇っていない。ここだけ光の返り方が違う。
「ここだ」
「入らないの。ここまで来たのに」
「俺は入らん。あんたが持ってけ」
キリは道の途中で足を止めていた。戸から五歩ほど離れていた。袋は肩に掛けたままで、下ろす形にならなかった。
灯はキリを見た。キリは戸のほうを見ていない。目は道の先の暗いところにあった。
袋のひもに掛けた指が、いつもより深く入っていた。第二関節までひもの内側に入っていた。灯はその手を見てから、目を戻した。
「あたし一人で入る」
「入らん。中で言うことは決まってる。あんたが言えばいい」
灯は腹が立っていた。入らないと言ったのに、入口で待っているからだ。
灯は鞄から包みを出した。両手で持つと、昨日より少し重い気がした。中身は同じになった。
持ってきた道で、包みは一度も鞄の底から動いていない。灯は持ち替えて、下から支える形にした。
「中でなんて言えばいいの。順番も分からない」
「預ける、と言え。それだけでいい。値はあっちが付ける」
「期限も向こうが決める」
「決める。こっちからは言わん。言うと足元を見られる」
灯は包みを胸の高さで持ち直した。布の内側で、中の物が一度だけ動いた。
灯は戸の前に立った。取っ手はある。金物の輪で、握ると冷たかった。
輪の下のほうだけ、色が明るく見えた。ここばかり握られているのだと、灯は指の位置で分かった。灯も同じところを握る。
引くと、内側から音が返った。木が擦れる音で、戸の下が床にひっかかっていた。灯は肩で押した。押すと開いた。
振り返ると、キリはまだ同じ場所にいた。位置も、袋の掛け方も動いていない。
灯は戸の内側へ入った。
*
中は暗くない。
天井に火は無い。代わりに、壁の高いところに窓が横に並んでいて、そこから外の火の光が入っていた。窓は五つ。どれも細長く、下からは外が見えなかった。
部屋は広かった。奥行きが灯の教室の二つぶんほどある。物は全部、両側の壁に沿った棚に入っていた。
棚は天井まであった。段は九つ。上の段ほど物が小さかった。
匂いがした。
布と、古い紙と、それに甘いものが少し混ざっていた。名札小路で嗅いだ匂いに近い。ただしこちらのほうが乾いていた。
奥に机が一つあった。机の向こうに人が座っていた。
主は年寄り。髪は白くて、後ろでまとめてあった。手は机の上に置いてあって、指が長い。爪は短く切ってあった。
「預ける」
灯は包みを机の上へ置いた。
主は包みを見た。次に灯を見た。それからもう一度包みへ目を戻して、両手で持ち上げた。手は下から入って、布に指の跡が付かない。
「開けていいですか」
「うん」
主は結び目を、端のほうからほどいた。ほどく順は、キリが結んだ順の逆になった。布が開くと、中から金物が出てきた。
平たい箱。手のひらより少し大きい。蓋に細い線が二本入っていて、間だけ色が明るい。
主は箱を窓の光へ向けた。それから机へ置いて、蓋の縁をなぞった。
「四十一のところの物ですね」
「キリの」
「そう呼んでいるのですか。こちらでは番号で呼びます」
主は机の下から札を出した。木の札で、四つ角の札より厚い。上に穴が一つ開いていた。
「期限を書きます。数を言うので覚えてください」
主は炭の棒を取った。札の面へ数を書いた。書く手は遅かった。一画ごとに止まって、止まる度に指の位置を直す手。
「二十二」
灯は札を見た。数はもう書いてあった。
「日にちの数」
「そうです。その日までに来れば戻ります。来なければ、この物はうちの棚へ上がります」
主は札を灯のほうへ滑らせた。滑った札は机の縁で止まった。灯は取って、鞄へ入れた。
主は箱を布へ戻した。戻す時の結び方は、キリと同じ置く結びの形。端が二本とも下を向いた。
「若くなるって聞いたけど、ほんとなの」
主は手を止めた。そのまま灯の顔を見た。
「誰から聞きました」
「街で聞いた」
うそになった。キリは道で一度だけ言った。預けると戻ってくる、と。若くなるとは言っていない。
「預けた者は、預けた日数だけ戻ります。二十二日預ければ、二十二日ぶん」
「戻るって、どこへ」
「若いほうへ。それだけです」
主は棚へ顎を向けた。上から三段目に、灯の背丈ほどの物が入っていた。布がかぶせてあって、形は分からなかった。
布は灰色で、上のほうだけ色が薄かった。長く光の当たっていた側。
「期限を越えたのは、あそこへ上がります」
灯は三段目を見た。布の下は、上のほうが細くて、下が広い。
人の形に見えた。
灯は目を戻した。主はもう棚を見ていない。机の上を布でぬぐっていた。
戸が開いた。
入ってきたのは女の人。年は母より上に見えた。手に何も持っていない。まっすぐ机の前まで来て、灯の横に立った。
「三日」
「三日ですね」
主はもう一枚の札を出した。今度は書かずに、机の下の箱から選んだ。数はもう入っていた札。
女の人は机の上へ両手を置いた。手のひらを下に向けて、指を開いた。
主はその手の甲へ、自分の手のひらを重ねた。重ねた時間は短かった。三つ数える間も無い。
女の人は手を引いた。それから一度だけ瞬きをした。
「終わりました」
「何を取ったの」
女の人が言った。主のほうを見ていない。机の上を見ていた。
「言わない決まりです」
「そう」
女の人は札を受け取った。受け取った手が、来た時より少し細く見えた。灯は見比べようとしたが、比べる元が無かった。
女の人は戸のほうへ向かった。灯の横を通る時、顔がこちらを向いた。
顔は笑っていない。困ってもいない。目は開いていて、灯を見ているのに、灯のところで止まらなかった。
その顔を、灯は見た。
女の人は出ていった。戸が閉まる音は、開いた時より短かった。
「あの人、何かを払ったの」
「払いました。ここは物では受けません」
「じゃあ何で払ったの」
主は答えない。答えの代わりに、机の下から帳面を出して開いた。開いた紙に、短い字が縦に並んでいた。字の下には日付。
「書くのは日と、いくつかだけです。中身は書きません」
「書かないと、後で分からなくなる」
「分からなくていいのです。分かると、返せと言う者が出ます」
主は帳面を閉じた。
灯は札を鞄の底で握った。木の面が指に当たった。数の彫ってあるほうを、指の腹で確かめた。二本の横棒が二つ。
札の縁は角が丸かった。何度も出し入れされた形。
「もう一つだけ聞いていい」
「一つだけです」
「取られたものって、本人は分かるの」
主は机の上の布を畳んだ。手を止めずに、灯のほうへ顔を上げた。
「分かりません。何かを払ったことだけは残ります」
灯は戸のほうへ歩いた。歩きながら、棚の三段目をもう一度見た。布は動いていない。
戸を引くと、外の音が入った。
灯は外へ出た。
キリは同じ場所にいた。位置も、袋の掛け方も朝と同じになる。
「済んだ」
「札は」
「持ってる」
灯は鞄の中で札を握り直した。キリは手を出さない。
その時、道の細いほうから人が来た。
二人。両方とも荷を持っていない。前の一人が灯の横を通る時、肩が当たった。当たり方は強くない。
灯はよろけた。よろけた先が壁で、背中が板に付いた。付いた拍子に、鞄の口が開いた。
中の物が二つ落ちた。木の札と、青い表紙のノート。
札は土の上で立って、すぐ倒れた。ノートは開いて落ちた。開いた紙が、風で二枚めくれた。
前の一人が足を止めた。そのまま、ノートのほうへ手を伸ばした。
その手が、途中で止まった。
止めたのは別の手。横から出てきて、伸びた腕の手首を上から押さえていた。押さえた指は長い。爪は短く切ってあった。
「拾うのは持ち主です」
声は低くない。高くもない。灯は顔を上げた。
男が立っていた。若い。二十代に見えた。上着は膝まであって、色は黒に近い。襟の内側だけ色が違っていた。
二人は何も言わずに行った。行く速さは、来た時と同じ。
男は屈んだ。木の札を拾い上げた。土を払ってから、灯のほうへ差し出した。
「これは落とすと面倒です。数が読めなくなる」
灯は受け取った。
男はノートも拾った。開いたまま持ち上げて、めくれた紙を指で戻した。戻す時に、中を見ない。見ないまま閉じて、灯へ渡した。
「名前が書いてありますね。表紙ではなく、中に」
「見たの」
「見ていません。落ちた時に開いていました。開いた紙は、こちらからは見えません」
灯はノートを胸の前で持った。
男は上着の裾を直した。それから灯のほうへ体を向けた。
「僕はここの支配人です。名はヨル」
キリは動いていない。壁ぎわに立ったまま、袋のひもに指を掛けていた。
ヨルはキリのほうを見た。見て、それから灯へ目を戻した。
「四十一の方の連れですね」
「連れじゃない」
「では、お客さんですか」
灯は答えない。答えの代わりに、ノートを鞄へ入れた。
ヨルは灯の鞄を見た。見てから、指を二本立てた。
「今の二つで、うちでは値が付きます。手首を止めたのが一つ。落ちた物を拾ったのが一つ。相場は輪で二つになります」
「持ってない」
「二つなら、いま持っておられますね。四十一の方の勘定から二つです」
輪は二つしか残っていない。鞄の中の数を思った。一昨日、九つ払った。
キリが壁から離れた。
「二つでいい。俺の勘定から引け」
「では引きます。一つは引きました」
ヨルは指を一本折った。折った指を、そのまま灯のほうへ向けた。
「もう一つは、今のはただです」
灯はヨルを見た。
ヨルの顔は動いていない。笑っていないし、困ってもいない。目は灯のところで止まっていた。
「なんで」
「値をつけない日が、年に何度かあります。今日がそうです」
「それ、前から決まってるの」
「決まっていません。僕が決めます」
ヨルは上着の袖を直した。直し方は、さっき裾を直した時と同じ。
「一つだけ聞いてもいいですか」
灯はうなずかないでいた。うなずかないうちに、ヨルは続けた。
「そのノートに、何人ぶん書いてありますか」
「数えてない」
「数えていない。それは本当ですか」
「本当」
ヨルはそこで一度だけ目を細めた。細めただけで、何も言わない。
「そうですか。では、いずれ数えてください。数えた日に、また値の話をしましょう」
ヨルは細いほうの道へ体を向けて歩き出した。歩き方は速くない。上着の裾は膝の高さで、歩いても形が崩れなかった。
角を曲がる前に、ヨルは一度だけ振り返った。振り返った先はキリのほうで、灯ではない。
キリは目を合わせないでいた。
*
道の細いほうへ、二人の足音が消えた。
キリは壁から離れて、来た向きへ歩き出した。灯は後ろに付いた。
板の道へ戻ると、台の数は行きと同じ。九つ。並びも変わっていない。
台の一つで、人が縄を掛けていた。掛け方は二重で、端を下へ引く。四つ角と同じやり方になった。灯は歩きながら、結び目の形だけを見た。
結び目は下を向いていた。置く結びになった。担ぐ結びではない。今日はどこへも行かない結びになる。
「あの人、支配人なんだって」
「そうだ」
「知ってたんだ」
「知ってる。この街で番号をくれたのがあいつだ」
「四十一の番号」
「そうだ。番号は返せん。返すと、ここでは何も売れなくなる」
キリはそれ以上言わないでいた。灯も聞かない。
通りの半ばで、灯は立ち止まった。柱の一本を見上げた。火は点いていた。皿の縁の形も昨日と同じになった。
昨日消えたのは、この二本先。灯はそこまで歩いて、下から見上げた。皿の中は黒かった。柱に手のひらを当てると、木は冷たかった。
「行くぞ」
入口の柱まで来ると、外から入ってくる者が三人続いた。三人とも手ぶらで、荷は持っていなかった。入る者は手ぶらで、出る者は荷を持つ。昨日と同じになった。
灯は柱の根元を見た。石は四つ。昨日と同じ据え方で、間の土も固いまま。
入口の柱を抜けると、板の道が終わった。足の下が土に戻った。
上りに入って、空の色が後ろから戻ってきた。
振り返る度に、街の上の紺が細くなる。二度目に振り返った時、屋根の張り出しの下の火が二列に見えた。左の列は途中で二つ空いていた。
三度目には、列の形しか見えない。
道の端に、行きに見た木の箱が二つ残っていた。上の蓋は開いたままで、底の土も動いていない。
灯は箱の前で足を止めなかった。目だけで底を見た。土の厚いところは隅のままになった。
鞄の底で、灯は札を握った。木の面が指に当たる。数の彫ってあるほうを、指の腹でなぞった。二本の横棒が二つ。
「二十二」
声に出してから、灯は足を止めた。
立ち止まったところは坂の途中で、両側は草。草の丈は行きと同じになった。
朝、四つ角で指を折った。八月九日。棚の傘が処分に出るまで、あと二十二日ある。
同じ数。
灯は指を折り直した。八月九日から数えて、二十二で八月三十一日になった。札の数も二十二。
灯は札を出して、光のあるほうへ向けた。彫った線の中に土が入っていて、数は黒く見えた。二本の横棒が二つ。読み違えていない。
彫った線は深い。指の腹で押すと、爪の先が引っかかった。
「これ、二十二日って書いてある」
「そうだ」
「傘の日にちと同じ数だ」
キリは足を止めなかった。歩いたまま、少しだけ首をこちらへ回した。
「向こうの数は向こうの数だ。こっちとは合わせん」
「でも同じ」
「同じになることはある。それだけだ」
灯は札を鞄へ戻した。戻す時に、ノートの上へ置いた。木と紙が重なる。木のほうが冷たい。持ってきた道で、札は一度も外へ出ていなかった。
重ねてから、灯は肩のひもを持ち直した。鞄の底が腰へ当たる位置は、行きと同じになった。中身は札が一つ増えて、包みが一つ減った。差し引きで軽くなったはずだが、当たり方は変わらない。
上るほど、道の土が乾いていった。車輪の跡の水は、朝より減っていた。底の土が見えているところが二か所あった。
空が明るくなったのは、境目の石まで来た時。
石の上は、朝より乾いていた。灯は手のひらを乗せた。手の下だけが温くなって、離すと形が残った。形は薄くなって消えた。
手のひらを離してから、灯は自分の頭の上へ同じ手を置いた。置いた高さを、そのまま横へ動かす。棚の三段目の布の上の端は、この線より少し上にあった。背丈ほどの物と思ったのは灯で、あては手のひらしかない。
物差しは持っていなかった。持っていても、あの部屋では出せなかった。
石の裏のこけは、朝より色が濃い。夜の水が乾ききっていない。灯は指で押して、離した。
草の中に、行きには気付かなかった石がもう一つあった。境目の石より小さい。上が平らではなく、片側が欠けていた。
灯はそこへは手を置かなかった。通り過ぎて、五歩ほど行ってから振り返った。小さいほうの石は、草に半分隠れている。
「あの人、なんであたしのを拾ったの」
「値をつける前だからだ。つける前は、あいつは何でもやる」
「つけた後は」
「つけた額のぶんだけやる。一文も多くやらん」
「それって、ずるくないの」
「ずるくない。約束を破らんからな」
キリはそこで初めて灯のほうを見た。見て、すぐ前へ戻した。
「破らんぶん、こっちに逃げ場が無い」
灯は聞き返さないでいた。キリの目は道の先。
石の向こう側に、キリが回った。そこで袋を下ろした。口を開けて、中から布の包みを一つ出した。
「これは戻ってきたぶんだ」
「先に預けてたのがある」
「先月のだ。今日、取ってきた」
包みは灯の預けたものより小さかった。キリはそれを袋の内側の別の場所へ入れた。入れた場所は、いつも縄を入れている側になる。
上りは思ったより早く終わった。荷を持った者が二人、灯を追い越していく。向きは全部レポのほうになる。
箱はどれも同じ形。明日の市へ出す物になる。
灯は自分の鞄を肩で上げ直した。中に売る物は一つも入っていない。
四つ角が見えた時、日が雲の切れ目から出た。石の上に影ができた。影は細くて、すぐに消えた。
人出は朝より多い。荷を持った者が、東の道から次々に上がってきた。四つ角で足を止めて、それから別々の道へ散っていった。
キリの台は畳んだまま。石も布も朝と同じ位置にある。
板の下の隙間は空いたままだった。灯は指を入れて確かめた。朝と同じで、中に何も無い。
「明日は市だ」
「行く」
「来い。朝の早いうちだ。昼には空く」
「市に何を出すの」
「今日戻ってきたぶんと、あんたが書いたぶんだ。値は明日つく」
キリは板の脚へ石を戻しはじめた。四つのうち二つを、へこみの上へ置いた。置くと、石はへこみの形へ入って動かなくなった。
東の道から上がってきた者が、四つ角で二手に分かれた。北へ行くほうが多い。灯は分かれ方を見てから、目を台へ戻した。
灯は台の横にしゃがんだ。しゃがんで、石の据わりを下から見た。二つは入っていて、二つはまだ布の上にある。
「石、あたしが置く。昨日見て覚えた」
「置け。右の手前からだ」
灯は石を持ち上げた。両手でないと動かない。持ち上げた石の下は、土が乾いていた。上に置いてあった側だけ色が薄い。
右の手前のへこみへ、灯は石を下ろした。下ろすと、石はへこみの形へ入って止まった。
最後の一つは、キリが置いた。置く場所は左の奥で、灯の入れた石と対角になる。
四つとも入ると、板は動かなくなった。灯は板の縁を手のひらで押してみた。押しても、脚は鳴らない。
「明日、ここに枠が立つんだ」
「立つ。朝のうちに組む」
「じゃあ、あたしも早く来る」
キリは返事をしなかった。畳んだ板の上へ手を置いて、そのままにしている。
灯は東の入口を見た。二つとも横木が外れたままだった。
灯は地下の階段のほうへ歩いた。歩きながら、札とノートを鞄の中で重ね直す片手。
階段の口で、灯は足を止めた。
鞄からノートを出した。膝の上ではなく、階段の手すりの上へ置いた。手すりの金物は冷たい。開いた紙が風でめくれかけて、灯は左手で押さえた。
名前の並んでいる紙まで戻した。
ぬい。たも。せん。みや。たい。かじ。ほり。それから、名を言わなかった二人目と、二枚ぶんを口で伝えた三人目。札を持っていなかった四人目。
灯は上から順に指で押さえた。指の数は、声には出さない。
十あった。
書けているのは八つで、点が二つ。点の片方は、なぞらせただけの字になる。
灯はノートを閉じた。それからもう一度開いて、同じところを見直した。数は変わらない。手すりの金物が、押さえた左の手のひらを冷やしていた。冷えたのは手のひらの外側だけになる。
あの人に言う気は無い。それでも数えた。
鞄へノートを戻した。その上に札を重ねて、口を閉じた。灯は鞄を肩へ掛け直した。
灯は階段を下りかけて、途中で振り返った。
四つ角の東の入口で、市の枠が二つ立てかけてあった。組むのは明日になる。枠の脚の影が、石の上に二本並んで伸びていた。二本の長さは同じ。




