第013話 トバリ
地下の窓口に祖母がいた。
届出票の束は昨日と同じ高さで、判はもう握られていた。八月八日の朝になる。灯が横を通る間に、判は二度落ちた。どちらも紙の右下で、位置がずれなかった。
棚は昨日と同じ形をしていた。数えなくても、空いている場所で分かる。灯は下から二段目へ目を落として、左から三番目と六番目を確かめた。それから目を上げた。
傘は九本のまま。
扉の前で、灯は鞄の口を一度開けて閉めた。中には何も足していない。昨日の四つは四つ角に置いてきた。板の下に二つ、石の上に二つ。
外は晴れていた。
キリは四つ角にいた。台は畳んであった。板は縦にして脚の石へ立てかけてあって、その上に布がかぶせてあった。布の端は石で押さえてある。
「台、畳んである。今日は出さないんだ」
「出さん。今日は東へ行く。戻りは日が沈んでからになる」
キリは肩に袋を掛けていた。いつもの包みではない。細長くて、下のほうが重そうに垂れていた。灯は袋の底を見た。角ばったものが二つ入っていた。
「あたしも持つ。片方だけ」
「持たん。あんたは自分の鞄だけでいい」
キリは袋の位置を肩の後ろへ寄せた。それから、ひもの長さを指二本ぶん詰めた。先を結び直して、余りを内へ折り込んだ。
灯は肩のひもを短くした。鞄は昨日より軽かった。中は筆箱と、水筒と、青い表紙のノートと、輪が二つ。ノートは家の引き出しから出してきた。持ってくるかどうかは、玄関で決めた。
四つ角の東の入口に、市の枠が二つ立てかけたまま残っていた。昨日と同じ場所で、同じ角度に見えた。灯は指を折って数えた。八月八日。棚の傘が処分に出るまで、あと二十三日ある。
東の道は四つ角から出て、すぐ下りになった。石の敷き方が途中で変わる。目地が広くなって、間の土が黒くなった。踏むと少し沈んだ。
「この道は初めて通る」
「東は昨日まで人が多かった。今日は空く」
人は本当に少なかった。前を行く者が二人。追い越す時に顔を見たが、二人とも道の先だけを見ていた。
道の端に、車輪の跡が二本残っていた。跡は途中で消えて、少し先でまた出てきた。
道の両側の家は、少しずつ低くなっていった。屋根の傘も色が薄い。三軒に一軒は屋根が新しくて、そこだけ布が張ってあった。
張ってある布には字が残っていた。読める家が二軒。一軒は横棒だけだった。灯は歩きながら二軒目の字を目でなぞった。なぞっても、知っている字にならない。
屋根の色の変わり目を、灯は目で追った。そのうちに家が途切れた。
塀も無くなった。道の両側が草になった。草の丈は灯の膝ほど。
「まだ着かないの。あとどれくらい」
「境目まで半分だ。あんたの足なら、そこからもう半分かかる」
草の丈はそろっていなかった。道に近いほうが短く、離れるほど長かった。踏まれた側だけ伸びないのだと、灯は目で比べた。
草の中に石が立っていた。灯の腰ほどの高さで、上が平たかった。字は無い。表面に苔が付いていて、日の当たる側だけ乾いていた。灯は手のひらを乗せてみた。乾いた側は温かく、影の側は冷たい。
「この石、何のために置くの」
「印だ。ここから先は別の勘定になる」
灯は石へもう一度手を置く。乾いた側から影の側へ、手のひらを滑らせる。境目のところで温さが切れた。そこを、灯は指の先で押さえ直した。
石の裏側へ回ると、苔が厚い。指で押すと少し沈んで、離すと戻った。灯は手を上着でぬぐう。ぬぐった跡が布に緑で残った。
道が二度曲がって、下りが急になった。曲がり角は二つとも右。灯は歩幅を狭くした。それでも足の裏が滑った。石ではなく、砂の混ざった土になっていた。
匂いが変わった。
油の匂い。学校の掃除用具入れを開けた時の匂いに似ていた。機械に差す油と、少し焦げたもの。灯は鼻から吸って、口から出した。
「さっきから、匂いが違う」
「トバリの匂いだ。あそこは火を絶やさん。だから匂いが残る」
坂を下るほど濃くなる。
下りきったところで、道が平らになった。
空が違っていた。
灯は立ち止まって上を見た。首を回した先は、後ろと前で色の別。境目は線ではなく、少しずつ移っていく幅を持っていた。
レポの空は白かった。ここは上のほうから色が抜けていて、遠くの端が紺色になっていた。日は後ろにあるのに、前は暗い。灯は振り返った。上ってきた坂の上だけが明るかった。
「まだ昼なのに、前だけ暗い」
「トバリに昼は無い。それだけの話になる」
道の先に、街の形が見えてきた。屋根の並び。
屋根の高さはそろっていなかった。二階の上にもう一階を載せた形の建物が並んで、上へ行くほど張り出していた。その下が影になって、影の中に光が点いていた。
建物の壁は木ではなかった。灰色の板で、継ぎ目に細い金物が挟んである。触った指の腹に、細かい粉が付いた。
灯は足を止めた。
光は小さかった。指の先ほどの火が、柱の途中に一つずつ付いていた。柱は道の両側に立っていて、間はどれも同じ幅。
灯は数えた。
入口から見える範囲で、右に十四。左に十三。左の一本は柱だけが立っていて、上に火が無かった。灯はそこで数えるのをやめた。やめてから、もう一度だけ左を見る。柱の頭に金物の受け皿があって、皿の中が黒く見えた。
「あそこの柱だけ、火が点いてない」
キリは答えなかった。そのまま歩き出す。
灯は追った。追いながら、右側の火を一つだけ近くで見た。火は風で揺れなかった。柱の頭の受け皿の上に、平たい金物が伏せてあった。火はその隙間から出ていた。
「風が来たら消えそうに見える」
「消えん。そういう火じゃないからな」
入口に門と呼べるものは無い。柱が二本あるだけ。上に渡した物も無かった。柱の間を人が出入りしていた。出る者は荷を持っていて、入る者は手ぶら。四つ角と逆になった。
柱には字が彫ってあった。二本とも腰の高さで、深さも同じ。左の柱は下が欠けていて、字が半分になっていた。灯は指を入れてみた。溝の底に、細かい砂がたまっていた。
灯は柱の間を通った。その時に、足の下の音が変わる。土から板になった。道の真ん中に幅の広い板が敷いてあって、その両側だけが土のまま。
板は乾いていた。踏むと少し鳴る。灯は端へ寄って、土の側へ足を移した。
面倒だ。
灯は下を見た。板の継ぎ目が目に入る。数えそうになって、途中でやめた。
「先に行く。ここは道が一本しかない」
灯は顔を上げた。その先に、荷を担いだ者が二人並んで来ていた。二人の荷は同じ形をしている。灯は端へ寄って、そのまま壁に背中を付けた。壁の板は冷たい。二人は灯を見ずに通った。
通りは狭くなって、また広がる。広い場所に台がいくつも出ていた。台の上には物が並んでいる。四つ角の板の上とは並べ方が違っていた。物は縦に積んであって、上から取れるようになっていた。
「みんな縦に積んでる」
「土地が狭い。横に置くと払う額が上がる」
台と台の間は狭い。人が一人ずつしか通れなかった。灯はキリの後ろに付いて、横向きに抜けた。その時に、上着の背中が台の角へ当たった。
台の後ろに人が立っていた。座っている者はいなかった。灯は台の一つの前で足を止めた。積んであるのは金物の板で、大きさは全部同じ。上の一枚だけ、角に穴が開いていた。
台の人は灯を見た。見て、それから何も言わずに目を戻す。灯は積んである金物の一番上へ指を伸ばしかけて、途中で下ろした。下ろした手は、鞄のひもへ掛けた。
「今日は買わないんだ」
「今日は買わん。俺は出す側だ。買うのは市の前じゃない」
キリは肩の袋を持ち直した。その時に、袋の底の角が布を押した。二つの角の間は、灯の手のひら一つぶんほど離れている。
通りの奥のほうで、火の数が増えた。柱の間が狭くなっていた。灯は歩きながら、明るいところと暗いところが交互に来るのを足の下で拾いかけて、拾うのをよした。
「あそこだ。屋根の平らなほう」
キリが指したのは、通りの左側の建物。ほかより低い。二階を載せていなくて、屋根が平らになっていた。屋根の縁に沿って、火が並んで点いていた。
建物の前に、木の看板が立ててあった。
灯は看板の前で止まった。字は四つ。一文字目の上が欠けていて、二文字目は縦の棒が二本。三文字目と四文字目は読めた。読めた二文字は、名札小路で見た字と同じ形をしていた。
「読めない。二つだけ分かる」
「読まんでいい。中で書くのはあんたじゃない」
看板の下のほうに、小さい字が横へ並んでいた。三つずつ組になって、組と組の間が空いている。灯が組の数を目で追っているうちに、キリが戸を押した。
戸は内側へ開いた。開き方は重くて、最後だけ軽くなった。
*
中は明るかった。
外の火より強い光が、天井の四隅に一つずつ点いていた。受け皿は外と同じ形で、火だけが大きい。灯は入ってすぐ、天井を見上げた。四つとも同じ高さで揺れない。
匂いは外より薄かった。油の匂いの上に、紙と、乾いた木の匂いが乗っていた。灯は口を閉じて鼻だけで息をした。吸う度に、紙の匂いのほうが強くなった。
部屋は縦に長かった。真ん中に机が一列。机の向こう側に人が並んで座っていて、こちら側は空いていた。座っている者はみな同じ向きに紙を置いて、同じ形の筆で書いている。
紙の音がしていた。紙をめくる音と、筆の先が紙を擦る音が重なる。人の声は無い。
キリは一番奥の机の前へ行った。灯は後ろに付いた。
机の向こうの人が顔を上げた。年は分からない。髪は短くて、耳の上だけ白かった。手の甲に細い傷が何本もあって、傷はどれも同じ向きに走っていた。
「番号を」
「四十一だ」
書記が筆を置いた。場所は机の右上で、筆の先が縁から出ないように向きをそろえた。
書記は机の下から板を出した。板には縦に線が引いてあって、線の間に数が書いてある。書記は上から順に指を下ろして、途中で止めた。
「四十一。前回は六日前ですね。品はいくつでしょうか」
「二つだ」
キリは袋の口を開けて、中身を机の上へ出した。二つとも金物で、片方は輪、もう片方は平たい板になっていた。板のほうには穴が四つ開いていた。
書記は輪を持ち上げて、日ではなく天井の火へかざす。それから机の上へ置いて、指の背で一度回した。回った輪は机の縁で止まった。
「輪は五。板は七。合わせて十二になります」
「十二で通す。値切る気は今日は無い」
「では帳面へ入れます。名は」
「キリだ」
書記は帳面を開いた。左端に数が並んでいて、右のほうは空いている。書記は左の列の一番下へ数を書いて、その右へ短い字を二つ書いた。書く速さは同じで、途中で止まらなかった。
灯は帳面の端を目で追った。数の列は上から下へ埋まっていて、下の三行だけが空いていた。
灯は机の縁から中をのぞいた。
書記は顔を上げない。そのまま、灯のほうへ紙を一枚滑らせた。
「こちらはお客様ではありませんね。見学でしたら、こちらの紙をどうぞ」
紙には何も書いていなかった。灯は受け取って、両手で持った。紙は厚く、縁が波打っている。持っていると指の先が少し湿った。
「もらったのに、何も書いてない」
「見学の紙です。持っていれば通ります。持っていなければ通りません」
「書くところが、どこにも無い」
「書きません。見学ですので」
灯は紙を鞄へ入れかけて、手を止めた。やめて、そのまま持った。
キリと書記の話は続いていた。灯は机の列の間を、端から見ていった。
机は八つ。八人とも同じ形の筆を持っていた。筆の柄の長さは同じで、先の減り方だけが違った。一番手前の人の筆は、先が半分になっていた。
机の並びは正しかった。端と端を目で結ぶと、線が一本になる。灯は自分の教室を思い出した。あちらは毎朝ずれて、多田が直させた。
書いている紙も同じ形をしていた。八枚とも、机の右の端から指二本ぶんのところに置いてあった。
机の間に立てかけて、大きな板が一枚あった。壁ではなく、床から立ててある。板の高さは灯の背より少し高かった。
灯は近づいた。
板には線が描いてあった。細い線が何本も走っていて、線と線の間に丸が打ってあった。丸の横には字が付いていた。字は看板と同じ形をしていた。
地図。
灯は地図を見たことがあった。学校の廊下に貼ってあるのと、社会科の教科書の後ろに折り込んであるの。どちらにも線と丸と字が入っていた。
線をたどると、丸へ着いた。丸から別の線が出て、また別の丸へ着く。灯は右下の丸から順に指を動かしかけた。動かさずに、目だけで追った。
右下の丸から三つ目が大きい。そこから線が四本出ていた。四つ角のことだと、灯は分かった。
四つ角の丸から、右へ長い線が一本。線の先に、今いる丸があった。丸の中に字が二つ書いてあった。看板の三文字目と四文字目に似ていた。
地図の左のほうへ、灯は目を移した。
線は左へも続いていた。丸が三つ。三つとも字が付いていた。その先で線が細くなって、途中で切れていた。
切れた先が白かった。
紙の色ではなかった。板の色でもない。そこだけ描くのをやめた形の白さで、線の切れ口が丸くなっていた。何度も塗り直した跡。
灯は近づいて、白いところへ顔を寄せた。
地図の、そこだけ何も書いていなかった。
灯は一歩下がって、板の全体を見た。線と丸は右から左へ広がっていて、白いところだけが残っていた。ほかに白い場所は一つも無かった。
灯は白いところの縁を目でなぞった。縁は真っ直ぐではない。上のほうが広くて、下へ行くほど細くなっていた。細くなった先に、もう一本だけ線があった。線は途中で消えていた。
白いところの下に、字が一つ残っていた。
消しきれずに残った字。上の横棒と、その下の点が二つ。それだけで、あとは白い。灯はその形を頭に入れた。入れてから、もう一度地図の右下へ目を戻した。四つ角の丸はそこにある。
「触らないでください」
書記の声。灯は手を下ろした。手は板に触れていなかった。触れる前で止まっていた。
「触ってない。手は止めた」
「触る前に言います。触ってからでは遅いので」
書記は座ったままだった。首だけをこちらへ向けている。灯は板から一歩下がった。
「ここだけ白い。ほかは埋まってる」
「そこは白いところです」
「なんで白いままなの」
「書く物が無いところは、白のままにします。それが決まりです」
書記は帳面へ目を戻した。それから、もう一度だけ顔を上げた。
「見学の紙は、出る時に返してください」
紙を持つ手を、灯は片方に替えた。両手から片手へ移すと、縁が指の間で曲がる。その形は、離しても戻らなかった。
板の上のほうへ、灯はもう一度目を上げた。切ったのではないと分かる。
灯は紙を持ち直した。持ち直してから、机の列の反対側へ回った。回る時に、床の板が一枚だけ沈んだ。そこを、灯は帰りに踏み直して確かめた。
壁に沿って、木の箱が積んであった。箱の前に立て札があって、そこにも字が並んでいた。灯は札の字を上から読んだ。三分の一は形が分かった。残りは分からない。
分かる字だけを拾うと、数と、日と、もう一つ何かになった。
箱は下から三段。
箱の一つが開いていた。中には布が畳んで入っていた。布の端に糸で縫った印があって、印は三本の線。灯は名札小路の札の裏を思い出した。あれも三本。ただし糸ではなくて、爪の跡になった。
「その箱は明日出ます」
書記が言った。顔は上げていない。
「その箱、どこへ出ていくの」
「出る先は帳面にあります。帳面は見学の範囲ではありません」
灯は箱から離れた。
部屋の奥に、もう一つ戸があった。戸の上に絵が描いてあった。絵は船。横から見た形で、真ん中に柱が一本立っていて、そこから布が張ってある。
布に字が書いてある。
二文字。上の字は形が残っていて、下の字は下半分が消えていた。灯は消えている側の字を、残っている線から組み立てようとした。組み立たない。
「あれ、船の絵だよね」
「船です」
「布のところに字が書いてある」
「町の名です。船には町の名を書きます。そういうものです」
書記は筆を止めた。それから、机の上の紙を一枚めくる。
「その船は来ません。来ない船の絵は、戸の上に描きます」
灯は奥の戸の前まで行った。戸には取っ手が無い。板を押して開ける形になっていた。押した跡が板の真ん中に付いていて、そこだけ色が薄かった。
灯は絵の下へ行った。
絵は板に直接描いてある。線は太く、色が焦げていた。焼いて描いたのだと分かった。指を近づけると、板の面より少しへこんでいる。
布の字の下の部分に、灯は目を戻した。消えているのは絵のほうではない。描いた時から半分だけ。線の終わり方が、途中で止めた形になっていた。
「はじめから半分しか無い」
書記からは何も返ってこない。
キリが袋の口を結んだ。結び方は置く結びで、端が二本とも下を向いた。
「済んだ。出るぞ。日が動く前に坂を上がる」
見学の紙を、灯は机の上へ返した。書記は紙を取って、机の下へ入れた。しまう場所は見えない。
「またお越しください。番号は四十一のままです」
外へ出る前に、灯はもう一度地図のほうを見た。
白いところは、離れると小さくなった。板の左の端に寄っていて、面積は灯の手のひら二つぶんほどになった。近くで見た時より小さい。
書記はもう顔を上げない。筆の音が戻っている。八人とも、灯が入ってきた時と同じ形で座っていた。
*
戸の外は、入る前より暗くなっている。
柱の火は同じ数だけ点いていた。灯は入口のほうを見た。数えた十四と十三は、そのまま。左の一本だけが消えたままになる。
「入る前より暗くなってる」
「沈まん。ここは元から沈んでる。上と下で別の話だ」
通りの台は片づけはじめていた。積んであった物を、箱へ移して縄を掛けていた。やり方はどの台も同じ。縄は二重にして、端を下へ引く。
灯は歩きながら、右側の火を順に見た。
どの火も同じ高さで、同じ大きさ。受け皿の金物だけが違う。新しいものは色が明るく、古いものは黒い。黒いほうが多かった。
「あの火は、油で点いてるの」
「油じゃない。俺の口から言うことでもない」
「じゃあ何で点いてるの」
キリは答えなかった。歩く速さも変えない。灯は横に付いて、もう一度柱を見上げた。
火は受け皿の隙間から出ていた。皿の中は見えない。
通りの半ばで、前のほうの火が一つ消えた。
左側の、三本先の柱。皿の上の火が細くなって、細くなったまま短くなって、無くなった。煙は出ない。
通りの音は変わらない。台の縄を掛ける音も、板の道を歩く音も、そのまま続いている。
灯は足を止めた。キリのほうは歩き続けた。
「今、一つ消えた」
「見た」
「なんで消えたの」
「行くぞ。立っててもどうにもならん」
キリは振り返らずに歩いた。灯は消えた柱の下まで行って、上を見た。
受け皿の縁が、まだ温かそうに見えた。手は届かない。灯は柱に手のひらを当てた。木の柱は温かくない。上のほうだけ温いのかもしれないと思って、灯はもう一度見上げた。
皿の中は黒い。
通りの人が二人、灯の横を通った。二人とも柱を見ない。見ないまま行った。
灯は柱のまわりを一周した。
柱の根元に、石が四つ据えてある。四つとも同じ大きさで、間の土が固く踏まれていた。誰かが毎日ここへ立つのだと、灯は土の色で分かった。
根元から上を見ると、皿の底が影になって見えない。皿の下に細い金物の管が付いていて、管は柱の中へ入っていた。管の口のところだけ、色が変わっている。
灯は管に指を近づけた。それだけになる。指は触れない。
灯はそこを離れた。
離れる時に、消えた柱の隣の火を見た。隣は点いていた。同じ大きさで、同じ高さになる。
入口の柱まで戻ると、キリが待っていた。その間に袋を掛け直したらしく、袋の位置が肩の後ろへ寄っている。
「戻りは上りだ。日が沈む前には四つ角へ着く」
入口の柱の根元にも、石が四つ据えてある。灯は数だけ見て、しゃがまずに通った。
灯は柱の間を抜けた。それから、一度だけ振り返った。
通りは奥まで見えた。柱の火が二列。右の列と左の列。右の列は端まで続いていて、左の列は途中で二つ空いていた。
二つとも、空いた場所の左右だけが少し明るく見えた。
入口の外へ出ると、板の道が終わった。足の下が土に戻る。灯は一度立ち止まって、靴の底を土へ押しつけた。板の乾いた感じが足の裏から抜けた。
入口の柱の外側へ、灯は手のひらを当てた。木は冷たい。街の内側の壁より冷たかった。手を離すと、湿った形が薄く残って、すぐに消えた。
上りに入ると、空の色が後ろから戻ってきた。
振り返る度に、街の上の紺色が細くなった。三度目に振り返ると、屋根の張り出しの形しか見えない。火は見えていた。数は分からない。
歩きながら、灯は鞄の口を開けた。中から青い表紙のノートを出した。
歩きながらは書けない。灯は道の端の石へ座った。行きに手のひらを乗せた石ではない。それより上の、もっと小さい石だった。
膝の上でノートを開いた。出てきたのは、四つ角で名前を書いた紙の次になる。前の紙には十の名前が並んでいて、うち二つは点のまま。灯はそこを一度だけ見て、めくった。
鉛筆を出して、紙の上に線を引いた。
引いたのは、地図の右下から出ていた長い線だった。線の先に丸を一つ。丸の中へ、看板と同じ形の字を二つ書いた。それから、その左へ丸を三つ並べた。
三つ目の丸の左で、灯は鉛筆を止めた。
線を細くして、途中でやめた。やめた先を空けたまま、その下へ字を一つ書いた。上の横棒と、その下の点が二つ。それだけ。
書いた字を、灯は見た。字にはなっていない。半分の形が紙の上に残っただけになる。
灯は鉛筆の先を紙から離した。その先に、芯の粉が少し落ちていた。指ではらうと、紙に薄く筋が残った。
紙の白いところを、灯は指でなぞった。板の白いところとは手ざわりが違う。
「行くぞ」
キリは先で待っていた。灯はノートを閉じて鞄へ戻した。閉じる時に、表紙の角がもう一つぶん折れた。
道は上るほど乾いていった。砂の混ざった土が、石に戻る。石に戻ったところで、灯は足の裏の感じが変わったのに気付いた。
行きに見た車輪の跡は、帰りには見つからない。同じ道の同じ場所を探したが、跡の切れ目が思い出せない。灯は探すのをやめて、前を見て歩いた。
草の丈は行きと同じ。道に近いほうが短く、離れるほど長い。灯は膝の高さで比べ直して、朝と同じだと決めた。
途中で、道の端に人が座っていた。
膝の上に箱を置いて、縄の結び目を直していた。灯が通ると顔を上げた。上げただけで、口は開かない。灯も言わなかった。
十歩ほど行ってから振り返ると、人はもう立って歩いていた。歩く向きはトバリのほうになる。
坂の途中で日が肩の高さまで下りた。影が前へ伸びて、灯の頭の形が道の先に映る。灯はその影を踏まないように歩幅を変えた。それでも、影は同じだけ先へ行った。
道の傾きが緩んだところで、風の向きが変わった。後ろから来ていたのが、横から来る。灯は上着の前を合わせ直した。合わせても、袖の口から風が入る。入った風は冷たくない。
境目の石まで来た。
行きに触った石は、日の当たる側だけが温かかった。今は両側とも冷たい。日はもう坂の上のほうへ寄っていた。
灯は石の上に手のひらを置いた。すぐに離した。
「消えた火は点け直さないの」
「点け直さん。誰がやるのも見たことがないな」
「壊れて消えたわけじゃないよね」
「壊れとらん。柱も皿もそのままだ」
「じゃあ、なんで放っておくの」
キリは石の向こう側へ回った。そこで、灯のほうを見ないで立った。
「見なかったことにする奴が多い。俺もそうだ」
それ以上は言わない。灯も聞かない。
上りの残りは短かった。人が増えて、荷を持った者が追い越していった。追い越す向きは全部レポのほう。
追い越していく者の荷は、どれも同じ形をしていた。四角い箱に縄を二重に掛けてある。やり方は台の縄と同じで、端が二本とも下を向いていた。
灯は三人ぶん数えて、四人目でやめた。数えるつもりが無くても、荷は目に入る。
四つ角が見えた時、日は屋根の高さまで下りていた。
人出は朝より多い。荷を持った者と手ぶらの者が、同じ向きへ混ざって歩いていた。東から来た者は、みな四つ角で足を止めて、それから別々の道へ散っていった。
市の枠は、まだ立てかけたまま。
キリの台は畳んだままで、布も石も朝と同じ位置にあった。板の下の隙間に、灯は目をやった。外からは見えない。
「預けたやつを取っていく」
「取っていけ。板の下は朝から動かしとらん」
灯はしゃがんで、隙間へ手を入れた。指が先に鏡へ当たった。奥に鏡、手前に匙。並べた順のまま残っていた。
灯は二つを出して、鞄へ入れた。鞄の底がまた丸くなる。
石の上には何も無かった。手袋も鈴も、昨日そこへ置いてきた。灯は石を見た。トトはいない。鈴も無い。
「石の上に、トトがいない」
「朝、丘へ戻った。持っていった奴がいる」
石の面に、丸い跡が一つ残っていた。鈴のあった場所になる。灯は指でその跡をなぞった。跡は乾いていて、まわりと同じ色をしていた。
立ち上がると、キリが袋の口を開けていた。
中から出したのは布の包みが一つ。平たくて、手のひらより少し大きい。
「持て」
灯は受け取った。重さは筆箱ほど。布の内側で、中身が少しだけ動いた。
「明日、これを預ける」
灯は包みを両手で持った。布は薄い。指で押すと、中の物の形が分かる。角が四つあって、上の面だけ平らになっていた。持っていると、布の内側が手のひらの熱でぬるくなる。ぬるくなっても、中の物は冷たいままだった。
持ったまま、地下の階段のほうへ歩き出した。四つ角の石の上に、日が横から当たっていた。日の側だけが明るい。影の側は色が濃かった。明るい側と暗い側の境目が、灯の歩く先で少しずつ動いていった。




