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レポ 落とし物の街  作者: 智珠
第一巻 わすれもの

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第012話 トト

 八月七日。地下の階段は乾いていた。


 三つ目の電球が点いていた。昨日は消えていた場所になる。灯はその下で足を止めて、上を見た。かさの中の虫は減っていない。新しいのが一つ増えていた。


 窓口に祖母はいなかった。届出票の束が机の端にあって、判はその上に伏せて置いてあった。束の厚みは灯の指二本ぶん。上の三枚だけ、角が同じ向きへ折れていた。判の柄の木が、握るところだけ色が濃い。灯は触らずに通った。


 棚の傘は九本のまま。下から二段目の空きも同じ場所だった。


 扉は閉まっていた。押すと下の縁が石に当たって、途中で一度止まる。灯は肩を入れて抜けた。


 外は晴れていた。


 日は塀の上から少し入っていて、道の右半分だけが明るい。灯は明るいほうを歩いた。行きは右と、灯は決めている。


 四つ角の人出は少なかった。荷を持っている者がほとんどいない。歩く速さがそろっていて、誰も立ち止まらなかった。


 石の敷き方は昨日と同じに見えた。ただし真ん中の一枚だけ、目地の土が新しく詰めてある。灯はその上を踏んで通った。踏んだ音は、ほかの石より短く消えた。


 東の道の入口に、板の枠が二つ立てかけてあった。市の枠。三日後に組むのだと、灯は前に聞いていた。枠の上に布は積んでいなかった。


 枠は二つとも同じ高さで立てかけてあった。上の辺が塀の線とそろっている。


 枠の脚に、去年の縄が巻いたまま残っていた。色が抜けて、白い繊維が外へ出ている。触ると指に細かいものが付いた。灯は指を上着でぬぐって、それから枠の高さを目で測った。高さは灯の肩を少し越えた。


 キリの台の前に人はいなかった。


 台の脚の石は四つとも据わっていて、板の下に包みが二つ入っている。片方は縄が新しかった。


 板の上には物が並んでいた。昨日より数が増えて見えた。留め金も金物も無くて、代わりに見たことのない物が置いてあった。木の匙(さじ)。小さい鏡。鈴。片方だけの手袋。


 「板の上、昨日より増えてる」


 「市に出さない物だ。出しても値が付かん」


 板の端に、キリが肘を置いていた。帳面は開いたままで、上に炭の棒が転がっていた。


 横から人が一人来た。年寄りで、片手に布の袋を提げていた。袋の口から金物の端が出ていた。


 「いくらになる」


 「袋の中の物を全部出せ。数える」


 年寄りは袋の口を広げて、板の上へ傾けた。出てきたのは金物の輪が四つ。大きさは違っていて、四つとも縁が丸くなっている。キリは一つずつ持ち上げて、日に当てて、また置いた。


 「四つまとめてなら二つだ。それ以上は出ん」


 「三つで持ってきた」


 「二つだ。市が三日後だからな」


 年寄りは輪を袋へ戻しかけて、途中で手を止めた。それから、四つのうち一番大きいのだけを板の上へ残した。


 「これだけ」


 「一つになる。その一枚だけならな」


 年寄りは受け取って行った。歩きながら袋の口を結び直していて、結び目を作るのに二度やり直した。


 残った輪は、キリが板の下へ入れた。しまう前に一度日へ向けて、縁の丸いところを親指でこすっている。こすった先が明るくなった。光ったのは一か所だけ。


 包みの口を縛る時、キリは縄を二重にしてから端を下へ引いた。名札小路で見た結び方と同じになる。


 「縁の丸いのは値が落ちる。使ったぶんだ」


 言っただけで、キリは輪を包みの中へ落とした。落ちる時に、包みの中でほかの金物へ当てた。当たった数は二度。


 灯はその背中が塀の角へ入るまで目で追った。


 それから、板の上を見た。


 四つのほかにも物はあった。糸の巻いてある芯が三つ。留め具の外れた帯。柄の折れた櫛(くし)。どれも板の右の端に寄せてあって、四つのほうだけが真ん中に置いてある。


 手袋は色が抜けていて、指の先が二本だけ濃い。使っていた側が濃くなるのだと、灯は思った。思ってから、自分の上履きのかかとを思い出した。あれも同じところだけ色が違っていた。


 台の向こうの塀に、朝の日が当たっていた。当たっている高さは灯の腰より少し上。塀の下のほうはまだ湿った色で、触ると冷たい。灯は触ってから、手のひらを上着の裾でぬぐった。


 板から匂いが立っていた。油と、乾いた木と、それに古い布が混ざっている。昨日の板にこの匂いは無かった。


 「この手袋がいい」


 「三つだ。手袋は片方でも布は布だからな」


 灯は次を指した。木の匙。柄の途中に割れが入っていて、割れは布で巻いて留めてある。


 「柄が割れてる。それでも二つは付く」


 鏡は手のひらの半分ほどだった。表が曇っていて、顔を近づけても輪郭しか映らなかった。


 「曇ってても縁が無事だ。三つになる」


 鏡の縁に、細かい傷が輪になって入っていた。灯は縁を指の腹でなぞった。傷は片側だけに寄っている。ふく時にいつも同じ向きへ動かしていたのだと分かった。


 鈴は一番小さかった。金物の色が黒く、上の輪が一つ欠けている。灯は指で挟んで振る。何も鳴らなかった。


 中で何かが動く手ごたえはあった。動くのに音が出ない。灯はもう一度振って、耳へ近づけて、それからもう一度振った。


 「鳴らんから一つだ。鳴れば三つは付いた」


 四つを並べると、手袋だけが平たかった。ほかの三つは厚みがあって板の上で影を作る。手袋は影が細くて、指の部分だけが浮いていた。


 灯は手袋を裏返した。内側の毛は外側より色が濃く、親指の付け根に薄いところが一つある。そこだけ毛が寝ていた。誰かの指がいつも当たっていた場所になる。


 灯は四つを板の端へ寄せた。それから、キリのほうを見ずに言った。


 「この四つ、全部もらう」


 キリは炭の棒を取った。帳面へ数を書いて、その下に線を引く。


 「締めて九つだ。残りは二つになる」


 灯は板の上の四つを、両手ですくって胸のところまで持ち上げた。鏡が一番重かった。手袋は軽いのに、かさばって指の間から落ちそうになる。灯は一度置き直して、鏡を下、匙を上に組んだ。


 「値を聞かずに指したな」


 「うん。分かってて買った」


 帳面が一度閉じて、また開いた。閉じたのも開いたのもキリの手になる。開いたところに指を置いて、そのまま動かさなかった。


 「あんたのぶんだ。俺は止めん」


 通りの向こうを、荷を担いだ者が二人続けて通った。台のほうは見ていない。三人目は見たが、板の真ん中が空いているのを見て、そのまま行った。


 灯は板の真ん中を見た。四つを寄せたあとに、空いた四角が四つ残った。どの底にも、物の跡が薄く残っていた。丸いのが一つ、細長いのが二つ。


 灯は鞄(かばん)の口を開けた。四つを入れると、鞄の底が丸くなって、肩へ掛けた時に腰の骨へ当たった。歩く間ずっと当たり続けた。


 持って帰れないことは知っている。


 灯は肩のひもを短くした。短くすると鞄が腰の上へ上がって、当たる場所が骨から外れた。歩くと今度は背中へ当たる。灯は元へ戻した。


 「置いていくなら板の下で預かる」


 「持ってく。今日は持って歩く」


 キリはそれ以上言わなかった。帳面の上に手のひらを伏せて、その手のまま台の向こうへ回った。それから、板の下の包みを片方だけ引き出して、縄の結び目を確かめた。そのまま、また押し込んだ。


 灯は指を折って日を数えた。八月七日。棚の傘が処分に出るまで、あと二十四日ある。


 二十四という数を、灯は口の中で置き直した。指はもう折っていない。二十四は、口の中でなら置ける。数え終えてから、鞄の重さを肩で受け直した。


 昨日の壁の線を、灯は思い出した。あの線は指の幅ぶんずつ上がっていた。ここの棚の傘は九本のまま動かない。同じ日の内側で、片方だけが速い。


 「明日も台を出すの」


 「来るなら朝だ。昼には台を畳む」


 灯は道の先を見た。塀の切れたところから、丘の斜面が少しだけ見えた。


 「丘の風は、今日はどっち」


 「北だ。昼までは変わらん」


 板の上の空いた四角が、指で一つずつ埋め直されていく。埋めるのは別の物ではなくて、残った物を寄せて詰めるやり方だった。空いた場所が端へ集まっていった。詰め終わった右の端に、四角が三つ。


 灯は歩き出した。


 三歩ぶん行ってから、後ろで板の縁を打つ音がした。振り返ると、キリは帳面へ何か書き足していた。書く手は速い。書き終えて、炭の棒を板の上へ転がした。


 転がった棒は、板の縁で止まった。そこに前の炭の跡があって、棒はその跡へちょうど収まっている。毎日同じ場所で止まっているのだと、灯は見て分かった。


 灯は聞かずに北の道へ入った。


 *


 道は四つ角を出てすぐに上りになっていた。


 石の敷き方が四つ角のあたりと違う。目地が広くて、間の土が乾いて白い。灯は歩きながら、鞄の底が腰へ当たる間隔を覚えた。四歩に一度。同じ間隔で当たり続けた。


 道の両側に家は無い。塀だけが続いていて、塀の上に片方だけの物が並べてあった。靴が一つ。眼鏡が一つ。長靴は子供のものだった。どれも右か左かのどちらかだけになる。


 匂いが変わった。


 毛の匂いだった。学校の冬の教室で、ぬれた手袋を暖房の上に置いた時の匂いに近い。灯は口を閉じて鼻だけで息をした。上るほど濃くなった。


 坂を折れると、丘が開けた。


 斜面が全部動いていた。風は北から来ていて、手袋の指が一斉に同じ向きへ倒れて、戻る。倒れて戻るまでの間が、どの手袋も同じだった。


 灯は立ち止まった。十二日前と同じ場所に立って、同じものを見ている。数える単位が分からないことも、あの時と同じだった。


 「おねえさん、それ、どこで拾ったの。ねえ、どこで」


 声は足元から来た。


 灯は下を見た。斜面の端の、道に一番近いところに、灰色の片手袋が一つ落ちている。親指の付け根が破れていて、そこから中の綿が出ていた。


 「拾ってない。買った」


 「お金を払って手袋を買うんだね。おねえさん、変わってるって言われない?」


 手袋は動いていなかった。指も、親指から出た綿も、そのまま。声だけが出ていた。灯は鞄の口を開けて、買った手袋を出した。


 「これを見て。買ったやつ」


 「近づけて。もっと。三本目の内側。あ、違う。うちのは三本目にこぶがあるんだよ。おねえさん、こぶって分かる?」


 「分かる。糸のこぶでしょ」


 「じゃあ違うって分かるよね。ねえ、その手袋、どこの丘から来たの」


 灯は口を閉じたままにした。三つ目の問い。答えの代わりに、手袋を鞄へ戻した。


 「僕はトト。おねえさんは」


 「灯。あかりって書く」


 「じゃあおねえさんでいいや。座ってよ。風が下から来るんだ。知ってた?」


 灯は座らずにいた。立ったまま斜面を端から端まで見た。手袋は前より増えているようにも、減っているようにも見える。灯は目の高さで一列だけ数えようとして、途中でやめた。


 「三百年」


 「なに、それ」


 「探してるんだ、僕。相方を。三百年」


 トトは指を一本だけ立てた。立ったのは親指で、破れているほうになる。綿が指の動きに合わせて外へ出た。


 「三百年って、長いね」


 「そうかなあ。おねえさんは何年生きてるの」


 「十二。この夏で十二になった」


 「じゃあ二十五回ぶんだ。すごいね、僕。ねえ、すごくない?」


 灯は返事をせずに、斜面の音を聞いていた。


 風が向きを変えずに吹き続けている。斜面の音は途切れない。布と布がこすれる音が、上から下へ順に降りてきて、下まで来ると止まった。それからまた上で始まる。


 「トトは消えないの」


 「半分だからね。消えないんだ。数にも入らない。おねえさん、片方だけの物を数えたことある?」


 「そんなことはしてない」


 「でしょ。ねえ、うまいこと言ったと思わない?」


 目は斜面へ戻った。


 灯は塀の上の並びを頭の中でもう一度通した。靴が一つ、眼鏡が一つ、長靴が一つ。


 「相方は、なんで丘にいないの」


 「三百年ここにいるけど、会ってないよ。おねえさん、たまに変なこと聞くね」


 灯は斜面の下のほうを見た。道に近い側は、手袋の並びが疎になっていた。上へ行くほど詰まって、頂の近くでは重なって見えた。


 「上のほうは古いの」


 「そうだよ。風が来ても下の三列しか倒れない。おねえさん、三列だけ数えられる?」


 灯は数えなかった。代わりに、倒れて戻るまでの間を数えた。四つ数える間に一度倒れる。次も四つだった。その次は五つで、また四つに戻る。


 「風、たまに遅い」


 「上で一度引っかかるんだ。何があるかは知らない。おねえさん、見に行く?」


 「上は遠いからやめとく」


 「そうだよね。行かないから分からないままなんだ。三百年ずっと。ねえ、おかしくない?」


 トトの声は途切れなかった。切れ目の無い一本の声。息を継ぐところが無い。人がしゃべる時の、息を吸うために空く間が一度も入らなかった。灯は自分の息のほうが先に足りなくなるのに気付いて、口で吸い直した。


 しゃべり続けている間、指は動かなかった。動くのは声だけ。声の出どころは指でも手首でもなかった。灯は目で場所を探して、探すのをやめた。


 分からないものが一つ増えた。


 斜面の色は一色ではなかった。灰と茶と、色の抜けて白くなったもの。白いものだけが上のほうに寄っている。日に当たった年数の差になる。


 「相方って、どんなの」


 「灰色。左のほう。ううん、右かな。ねえ、僕はどっち」


 灯はしゃがんだ。トトの親指の向きと、自分の左手を並べた。親指は外へ出ている。


 「トトは左になる」


 「じゃあ相方は右だ。右のを見たら教えてね。おねえさん、右のを見分けられる?」


 「右のなら見て分かる」


 「ほんとに見分けられるの。すごいなあ。ねえ、今この丘に右のは何枚ある?」


 灯は斜面を見た。見て、口を開けて、閉じた。


 トトは待たなかった。


 「分からないよね。三百年いても分からないんだ。ねえ、これって僕が勝ったことになる?」


 灯は笑った。それから、口の中に息が残っているのに気付いて、それを鼻から出した。


 腹が減った。家を出る前に何も食べていない。


 鞄の底の重さが、肩から腰へ移っていた。灯は座って、鞄を膝の上へ下ろした。丘の土は乾いていて、座ったところが日で温まっている。手のひらを付けると、上履きの中の温かさに近かった。指を土へ入れると、上のほうだけが温かい。その下は冷たいままになる。灯は指を出して、土を払った。払った先の斜面で、手袋が風のたびに持ち上がる。順はいつも下からだった。


 「あんた、勝ち負けあるの」


 「あるよ。今ので二勝目。ねえ、一勝目がいつか聞かない?」


 「聞かない」


 「聞いてよ。一勝目は二百年前。似た形のを見つけて、近くまで行って、違ったんだ。でも見つけたことは見つけたでしょ。ねえ、勝ちだよね?」


 「負けだと思う」


 「そこは勝ちにしてよ」


 灯はもう一度笑った。今度は声が出た。


 「その鞄、重そうだね。何が入ってるの。ねえ、開けて見せてよ」


 「もう出した。手袋だけ」


 「そうだった。手袋だけだったね。ねえ、ほかのは何」


 灯は鞄から三つを出して、膝の上へ並べた。木の匙、鏡、鈴。並べてから、並べたことに自分で気付いて、手で崩した。三つは膝の上で離れて止まった。


 「鏡は使えないよ。曇ってるもん。おねえさん、それで顔が見えるの」


 「顔は映らないから見ない」


 「買ったのに見ないの。ねえ、それって損じゃない?」


 灯は鏡をひっくり返してみた。裏は木で、真ん中に穴が一つ開いている。ひもを通す穴。穴の縁が丸くなっていて、何かが長く通っていた跡が残っていた。


 「これ、下げてたんだ」


 「ひもを通してたってことだね。ねえ、誰が下げてたと思う?」


 灯は答えずにいた。穴の縁を指の腹でなぞってから、鏡を膝の上へ戻した。


 風が一度強くなった。斜面の上のほうまで倒れて、そこで音が変わった。下の三列は布のこすれる音で、上のほうは乾いた紙をめくる音に近い。同じ布なのに、古いほうが高い音を出した。


 灯は上を見た。頂の近くは動きが遅れて始まって、遅れて止まった。


 「上、遅れてる」


 「いつもそうなんだ。おねえさん、どうしてだと思う?」


 「上のほうが重いから」


 「そうかなあ。でも僕、それ気に入った。ねえ、今度そう言ってもいい?」


 「好きに言っていいよ」


 トトは黙らなかった。灯が黙っている間も、相方の話へ戻り続けた。糸のこぶの位置。編み方の目の粗さ。三百年のうちに二度だけ、似ているのを見つけたこと。二度とも違ったこと。


 「二度目のは惜しかったんだ。こぶもあったし色も同じ。でも右じゃなかった。おねえさん、左は右に入る?」


 「右の手は左には入らない」


 「三日かけて試したんだ、僕。ねえ、無駄だったと思う?」


 灯は膝の土へ目を落とした。指で押すと、押したところだけ色が濃くなって、離すと戻った。


 灯は膝の上の三つを鞄へ戻した。戻す順は出した順の逆にした。鏡が下、匙が上になる。


 匙の柄の割れを留めている布は、端がほつれていた。ほつれた糸が二本、外へ出ていた。灯はそれを指でねじった。ねじると一本になって、離すとまた二本に戻った。ねじっている間だけ、一本。


 「おねえさんは何を探してるの」


 ねじる手が止まった。


 「探してない。歩いてるだけ」


 「ここまで来たのに探してないの。ねえ、何しに来たことになるの」


 灯は膝を伸ばして立った。土が膝の裏に付いていて、払うと乾いた粉になって落ちた。


 *


 下りは上りより速かった。


 石の目地の広いところで足が滑る。灯は歩幅を狭くした。狭くすると鞄の当たる間隔が変わって、三歩に一度になった。


 鞄の口からトトの指が二本出ていた。出したのはトト自身になる。


 「持っていってと言われた覚えは無い」


 「言ったよ。おねえさんが聞いてなかっただけ。ねえ、聞いてた?」


 灯は聞いていた。断らなかっただけになる。


 塀の上の物は行きと同じ並びだった。靴。眼鏡。子供の長靴。長靴だけ、行きより向きが変わっていた。灯は立ち止まって見た。つま先が道のほうを向いていた。


 長靴の内側に、乾いた泥が線になって残っていた。線は二本。一本は上、一本は下。上の線のほうが濃い。


 「これ、動いた」


 「動くよ。風が入るからね。おねえさん、入らない日もあるって知ってた?」


 「そういう日があるのは初耳」


 「僕も知らない。誰も教えてくれないんだ。ねえ、教えてくれる人っていると思う?」


 坂の途中で、道の端に人が座っていた。


 膝の上に片方だけの靴を置いて、底の泥を指ではがしている。はがした泥は道の外へ落としていた。灯が通っても顔を上げなかった。


 「あの人、上へ行くの」


 「決まってるんだ。靴は上の段に置くってね。ねえ、誰が決めたと思う?」


 「そこまでは知らない」


 「でもみんな守ってるんだ。おねえさん、それって変じゃない?」


 灯は振り返った。膝の上の靴は、さっきと同じ角度。人はまだ同じ姿勢で座っていた。泥をはがす手だけが動いていた。


 道が下りきると、塀が切れて四つ角が見えた。


 人出は朝より増えていた。荷を持っている者が半分。残りは手ぶらで、同じ向きへ歩いていた。灯はその流れの端を通った。


 「おねえさん」


 「なに、急に」


 「あんた、前に来た人と同じ顔してるね」


 灯は歩く速さを変えなかった。変えないまま、鞄の口のほうへ顔を向けた。


 「誰のこと」


 「名前は覚えてないや。丘の下で立ってた人。三つ持ち上げて三つとも置いて、帰っちゃった。ねえ、変な人だと思わない?」


 「それ、いつの話」


 「ずっと前だよ。ずっと前。おねえさん、ずっと前っていつだと思う?」


 灯は答えなかった。


 名前の付かない一行が一つ。


 トトはもう相方の話へ戻っていた。糸のこぶの話に戻って、それから編んだ人の下手さの話になった。灯は聞きながら、頭の中でさっきの一行だけを取り出して置いた。


 キリの台は朝と同じ場所にあった。脚の石も、板の向きも、朝のまま。


 板の上は朝より減っていた。糸の芯が一つと、帯だけになっていた。櫛は無い。


 「櫛、売れたの」


 「櫛は出た。三つで持ってったぞ」


 帳面を開いたまま、キリが灯の鞄を見た。見てから、鞄の口の指を見た。


 「その口から出てるのは何だ」


 「トト。丘で会った」


 「はじめまして。あなたが値をつける人。ねえ、僕はいくらになるの」


 キリは板の上へ手を伸ばして、鞄の口から出ている指を一度だけ挟んだ。挟んで、放した。


 「片方だけなら一つだ。組にならん物は安い」


 「少なくない? ねえ、おねえさんも少ないと思わない?」


 「たしかに安すぎる」


 「片方だからな。組なら六つだ」


 キリはそれだけ言って、帳面へ櫛の数を書いた。それから、線を一本引いた。線の下に何も書かなかった。


 灯は鞄の口を広げて、中の二つを板の上へ出した。木の匙と鏡。手袋はトトの下にあるので、そのままにした。鈴も鞄へ残した。


 二つは板の右の端に並んだ。朝、糸の芯や帯が寄せてあった側になる。


 「持って帰れない」


 「板の裏で前にも言ったな」


 「じゃあ、ここに置いてく」


 キリは二つを見た。見てから、板の下へ手を入れて、包みではないほうの空いたところを指で示した。石と板の間に、手のひら二つぶんの隙間がある。


 灯は二つを一つずつそこへ入れた。鏡を奥、匙を手前に置いた。それから、指で位置を直した。直しても、外から見える場所ではない。


 「印は付けなくていいの」


 「要らん。場所はあんたが覚えとけ」


 灯は隙間の前の石を見た。四つの脚の石のうち、右の手前になる。石の上に細い傷が二本あって、その二本の間に指を置いた。その形を、灯は覚えた。


 傷の一本は長く、一本は短い。長いほうが道の側を向いている。灯は覚えた形を頭の中でもう一度なぞって、なぞった向きが合っているのを確かめた。


 名札小路の板の裏も、こうして覚えた。右のほう、脚の石から二つ目。


 鞄に残ったのは手袋と鈴。鞄は軽くなって、肩へ掛けても腰の骨に当たらなくなった。当たらなくなると、歩き方が朝へ戻った。朝と同じ歩幅。


 キリの帳面が開いたままだった。


 灯は板の横から見た。紙は縦に三つへ区切ってある。左の列に数、真ん中に短い字、右は空いていた。今日の行は上から四つ目で、右の空いた場所に丸が一つ打ってある。丸の中はまた空だった。


 「この丸、なに」


 「明日の欄だ。今はまだ何も入っとらん」


 右の列の丸は、上へ二つ戻ったところにも打ってあった。その二つは中が埋まっていた。埋まっているのは数ではなくて、短い横棒だった。


 灯は棒の長さを目で比べた。上のほうが長い。下のほうは半分ほど。


 帳面は閉じなかった。灯が見ている間、キリはそのままにした。


 板の上の空いた場所へ、キリが糸の芯を一つ移した。移した先は真ん中に近い。灯は移った先を見てから、空いたほうの四角を見た。四角の底の跡は、まだ消えていない。


 灯は肩のひもを持ち直した。


 残りは二つ。朝は十一だった。数は減っていて、鞄の中の四つは増えている。


 トトはまだしゃべっていた。組なら六つという数のほうを気に入って、その数を三度言い直した。三度目は自分で笑っていた。


 灯は口を動かさずにいた。動かさないまま、鞄の口の指を人差し指で一度押した。


 「相方が見つかったら、どうするの」


 トトの声が止まった。


 止まったのは、灯がこの丘へ来てから初めてになる。指が二本とも鞄の口の縁で動かなくなった。風は来ていない。


 「それは、考えたことない」


 灯はそこで待つ。


 トトは続きを言わない。指も動かない。鞄の口の縁で、二本のまま。灯は聞き直さなかった。


 しばらくして、トトはまたしゃべりはじめた。今度は糸のこぶの話ではなくて、丘の上の引っかかるところの話になった。話は途中で切れて、また相方へ戻った。戻る先はいつも同じ場所。


 鞄の口から先に指。それから灯がトトを出した。


 台の脚の石の上へ、指の側を北へ向けて置いた。置くと、丘の斜面がちょうど正面になる。


 「そこなら、丘が見える」


 「いい場所だね、ここ。ねえ、待っててもいい?」


 「うん。そこにいて」


 「じゃあ待ってる。右のが通ったら呼び止めるよ。おねえさん、明日も来る?」


 灯はキリのほうを見た。


 キリが炭の棒を置いた。


 「明日は、この街を出る。朝の早いうちだ」


 灯はキリを見た。キリは板の上を見たままで、空いた四角を指で一つ埋め直していた。埋め終わってから、板の下の隙間へ目を落とした。灯の三つが入っている側になる。


 「戻ったら取りに来い。動かさん」


 台の向こうの塀に、日はもう当たっていない。朝あった明るい帯が、塀の上のほうへ細く残るだけ。


 灯は石の上のトトを見た。指が二本、北へ向いて立っている。風はまだ来ていない。


 石の面は日を受けて温かくなっていた。灯は手のひらを一度そこへ置いてみた。手の下だけが、上着の内側と同じ温さになる。手を離すと、置いた形が湿って残った。形は見ている間に薄くなって、消えた。


 トトは何も言わなかった。北を向いたままでいる。


 丘のほうから音が降りてきた。


 布と布のこすれる音が、坂の上から順に下りてくる。四つ角まで来ると、人の足の音に混ざって聞こえなくなった。灯は鞄の中の鈴を握って、一度だけ振った。


 鈴は鳴らない。


 握った手のひらに、金物の冷たさだけが残る。灯は手を開いた。鈴の下に穴が一つ。そこから中の玉が半分だけ見えていた。玉は穴の縁に引っかかって止まっていた。


 灯は鈴を石の上へ移した。トトの隣になる。


 風が来た。北から来て、丘の下から順に上がっていった。四つ角の枠の板が短く鳴った。

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