第011話 忘れられ横丁
天井の電球が四つ並んでいる。
売店の前から窓口までの間で、手前から三つ目だけが消えていた。そこだけ床の色が濃く見えた。灯は消えている下で一度立ち止まって、上を見上げた。かさの中に虫がたまっていた。
窓口の祖母は、届出票の束に判を押していた。判はどの紙も右下へ落ちて、位置が一枚もずれない。灯が横を通っても、押す間は変わらなかった。
棚の傘は九本。四日前は十一本だった。下から二段目の、左から三番目と六番目が空いている。空いた両側の傘が、そろって内側へ倒れかけていた。
四日ぶりの扉は、押す前から少し開いていた。灯は隙間へ指を入れて引き、肩を入れて、体を横にして抜けた。
外は曇っていた。
空の白さは均一だった。日の位置が読めない。時刻を測る手掛かりが一つも無かった。灯は自分の足元を見た。足の下に濃いところが無かった。
四つ角の人出はふだんどおりだった。荷を担いだ者の足が遅く、手ぶらの者がその横を追い越していく。
キリの台の前に、人が三人。
列の頭の人は札を持っていた。二人目は持っていなかった。三人目は板そのものを抱えていて、まだ穴も開いていなかった。
「来た。今日は三人だ」
キリは板の向こうに立っていた。板の上の物は、いつもより減っていた。留め金が一つ。金物が三枚。あとは空いた四角が並んでいた。
「品物、減ってる」
「四日後が市だ。市の前は出さない」
「市までためとくの」
「そうだ。市の日に一度に出すほうが値が上がる」
灯は空いた四角のほうへ目を移した。日焼けの薄い形が、物の代わりに残っている。四角の数は七つ。
「板だけの人がいる」
「あれは先に穴を開けさせる。俺が開ける。開けたぶんも値になる」
灯は鞄の口を開けて、筆箱を取り出した。今日削ってきた鉛筆は一本きり。芯は指の腹で押すとわずかに沈んだ。
一人目に書いた。二文字。木の目は横で、字は素直に乗った。返すと、その人は札を目の高さまで上げて、下ろした。
二人目に札は無い。
「札は」
「失くした。名前だけ書いてもらえるか」
「書く物が無いと書けない」
「じゃあ、そっちの紙に」
灯は鞄からノートを出した。表紙に指を掛けたところで、手が止まった。
このノートには名前が並んでいた。破って渡す紙ではない。灯は最後の紙に指を掛ける。掛けたまま、指の腹で紙の端をなぞって、表紙を閉じた。
「紙は渡せない。板を持ってきて」
「板か」
「板。広場の、市の日に出る」
その人は何も言わずに離れた。行きぎわに、灯のノートを一度見た。
三人目は名を口で言った。灯はそれを二度復唱した。
三人目の板は、まだ木の色が白かった。柊の机から出てきたボルトの、削り口の色に近い。灯は板を手前へ引いた。
「穴、どこに開けるの」
「上の真ん中だ。端に寄せると割れる」
キリは錐を出して、板の上へ当てた。回す手が速い。開いた穴に指を入れて、縁を親指でこすって、そこからひもを通した。
灯は名前を書いた。四文字。この街で書いた中で一番長い。
「さっきの人、書けなかった」
「無理だ。物が無いのに名前だけ書く仕事は無い」
「あの人、どうするの」
「板を探す。四つ角で余りを持ってる奴がいる」
灯はノートを鞄へ戻した。戻す時に、表紙の裏が一度開いた。白いままの紙が見えて、灯はそれをすぐ閉じた。
三人が去ってから、キリは板の下を開けた。
「あんたのぶんは、輪で十三だ」
灯は指を二本立てて、それから手のひらを開いた。
「今日で二つ増えた」
「二人ぶんだ。板を持ってこなかった奴は数に入らない」
「十三で何が買える」
「板が四枚。縄なら六本。食い物なら一日ぶん」
「食い物、あるの」
「市の日に出る。あんたは食えないが」
「食べたら、どうなるの」
「知らない。試した奴の話を聞いたことがない」
灯は口をつぐんだ。そのまま鞄の水筒に手を当てた。中はまだ半分残っている。
灯は数を口の中で置いた。六日前が一つ。四日前が四つ。三日前の市で六つ。今日が二つ。足すと十三。
「まだ、頼まれてないのがある」
もう一枚が板の下から出た。板ではなく、札だった。古い札で、字は全部消えていた。表も裏も木の色だけ。
「これ、誰の」
「頼んだ奴は名を言わなかった。持ってけと言って置いていった」
「名前が分からないのに、どう書くの」
「書けない。だから断った。だが札は置いていった」
灯は札を裏返した。裏の右下に、爪で付けたような細い傷が三本あった。傷は同じ長さで、間隔もそろっていた。
「傷、あるよ」
キリは札を受け取って、傷を日に向けた。曇っているので、光は返らない。代わりに、板の白いところへ載せた。
「三本だ。数えて付けてある」
「それ、意味あるの」
「付けた奴が知ってる。俺は知らない」
「三本って、何かの数」
「知らない。だが、この街で三本は多い」
「三本は多いの」
「三本付けるのは、二本で持たなかった時だ」
札は灯の手へ戻ってきた。受け取る時、傷の面を上にした。
「その札、どこから来たの」
キリは答える前に、台の上の物を一つ動かす。その手を戻してから言った。
「忘れられ横丁だ」
「行ける場所」
「行ける。行くのは勧めない」
「なんで勧めないの」
「あそこは一日が長い。俺の一日と、あそこの一日が違う」
灯は札を鞄へ入れた。入れる時、傷の面を下にした。
「入れるのか」
「入れる。返しに行く」
「返す先が分からないだろう」
「札の場所は分かるでしょ。掛かってた釘があるはず」
キリは板の縁を指で二度打った。それから袋の石を一つ出して、板の上に載せた。
「その札、置いていった人はどんな人」
「背は俺より低い。手が荒れていた」
「男の人」
「分からない。布を被っていた」
「顔、見てないんだ」
「見ない。見ると、覚える。覚えると、俺は次に困る」
灯は札を鞄の内側へ入れ直す。一番深いところまで押し込んだ。
二つ目の包みが板の下から出て、すぐ戻った。中は見せない。
「連れていく。入口までだ」
「そこから先はどうするの」
「俺は入らない」
「札を持っていくのは、あんたが決めたことになる」
「うん。あたしが決めた」
「返ってこなくても、俺は知らない」
「返ってくるよ。掛けるだけだもん」
キリは板の下から、縄を一本出した。灯の腕の長さの三倍ほど。
「持て。使い道は言わない」
「何に使うか分かんないのに」
「持つ。持っていて要らなければ、返せ」
灯は縄を受け取った。手のひらに毛羽が残る。
「これ、いくら」
「二つだ。あんたのぶんから引く」
「まだ使ってないのに」
「持った時から使ってることになる。返しても戻らない」
灯は十三から二つ引いた。残りは十一。指は使わなかった。
灯は縄を鞄のひもへ結んだ。結び方は、キリの置く結びを真似た。端が二本とも下を向いた。結び目は小さくまとまった。
二人は西へ折れた。名札小路の角を過ぎて、その先の三つ目をもう一度北へ折れる。道は途中から下りになった。石の敷き方が粗くなり、目地の土が乾いて浮いていた。
掃いた跡が無かった。
灯は足を止めて、石の上を見た。目地に細かい物が挟まったままになっていた。木の切れ端。糸くず。金物の粉。
「掃きの人、ここは来ないの」
「掃いても、掃いた先が長すぎる」
道の先に、上のほうが狭くなった場所が見えた。門ではない。両側の建物の壁が上のほうで近づき、その間に横木が一本渡してあった。横木は片方だけ落ちかけていた。
下り坂の途中に、石が一つ置いてあった。
道の真ん中で、他の石より大きかった。踏まれた跡が無く、上に土が積もっていた。灯はそれをまたいだ。またいでから、キリを見た。
「あれ、何」
「印だ。ここから先は掃かない」
「誰が置いたの」
「知らない。俺が来た時にはあった」
道はその先でもう一度曲がった。角を抜けると、風が止まる。風は道の入口から吹き込んでいて、曲がった先までは来ていなかった。灯は髪の先が下りるのを、目の端で見た。
キリはその手前で止まった。
「ここまでだ」
「もう着いたの」
「そうだ。俺は待つ。日が一つ動く前に出てこい」
「日が出てない」
「出てなくても動く。壁の色で見ろ」
灯は壁を見た。灰色の壁で、下のほうが少し濃かった。濃さの境目が、腰の高さのところに横に走っていた。
「あの線が上がったら」
「上がりきる前に出ろ」
「出てこなかったら」
「迎えには行かない。俺は入らないと言った」
「言ったけど」
「だから入らない」
キリは壁にもたれて、腕を組んだ。片足の裏が壁へ付いた。
「行け。壁の色を見ろ」
「横木、落ちかけてる」
「落ちない。あれで五年もってる」
「どっちで数えた五年」
キリは灯を見た。見てから、口の端を少し動かした。
「その五年は売り物にならない。だから数えない」
灯は首をすくめて、木の棒の下をくぐった。
*
横丁には音が無い。
四つ角からも、道からも、ここまでは届いていなかった。灯は一度立ち止まって、自分の足の運びだけを聞いた。
道は狭かった。両側に戸が並んでいて、戸はどれも開いている。
閉まっている戸が一つも無い。灯は歩きながら数えた。片側で十六、向かいで十八。三十四になる。
空気も違った。
匂いがしていた。土と、乾いた木と、もう一つ。もう一つは灯の知っている匂いで、学校の理科室の戸棚を開けた時のものに近い。古い紙と、薄い薬。灯は鼻から下を袖で押さえた。押さえても、匂いは袖の内側に残った。
壁に手を当てた。
石は冷たくなかった。温かくもない。手を当てても、手のひらの温度が変わらなかった。
中を見た。
どの家も、床に物が落ちていた。一軒目は布の袋。二軒目は木の器が二つ。四軒目は靴が片方。何も無い家も混じっていた。
落ちている場所が、どれも同じだった。部屋の真ん中で、壁ぎわではない。灯は物の在る家を三つ確かめて、四つ目でも同じなのを見た。
八軒目に椅子が一つあった。椅子は倒れておらず、四本の脚で立っている。座る面の真ん中が少しへこんでいた。
灯はへこみに指を当てた。指の先が冷たくなって、手を引いた。引いた指を上着の裾でこすった。冷たさは、こすってもすぐには取れなかった。
へこみは真ん中だけ深く、縁のほうへ行くほど浅い。木がそこだけ薄くなっていた。灯は椅子の脚も見た。四本とも床に跡がついていて、跡の中に土が入っていなかった。跡の深さは四つとも同じだった。灯は一つずつ指の腹で確かめた。
人はいない。
灯は声を出さなかった。
戸の横に釘。木に打ち込んであった。
灯は札のある家を数えた。二十二。残りの十二は、釘だけになっている。
札は全部、字が薄れていた。近くで見ないと、木の色と区別がつかなかった。
指を近づけると、木がひやりとした。日の当たらない側の戸ほど、その冷たさが長く残った。灯は三枚目の戸まで指を当てて歩いた。
灯は一枚ずつ見て歩いた。近づいて、木の目の間を見る。黒いものが残っている札は少なかった。ほとんどは木の色だけになっている。読める形のものを探した。
十枚まで見て、灯は壁を振り返った。
線が上がっていた。入った時は腰の高さで、今は腰より指一本ぶん上へ来ていた。灯は指を当てて確かめた。一本。
十枚数える間に、指一本。灯はその幅を、指を当てたまま二度確かめた。
灯は鞄のひもへ目をやった。キリの縄が結んであった。もらった時は茶色だったのが、今は端のほうが白い。灯は端を指でつまんだ。つまんだところが少しほぐれた。
灯は残りを前より速く見た。ただし木の目に顔を寄せるぶんだけは、同じにした。
読めたのは三枚。十二枚目に一文字あって、上の横棒だけが残り、下が欠けている。十七枚目に二文字。二十枚目に三文字。
濃くはなかった。木の目の中に沈んで、遠くからでは分からなかった。目の位置を下げて、木の目の向きに合わせると出てきた。灯は三枚とも同じやり方で読んだ。
二枚目だけが少し前へ傾いていた。釘の頭が下を向いているらしい。灯は指で戻して、手を離した。札はまた同じだけ傾く。
三枚の字は、書いた人が違った。一枚目は線が太く、二枚目は細い。三枚目は払いが長い。
灯は三枚の並びを目で結んだ。三枚は道の同じ側に並んでいた。間の札は、どれも木の色だけになっている。
その先に、釘だけの戸が一つあった。灯はその釘の下で足を止めて、壁の色を見た。まわりより濃いところが、札の幅で残っていた。
札の読める三軒も、中を見た。一軒に丸めた紙が一つ。あとの二軒は、床に何も無かった。板の目が、そこだけまっすぐ通っていた。紙は日に焼けて茶色くなっていて、広げれば崩れそうに見えた。灯は広げなかった。
道の幅は、灯が両手を広げてもまだ余る。両側の戸の高さはそろっていて、どれも灯の背より頭一つぶん高い。灯は上げていた両手を下ろした。
もう一度、壁。
線は腰より指二本ぶん上へ来ていた。残り十二枚を見る間に、また一本。
灯は縄の端をもう一度見た。白いところが、指の幅ぶん増えている。灯は縄を鞄のひもへ巻き込んで、外へ出ないようにした。
巻き込んでも、端の白いところは戻らない。灯は鞄の口を閉じて、指の腹で結び目を押さえた。結び目のほうは固いままだった。
灯は数え直した。二度目も同じ。指の腹に付いた木のくずを、灯は袖ではなく手のひらでこすった。落ちずに、線になって伸びる。
読める札は、三枚しか無かった。
灯は線に沿って指を横に滑らせた。壁は乾いていて、指の先に細かいものが付く。指を合わせて落とした。
道の石を、灯は足で確かめてみた。
石は一つも動かなかった。目地の土は乾いていて、指で押すと粉になる。
乾いた土の匂いが、足を下ろす度に少し上がってきた。灯は靴の先で目地を一度こすった。細かいものが靴の縁に薄く付いた。
灯はそれを覚えた。鞄には手をやらなかった。
壁の一枚に、線が引いてある家があった。
戸の横の柱で、床から順に横線が引いてある。高さの違う線が六本。一番下と一番上の差は、灯の膝から胸までほど。線の横に字は無い。
六本の間は、下の四本が広く、上の二本が狭かった。狭いほうの二本は、指の幅ぶんしか離れていない。灯は上の二本へ指を当てる。指の腹が、両方にいっぺんに触れた。
灯は自分の背を柱に当ててみた。背中に、線の段が二つ触れた。上から二本目が、灯の頭の高さに来た。
当ててから、灯は柱を離れた。線の高さを指で覚えた。
入口からここまで、六十二歩。
帰りも同じだけかかる。その間ぶん、壁の線はまた上がった。
灯は数を頭に入れて、それきり鞄へは手を出さなかった。
入口のほうを一度見た。横木は遠い。ここから見ると、明るいところが縦に細く立っているだけだった。灯はその細さを指の幅で測った。指一本ぶん。日の色ではない。白い。
灯は鞄から、キリの札を出した。
裏の傷が三本。長さも間隔もそろっている。灯は横丁の札を順に見直して、裏に三本ある札を探した。裏まで見える札は少なかった。ひもを持ち上げて裏を返した。
十四枚目の裏に、傷が三本あった。
灯はキリの札と並べて見比べた。傷の間の幅は、二枚とも指の爪ほど。
この家だ。灯は入口から戸を数え直した。十七軒目になる。手前に、札の掛かっていない戸が三つあった。
灯は札の掛かっていた釘を見た。木の釘で、頭が丸い。丸みの一部が欠けていた。名札小路の釘とそっくりだ。誰が作ったのかは分からない。
釘の下の壁だけ、色が濃くなっていた。
メノの店の戸の横にも、そういう跡があった。あそこの釘には札が掛かっていない。
灯は戸の前に立った。中を見る。床の真ん中に、丸い木の物が落ちていた。手のひらに載る大きさで、上に細い溝が回っていた。溝は一周して、始まりのところで少しずれている。
灯は中へは入らなかった。
入らずに、釘に掛かっている札を外した。手に来る重さがほとんど無い。キリの持ってきた札と、手のひらで釣り合った。
二枚を並べて持つ。
字はどちらにも無い。裏の三本も、両方にあった。灯は二枚の縁を合わせてみた。木目の流れがつながった。
もとは一枚だ。
割れたのではない。切ってある。切り口はまっすぐで、指でなぞってもささくれが無かった。
合わせた縁を、灯は指でなぞった。段が無い。二枚のどちらが上でも下でもなく、平らに続いていた。
灯は二枚を合わせたまま日に向けた。木目の線が一本、切れ目のところで少しだけずれている。ずれの幅は髪の毛ほど。
なぜ切ったのかは分からない。
灯は片方を釘へ戻して、もう片方を鞄へ入れた。それから、戻したほうを見た。釘の上で、札は動かなかった。
もう一度外して、二枚とも鞄へ入れた。
*
後ろで石が鳴った。
灯は振り返った。
男が一人。そこに立っていた。背が高く、灰色の上着を着ていた。上着の裾が長く、膝の下まであった。手には布の袋。口が開いている。
男は灯を見なかった。灯の立っている家の中を見ていた。目の高さは戸口の上のほう。灯の頭より上を通っている。
「そこは終わっている。私が持っていく」
灯は答えなかった。
同じ言葉がもう一度来た。言い方も長さも前と変わらない。
「そこは終わっている。私が持っていく」
「聞こえてる」
「聞こえたなら退く。私は待たない」
灯は戸口から一歩下がった。そのぶんだけ、男が前へ出る。
男は戸口をまたいで中へ入った。床の真ん中の丸い物を、袋へ入れた。その前に、手のひらで一度包んだ。柊が石を袋へ入れる時と同じ手つきだった。
灯は札を二枚持ったまま立っていた。
男が入っていったのは、さっきまで灯が見ていた家。丸い木の物は、床の真ん中に落ちたままだった。それが袋に入るまでの間、灯は動かなかった。
「その物、どうするの」
「置き場へ運ぶ。運んだ先で数える」
「数えて、それから」
「置き場から先は無い」
袋の中で、物が一度沈んだ。男は口を開けたまま持っている。
「それは札だ。札は持っていかない」
男は袋の口を閉じないまま、次の家へ移っていく。二軒先の家に入って、また床の真ん中から一つ取った。
灯はついていった。
ついていく間、足元の石を見ないようにした。見ると、物の落ちている家の中まで目が行く。灯は前の男の背中だけを見て歩いた。上着の裾が、歩く度に同じ形で揺れた。
「これ、あなたが」
「私は回収する。記録に付ける」
「それ、どこに残るの」
「帳面がある。何を持ち出したかを書く」
男は歩きながら答えた。歩く速さは変わらない。
「毎日来るの」
「日によって違う。ここは長い」
「長いって、どのくらい」
「私の一日とは長さが違う」
「測ってないんだ」
「測る必要が無い」
灯は男の歩幅を目で測った。一歩が大きく、道の石を二つずつまたいでいく。灯は同じ速さで歩くために、三歩に一度早足を混ぜた。
混ぜているうちに、歩数が分からなくなった。
灯は数え直しをやめた。やめてから、代わりに戸の数を数えることにした。男は三軒へ入り、十七軒は戸の前を通り過ぎた。
「入らない家のほうが多い」
「日による」
「日によって違うの」
「前は逆だ。日ごとに動く」
男の袋の中で、物が重なって沈んでいた。重なりの下までは見えない。
「その袋、いっぱいになったらどうするの」
「空のと置き換える」
「置いた先は、どこ」
「ここから遠い場所だ」
男は袋の口を一度だけ握り直した。指が長い。爪は短く切ってある。手袋はしていなかった。
「触っても平気なの」
「私は読まない。持つだけだ」
灯は自分の指を一度だけ曲げて、すぐ開いた。
「その人たち、どこに行ったの」
男は足を止めた。初めて灯のほうへ顔が向く。目は灯の頭の上から下りてこない。
「通らない。帳面に行き先の欄は無い。ここは空だ」
「いたでしょ。札が掛かってた」
「札は掛かっていた。掛けた時の話だ」
灯は二枚の札を持ち直した。指の内側が、少し汗ばんでいた。
持ち直した時に、片方が手から滑った。落ちた札は石の上で音を立て、そこで動かなくなった。灯は拾い上げた。指の腹で土を払う。
その手つきを見てから、男は袋の口を持ち替えた。
男は次の家に入って、そこでは何も取らなかった。床の真ん中で一度しゃがんだ。しゃがんで、床の板を指で押している。沈まないのを確かめると、立ち上がった。
「そこも残ってるの」
「板が生きている。沈めば取る」
「板で分かるんだ」
「見れば分かる。板だけではない」
その家の床へ、灯は目を落とした。板の目が細かく、隙間が詰まっている。三軒目の床は板の間が開いていて、下の土が見えていた。
「三軒目のは、開いてた」
「あれは板が沈んだ」
袋を持ち直して、次へ移る。その速さは、来た時より少し落ちていた。
「名前を書きに来たのか」
「書きに来た。頼まれたから」
「頼んだ者はここにいない。帳面はそのままだ」
灯は札を見た。木の色だけの札で、書く場所はあった。鉛筆もある。手も空いている。
灯は鉛筆を出した。
筆箱の中の一本は、削ってあるほうが短くなっていた。六日前に十八か二十四と数えた残りが、まだ半分以上あった。灯は芯の先を親指で押した。黒い跡が指に付く。
札を膝に載せた。木の目は縦だった。
灯は書いた。
書けなかった。名前を知らない。灯は鉛筆の先を札に当てて、当てたまま止まった。
止めてから、鉛筆を離した。紙ではないので、点も残らない。
「あたしには書けない」
「書けない。名の無い札は帳面の外だ」
「名前が分かったら」
「帳面は閉じてある。増えても閉じたままだ」
「書いた後で閉じるの」
「閉じるのは書いた後。開くのは別の者だ」
「じゃあ、誰が開けるの」
返事は来なかった。返らないのはこれで二度目。灯はそれを数えた。
男は袋を担ぎ上げた。底が腰の骨に当たっている。
止まらずに、男は三軒先の家へ入っていく。
灯は追わなかった。足が出ない。
ずるい、と灯は思った。
そのすぐ後で、灯は歩き出した。男の入った戸口まで、自分で行く。
男の袋から、油の匂いが来た。薄いのに、鼻の奥のほうに残った。灯は口で息をした。壁の線は、さっき見た時より指の幅ぶん上がっている。線の下の色は乾いていて、上は水を吸った木の色。灯は線の高さを指で押さえ、そこから胸までの幅を測った。手のひら二つぶん。
「あの札、返せない」
「返す先が無い。札は置き場の記録へ回す」
「どうすればいいの」
「持つか置くかだ。記録はそのまま残る」
灯は二枚の札を胸の高さで持った。そのまま、しばらく動かなかった。
男は次の家へ入る。入って、床の真ん中から何も取らずに出てきた。
「そこは取らないの」
「今日ではない」
「まだ誰かが思い出してるってこと」
答えの代わりに、袋を担ぎ直して先へ歩いた。
灯は札を二枚とも鞄へ入れた。縁を合わせてから、底のほうへ落とした。
入れてから、壁の色を見た。境目の線は、腰の高さから胸の下まで上がっている。灯は自分の胸に手を当てて、高さを測った。
そろそろ出る時間。
男の袋の中身を、灯はもう一度見ようとした。
袋は担いだままだった。担いだ側の肩が下がって、上着の裾がそちらだけ長く垂れている。灯は横から袋の口を見た。口はまだ開いていて、上に載った二つの間から、丸い木の物の溝が見えた。溝の回っているほうが上を向いている。
「それ、糸を巻くやつでしょ」
「そう見えるならそうだ。用途は書かない」
「何に使うかは、書かないんだ」
「いつ、どこで、いくつを書く。三つで足りる」
「三つじゃ、あとで分かんなくなるのに」
「見る者がいない。読む者もいない」
灯は男の横顔を見た。顔の横に線が一本あって、それは傷でもしわでもない。何かの跡に見えた。
男は袋の口を、そこで初めて閉じた。
灯は入口のほうへ戻りはじめた。歩きながら、戸の中をもう一度見た。二軒目の木の器は、まだ二つとも残っている。四軒目の靴も片方のまま。
男の袋に入ったのは、丸い木の物と、その先の家の一つと、もう一つ。三つだけ。
「全部は持っていかないの」
声は後ろへ届いたはずだった。返事は無かった。
歩くうちに、入口の横木が見えてくる。
横木の向こうに、キリの背中があった。壁にもたれて、こちらを見ずに立っていた。灯はそれを見て、足を速めた。四歩でまた落とした。
壁の線は胸の下だった。さっき測った時より、手のひら一つぶん上になる。
入口へ向く前に、灯は一度だけ後ろを見た。
道はまだ続いている。暗くて、戸の並びは見えない。灯は目を細めた。
暗い先に、木の色の明るいところが一つ。
灯は数歩戻って、目を細め直した。
横丁の奥に、まだ新しい店が一軒あった。
戸は閉まっている。この横丁で、閉まっている戸はそこだけ。柱の木が新しく、削った跡が白い。戸の横の釘に、札が掛かっていた。札の字は、遠くて読めない。
灯は一歩だけ前へ出た。出て、また止まる。
線は胸の上まで来ていた。奥へ行けば、もっと速く上がる気がした。
戸の内側で、椅子が一度だけ動いた。
道の後ろで足の音がした。
キリだった。入らないと言った男が、木の棒の下を抜けて道の真ん中まで入っている。歩き方が速い。壁のほうへは目もやらない。
何も言わずに灯の手首をつかむ。つかんだまま入口のほうへ向きを変えた。灯は二歩ぶん引かれて、それから自分の足で歩いた。
横木をくぐるまで、灯の目は手首にあった。指が四本。爪の先が、どれも短く割れていた。




