第002話 棚の奥
母が起きるまでに二時間あった。
灯は上がり口に座っていた。座っている間に、二度、鞄を持ち上げた。持ち上げると持ち手の白いところが目に入る。見ても白いところは変わらない。一度目は中身を全部出した。弁当箱と包んだ布。下敷きとノート。鉛筆が二本。板の上に順に並べて、また順に戻した。戻す時に下敷きだけ向きが逆になった。
二度目は出さなかった。持ち手だけ見た。白いのは指の太さの幅。三度目に持ち上げようとして、やめた。やめてからも手は持ち手に掛かったままだった。
玄関の傘立てに、灯の傘が入っていた。灯は傘を出して、柄を電気の下へ持っていった。内側に名前がある。灯が書いたのではない。祖母が書いた。いつ書いたのかを、灯は覚えていない。字は消えていなかった。
傘には名前がある。お守りには無い。灯はそこまで考えて、そこで止まった。やめたのではなく、次が出てこなかった。
傘を傘立てへ戻した。戻す時に金属の底に当たって、いつもより高い音がした。今日はその音を二度聞いた。
台所の時計は電池が弱っていた。秒の針が一度だけ戻ってから進む。灯はしばらくそれを見ていた。見ているうちに、戻るのが六十秒に一度なのか、それより多いのかが分からなくなった。
隣の家のお風呂の音がした。壁の内側を水が下りていく音で、夜だけ聞こえる。昼は外の音のほうが大きい。灯はその音が終わるまで座っていた。
母の部屋は静かなままだった。
灯は台所へ行って、冷蔵庫を開けた。麦茶は朝より減っていない。減らないのは、飲むのが灯だけだからだと分かっていた。コップに半分だけ入れて、半分飲んで、残りを流しへ捨てた。捨ててから、捨てなければよかったと思った。
時計の針が九時。灯は電気を消した。消すと、外の街灯の色が窓から入ってきて、台所の机の上だけ薄く明るくなった。
朝の紙はそのままの場所に残っていた。昼まで外にいること、鍵は郵便受けの上。字は大きいところから小さくなっていく。灯は暗いところでそれを読んだ。暗くても読めた。もう覚えていた。
灯は二階へ上がった。上がる時、母の部屋の前だけ足の裏を先に下ろした。音が高いのは五段目。朝と同じ歩き方をしていた。朝は寝ている人を起こさないためで、今は起こす時間が近いのに、体のほうが同じ歩き方をした。
自分の部屋の窓を開けた。下の道の音が入ってきた。昼は車が続けて通る。夜は一台ずつ来て、通り過ぎるまでの時間が長い。灯は音が遠くなるまで数えて、七まで数えて、やめた。
窓の下まで街灯の光が届いていた。届いているところと届いていないところの境が、はっきりしていた。境の形はまっすぐな線。境の内側に、猫が一匹入って、出ていった。
灯は机の前へ腰を下ろした。ノートを開いた。開いて、何も書かなかった。
書くことは頭の中にある。四十一、九十、二百六。昼に地下で覚えた傘の札の番号だった。それから傘の柄の名前が三つ。さいとう、はやしゆか、みなみ。灯は口に出さずに順に思い出した。順番も間違えなかった。
覚えるのは苦にならない。人の名前も、番号も、一度で入る。入ったものは勝手には出ていかない。灯はそれを、みんなそうだと思っている。
書けば残る。灯はそう思わなかった。書かなくても残っているものを、わざわざ書く理由が分からなかった。
ノートを閉じた。閉じてから、表紙の角が少し折れているのを直した。表紙の色は青。直しても、折れた跡は白いままだった。
灯は下りて台所へ行き、流しの水を止めた。止めてから、弁当箱の位置を直した。縁に寄っていたご飯の粒を指ですくって、流しの穴へ落とした。落ちたところを見届けてから、手を洗った。指に残るのは水の温度。
冷蔵庫の下の段を開けて、麦茶の位置を手前へ寄せた。母が開けた時に先に目に入る場所へ置き直した。置いてから、扉を静かに閉めた。
祖母の部屋の戸は閉まっていた。九時前に閉まる。開くのは朝の暗いうちで、灯はその音で目が覚める日と覚めない日がある。
九時二十分に、下で音がした。そこから先は無音。灯は階段を下りた。下りる途中で、音が母の部屋のものではなく、外の風で戸が鳴った音だと知れた。
台所へ戻り、また上がり口に腰を下ろす。座ると、板はもう冷たくなっていた。温めたぶんは二分で消えた。
母が起きたのは九時半だった。
戸の開く音が先にあって、それから足の音が来た。灯は上がり口へ戻って座った。座っていたぶんだけ板が体の温度になっていて、立ち上がると、そこだけ冷たさが戻る。
母は洗面所で水を出した。水の音は途中で細くなり、また太くなった。灯は台所の電気を点け直した。
流しの弁当箱を取って、蓋を外した。蓋の内側に、水の粒。中は空で、縁にご飯の粒が三つ残っていた。
母が台所へ来て、流しをのぞいた。
「弁当箱は水につけておいて。洗うのは朝でいい」
母は言いながら冷蔵庫を開けた。麦茶の残りを見て、閉めた。減った量は指一本。何も言わなかった。
「麦茶、あんまり残ってない」
灯は流しのほうを向いたまま言った。母は返事をしない。冷蔵庫の音だけが少し高くなって、また下りた。
灯は水を出して、弁当箱に入れた。ご飯の粒が浮いて、縁へ寄せられた。指ですくうと、指の先に付いて離れなかった。
水の入った弁当箱は、朝より軽い。持ち上げると中で水が動いて、動いたぶんだけ手首に来た。灯は流しの縁に置き直した。
母の白衣はここには無い。着るのは病院で、家では鞄にも入れない。灯は一度だけ、母が白衣を着ているところを見た。学校の帰りに寄った日で、母は廊下の先を歩いていて、灯には気付かなかった。呼べば振り向いたと思う。灯は呼ばずに外で待った。
母の鞄は玄関にある。夜勤の日は前の晩から置いてある。灯はその鞄の口が開いているのを見た。中から消毒の匂いがした。病院の匂いではない。病院の物が入っていた鞄の匂いがした。灯はそれを、家の匂いだと思っていた。
母は髪を後ろで一つにまとめた。ゴムは手首にはめてあったもので、外した後、手首に輪の跡が残った。跡は歩いているうちに消える。
「戸締まりして、麦茶は下の段。寝る前に電気を消して」
灯はうなずいた。母は返事を見ていない。見ないまま次の用へ進んだ。
母は台所の紙をめくって、裏に何か書いた。書いてから、めくって表を上にした。表は朝の紙だ。灯は裏に何が書かれたかを見ていない。
「明日の弁当は朝に作る。起きなくていいから、寝ていて」
母の字は書き出しが大きい。裏の字も同じだった。書く速さも同じで、途中で止まらない。
母は洗濯機の蓋を開けて、中を見て、閉めた。回さなかった。回すのは朝で、帰ってきてすぐにやる。灯は一度、夜のうちに回しておいたことがある。母は何も言わなかったが、次の日からまた朝に戻っていた。
台所の窓の鍵を、母が上から順に見ていった。窓は二つある。二つとも掛かっていた。掛かっているのを確かめてから、母はもう一度両方をさわった。
「ばあちゃんは朝が早いから、玄関の電気はつけておいて」
灯は玄関を見た。電気はもうついていた。母はつけたままにしておけと言ったが、消してあった場合のことも一緒に言っている。母はいつもそうだった。
母の言うことは、いつも三つか四つがつながって出てくる。途中で切れない。灯は最初の一つを聞き終わる前に、次が来るのに慣れていた。慣れているので、全部覚えられる。
灯は自分の鞄を見た。上がり口に置いたままにしてある。持ち手のところが白い。玄関の電気の下だと、昼より白く見えた。
言おうと思った。
言うと決めたのではなく、言葉のほうが先に上がってきた。上がってきて、口の手前で止まった。止まった場所が、のどより上で舌より下にある。そこに何か置いたままになっている感じがした。
母は靴を出していた。背中がこちらを向いていた。今なら見られずに言える。見られずに言えるのに、言わなかった。
言わない理由は、灯にも分からなかった。母が困ることを、灯は思い付かない。怒られることも無い。無いのに言わなかった。
母が靴を出す音を聞いた。言葉はそこに置いたままだった。
母は靴べらを使わない。かかとを二度、床に当てて入れる。二度目で入る。
「灯、一緒に出るから、靴をはいて待っていて」
母は玄関の電気を一度消して、また点けた。消したのは癖で、点けたのはさっき言ったことに合わせたのだと灯は思った。
灯は靴のかかとを合わせて、そろえて置き直した。母の靴も一緒にそろえた。そろえてから、自分の靴だけ半歩前へ出した。
「あたしも駅まで行く」
灯は靴をはいた。左が先で、右があと。いつもそうしている。
*
外は昼よりすずしかった。涼しいというより、昼の熱が地面から出ていく途中の温さをしていた。灯は鞄を持たずに出た。持たない手が、持っている時と同じ形をしていた。指だけ曲がっていた。
母が鍵を掛けた。音は二つで、一つ目が浅く、二つ目が深い。灯は郵便受けの上に手をやった。鍵はそこにあった。取って、ポケットの底へ入れた。母は自分のぶんを持っている。
道は暗くなかった。街灯が全部点いていて、点いた順番はもう分からない。夕方は一本ずつ点いていく。三本目がどれだったかを、灯は思い出そうとした。思い出せなかった。覚えたつもりでいた。順番があったことだけが残っている。
この道は八百歩でつく。去年の冬に数えた時は、十六歩だけ多く出た。今日は数えなかった。母の横だと足の出し方が母に合ってしまう。合わせた足で数えた数は、灯の数にならない。
母は速い。灯は半歩後ろになった。半歩の間は、離れも縮まりもしない。
角の家の犬は出ていなかった。門の内側に、白いものが横になっていた。名前はハナ。夜は呼んでも来ないと、去年の夏に分かった。
「その子は夜は寝るから、静かに通っていってちょうだい」
母は犬のほうを見ないで言葉を続けた。見ていないのに知っている。灯はそれを、母がここを通る回数のぶんだと思った。
工事の囲いは朝と同じ場所にあった。昼は人が居た。今は誰も居ない。黄色い板の上で赤い灯が一つ点いて、消えて、また点いた。同じ間で続いていた。灯は三度目まで見て、目を離した。間の長さは息二回ぶん。
自動販売機は明るかった。明るいところだけが道から浮いて見えた。下の暗いところをのぞきたくなる。灯は足を止めかけた。朝はのぞいた。蓋が一つ落ちていて、拾って、台の上に置いた。今はのぞかなかった。母が先に行っていた。
橋に来ると、川の音が昼と違っていた。昼は上を通る車の音のほうが大きい。夜は下の音だけが残る。水の量は昼と同じはずだった。同じはずなのに多く聞こえた。
「橋の上は風が通るから、帰りは走らないで歩いて」
灯は手すりに手を置いた。昼の熱はもう残っていない。石は指より冷たかった。冷たいところに手を置いていると、手のほうが石の温度に近づいた。
橋を渡り切ったところで、灯は下を見た。石の間は暗くて何も見えない。朝は白い蓋が二つあった。今は暗さしかない。
橋を過ぎると、道の右側にコンビニがある。中は明るくて、外から棚の一番上まで見えた。人が二人、別々の場所に立っていた。動かないので、遠くからだと棚の一部に見えた。
その先の信号は赤だった。車は来ていない。母は止まって待った。灯も足を止めた。待つ間に、母は鞄の口を閉めて、肩に掛け直した。
信号が変わる時、この交差点だけ音が鳴らない。灯は前からそれを知っていた。知っていても、変わる前に足が半歩出た。
街灯が二本重なるところで、灯の影が二つになった。片方は濃くて短い。もう片方は薄くて長い。灯は歩いて、薄いほうだけを踏もうとした。踏めたのは三度だけだった。
電車の音が上から降りてきた。ホームは駅の二階にある。音は着く前のほうが長くて、止まるところで急に切れた。
駅の前は昼と人の数が違った。少ないのではなくて、動き方が違う。昼は列になる。夜は一人ずつ、別々の速さで来る。誰も横に並んでいない。
駅の入口の段は三つあった。母は一段目と三段目だけを踏んだ。灯は三つとも踏んだ。踏み方が違うのに、着くのは母のほうが先だった。
中に入ると、風が変わった。天井の高いところで機械が回っていて、下へ風を落としていた。灯は前髪を手で押さえた。押さえた手を下ろすと、前髪はまた同じ形に戻った。
券売機の前に人が一人立っていた。画面を見ているだけで、押していない。灯はその人の後ろを回った。回る時に、鞄を持っていない自分の手をもう一度見た。
母は改札の手前で鞄を持ちかえた。切符は使わない。青い札を機械に当てると、板が開いて、閉じた。
「まっすぐ帰って、戸を開けたらすぐ鍵をかけておいて」
母は振り向かずに言った。
「うん、まっすぐ帰る」
声は出したが、母の後ろで出したので、届いたかどうか分からない。
母の背中は人の間に入って、それから階段の上へ消えた。
灯はそこに立っていた。
灯は母の方が速く歩けるのをずるいと思った。言わなかったのは自分だ。それでも、気付かない母のほうがずるかった。
電光の板が二つ、時刻を出していた。次は十時三十四分。その次は十時四十七分。灯は十三分あくのを見た。昼は五分に一本来る。
広場の台には誰も座っていない。昼は座っていた。荷物を置く台なのに、昼も夜も荷物は無い。
帰るなら、来た口をそのまま戻ればよかった。灯は戻らなかった。
改札の手前で右へ折れた。折れると地下へ下りる口がある。
階段の手すりは金属で、上から下まで一本で続いていた。灯は手を置いて下りた。置いた手は途中で止めずに、下まですべらせた。手のひらに細かい粉が付いた。灯はそれを指でこすり落とした。
昼はここから明るさが減っていく。夜は逆だった。上のほうが暗くて、下に灯りが残っていた。地下のほうが明るい場所を、灯はここしか知らない。
階段は三段目から冷たくなる。昼と同じ場所で、同じだけ冷える。それだけが昼と同じだった。
下りると通路がまっすぐに続いた。灯は自分の足音を聞いた。昼はほかの音に混じって聞こえない。夜は足音だけが返ってきて、少し後から追いついてきた。速く歩くと、返ってくるのも速くなった。
天井の灯りが一本だけ切れかけていた。切れかけた灯りは点いたままにならない。明るくなり、少し落ちて、また明るさを戻した。灯はその下を早足で抜けた。抜けた後で、もう一度そこを振り返った。
柱の根元に、潰した紙の箱がまとめてあった。白いひもで縛ってある。灯は結び目のところを見た。輪の作り方が、祖母の結び方と違っていた。
途中の店は全部閉まっていた。金属の板が下りていて、板の下に紙を挟んだ店が一つある。読める字は営業と時間だけで、あとは光が当たっていなかった。
パンの店の前で匂いが変わった。焼いている匂いではない。焼いた後に残る、油と粉の匂いがした。朝ここを通った時は焼いている匂いだった。同じ場所で、朝と夜で違う匂いが出る。
灯は歩いて通路の天井を見た。天井は低い。昼は人の頭で見えない。夜は低さだけが見えた。板が並んでいて、板と板の間に細い線が通っていた。線は先のほうで一本になって、暗いところへ入っていった。
売店の前を過ぎたところで、灯は一度だけ後ろを見た。誰も居ない。誰も居ないのに見た。
昼はここで人にぶつかった。二度ぶつかって、二度とも謝られずに済んだ。今はぶつかる人が居ない。居ないほうが歩きにくかった。
突き当たりの手前に、水を飲む台がある。灯は昼にここで一度飲んだ。夜は水を止めてあった。押しても、下の受け皿に丸い染みが残っているだけで、何も出てこない。灯は指で受け皿の底をなでた。乾いていた。
台の横の壁に、時刻の表が出ていた。数字が細かくて、下のほうは膝の高さまで下りている。灯はしゃがまずに、上の段だけ目で追いかけた。追いかけて、途中でやめた。
センターの前まで来た。
昼は開いていた台の窓口が、金属の板で下りていた。板には横に細い線が何本も入っていて、下のほうが少し曲がっていた。何かが当たった跡に見えた。高さは灯の腰。
板は全部下りてはいなかった。下から三十センチほど開いていて、そのぶんだけ中の灯りが通路へ出ていた。灯りは床の上で細長い形になり、灯の靴の先まで届いていた。
開いた高さは、家のお風呂場の戸を細く開けた時と同じぐらいだった。
灯は板の前に立った。のぞくにはしゃがむ高さ。しゃがむ前に、灯は自分の靴の先を見た。灯りの中に入っていた。
しゃがんだ。
台の足が見えた。箱の角が見えた。それから人の足が二本、どちらも動かない。
*
「板は六時に下ろしました」
声は板の向こうから来た。灯は立ち上がった。先に来たのは声。板が内側から少し上がって、川辺さんの顔が下から出てきた。上げたところで手を止めて、膝の高さで押さえていた。
「八月に出すぶんをまとめています」
灯はくぐって入った。くぐる時、板の下の縁が髪をなでた。当たったところだけ髪が持ち上がって、また下りた。
中は昼と同じ広さのはずだった。同じには見えない。灯りが半分しか点いていないので、天井の高さが分からなくなっていた。棚の上のほうが暗くて、そこから先が無いように見えた。
匂いは昼と同じだった。湿った紙と、ほこりと、金属の匂い。夜のほうが濃い。人が動いていないぶんだけ、匂いが下にたまっていた。
台の下に、輪ゴムの箱が出してあった。輪ゴムは色で分けられていた。使っているのは黄色一色。ほかの色は箱の底に沈んでいて、使う順番が決まっているように見えた。
昼にもここに箱はあった。昼は台の上に出ていた。夜は下に置いてある。置く場所が昼と夜で違うことに、灯は今日はじめて気付いた。
台の上に紙の束が三つ出ていた。束はどれも同じ厚さで、輪ゴムが二重に掛けてある。掛け方も同じで、二本目が一本目と直角になっていた。
「今日届いたのは八件になります」
川辺さんは束の一つをほどいて、上から順に見ていった。見るのが速い。一枚を見る時間が同じだけあって、その後で必ず下へ置く。八枚目まで来て、また輪ゴムを掛け直した。
「探してるのは傘じゃない」
灯は自分の左の手首を見た。何も無い。何も無いところを見た。
「青い布の、小さいやつ」
川辺さんは束を台の端へ寄せた。寄せてから、うなずいた。うなずいただけで、無いとは言わなかった。無いことは、束の厚さで分かった。
「名前は書いてないやつ」
言ってから、灯はそれを言う必要が無かったことに気付いた。昼に同じことを聞いている。名前が書いてあれば返せます、と川辺さんは言った。書いてなければ、その後の言葉は無い。
「明日の朝もう一回来る」
川辺さんは台の紙を裏返して、日付を書いた。字は角が丸くない。祖母の字とは違っていた。同じ台で書いても、字は違う。
灯はすぐには出なかった。出ない理由を、自分でも見つけられずにいた。
台の奥のほうで、天井の灯りが一つだけ点いていた。その下に棚があった。昼に見た棚とは並びが違っていた。昼の棚は通路に沿って横に並ぶ。奥の棚は壁に付いていて、こちらへ背を向けていた。
灯は歩いた。棚の端まで三歩。
棚の横に札が下がっていた。厚い紙で、上にひもが一本。ひもの先が切れかけていた。
札には二文字だけ書いてある。処分済。
字の下に日付が並んでいた。去年の八月三十一日。その下にもう一つ、その前の年の八月三十一日。三つ目のところは空いていた。
灯は札をめくった。裏にも数がある。二百三十一。三百四。日付と同じで、三つ目は空いていた。
棚は空だった。板が四段あって、四段とも何も載っていない。板の上にほこりが薄く積もっていて、そこだけ板の色が違って見えた。ほこりの上に、丸い跡が並んでいた。傘の先が立っていた跡だと分かった。
灯は指を板に当てた。ほこりが指に付いた。付いたのは指の腹。付いた指を、灯はズボンでこすらなかった。
跡を数えようとして、途中でやめた。跡は板の奥まで続いていて、奥は暗くて見えない。
「そこは去年のぶんになります」
後ろで川辺さんの声がした。灯は手を引いた。
「奥はもう何も残っていません」
川辺さんは台へ戻っていく。戻る前に、棚の上のほうを一度見た。見ただけで、口には出さずに済ませた。
事務室の電話が鳴った。二回鳴って、止まった。残ったのは無音。それからまた鳴りはじめた。川辺さんは事務室のほうへ消えた。戸は閉めなかった。話す声が聞こえたが、言葉までは分からない。
事務室の戸は半分開いていた。中の灯りは白い。表の灯りより白くて、床に落ちる線がまっすぐだった。川辺さんの声はその線の向こうから来た。低くて、上がったり下がったりしない。
灯は棚の前に一人で残された。
灯は棚の端を手で押してみた。動かなかった。床に金具で留めてある。金具はねじが四本で、二本は頭が潰れていた。何度も外して、何度も留め直した跡だと思った。
板の下の段に手を入れて、奥まで伸ばした。指の先が何かに当たった。当たったのは細い輪。引き出すと、輪ゴムが一本だけ出てきた。黄色ではなくて、白かった。川辺さんは黄色しか使っていない。
輪ゴムを板の上へ戻した。戻してから、もう一度取って、指にはめた。
棚の裏側は壁のはずだった。昼にこの奥まで来たことは無い。昼はここに人が居て、台があって、通れなかった。
棚と壁の間に、体が入るだけの幅が空いていた。灯は横になって入った。鞄を持っていないので、肩だけで通れた。
入ってすぐに知れた。壁ではない。
扉だった。
木の扉で、色は壁と同じに塗ってあった。塗ってあるので、離れたところからは壁に見えた。近くで見ると縦の線が二本入っていて、その線が上から下まで通っていた。
取っ手は金属で、丸い。丸い部分だけぬりがはげて、下の色が出ていた。何度も握られた跡だと分かった。
鍵穴があった。鍵穴の下に、板が一枚打ってある。板の字は消えかけていた。残った字は二文字。関係、と、以外。間の字は無くなっていた。
灯は扉の下の縁を見た。床との間に細い隙間があって、そこから光はもれていない。もれていれば、昼のうちに誰かが気付いたはずだった。誰も気付いていない。
灯は取っ手に手を伸ばした。
そこで急に眠くなった。
まぶたが重いのではない。腕のほうが重い。伸ばした腕が、伸ばしたところで止まった。上がらなくなり方が、プールを二十五メートル泳ぎ切った後に似ていた。
灯は寝ていない。九時半まで上がり口に座っていただけだ。それでも眠気が来た。灯はそれを、もう夜だからだということにした。
取っ手を握った。金属は冷たくない。壁より温かくて、手のひらより少し冷たい。握ったところで、灯は事務室のほうを見た。話す声はまだ続いていた。
回した。
回らなかった。もう一度、逆へ回した。今度は動いた。動いたのは半分だけで、そこで何かに当たって止まる。灯は止まったところから、扉を手前へ引いた。
扉は重い。重さは扉のものではなかった。下の縁が床に擦れていて、擦れるぶんだけ手前へ来ない。灯は両手にした。足を斜めに置いて、体ごと下がった。
十センチ開いた。開いた幅は手のひら一枚。そこから先は急に軽く動いた。
中は暗かった。暗いのに床が見えた。見えるのは、天井のずっと上のほうに、細い明かりが横へ一本通っているからだった。窓ではない。線になって光っていた。
空気が出てきた。外の空気ではない。閉じてあった空気がそのまま出てきた。雨の匂いがした。雨そのものではない。ぬれた布が乾ききらないまま畳まれていた時の匂いがした。灯はその匂いを知っていた。傘立てに入れっぱなしにした傘が出す匂いだった。
灯は一歩入った。
床は板で、足の裏に段差が無い。奥は見えない。音が返ってこない。それで広いと知れた。体育館の戸を開けた時に似ていた。
目が慣れてきた。上の細い明かりが、下のほうまで届きはじめた。
最初に見えたのは、灯のすぐ前の一本だった。
傘だった。
立っている。畳んで、先を床に付けて、まっすぐに立っている。誰も持っていないのに倒れない。
その隣にもう一本。その隣にも。
灯は顔を上げた。
傘は前にも、横にも、奥にも続いていた。列になっているのではない。きれいに並んでいるのでもない。立てられる場所に全部立っていた。柄の高さがそろっていないので、上のほうがでこぼこして見える。黒が多い。青と赤が混じっている。子供用の短いのが、大人のものの間に立っていた。
一番手前の一本に、灯は手を伸ばした。ふる前に引っこめた。
柄に札が付いている。番号の札で、輪ゴムで留めてある。昼に見たのと同じ形の札だった。番号は四十一。
その隣は九十。その隣は二百六。
灯は昼に、三つの番号を覚えた。覚えた三つが、順番のまま並んでいた。
これは処分された傘だ。八月三十一日に業者が持っていく傘ではない。去年の八月三十一日に、もう持っていかれた傘だった。
後ろで、事務室の声が止まった。
灯は振り向かずにいた。振り向くより先に、目が数えはじめている。数えても終わらないことは、数えはじめてすぐに分かった。
傘は全部、立っていた。




