第001話 二百三十本の傘
灯は六時半に目が覚めた。夏休みの初日で、七月二十三日。
学校のある日と同じ時間だった。夏休みでも体の方が先に起きる。台所の窓が細く開いていた。朝の風がまだ夜の匂いを持っている。母の部屋の前を通る時だけ、足の裏を先に下ろして歩いた。
空が低くて、日は朝から出ていない。雨はまだ落ちてこなかった。母は夜勤明けで、灯が起きた時にはもう部屋の戸が閉まっていた。台所の机に弁当が出ていた。その下に紙が一枚。昼まで外にいること、鍵は郵便受けの上、と大きい字が並んでいた。母は用があるとまとめて全部書く。返事を聞かないまま部屋へ入っていた。
弁当は冷めていた。作ったのは帰ってすぐで、そのまま母は横になった。蓋に手を置くと、机と同じ温度をしていた。
冷蔵庫に麦茶。灯はコップに一つだけ飲んで、残りを冷蔵庫へ返した。母が起きた時にまだある方がいいと思った。
灯は台所の紙を読み直した。母の字は書き出しが大きくて、終わりの方が小さくなる。先に書きたいことを全部出してしまうので、後が縮んでいた。
二階の部屋は、朝のうちは日陰になる。窓を開けると下の道の音がそのまま入ってきて、閉めても半分は残っていた。
去年の夏休みに何をしたかを思い出そうとすると、出てくるのは三つか四つしかなかった。プールと、宿題の最後の三日と、祖母の職場の冷たい空気。四十日ぶんの残りが、どこへ行ったのか分からなかった。
通りかかると、祖母の部屋の戸が開いている。布団はもう片付いていた。何も出ていない部屋で、灯が入った回数は片手で足りる。窓の外でセミが一匹だけ鳴いていた。去年は同じ木で三匹鳴いていた。
灯は自分の部屋で、机の一番上の引き出しを開けた。名札はそこ。開けなくてもあるのは分かっていた。学校の物は全部この引き出しに入れてあって、四月からその場所が変わっていない。
祖母はもう出ていた。出しなに傘立ての前で足を止めて、灯の傘の柄を一度だけ手で包む。それから何も言わずに出ていった。毎朝そうする。一度だけ理由を聞いた。祖母は答えなかった。それきり聞いていない。
祖母が出ていく音は、いつも二つになる。戸を開ける音と、閉める音。開けてから閉めるまでに間があいていた。傘立ての前で止まっているぶんだけ、そこが空いていた。
一度、その間に階段の上から見たことがある。祖母は柄を手で包んだままで、何も言わずに立っていた。それだけで出ていった。灯はその時、自分がまだ起き切っていなかったのだと思っていた。
昨日も雨は降っていない。この一週間、傘は一度も開いていなかった。それでも灯は持っていく。持っていかなかった日が去年にあった。その日も祖母は口を開いていない。傘立ての前で足を止め、そこに何も無いのを見てから出ていく。灯はそれを覚えていた。
鞄の持ち手に、お守りが結んであった。青い布で、糸が細くなっていた。表に字があったはずで、それはもう見えなかった。持ち上げても、中の音がしない。いつから付いているのか、灯は覚えていなかった。気がついたら、そこに結ばれていた。結び目は固く、ほどけたことがない。ほどこうとしたこともなかった。付いているのが当たり前で、外す用が一度も無かった。
持ち手だけが暗い茶色で、ほかは白に近い色をしていた。青はその茶色の上でよく見えた。結び目の内側だけ、日に当たらなかったぶんの色が残っている。ほどけば、そこだけ元の青が出るはずだった。
結んだのは祖母だった。灯はそれを誰かに聞いたのではない。前の鞄にも同じものが付いていた。新しい鞄になった日の夜には、もうこちらへ移っていた。灯は移すところを見ていない。朝、起きたら付いていた。
鞄を持ち上げると、お守りが持ち手の下で一度だけ動いて止まる。歩くと、その動きが手首まで来た。灯はそれを、鞄の方が重いのだと思っていた。
一度、学校で聞かれたことがある。それ何、と言われた。灯はお守りとだけ答えた。何のお守りかは知らなかった。聞かれたのはその一度きり。
台所の時計が八時半をさした。起きてから二時間、灯は家の中を上がったり下りたりしていた。行く度に一つだけ何かを直した。二階の窓を細くして、下りて、冷蔵庫の麦茶をもう一度手前へ寄せた。
弁当は布に包んで鞄へ入れる。布の端が持ち手のところでお守りに引っ掛かって、灯は指で外した。
灯は傘立てから自分の傘を取った。かかとを踏んだままで外へ出た。
戸を閉める時、いつもより強く引いてしまった。母が起きないように閉める日もある。今日は忘れていた。
「行ってきます」
返す声は無かった。傘立てには母の傘と、父の傘が残っていた。父の傘は去年の春から動いていない。
外に出ると、道は思ったより明るく見えた。日が出ていないのに明るい日がある。そういう日はたいてい、夕方に降った。灯は空を見上げ直した。降りそうで、まだ降らずにいた。
家の前の道は、朝のうちだけ車が通らなかった。灯は道のまん中を三十歩ほど歩いて、その後で脇へ寄った。
角の家の犬は、灯が通ると必ず一度だけ立ち上がる。今日も立ち上がって、そのまま座り直した。名前はハナで、灯は一年前に飼い主から聞いた。一度聞けば忘れない。
道はまだ暑くなっていなかった。工事の囲いが三つ、歩道の脇に寄っている。ジュースの機械の下に、白い蓋が一つ落ちていた。灯はそれを拾って、機械の横のごみ入れへ落とした。掃除当番の時と同じ手が動いていた。終わらないと帰れないので、灯は当番をさぼらない。
朝のうちの道は、日の当たる側と日陰の側で音が別になる。日の当たる側は白くて、日陰の側はまだ土の匂いがした。灯は日陰の側を選んだ。歩くところは毎日同じで、変えたことがない。
商店のシャッターは半分だけ上がる。夏休みでも、街は同じ顔をしていた。ただ、ランドセルの子が一人もいなかった。それだけが別だった。
自転車置き場の前かごに、丸めた紙が入ったままの一台がとまっていた。ずっと同じ場所の一台。かごの底に土がたまり、紙の方が先に色を落としていた。
道の三分の一を過ぎたあたりで、郵便を配る人の自転車に二度、先を行かれた。同じ人が同じ道を、行って帰ってきた。灯は二度目に道の脇へ寄って、先に通した。
公園の水飲み場で口をゆすいだ。水はぬるかった。三口飲んで、四口目でやめた。夏休みは長かった。長いと思っているうちに終わるのは、去年で分かっていた。
公園の後ろは小学校。門は閉まっていたが、プールの水の匂いが道まで出ていた。夏休みのプールは明日から始まった。去年は十一日行って、一日だけ休んだ。休んだ日は熱が出ていた。
魚屋の前を過ぎると、匂いが水に変わった。店の人はまだ店の中にいた。灯は日陰の側を選んで歩いた。日陰は道の右側にあった。朝のうちだけ広い。
橋が見えるころ、風の向きが変わった。川が近いからで、朝は川から街の方へ流れていた。
灯は駅までの道を八百歩ぐらいで歩く。数えたのは去年の冬で、その時は八百十六歩まで来た。足は長くなっているはずなのに、数はあまり変わらない。数えたことは誰にも言っていない。言うほどのことでもなかった。
信号を渡り切るまでに、青が点いたり消えたりし始めた。灯は走り出した。走れば間に合った。足の速いのは去年の運動会で分かっている。橋の上でセミが鳴き、その先の三十歩ぶんだけ、声が二重に聞こえた。
橋の下の川は水が減っていた。石が白く見えた。水は真ん中だけを流れる。灯は歩きながら下をのぞいた。石の間に、白い蓋が二つ。
橋のまん中で、下から電車の音が来た。線路は川と並んで橋をくぐっていた。音は上がってくるのに、電車の姿は見えなかった。灯はいつも一度だけのぞいて、それから歩き出した。
駅の前で傘を持ち直した。柄の下の方を握ると、手のひらに木の目が当たっていた。この傘は三年目。骨が一本だけ他より短かった。それでも開けば傘の形をした。灯は物を長く使う方だった。
改札の手前で右へ折れると、地下へ下りる口がある。上からのぞくと、一番下だけが白く光っていた。
*
駅の階段は、三段目から冷たくなる。
階段を下りきると、外の音が急に遠くなっていた。地下は外がどれだけ暑くても温度が変わらなかった。灯はそこへ来ると、まず大きく息をした。売店の前を過ぎて細い通路を曲がると、遺失物センターの窓口が見えた。雨の日の傘立てと同じ匂いがした。板と、水と、少し古い布。傘が二百三十本あると、匂いも二百三十本ぶんになった。外の暑さが背中にだけ残っていた。
頭の上を電車が通り過ぎた。音は下りてこなかった。下りてくるのは動きの方で、天井の板が細かく動いた。事務室の電話が二回鳴って、切れた。
朝のうちに窓口へ来るのは、定期券を落とした人だけ。川辺さんが横の戸を開けた。灯は段ボールの箱を引き寄せて、その上に座った。小さい時からそこに座っていた。川辺さんが輪ゴムの箱を灯の前へ置いた。灯は十本ずつ数えて束ねた。十本ずつなら数を間違えない。指の腹がゴムで赤くなっていた。三十束できたところで、川辺さんが箱を下げていった。
窓口の中に棚があった。天井まであって、上の段には手が届かない。番号を書いた箱が並んでいる。中身は外に書かれていなかった。かばんと本が多いのだと、川辺さんがいつか言っていた。灯は箱の中を一度も見たことがなかった。下の二段は全部、傘。灯が手を入れると、手首まで柄の中に入っていた。一本引くと、左右の傘も動いた。隙間が無くて、一本だけでは引き出せなかった。
灯は小さい時からセンターへ来ていた。母が夜勤の日は、祖母が仕事へ連れていってくれた。窓口の内側にいたこともあるらしい。灯はそこまでは覚えていなかった。一番古い覚えは、棚の下の段が目の高さだった時のもの。あの時分、傘は柄の先しか見えなかった。
窓口の板は灯の胸の位置。小さい時は下しか見えなかった。今は手を置くと、外の人の顔まで見えた。
「ここ、傘しかない」
「ここにあるのは二百三十本です」
川辺さんは紙を見ないで答えた。窓口の板に両手をついて、傘の方も見ていなかった。灯は棚の横に、日付と本数を書いた紙を見つけた。数は週に一度、川辺さんが書き直していた。書き直す前の数は、線を引いて消してある。線の下の字はまだ読めた。二百二十四。その前が二百十九。
多いのは黒だった。折り畳みも交ざっていた。木の柄と、金物の柄と、布を巻いた柄。布のは一本だけ赤。骨の折れたのが二本、かさぶたみたいに布を持ち上げていた。柄には番号の札が輪ゴムで留まっていた。灯は札を一枚つまんだ。強くつまむと、指の形が残っていた。指を上げても、形はすぐに消えなかった。
「一年たてば処分します」
「業者が来るのは八月三十一日です」
「一年って、けっこう長い」
川辺さんは答えなかった。灯は札の日付を見た。日付はほとんどが去年の夏。
八月三十一日は、夏休みの最後の日と重なっていた。灯はその時に一度だけ考えて、それきりにした。
棚の下から二番目の段だけ、板が少したわんでいた。傘の重さで、まん中が落ちる。川辺さんは去年そこへ板を一枚足したという。足しても下がる。
灯は棚に沿って歩いた。右から左まで二十二歩。柄はどれも同じ高さ。給食の食器を裏返して並べたみたいに見える。それでも太いのと細いのが交ざっていた。一番下の段に、子供用の短いのが三本入っていた。柄が短くて、灯の手には合わなかった。灯は一本だけ持ち上げて、元の場所へ入れ直す。
名前の書いてあるのは十四本だった。六本は名字だけで、残りの八本は下の名前まで読めた。子供用の三本にも書いてあった。さいとう、はやしゆか、みなみ。灯は口に出さずに三度読んだ。読むと覚えた。
灯は札の番号を三つ覚えた。四十一、九十、二百六。覚えるつもりはなかったのに、三つとも頭に残っていた。
「持ち主が来たら困る」
「探している人がいれば残ります」
灯の傘は窓口の外の傘立てに入れてきた。あの傘の柄にも名前がある。書いたのは祖母だった。いつ書いたのかは覚えていない。
「あたし、物失くしたことないんだよね」
川辺さんは窓口の板を裏返していた。祖母は細長い紙に何か書いていた。手を止めない。それから顔を上げた。
「傘は、持ってきた?」
「持ってきたよ」
祖母はうなずいた。うなずいてから、もう灯を見ていない。同じ形の紙が束になって、輪ゴムで留めてある。薄い紙に、細い行が引いてあった。灯のいる側からは、字がさかさまに見えた。細かくて、読む気にならなかった。
窓口の下の引き出しを、川辺さんはどれも見ないで開けた。何段目に何が入っているかを、手の方が覚えている。
昼の前に、窓口へ人が来た。傘の色と、乗った駅を言った。川辺さんは紙を出して、二つ書き入れてから棚を見に行った。灯も後ろについて歩いた。黒い傘が九十本。その色と長さのものは七本。七本とも名前を持っていなかった。
「名前が書いてあれば返せます」
川辺さんは棚の前でそう言った。それから窓口へ引き返し、同じことを繰り返した。書いてなければ渡せません、と続けた。声の高さは棚の前と同じだった。
灯は棚の方に残った。七本のどれかが、その人の傘。どれかは分からない。分からないから、渡さない。
人は帰っていった。
灯は動かなかった。右手が一本の柄に伸びていて、いつ伸ばしたのかが分からない。指の関節のところだけ白い。
川辺さんは紙を一枚、机の上の山へ足した。山の高さは灯の手のひらぐらい。
「あとで書けばいいのに」
川辺さんは返事をしなかった。祖母も何も言わずにいた。祖母の指の横が、書く場所だけ黄色くなっていた。同じところに長い間ずっと当たる。灯はそれを、字をたくさん書く人の指はそうなるのだと思っていた。灯は棚の七本を、もう一度左から見直した。柄の色は七本とも別だった。
棚の前の板に、細い線が一本引かれていた。台を置く場所の印になっていた。川辺さんは台を片付ける時、必ずその線に合わせた。
灯が見たのは紙の山の一番上。字は祖母のものではない。川辺さんの字は角があって、線が一度も曲がらなかった。
昼になって、灯は箱の上で弁当を食べた。地下は温度が動かないので、朝のままの冷たさだった。冷たくても味は落ちない。
「お昼、食べた?」
「もう食べたよ」
祖母は窓口の内側から、灯の方を見ないで聞いた。それから紙の山を一つ、机の引き出しへ入れた。引き出しは半分までしか開かなかった。開かないところで手を止めて、入れてから閉めた。
午後の光は地下に無い。時間が分かるのは、通路を通る人の数と、電話の鳴る回数だけだった。灯は電話が鳴る度に顔を上げた。四回目まで数えて、その後はやめた。
一番上の箱には去年の番号が書いてある。川辺さんが台に乗って一つだけ下ろすと、中は空だった。
午後の客は三人。二人は傘の用ではない。一人は箱の方で、川辺さんが台に乗って下ろした。中身は灯の側から見えなかった。その人は箱を受け取り、名前を書いてから出ていく。書く時、机が少し動く。
残りの二人のうち、一人は名前を書かずに出ていった。持ち主だと言いに来た人。それでも川辺さんは箱を出さなかった。窓口の板の向こうで、板を打つ音が二度した。川辺さんは棚の前と同じ声で、あしたもう一度来てくださいと言った。
棚の傘は朝から一本も減っていない。川辺さんは一時間に一度、机の紙をまとめていた。まとめてから、また同じところへ置いた。紙は減らない。
川辺さんが数え直すように言った。灯は下の段の左から数えた。百十六本まで来たところで呼ばれて、呼ばれた場所から数え直した。やはり二百三十本。数え直しても、一本も増えず、一本も減らなかった。
灯はもう一度、名前の書いてある十四本の前へ回る。並びは朝と変わっていなかった。名字だけの六本のうち、二本は同じ名字で、書いた字が別だった。
棚の一番下を、川辺さんが布でふいた。布は灰色になって、そのまま流しへ持っていかれた。灯は布の色が変わるのを見ている。二百三十本の下に、一年ぶんの細かいごみが落ちていた。
窓口の板の内側に、小さい鏡が留められていた。外の人の手元が映るのだと、前に川辺さんが教えてくれた。そこに自分の頭のてっぺんが映るのを、灯は来る度に見る。
午後は長い。人の来ない時間は、通路の足音だけで測るしかなかった。三時を過ぎたあたりで、灯は箱の上で足を組み直す。足の裏が冷たくなっていた。
五時になると、地下の人が増えた。足音が重なって、どれが一人ぶんか分からなくなっていた。
「そろそろ帰る」
「まだ明るい?」
祖母が聞いたのはそれだけ。灯は明るいと答えて、弁当箱を鞄へ入れた。祖母は窓口の内側から出てこなかった。灯が横の戸を開けて出るまで、顔を上げなかった。
*
外へ出ると、日が低くなっていた。
地下から上がると、暑さは上から三段目で始まる。そこで足の裏が温かくなって、改札の高さでは首の後ろが熱くなっていた。灯は傘立てから自分の傘を抜いた。柄の内側の名前を、指でこすってみた。字は消えない。祖母の字は角が丸かった。
通路の半ばで、灯は立ち止まって後ろを見た。誰も自分を見ていない。それでも足元を見ながら歩いた。人の足の間に、青いものは見えなかった。
夕方の駅は朝と別の場所に変わっていた。人が来る側と行く側が入れかわっていた。改札の前に列。改札を出る人が、信号が青になった時の横断歩道みたいに、いっぺんに動いた。灯は列の外を回って、階段の横を通った。当たったのは二度。二度とも謝られなかった。
広場の台には人が座っていた。荷物を置く台なのに、荷物は誰も置いていない。
改札を出たところで、灯は鞄の持ち手を握り直した。その時に何かが指に当たったかどうかを、後から思い出そうとした。当たった気もするし、当たらなかった気もする。思い出そうとするほど、どちらでもよくなる。
橋を渡る時、セミはもう鳴いていなかった。代わりに川の方から風が来た。傘の先が一度だけ動いた。灯は傘を持ち直す。持ち直した時、手が軽いのに気付いた。気付いたが、その時は何も思わなかった。
家に着いて、傘を傘立てへ差した。郵便受けの上を探ると、鍵はいつもの場所で指に触れた。手を出すと、指の先が郵便受けの角をこすった。角はまだ熱い。日の当たっていた時間のぶんだけ、まだ熱を持っていた。戸を開けて、鞄を上がり口へ置いた。母はまだ起きていない。台所に朝の紙がそのまま残っていた。
持ち手を握って、指の当たるところが空いているのに気付いた。いつも当たる場所に何も無い。灯は握り直した。二度握って、二度とも同じだった。
弁当箱を出そうとして、灯は手を止めた。
持ち手に、お守りが無い。
青い布は結んであった場所ごと無かった。糸の色が付いていたところだけ、持ち手が白くなっていた。灯は鞄をひっくり返した。中に無い。上がり口にも無い。戸の外を見た。無い。
朝、鞄を持ち上げた時の手首の感じを思い出そうとした。あった気がする。無かった気もする。手は覚えていない。
目をつぶって、お守りの形を思い出そうとした。青い。糸が細い。それだけしか出てこない。毎日見ていたのに、字のあった場所も、大きさも、はっきりしなかった。
灯は持ち手を何度も見た。見ても白いところは変わらない。見る度に、朝そこに青いものが結んであったことの方が、あやしくなっていった。
灯は鞄を置いたままで外へ出た。
街の音が朝と入れかわっていた。朝は車の音が下にあって、人の声が上にある。夕方は逆だった。同じ道なのに、耳の方が先に気付く。
来た道を引き返した。橋の上で立ち止まって、下を見た。石の間に白いものが二つあったが、どちらも朝と同じ蓋だった。ジュースの機械の下も。朝、蓋を拾った場所は、もう空になっていた。
橋の手すりは昼の熱を持っていて、手を置くと温かかった。灯は両手を置いて、しばらくそのままでいた。
橋を渡り切ってから、道の脇を目で追いはじめた。落ちていれば、色で分かるはずだった。青は道に無い色になる。歩道の囲いの下。ジュースの機械の下。公園の水飲み場の受けには葉が三枚たまっていて、青い布は無い。ごみ入れは口が小さくて手が入らないので、横からのぞいた。蓋と、紙と、空き箱。
自転車置き場の前かごに手を入れて、底の土をかき混ぜた。指に土が付いた。
商店のシャッターは全部下りていた。下りた板と地面の間に細い隙間が一本あって、灯はしゃがんで右から左まで顔を寄せた。中は暗い。
道の脇の草は短かった。青い布が落ちていれば、上から見えるはずだった。
駅まで引き返すと、改札の前の列はもっと長くなっていた。灯は列の横を通って、傘立てをのぞいた。底に水と、紙が一枚。青い布は無い。
改札の駅員に、灯は一度だけ近付いた。窓の中でその人は下を向いて、何か書いていた。灯は言葉を考えた。青いお守り。糸が細い。字は読めない。全部言っても、それは物の説明にならなかった。灯は列の方へ下がった。
地下への階段を下りた。三段目で冷たくなる。その一段下で、灯は止まった。
はじめから思い返した。朝、家を出る時に持ち手に付いていた。それは覚えている。地下で箱の上に座った時のことは、覚えていない。弁当を食べた時のことも、覚えていない。棚の前を行って帰った時のことも、頭に無い。覚えていないところが、いくらでもあった。
センターの窓口は閉まっていた。板が下りていて、その下に紙が一枚。受付は午後六時までと書いてあった。灯は時計を見た。六時七分。
灯は板を手で打った。中で音はしない。もう打たなかった。祖母はまだ中にいる。いても、板は開かない。決まりだった。
交番の前を通った。中に人がいた。灯は前を行き過ぎ、少ししてまた前へ来た。中へは入らない。何を言えばいいのかが分からなかった。青い、糸の細い、字の読めないお守り。それだけでは、探しようがなかった。
お守りの表の字は、もう読めない。裏には何も書いていない。灯は書いたことがなかった。
階段を上がって、改札の前まで来た。もう一度探しに行くことを考える。面倒くさいと思った。それでも引き返した。橋も囲いも機械の下も、二度目はもっとゆっくり追った。無い場所は、ゆっくり見ても無い。
六時七分から七時になるまでの間に、灯は同じ道を二度歩いた。歩数は数えていない。数えるのを忘れていた。
灯は歩いた道の順を、頭の中で紙に書くように並べた。家から犬。自転車置き場。囲いと機械。店の前。公園と小学校と魚屋。橋と駅。数えると十一あった。十一のうちのどこで落ちたのかが分からない。
道の反対側も追った。行きは右、帰りは左を歩く。落ちたのが行きなら右にある。帰りなら左にある。どちらでもなければ、駅の中に落ちていた。駅の中は閉まっている。
空が暗くなるのはまだ先だった。七月の日は長い。それでも道の色が変わってきた。灯は自分の影が前に長くなっているのを見て、朝と反対だと思った。
橋の上まで来た時、灯は自分の足音が速くなっているのに気付いた。誰も待っていない。閉まっている場所は閉まったままだった。それでも足は速くなった。
最後に、朝の順で歩いた。家を出て、犬の前を通って、囲いを過ぎて、機械の下。順に歩けば順に出てくる気がする。犬は立ち上がらなかった。もう休んでいた。
街灯が一本ずつ点いていった。点く順番は決まっていて、駅に近い方が先になる。灯は三本目が点くまで橋の上にいた。
家に帰り着いた時には、街灯が全部点いた後だった。祖母の部屋の灯りが点いていた。戸は開いていない。母の部屋の戸はまだ閉まっていた。灯は言わなかった。言えば母は起きる。起きても、青い布は出てこない。
母が起きてくるまで、あと二時間。それまでに出来ることは無い。青い布は道に落ちているか、駅の中にあるか、もう誰かが拾ったかのどれかだった。拾った人が届けるとしたら、届く先は祖母の窓口だった。
窓口は九時に開く。あしたは九時に行く。学校が無いので、その時間に間に合った。
届いていれば、棚の箱のどれかに入る。番号が付いて、外からは中が見えなくなる。灯が覚えているのは傘の柄の札の番号のほうだった。四十一、九十、二百六。箱の番号はまだ一つも覚えていなかった。あした一つ増える。そういうこともある。灯が決めたのはそれだけだった。灯は上がり口に座って、鞄の持ち手を足の上に置いた。
鞄を足から下ろした時、持ち手が板に当たって、いつもより高い音がした。重さが変わったのだと灯は思った。お守りは軽い。それでも音は変わっていた。
上がり口の板は冷たかった。外はまだ温い。家の中の下の方だけ、朝と同じ温度が残っていた。
鞄の中の弁当箱は、朝と同じ場所に入っていた。包んだ布も、蓋も、そのまま。無くなったのは、外側に結んであった物だけだった。
灯は指を持ち手に置いたままで、しばらく動かさずにいた。母が起きたら、弁当箱を出さないといけない。出せば、持ち手が見える。見えても、母は気付かない。
白くなったところは、指の太さぐらい。糸の色が抜けたのではなく、そこだけ日に当たらなかった。当てると、そこだけ布の毛が短かった。指を当てると少しへこんだ。糸が入っていたぶんだけ、持ち手が細くなっていた。周りは手で黒くなっていて、白いのはそこだけだった。
結び目は固い。ほどいたことは、一度も無かった。




