5話(1) 三日前の山の異変
深夜――。
分厚い雲の切れ間から、満月の光が静かに差し込み、辺り一帯を淡く照らしていた。
既に日付が変わる時刻。
村は深い眠りに包まれており、家々の窓からは一つとして灯りが漏れていない。
住人たちは寝床に入り、表通りにも人影はなかった。
辺りは不気味なほど静まり返っている。
聞こえるのは、冷たい夜風が吹き抜けていく音だけだった。
――だが。
しばらくすると、月明かりの下を黒い影が横切った。
それは、一人の女だった。
頭からすっぽりと覆うフード付きの外套を纏い、自らの正体を隠している。
しかし、隠しきれない部分もあった。
フードの隙間から覗くのは、腰まで届きそうな長い茶色の髪。色白で整った顔立ち。
小柄で華奢な体つきではあるものの、成人した女性であることは見て取れる。
外套の内側では、豊かな胸元が布越しにも存在感を放ち、歩くたびに僅かに揺れていた。
そんな彼女が両腕で大切に抱えているもの。
それは、小さな赤ん坊だった。
胸元に布で包み込むように抱かれた赤ん坊は、時折小さな身体を蠢かせ、か細い泣き声を漏らしている。
女は周囲の家々へ視線を巡らせた。
やがて、一軒の家に目を留める。
最も近い場所にある家だった。
意を決したように敷地内へ入り込むと、女は納屋へ向かって歩いていく。
そして、扉へ手を掛けた。
ギィ……。
軋む音を覚悟していたが、扉は驚くほど簡単に開いた。
ほぼ同時に――。
赤ん坊が激しく泣き始める。
「あうぅ……」
「泣かないで……お願いだから、泣かないで」
女は慌てて赤ん坊を抱き寄せ、必死にあやした。
その声には焦りと、隠しきれない悲しみが滲んでいた。
しばらくすると、赤ん坊はようやく静かになる。
その小さな身体を、女は見つめながら僅かに唇を噛んだ。
ゆっくりと納屋の床へ、優しく寝かせる。
それから――。
踵を返し、走り出した。
「……待っててね」
去り際に零した声は、夜の静寂に溶けていく。
誰かに届くこともなく。
やがて場所は移り変わる。
此処は山の中腹。
鬱蒼とした雑木林の奥深く。
辺りは異様なほど静まり返っていた。
虫の鳴き声も、野生動物の気配もない。
吹き抜ける風の音すら聞こえない。
まるで、この場所だけ世界から切り離されているかのようだった。
月明かりも届かないほど木々は密集し、湿った空気には濃厚な苔の匂いが漂っている。
その異様な静寂と淀んだ空気が、森の不気味さをさらに際立たせていた。
だが女は、歩みを止めなかった。
頻繁に周囲を見渡しながら、何かを探すように前へ進んでいく。
近くの藪を掻き分けては――。
「……何もない」
小さく呟き、落胆したように肩を落とす。
それでも、また歩き出す。
同じことを何度も繰り返していた。
「!」
だが不意に、空腹を訴えるように、腹の奥から音が鳴った。
同時に足取りが重くなる。
視界も僅かに揺らぎ、身体がふらつく。
それでも、女は決して立ち止まらなかった。
何かを探し続けるように。
ただ前へ進み続ける。
ガサ……。
その時。
離れた位置にある茂みから、音が響いた。
女の足が止まる。
何かがいる。
そして――近づいている。
彼女は反射的に身構えた。
足元へ視線を落とすと、そこには一本の長い木の棒が落ちていた。
すぐさま拾い上げ、両手で握り締める。
震えを隠すように、棒の先端を前へ突き出した。
ガサガサ。
ガサガサ。
ガサガサ……。
茂みの揺れる音は、徐々に大きくなっていく。
もうすぐそこまで来ている。
そして――。
大きく揺れた茂みの奥から、巨大な影が飛び出した。
それは、巨大な猪だった。全長は二メートルを超えるほどの大物。
月明かりを受けた黒褐色の毛並みは逆立ち、血走った両目が女を真っ直ぐに捉えている。
太く発達した四肢が地面を踏み締める度に、大きな足音がするようだ。
あまりにも突然の遭遇だった。
女は息を呑み、目を見開く。身体の奥から恐怖が込み上げ、背筋に冷たいものが走った。
次の瞬間。
反射的に後ろへ振り返り、全速力で駆け出していた。
しかし――。
猪もまた、逃げる獲物を見逃さなかった。
低い唸り声を響かせながら、地面を蹴り、猛然と追いかけてくる。
「グルルル……!」
「ひっ……!」
迫り来る気配に、女の喉から短い悲鳴が漏れた。
背後を振り返る余裕などない。
ただ前へ。
必死に足を動かす。
だが、このままでは追いつかれる。
そう判断した瞬間。
女は身体を捻り、進行方向から左へ大きく逸れた。
猪の突進を紙一重でかわす。
――だが。
直後。
足元の感覚が消えた。
「あ……」
浮遊感。
次いで、身体が宙へ投げ出される。
視界が大きく回転し、天地が逆さまになる。
その先にあったのは――川だった。
谷間の底を、大量の水が勢いよく流れている。
川幅は広く、流れは激しい。
その周囲には、大きくゴツゴツした岩が無数に転がっていた。
女は抵抗する間もなく、そのまま落下する。
――ドォボンッ!!
大きな水音が響いた。
息が詰まる。
それでも女は、すぐに立ち上がった。
全身ずぶ濡れになり、外套も服も肌に張り付いている。
しかし、もはや気にしている余裕などなかった。
女は荒い呼吸を繰り返しながら、川を渡り始める。
流れに足を取られそうになりながらも、必死に対岸を目指した。
やがて――。
なんとか対岸へ辿り着く。
そこで初めて、女は後ろを振り返った。
そこには何もいなかった。
先ほどの巨大な猪の姿は、どこにもない。
既に去ってしまったらしい。
だが、その事実に気づくこともなく。
ただひたすら前へ進んだ。
さらに深い、山の奥へ。
その小さな背中は、やがて木々の向こうへ消えていった。
――そして。
長い夜が明ける。
空が白み始め、東の彼方から朝陽が昇った。
眩い光が山林を照らし出す。
夜露に濡れた木々は、磨き上げられた宝石のように鮮やかな緑色へ輝いていた。
森は再び静寂に包まれる。
いつものように戻っていく。
まるで最初から何一つ、異変など起きていなかったかのように。




