第36話 「そなたが元気そうなら」
公都を騒がせた事件から、数日。
街で指折りの高級宿、その談話広間の一画にスピネは陣取っていた。
目の前に置かれた茶は、すっかり冷めきってしまっている。気を利かせた宿の者が淹れ直そうとするのを、手を軽く振って控えさせた。その様子に他の客が眉をひそめている。
こちらに向けられる困惑の視線を複数感じつつ、魔女は嘆息した。
「良い迷惑、なのであろうな」
旅立ちにあたり、準備は従者に任せて、自身は部屋で鷹揚に待つ。貴族や富豪の、それが正しい所作というものだ。わざわざ談話広間に降りてくるのは、いかにも急かすようでよろしくない。宿にとっても従者にとっても、せっかちな者だと見られかねない。
だが、当の魔女からしたら、すぐにでも公都を発ちたい気分だった。
懐から手紙を取り出す。破った封蝋は辺境伯家の紋章。
文面は簡素だった――疾く戻るべし、と。
公都から辺境伯領の城塞までは、馬車でも二十日をゆうに超える。そのため、出立は公都邸詰めの従者たちが準備してくれていた。顔にこそ出さないが、彼らの物腰はいかにも慇懃無礼である。ただ、それをとがめる気にもならなかった。
「勝手に飛び出してきて、気ままに振る舞っておったからな」
苦笑気味にひとりごちる。結局は家出だったのだ。
公都に出れば、なにかあるかもしれないという漠然とした期待。
なにかあるどころではなかった。
同世代の少女と出会い、親交をかわした。
もしかしたら、より深い何かさえ――だが、それも終わってしまった。
自分の未熟が招いたことだ。あの者は、もういない。
天井を仰いだスピネだったが、そこへ不意に声がかけられた。
おずおずした響きの、聞き覚えがあるのに、聞き慣れない調子の声。
「……エルスピネス様が、お発ちになると聞いて、ごあいさつに……」
赤みがかった金髪。おずおずと上目遣いの茶色の瞳。
まったく馴染みのない、おとなしく丁寧な言葉遣いは、心地よくはないが――
「――向かいにかけよ。作法は気にせずともよい」
完璧に令嬢的な柔らかい笑みをうかべ、魔女は少女に応じた。
「何か頼むかや。支払いはわれが持つゆえ」
「めっそうもない、です。本当に、お見送り、だけで」
そういって、金髪の少女は恐縮してしゅんとしおれてしまう。
いったん口を開いて何かを言いかけ、しかし。
口をつぐんでから、スピネは別の話をきりだすことにした。
「……あれから、息災かや」
「はい、皆さん、親切にしてくださっていて、助かっています。雑用に洗濯とか、料理のお手伝いとか、荷物運びとか、いろいろ」
素直に笑みを浮かべる少女に、魔女は少し胸をなでおろした。
「そうだ。ちょっと針仕事に興味があって。誰かに教われないか頼んでいるんです。部屋に妙に古いクッションがあるんですけど、それを繕った黒糸の仕事がすごく綺麗で、見惚れちゃって……あ、すみません。しゃべりすぎ、ですよね」
「よい。そなたが元気そうなら、われはうれしい」
スピネの声は、少し硬かった。
テーブルの下、見えないところで拳をきゅっと握る。
二人とも話し出せないまま、沈黙のとばりが降りてしまった。
しばらくたって、口を開いたのは金髪の少女の方である。
「そうだ! お姉さんから、旅立ちの時はこう言え、って言われたんでした」
おとがいに指を当てつつ、彼女は口に出した。
「ええと――あなたの旅路に、女神さまのご加護がありますように」
少女の言葉に、魔女はふっと笑んだ。
「女神さま、か。そなた、アウグスタさまの言い伝えは知っておるかや」
その問いに、金髪の少女がかぶりを振る。
「なら、出立までの暇つぶしに、つきあってたもれ」
そうして、スピネは自分が知っている伝承を、かいつまんで話し出した。
最初はきょとんした顔の少女が、みるみる間に目をきらきらとさせる。
親が子に話すように、魔女はひとしきり語ってみせた。
「すごい方だったんですね、女神様!」
「とはいえ、旅路の守護にまでされては、ご迷惑であろうがな」
そこまで語ってから、スピネは改まって、言った。
「アウグスタさまには、きちんとした正式なお名前がある。聞きたいかや」
「は、はい!」
元気のいい返事に、わずかに間を置いてから、スピネは御名を口にした。
「ラルニース・アウグスタ・インペリエラ・ヴァス・ガナントゥース」
陶磁の鈴が唄うような声で、魔女は一連の音を口にした。
「いかめしい名前だの。けれど、真の名はもっと短い。かの御方にあやかろうと、子供にその名を付けるのが広まった。いまでは、しごく平凡な名となってしまわれた」
「平凡、ですか」
少女の相槌に、うなずきつつ魔女は言った。
「かのお方のように、偉人になってくれと願ったわけではない。ただ、お示しになられたその一端でもあやかれれば、という親の想いであろう。聡明であれ、勇敢であれ。美しく育ってほしい、百年の統治をしたように長生きしてほしい。これが、名づけの由来ぞ」
そこまで言って、魔女は目を伏せた。
「英雄であり、女帝でもあられた。ゆえに英雄女帝アウグスタ。けれども……」
やおら立ち上がり、スピネは金髪の少女にそっと近寄った。
恐縮してかしこまった様子の彼女。
その耳元に唇を寄せて、ささやく。
「……われが己を失った時、駆けつけたそなたこそ、われには英雄であった」
魔女は言葉を紡いだ。
なくしてしまったものなら、せめて。
いまはもういないあの子に向けて、これを伝えたかった。
「ニース。それが汝の名。そなたが忘れても、われは決してそなたを忘れぬ」
魔女の指がそうっと金髪の少女の顔をはさむ。
そして、当惑顔の彼女へと、優しく唇を重ねた。
琥珀の瞳の少女との楽しき日々を、想い浮かべながら。




