第37話 「とうてい、思い描けぬのだ」
惜別の口づけは、長かった。
しっかりと金髪の少女の顔を押さえたスピネは、唇を重ねて微動だにしない。
先に限界が来たのは、不意に唇を奪われた方だった。照れとは別の理由で顔が真っ赤になり、身じろぎしだす。魔女を手のひらでぺしぺしと叩き、こぶしでぽかぽかに変わる。そして、両手でむんずと魔女の肩をつかんで引きはがした。
「んもう、窒息しちゃうでしょうが! 何やってるの、スピネ!」
聞き慣れた声の、聞き慣れた調子。
その瞳は、琥珀の色にきらめいている。
魔女は、目を点にして固まった。
金髪の少女は自分の姿を改めつつ、不平をこぼしている。
「あれ? 銃士隊の外套じゃない? なに、この町娘みたいな恰好」
長いスカートをつまんで、ぺいっと離す雑な所作は、まさしく。
魔女は、みずからの唇に手を当てて、ひとりごちた。
「まさか――思い描いてしまった、と?」
声が震えないように努めて、訊ねる。
「そなた。自分の名前を、わかっておるかや」
「え? ニース。ニース・ファウストン」
目をぱちくりとさせながら、少女――ニースはあっさりと言った。
「やだなあ。銃士隊で顔を合わせた時に、堂々と名乗ってあげたじゃない――あ、でも。あの時の仕打ちは、まだ許してないからね?」
「そなた……そなたというやつは――」
スピネは顔を伏せ、ふるふると身体を震わせた。
「――あほう、あほう、あほう、あほう! われがどれだけそなたを……」
言い募るや、がばとニースに抱きつく。鴉羽根も、ばさばさと羽ばたいている。
「ちょ、え。待って。他の人の目もあるんだよ」
当惑を隠せない少女の言葉をさえぎるように、魔女は声をあげた。
「猟犬は役目を終えたら、すぐに戻ってくるもの。どこをほっつき歩いておった!」
「えぇ、そんな脱走した犬みたいに人を言わないでよ」
「同じようなものではないか!」
涙まじりの声でそういうと、魔女は両の手でこぶしを握り、ぽかぽか叩き始めた。
「痛い痛い。やめてったら」
たはは、と苦笑しながら、ニースはそっと抱きしめ返した。
「なんか心配かけた。ごめん」
「ごめん、ではすまぬ」
「じゃあ言わせてもらうけど、乙女の唇を二回も奪う方がひどいよ?」
そう言い返してから、少女は首をかしげた。
「あれ? 三回目だっけ。もう一回はたしか――」
言いかけたニースの唇に、かすかに頬を染めたスピネが指を当てる。
「口にするでない。あの作法はよくない。いや、悪いわけではないが……」
「結局なに。よいの? 悪いの?」
「言わせるでない、あほう」
魔女はふんと鼻を鳴らした。
「鈍感。朴念仁。唐変木。乙女の心をもてあそぶ乙女め」
じっとりと湿った視線で見つめられて、少女は眉を下げてみせた。
「そんな目しないで。だって、わたしにとってスピネは――」
言いかけて、ニースはたちまち神妙な顔になった。
「――いや。これ言っていいのかな」
「なにかや。われに言えぬことか」
不満を隠せない魔女の声に、ニースはややあって答えた。
「よく覚えてないけど、スピネが遠くに行っちゃって、その時さ」
少女の瞳が、澄んだ琥珀の色にきらめく。
「分かったんだ。あんたが、わたしにとって特別だって」
その言葉に、スピネの目が見開かれる。
「特別とは……どういう」
「んー。分かんない」
「……そなた、本当に残念だの」
魔女は嘆息した。苦笑しながらニースが続ける。
「いまはまだ、変に言葉にしたくないっていうか。ひとつ上の何か、みたいな」
「はっきりしないことよ」
「はっきりしていることもあるよ」
ニースはスピネの手を取り、指を組むように握った。
「スピネにふさわしいわたしになる。いまはまだ足りないけど。きっと、なる」
琥珀の瞳が、黒曜の瞳を覗き込んで、告げる。
「だからもう、スピネには遠くへ行ってほしくない。そばにいてほしい」
魔女が握りあった手をそっと掲げ、自らのひたいをこつんと当てた。
「覚えておるかや。思い描くことこそ、魔法の本質と」
「うん」
「思い描けぬ魔法は、どうあっても実現できぬのだと」
「うん」
「あほう。とうてい、思い描けぬのだ」
黒髪の少女が、顔をあげる。
頭の鴉羽根が、小さく羽ばたいた。
涙は、もはやこぼれない。目を潤ませつつ、彼女は告げた。
「そなたのそばにおらぬわれを、想像すらできぬよ」
二人は宿を出た。出立の準備をしていた従者に、スピネは一言。
『不用になった。荷物は銃士隊へ送ってたもれ。済まぬな』
なんともさらりと言ってのけたのである。
「……いいの? あれ」
「その場で金貨を渡して、一筆書くと言ったら黙ったであろう」
「お貴族様、怖いわぁ。でも、実家には、それで済まないでしょ」
「なんとかなろう。力づくで連れ戻せる者は領国にはおらぬ。くくっ」
「魔女様、怖いわぁ。おっかないわぁ」
「そなたは愛でてやるから、安堵せよ」
「ぜんぜん安心できないなあ――あ、でも」
歩きながら、うーんと背筋を伸ばしつつ、ニースは言った。
「使い魔契約はどうなったんだろ。なんかさ、不自然に嬉しい、て言うのが湧いてこないのよね。前はそれに振り回されてたけど」
明るい声で言う少女に、魔女は、ふむ、と声をもらした。
「――試してみるか」
「……はい?」
「おすわり」
言われた途端、ニースの足が止まった。
そのまま、道端なのにもかかわらず、ぺたんと座り込む。
「え。あれ?」
驚きと苦笑がないまぜの表情を、少女が浮かべる。魔女は続けて言った。
「ふせ」
「あっ、はい……はぁ!?」
その場にぺたっと伏せたニースが、目をしばたたかせた。
スピネはと言えば、頭の鴉羽根をぱたぱたと羽ばたかせている。
「愛いやつ。愛いやつ。もう一度、おすわり」
「はい――って、もぉ」
「おまわり」
「ちょっ……世界が、世界が回るぅ」
少女がくるくるとその場を回り始める。言葉の割に、やけに軽妙な足取りだ。
「くふ。くふふ。はは、あははは」
たまらず、カラスの魔女が笑い声をあげると、
「ふふ、ははは。あはははは」
銃士の少女もまた、愉快そうに笑いだす。
二人の賑やかな笑い声は、手を取り合うように共に青い空に昇っていった。




