第31話 「きらめき」
――月明かりが優しく照らすはずの満月の夜。だが、あいにくと雲で翳ってしまい、夜のとばりはどこか淀んでいた。その中を、大きな、それは大きな怪鳥が羽ばたく音が、静寂を破る――
「ァアア! ァアア!」
鳴き声はかまびすしく街路を通り抜け、公都の住人は恐れをなして家にこもっている。そんな中、灯りを手にこちらを向けて騒いでいるやつらがいる。
ああ、うっとうしい。わずらわしい。
翼を大きく羽ばたかせる。風によらない力が、そんなやつらを街路に転ばせる。
愉快だ。力をふるうたびに、胸の裡の淀みを少しだけ気にせずに済む。でも、暴れるたびに、ずぶずぶと泥へ沈んでいく感覚がぬぐえない。どこまで沈んでしまったのか。首元までもう泥に埋まっていないか。
いや、そんなことはない。わたしは鴉だ。自由に空を飛べる鴉だ。
――ちがう、ちがう、ちがう。
「ァアア! ァアア!」
われは、スピネ。あの子から、そう呼ばれていた。きちんとした名は、もっと仰々《ぎょうぎょう》しいけど、なぜかそれを思い出せない。
翼をばたつかせて、目に付いた大きな円柱のいただきへ留まる。少し翼を休ませたい。ずっと、街の中をぐるぐる飛んでいるから。なんのために? 分からない。
何かを置き忘れてきたような。たしか、ここも――
「ァアア」
そうか、ここは街歩きで一緒に来た広場だったか。広場じたいに何か関心があった気がするけど、なんだったっけ。
『主人公が絶体絶命になると――』
不意に、あの子の言葉が頭をよぎった。何を言われたんだっけ。すごく能天気で、あの子らしい言葉だった。あの時は少し腹がたったけど、同時におかしくもあった。
「ァアア……」
おなかすいたなあ。なにか食べたいなあ。
昼に人がいっぱい集まる場所へ行って、適当についばんだけど。丸のままの野菜は足しになっても、味気なかった。
食べ物と言えば、あの子がつくってくれたお昼ご飯は美味しかったなあ。すごく雑な調理。パンを割って、野菜と肉を詰めるだけ。似たものは食べたことがあるのに。凝ったものでもないのに。あの子の隣で、ぱくついたあれは本当に美味しかった。
何を、食べただろうか。どんな味が、しただろうか。
もう、わからない。記憶は泥に汚れて読み取れない。いまはもう、嘴になってしまっているから。あんなふうに食べられない。あの子の隣で、もう食べることはできない。
ああ、どうしてなんだろう。
「ァアア、ァアア!」
嘆きの声は、鳴き声になってしか発することができない。きょろきょろと首を巡らせ、ばささっと翼をはばたいてから、思う。
なぜ、あの子と街歩きに出たんだっけ。
そうだ。向こうから誘ってくれたんだ。われにいたずらされたくせに、妙な子だ。あの時の、あの子の肌に触れるのは、髪をいじるのは、本当にどきどきした。
侍女にかしづかれる暮らしは、おぼろげながら覚えている。人に自分の身体を触られるのは、慣れていた……慣れていたかな。ううん、そんなこと、いまはいいや。
同世代の女の子に、あんなふうに自分から触れることはなかった。なんであんなことをしたんだろう。どうしてしちゃったんだろう。
あの子の肉付きが、よくない。あの子が無防備に寝ているのが、よくない。さわりたくなったんだから、仕方ない。われはわるくない。
でも、いまはもう自由になる手がない。すっかり鴉の翼だ。
あんなふうにさわれない。つつけない。いじれない。
なくしてしまった。変わってしまった。
どうして、こうなってしまったの。
「ァアア……ァア」
小さく鴉は鳴いた。首をひょこひょことかしげ、まばたきをした。
考える端から、なんだかわずらわしくて仕方ない。もう、いっそ。このまま考えないほうが、わたしはきっとらく。
けれども、胸の裡に残るきらめきから、意識を離せない。
「ァアア」
街歩きの最後、きれいな夕焼けだったなあ。
悲しいことを言われて、でも吞み込んだおぼえがある。あの子の申し出に、いやと言えなかった。普段は変な顔が多いくせに、あの時のあの顔はずるいと思う。
『わたし自身の意思で、あんたを』
なんだっけ。どうしてくれるんだっけ。わからない。
でも、信じていいことだけはわかってた。きらわれたわけではないのは、ちゃんとわかったから。ただあの子は、あの子自身を好きになれずにいるだけなんだ。
そばにいるよ、と伝えたかった。でも、口には出して言えなかった。
言えなかった。なんで? どうして?
「ァアア」
わかんない。なんだか、考えるのが面倒になってきた。
けれど、これははっきりおぼえている。言葉にできなかったから、手を伸ばして、袖をつまんだ。袖をつままれたのに、あの子は振りほどかなかった。まだ、近くにいていいんだ。無理に遠ざからなくていいんだ。
追いかければ、追いつける場所に立っていていいんだ。
だから、あの時、駆けつけた。
駆けつけた後は、考えてなかった。
それが、よくなかったのだろうか。
「ァアア、ァアア!」
行かない方が、よかったのかな。
「ァアア、ァアア!」
鳴き声、うるさいなあ。ああ、わたしの鳴き声か。かまびすしいのは、自分がみにくい存在だからなのか。
もう、いろんな記憶は泥にまみれて、まともに思い出せない。
辺境伯家の想い出は、まっさきに泥に呑まれた。ううん、自分で沈めてしまった気もする。わざわざ、掬い取りたくもない。どうでもいいや。
でも、あの子との思い出だけは、まだきらめいている。
そのきらめきが胸の裡にあるうちは、スピネでいられる気がする。
だから。
「ァアア、ァアア」
銃を持った人たちが、狩りに来るなら、その先頭にあの子がいてほしい。
それなら撃たれてもいい。ほかの誰かなんていや。
〈あの子自身の意思で、わたしを〉撃ってくれるなら。
たぶん、このきらめきを抱えたまま……
きらめき。きらきら。ふふ。ふふふ。
……あれ、向こうで、なにか光った。
灯りが、揺れながら、こっちに、近づいてくる。
ああ。そんな、そんな。
「ァアア、ァアア!」
ああ。きてくれた。きてしまった。
「ァアア、ァアア!」
――鳴き声に言葉が紛れて、もうスピネには分からない。
自分がさっきまで、何を望んでいたのか。
きらめきがなんだったのか。
「ァアア、ァアア! ァアア!」
自分の鳴き声が、誰を呼んでいるのかさえも――




