第28話 「そもそも、あの子とは」
ニースは、うなだれて寮の自室へ戻ってきた。
後ろ手に扉を閉め、鍵をかける。のろのろと数歩ほど、部屋の中へ足を進めた。
クッションたちを足でいとわしげに払いつつ、がくっと床に膝をつく。
ぺたんと尻をついて座り込むと、胸の奥から深く深く嘆息した。
ため息というには重すぎ、泣き声というには渇いている。
少女は服のポケットをまさぐっていたが、ややあってつぶやいた。
「また、なくしちゃったんだ……」
スピネからもらった手紙は、懐のどこを探してもない。
まごついてから、彼女はうそぶいてみせた。
「いいんだ。あんな手紙、本当に事務的でえらそうで、いかにも――」
――あの子らしく、流れるように美しい字だった。
思い出して、少女は唇をかんだ。手をのばしてクッションの群れを探る。
継ぎだらけのいっとう古びたものを取り、胸元へぎゅっと抱きしめた。
顔をクッションにうずめつつ、ニースの脳裏はある光景を思い描いてやまない。
連装式拳銃のほかに、長射程高威力の小銃を携えた銃士たち。
国を治める暫定統領の要請によってのみ許可されている兵装。
それが、槍ぶすまのごとくずらりと並んで、大鴉の怪異を狙う。
新時代の武装。合理の産物。伝統の魔法を正面から打ち破る、強大な火力。
人間相手には憚られる凶器も、怪異に対しては遠慮なく放たれるだろう。
銃士隊の力をみせつけるのに、恰好の標的なのは明らかだ。
ニースは、ぶんぶんとかぶりを振った。
並べられた銃が火を噴いた先にあるものが、どうなるか。
考えるだけでも、全身が寒気だつようだ。
「何も知らなければ、はしゃいで参加できたんだろうな」
ぼそりと少女はつぶやいた。口をとがらせて、さらに続ける。
「そもそも、あの子とは不本意な出会い方だったし」
命を救ってもらった恩はある。だけど。
『おすわり』
不本意に膝をおってしまうことになったし。
『おまわり』
あんなふうに人を回すなんて、絶対におちょくっているし。
『ふせ』
床を舐めさせる寸前まで這いつくばらされて。
『無知を正してやろう』
人を小ばかにしたような口ぶりで接してくる。
『首輪なども、ことのほか似合うことであろう』
まるで愛玩動物じゃないか。
『そなたは猟犬』
人のことをなんだと思っているのさ。
『われの使い魔よ』
妙なもので人を縛りやがって。誰が頼んだのよ。
心の中で毒づくごとに、クッションを抱きしめる腕に力が込もってしまう。
ややあって、彼女の口から、いとけない声がこぼれた。
「……わたし。どうしたらいいの」
こらえきれなかった。
毒づくたびに、自分で思った言葉が胸の裡を抉り、血を流している。
黒髪のあの子を否定しようと思うと、心の臓が締め付けられて痛い。
目のすぐ下まで、冷えた水でいっぱいになり、いまにもあふれそうだ。
「……ちがう、ちがうちがう」
もう一度、激しくかぶりを振って、怒鳴るように少女は言った。
「これは使い魔の感情だから。無理やり、そう感じさせられて――」
そこまで言って、ニースは視界の端にあるものを捉えて、ハッと息を呑んだ。
抱えていたクッションを掲げ、あらためてじいっと見る。
――薄々、妙だと思っていた。
孤児院から持ってきた、下手な継ぎでごまかしている思い出のクッション。
あんなに力任せに抱きしめて、ほころびないはずがない。
けれども。さりげなく、しかし、丁寧に。それは施されていた。
黒い糸が、クッションの随所をかがっている。
縫い目は目立たないよう。
布地は傷つけぬよう。
柄をそこなわぬよう。
少女には、まるですぐそばで見えるかのようだった。
白くしなやかな指が、針を手繰るさまを。
その指が、長いぬばたまの髪をかきあげるさまを。
つややかな黒髪の向こうに、夜闇のような深い色の瞳が――
ニースのまなじりから、しずくが頬を伝って落ちた。
「う、うう、ううう……」
ひとたびこぼれると、あとはもうとめどなかった。
クッションに顔を押し付け、うずくまるように背中を丸める。
涙がたちまちに頬を濡らし、嗚咽がこみあげて止まらなかった。
「……スピネ、スピネ、スピネ!」
何度も何度も呼ばわりながら、少女は思い起こしていた。
『愛いやつ』
いつも髪を撫でたがってくる。指でいじられるのは、恥ずかしかった。でも、あんなに優しく、人から触れてもらったのは、これまでの人生ではなかったのだ。
『不憫に思うてな』
はっきりとそう言ってくれる人が、どれだけいたか。銃士隊の皆は、弱くあることを決して許してくれない。憐憫を素直に示してくれるのは、あれが初めてだった。
『出来心ゆえ』
そんな理由でもじゃれてくれる同い年の子が、いただろうか。孤児院は、一蓮托生の場だ。生きるのに皆必死で、たわむれる余裕はない。銃士隊に来ても、それは変わることはなかった。
銃士隊の正式登用に落ち続け、少しずつ色あせていくような日々。
あの子が来てから、それが本当に一変したのだ。
黒一色でよそおったくせに、日常に鮮やかな色彩を連れてきた少女。
号泣しながら、ニースは自問した。
僚友? あるじ? 友達?
どれでもありながら、どれも物足りなかった。
あの子のことを、なんと呼べばいいのだろう。
つたない言葉では、言い表せられない。
言葉を思いついても、もう伝えられない。
遠くに行ってしまって。 落としてしまって。 無くしてしまって。
何度も繰り返した不運と失敗なのに、こんなにぽっかりと胸が空くなんて。
「――あの子は、わたしの、特別だったんだ」
小さくつぶやくと、少女は顔をくしゃっとしかめた。
また嗚咽が、喉の奥からせりあがってこようとした時。
部屋の扉が、不意にノックされた。
「ニース、いるかい。だいじな話がある。お嬢さまのことだ」
先輩銃士、クーンの声だった。
聞き慣れたはずの声。常ならば、快活さを隠せない女傑の声。
けれども、いま聞こえた声は、まるで初めて会う人のように響いた。
「……どうぞ」
袖口で涙を拭きつつ、ニースは立ち上がり、錠をはずした。
扉が静かに――普段なら勢いよく開けるだろうに――丁寧に開けられる。
しずしずと入ってきた人物を目にして、少女は訊ねずにいられなかった。
「……あんた、誰なの?」




