第36話 ダンジョングルメオンライン
窓の外は灼熱の太陽が照り付けていた。
でも、ここはひんやりと冷房の効いた八神家のダイニングルーム。
午前中の勉強会は昨日と同じメンバーで、夏休みの課題にうんうん唸ってる。
そんな時間もようやく終わる。
「あ、お昼の時間だね。夏休み課題の時間はもうおわりでいいでしょ」
小恋路の声で集中力が途切れ、みんながペンを置く。
「ああ、頭いてっ……やっとかよ」
武田は国語の課題を雑にバッグに仕舞う。
美穂が、背伸びしながら優斗兄さんに笑顔を振りまき、話しかける。
「優兄、今日のお昼どうするの? うちに来ればソーメンくらいなら作るけど」
うちの両親は仕事で不在だから、普段はあるもので済ませている。
そしたら、優斗兄さんがニヤリと笑みを浮かべ僕に話をふってきた。
「翔太、今日も奢ってくれるんじゃないのか?」
優斗兄さんには、勉強中の合間に設けた休憩時間に「例の件目途がついたよ」と遠回しにDP借金が解決したと伝えた。そしたらこれだ。
「え、翔兄、二日連チャンで奢り!? ヤリー、ゴチになりまーす!」
美穂、滅茶苦茶うれしそうだ。
ちょうど、話を差し込む余地が出来た時を見計らい、憑依してるフェアからの念話が僕の頭の中に流れ込んできた。
(翔太様、会食の準備はできてますよ~。PDSを通じて新しいバーチャルなお昼をお楽しみくださ~いですぅ)
同時に頭の中に流れ込んだ情報の山には、“会話用カンペ”と、これからどんな会食を催すのか、大まかなイメージ情報が入っていた。
(へー、そんなことできるんだ)
その会食情報から、自分の果たす役割をピックアップしたら、頭の中の“会話カンペ”に書かれた内容を、いかにもそれらしく、自分の口から発信する。
「まあ、いいけどさ。どうせ、今日は少し凝ったお昼にしようかと思ってたところだし」
+6.3兆DP残高。
心にゆとりが生まれた、左団扇のバブリー翔太。
大盤振る舞いするのに、一切の罪悪感がないって、こんなに清々《すがすが》しいものだったんだ。なんか、いい気分。
(そんな翔太様に相談です~、小恋路ちゃんが憑依中のフェア複製体に金額1兆DPする『剣聖姫』のレジェンドジョブ、おねだりしてますけど、どうしましょう?)
(絶対駄目って伝えといて)
(アイアイサー)
軽くフェアとやり取りしてたら、気分アゲアゲで前のめりになった美穂のほうから、お昼の提案が聞こえてきた。
「えっ、なになに、マンション屋上でバーベキューでもしちゃう。みんなで食材を買いに行くのも楽しそうでいいと思うけど……」
僕的にはそれでもいいかと思うけど、もうフェアが会食をセッティングしちゃってるから、今更感があるし、美穂の願いは今回は叶えられなさそう。
そんな結論に至った次の瞬間には、こちらの話に持っていく頭の中の“会話カンペ”が更新される。僕はそれを読み上げる。
「お、それもいいけど、美穂の案はまた今度にしようよ。せっかく、ここにPDSっていう最新ゲーム機あるからさ、それを使わなきゃ損じゃない」
「またまたー、翔兄! いくらこのゲーム機が凄いからって、さすがにさ、このPDSからお昼用意できるわけないでしょ。翔兄ってすぐチョロイン扱いして、わたしを揶揄うんだから……フンだ!!」
「はいはい、美穂からの信頼度がまた下がるの、意味わかんないんだけど、今は横に置いといて」
家から持ってきた手提げかばんから、卓上プレイスタンドを取り出して机の上に置き、そこにPDSをセットする。
「このゲーム機さ、昨日の夜、寝る前にストア漁ってたらさ。なんかマジで凄い機能、発見しちゃって――」
話しながら、PDSのスイッチを押すと、ゲーム初期画面が立ち上がる。
「このPDSゲーム機の無料ダウンロードコンテンツに、『ダンジョングルメオンライン』っていう、バーチャル体験できるグルメ機能が付いてるの、みつけたんだ」
「え、なにそれ……バーチャルって仮想って意味じゃないの。それじゃあ、お腹ふくれないよ」
「って、普通はそう思うでしょ。でも違うんだな。これが。今日のお昼は、それ体験してみようと思ってるんだけど――どう、試しにやってみたくない?」
みんなの顔にそれぞれ視線を動かし、意見を求めた。
武田は――
「お、また新しいこと始めんのか。俺はいいぜ。もし期待外れでも、スカイイーツでまた頼めばいいしな」
小恋路は――
「ちょっと、どんな感じなのかわかんないけど、面白そうだから、わたしはやってみてもいい派だね」
美穂は――
「今日は天気いいし、屋上でバーベキューしたら、気持ちいいと思うんだけどなあ、でも、小恋路姉も賛成するんだ。うーん……翔兄のことは信用できないけど……小恋路姉が賛成にまわるなら……わたしも賛成にしとく」
優斗兄さんは――
「みんながやりたいなら、俺は止めはしないよ」
結果は、武田と小恋路が賛成派。美穂は消極的賛成派にまわり、優斗兄さんは中立派だった。でも内心では、フェアのやることにもう口出しする気はなさそうだ。
そんなわけで、僕の周りにみんなが集まり、今後の様子を見守る体制に移った。
「じゃあ、ダンジョングルメオンラインを起動するね」
僕がPDSから目的のゲームを選択すると、画面から四枚の透明なウインドウがふわっと宙にひろがった。
タイトル画面がでて、会食幹事妖精フェアが、いつも間にか登録したお店を選択すると、「へい、らっしゃい」という威勢のいい掛け声が、PDSコントローラーマイクから鳴り響く。
「え、このウインドウ画面、もう、どこかのお店につながってるの?」
興味津々《きょうみしんしん》に美穂が質問を投げかけてきた。
「そうだよ。まあ、みてなって」
美穂が不思議そうに、宙に展開した四つのウインドウ画面を横から眺める。
「大きな正面ウインドウが店内カウンター映像だね。左がオーダー画面、右が注文した合計金額、手前のが“手を突っ込む用”だね」
正面のウインドウは、僕の顔の動きに合わせ、微妙に視界が動く。
そのお店は、木をふんだんに取り入れた温もりのある内装で、高級感が滲み出ている感じがする。
ただ、至る所にさり気なく昆布が装飾品として使われていた。
例えば、カウンター壁の生きた魚が泳ぐ巨大水槽の中には、しっかり海草が揺れている。
取り皿は、昆布のような質感とデザインを取り入れている。
壁際の切子障子は障子紙の代わりに、薄く透けた削り昆布が使われていて、なんだか、個性がある感じがする。
カウンターで働く板前さんは、真白な調理白衣姿で、髪は昆布とワカメが合わさった質感で、仕事の邪魔にならないよう、後ろで結んでいる。
髪以外は人間と変わらない外見にちょっとホッとした。
「へえ、このお店の様子、本物だよね。正面のウインドウに映ってるお店はどこのお店なの?」
小恋路は、フェア複製体から詳しい情報を受け取っているはずなのに、あえてみんなのために質問を投げてくれる。
「C級高岡ダンジョン、昆布王国の下町にある寿司屋『昆布大将』。昨日の夜、登録しといたんだ。みんなもあとで『ダンジョングルメオンライン』ダウンロードして試してみて。立ち上げたら、無線IDの登録番号を送るから」
「ちょっと待てって。それって……あれかよ。ゲームの中の“ごっこ寿司屋”じゃなくて、本物の寿司屋ってことか?」
武田は身を乗り出し「バーチャルじゃなかったのかよ」と呟くと信じられない表情で、ウインドウと僕の顔を交互に見比べる。
(まあ、そう思うよね。カンペ読んでる僕もびっくりしてるし)
「そう。本物。ここは八神家のダイニングだけど、この窓の向こうはダンジョンの寿司屋のカウンター席なんだよ」
美穂も半ば呆れかえったような表情で溜息をつくと、首を振りつつ、率直な感想を述べる。
「なにそれ……自宅にいながらダンジョンの名店で寿司って、もうゲームの領域こえてるし」
一番冷静な優斗兄さんも、大きな溜息をついてから、なげやりに答える。
「もう、俺は何も言わんからな。これがどれだけ凄いことなのか、理解できない奴に話すのも面倒だ。ただ、このゲーム機、絶対爆発的に売れることは間違いないな。本当に先が思いやられるが……」
みんなの意見が飛び交う中、割って入る様に、声を掛けてくれたのが接客スタッフだった。
『お客様、いらっしゃいませ。お茶とおしぼりです。ご注文決まりましたら、タッチパネルで頼むか、直接、板前さんに注文してくださいね。ではどうぞごゆっくり』
ただ、このスタッフみてたら、どうもデジャブというか、同類が間近に居るので、何だか、不思議な感覚に囚われてしまう。
美穂が横から口を挟む。
「え、妖精が接客スタッフなの? なんかさ、斬新すぎるでしょ」
そう、二十匹近くもの妖精が、接客スタッフ用ユニフォームを着て飛び回る様子は、なんともメルヘンチックな店内に映った。
そう思ったところ、フェアからまた更新した解説情報が頭の中に注ぎこまれる。
それによると、この妖精さんたち――。
フェア本体が、僕に無断で『卵生成』スキルを使って『妖精卵』を生み出し、『次元収納』を経由して向こうのお店にキラーパスしたらしい。
今ここで飛び回っているのは、そこで孵化したばかりの赤子妖精たちだ。
しかも、今日この時間帯を貸し切りにするために、この子たちをまとめて身売りしたとのこと。
生まれて直ぐに売り払い働きに出すなんて、なんて鬼畜な所業なんだろう。それを平然とこなせてしまうフェアさんは、今日もサイコで最強だった。
「しかも、板前さん、昆布頭って、もう何が何やら。どこから突っ込めばいいんだろ」
(ホントだよ。昆布人板前と妖精のダブルコンボって、どうでもいいけど、凄い絵面)
「とりあえず、何か、頼んでみるね。大将、お任せで、採れたて新鮮なネタで握ってもらえるかな」
ゲーム機のマイク越しに頼んでみると、向こうから威勢の良い声がかえってきた。
「あいよー」
昆布人板前さんが最初に握ってくれたのは、透き通った白身に、削り昆布の細切りが一筋のった握りだった。
「へい、お待ち。きょう一番の“高岡ダンジョン真鯛”だぜ。ゆっくり噛みしめて、味わいな」
「はい、じゃあ、いただきます」
僕は、手前のウインドウに手を差し入れる。すると、向こうのお店に僕の手が現れた。
そのままカウンターの盛り皿に置かれたお寿司を一貫つまみ上げ、手前の醤油皿にチョンとつけて、口いっぱいに頬張る。
すると、口の中に旨みと触感のハーモニーが至福の余韻を生み出して、昆布の旨みと鯛の上品な香りが鼻の奥に広がる。
――これ、うまっ。マジで旨い。
「どう、翔太……」
「ここで、『幻覚でした』ってオチはやめてくれよ」
「ねえねえ、翔兄、余韻に浸ってないで、早くコメント言ってよ」
「こいつら、何回、俺の価値観を壊すんだ。探索者育成学校に通うのが、無駄な時間に思えてきたんだが……」
そんなみんなからの期待の目に答えて、自分の思った感想をありのままに伝えた。
「回転ずしより、何倍も旨い。ここ正解だよ」
僕の言葉が切っ掛けで、場が動き出した。
武田は「じゃあ、俺もやってみるか」とかばんからPDSを取り出し、小恋路は「翔太、ダウンロードどうするの、教えて」とやり方を聞いてくる。
美穂はここがチャンスとばかりに、甘え口調で優斗兄さんと二人で一緒に準備に取り掛かる。
そして、いつのまにやら、八神家のダイニングキッチンは、名店お寿司屋のカウンターに早変わりしていた。
みんな思い思いに好きなネタを注文して、美味しいネタがあれば、共有して注文しあう。
「削り昆布のいくらの軍艦巻き、これ超、うめーぞ。おっちゃん、同じの、追加で五貫頼むぜ」
「あいよ!!」
僕はというと、夏と言えば、イカそうめん。こりこりした触感とつるっとしたのどごしが溜まらない。二杯もお代わりしてしまった。
他にも、お勧めのとろろ昆布とサバの押し寿司も食べたら、ほっぺたが落ちそうだったし、特上マグロのお寿司は何貫でもいける美味しさだった。
たまに飲む昆布茶が、お寿司の余韻を心地よく引き立てて、新たな魅力を新発見した気分。
「これさ、スカイイーツより便利だし、自宅に居ながら味わえるお手軽感もあって、今日、わたし凄い発見した気分よ。翔太、ありがとね」
種類は違うけど、二人とも新しい発見をしたという共通点がうれしくて、なんだか頬が軽く緩んでしまう。
「いやいや、僕はPDS起動しただけだし、後はどこぞの『小さなラスボスさん』の段取りのおかげだよ。楽しんでもらえたなら、それで十分」
「そうね。悪魔の妖精の鬼畜度も半端ないってわかったし、あんまり深く追及するのはやめときましょうか」
小恋路から、毒舌つきの感謝の言葉をもらったけど、これ全部、会食幹事妖精フェアさんのお手柄だと思う。
(えへへ、翔太様からの感謝の気持ちさえあれば、フェアは火の中、水の中、なんでも叶えちゃいますよ~)
(いや、ほどほどでお願いします)
ただ僕自身も、八神家にいながら、こんなに贅沢ができるとは思わなかった。
美穂も十分旨いお寿司を堪能したようで、僕に感心の目を向けると、徐にこんな言葉を口にする。
「探索者になったら、こんな感じでご飯食べたりできるんだ。翔兄ですら、こんなに羽振りよくなれるんだったら、来年、わたしもなろっかな? 探索者に」
(おいおい、美穂。翔兄《《ですら》》ってどういう意味かな。お兄ちゃん、落ち込むよ)
その言葉に反応した小恋路が美穂に向かって注意を引く発言を残した。
「美穂ちゃん、考えが浅いわね」
「小恋路姉、なに? どういうこと?」
「ダンジョンバスターズのゲーム内もDP使われてるでしょ。あれ、普通にネット決済でつかえるよ。わたし、それで昨日の夜、ネットで新しい夏服買っちゃった」
「え、すごっ! わたし、知らない間にゲームしながらお金稼いでたってこと…… ねえねえ、小恋路姉、あとでやり方教えて!」
「仕方がないわね。いいわよ」
「やったー!!」
そんな二人の会話を横目に、最後の締めのネタを頼もうとした時、僕は一つ閃いてしまった。さっそく、その閃きを大将に持ち掛けてみた。
「大将、僕さ、卵生成スキル持ってるんだけど、その卵使って、だし巻き卵のお寿司握ってもらうことってできる?」
「ほう、お客さん、中々いいスキルもってるじゃねえですかい。試しにスキルを使って生成した卵を見せてもらってもようござんすか」
(フェアさん、ごめん、お仕事手伝って)
(あいよー)
(……さっそく真似しちゃったか)
僕に憑依してるフェアさんは、僕自身の心をくみ取って、最適解のフェアさん特製モリモリバフ卵を作ってくれた。
その作った卵を、向こうのお店と通じるウインドウ越しに渡した。
受け取った側の大将は卵をしげしげと眺めると、目を大きく見開いて、僕に荒々しく声を投げかけた。
「お客さん、こりゃあ、特上の聖命卵じゃねえですかい? そんじょそこらじゃあ、お目にかかれねえ品ですぜ。お客さん、すまねえがこれ売っては貰えねえでしょうか?」
(って言ってますが、フェアさん、何をしたの?)
(ここの昆布人のみなさん、ウニ人との長年に渡る争いで人口減少してるみたいだったので~、子作りしやすくて~、聖命卵の効力で命が宿りやすい栄養価の高い卵を作っちゃいました)
同時に僕の頭の中にクエスト関連の情報が流れ込み、ここのご主人に聖命卵を百個ずつ納品するたびに、昆布王国限定のレアアイテムがランダムで手に入るという裏情報を知ることができた。
しかも、その納品用の卵については、僕の卵専用収納スキル『卵BOX』の中に、すでに千個ぶん作成・ストック済みだという連絡までセットになっていた。
(あ、そういうことね。で、僕にどうしろと)
(適当に言い値で売っとけば、最初の取っ掛かりとして、ここの常連さんになれますよ)
クエストを見つける鼻も、クリアまでの道筋を引いてくれる段取り力も一級品で、おまけにチュートリアルみたいに達成ルートまで込みで面倒を見てくれるフェアさんは、やっぱり色々まとめてチート妖精だった。
僕の頭の中で、一瞬の間に行われたフェアの助言を参考に、大将に返事を返す。
「いいですよ。まとめて百個単位で売ります。売値はそっちの言い値でどうですか?」
そう口にした瞬間、カウンター越しの大将は一度だけ大きく目を見開き、それから今度は値踏みするような、いかにも慎重な顔つきで僕を見据えてきた。
「……随分と太っ腹なお客さんだ。だったら、こっちもケチな真似はできねえな」
大将はニヤリと口元だけで笑うと、値段のことはひとまず棚に上げたまま、手早く板場のほうへ声を飛ばした。
「よし、商談成立ってことで、まずはこの聖命卵でだし巻きいってみましょうや。腕によりをかけさせてもらいやす」
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
そうして売買の細かい話は、フェアさんとお店側で勝手に詰めてくれることになり、僕の目の前では、特上の卵を使っただし巻き卵寿司が、みるみるうちに形になっていった。
「本当はよう、お寿司屋で出す卵焼きってのは、今作ってる焼きたて熱々じゃ出さねえんでさ。熱いまんまだと、ネタもシャリも一緒に温まっちまうからねえ」
大将はそう話しながら、焼き上がった卵を手に取って、ちらりとこちらに見せてくる。
「だからうちじゃ、いつもはちゃんと冷ましてから出してるんで。……けど今日は特別に、『温度魔法』ってやつで一気に冷ます裏方の仕込みを、お客さんにだけお見せしましょうや」
そう宣言すると、大将は卵の上にそっと手をかざし、小さく呪文を唱えた。
その声はPDSのマイクでも拾えないほどの呟きだったけど、さっきまで湯気を立てていた表面が、みるみるうちに落ち着いていく。
大将のネタの仕込みを感心しながら眺めていると、横から興味深そうな顔をした武田が僕らのやりとりに加わってきた。
「お、なんか旨そうだな。大将、俺にも卵の寿司、2貫握ってくれよ」
「あいよ!!」
間も無く、フェアさん特製もりもりバフ卵を調理して、名店の味として完成した、だし巻き卵のお寿司がカウンターの盛り皿に、ゆっくりと置かれた。
「へい、お待ち。うち自慢の“聖命だし巻き玉”、どうぞご賞味くだせえ」
「じゃあ、さっそく――」
向こうのお店に繋がる手前側のウインドウに手を差し入れ、卵のお寿司を軽く摘まむ。まずは醤油なしで、生の名店の味をひと口で頬張ると、極上の味に舌鼓を打つ。
ちょうどいい下味の効いた、ふわふわでもっちりしただし巻き卵とシャリの絶妙なバランスが噛むほどに馴染んでいき、至福の余韻が口いっぱいに広がる。
「ああ、美味しい――……大将、もう一貫お願い!!」
「うめえな、この卵寿司。大将、俺も二貫追加で頼むわ!!」
「あいよ! 少々お待ち!」
僕たち二人が美味しそうに食べてるのを見て、小恋路が「わたしたちも頼んでみようか?」と美穂に話しかけ「うん、なんか美味しそうに食べてるし、一貫だけなら」と応じていたところ、そこに待ったを掛けたのが優斗兄さんだった。
「お前ら、騙されるなよ。これは……そう、妖精の罠だ。もう少ししたら、翔太はともかく、武田は酷い目に遭うだろう。俺の勘を信じろ。それでも注文したいなら、しばらく様子を見てからにしろ」
「なに、兄さん。……まあ、そういうなら、ちょっと様子みるけど、どういうこと?」
「お前ら二人には、まだちょっと刺激が強すぎるってことだけ分かってりゃいい」
その優斗兄さんの睨み通り、なんだか武田の様子がおかしくなり始めた。
顔がみるみる赤くなったかと思えば、体をくの字に折り曲げて下腹部を押さえると――
「……すまねえ。ちょっとトイレ貸してもらってもいいか?」
(え、もしかして食中毒? 僕なんともないんだけど……)
武田は声を震わせながら、優斗兄さんのほうに向かって許可を求める。
優斗兄さんは、ゴミでも見るかのような眼差しで武田を刺すと、溜息をついた後に、不機嫌そうに言い放つ。
「……さっさと行ってこい。変な伝説だけは残すなよ。ちゃんと後始末しとけよ」
「すまねえ。わかってるって」
声は震え、額には汗を浮かべた武田は、足をもつれさせながら急いでトイレに駆け込んだ。
小恋路と美穂は、僕と武田を交互に見比べて、ぽかんとした顔をしている。
(聖命卵って、体力やスタミナを一気に底上げしちゃう効果が強いんですよ~。翔太様はフェアが体調管理してるので問題なしですが、武田ちゃんは……急に元気になりすぎちゃっただけですかね~)
(なるほど、そういうことね)
数分後、武田は妙にスッキリした顔で戻ってきた。
「……悪い、なんか一気に汗ひいたわ。いや、マジで効くなこの卵……」
カウンターの中の巨大水槽から、ほんのりと海水の匂いが流れてくる。
その匂いに紛れるように、武田のほうからもかすかに同じ匂いがした気がしたから、僕は誤魔化すようにイカそうめんをもう一杯注文して、黙って口に運んだ。
――聖命卵の本当の怖さについては、あえて深く考えないことにして。




