19話 苛立ちと卵料理
湊は朝食を食べる晴夏を見て、内心苛ついていた。
(なんだか思っていたよりも、幼いな…)
(幼稚園児みたいな顔して食いやがって。本当に黒川を笑顔でぶっ壊したエリートキラーと同一人物なのか?こいつ)
(……そういえば、いつもの対人用の笑顔、昔から変わらねぇな)
まだ暑さが残る校門前。チア部の彼女と歩いていた高2の湊は、下駄箱の手前で晴夏を見た。囲まれて、困ったように笑う。人垣を抜けながら頭を下げていた。
「あー、白石ちゃん、またモテてる! 大変そうねー」
隣の彼女が楽しそうに言って、湊も笑った。けれど、心のどこかで引っかかっていた。無害そうな顔で通り過ぎたくせに、あの場にいた全員の空気が変わった気がして、もう一度、振り返った。
(そうだ。あの時から、こいつの笑顔は何かを狂わせる)
(まあその時はまだ、笑顔に悪気なんてなかったんだろうがな)
「そんなに美味いのか?その玉子焼き」
「はい、美味しいですよ。一切れどうぞ」
湊が話しかけると晴夏は一瞬で対人用の輝く笑顔になり、湊の皿に取り分けた。
(またその笑顔かよ。胡散臭い)
「あの、旦那様。シフトの話なんですけど、上司に相談したら、日勤のみになるにはパートなら希望を通せると言われました。構いませんか?」
(そういえば、あの時は晴夏がごねる前提で契約書作った割に、あっさりサインして拍子抜けだったな)
「ああ、いいぞ。雇用形態は明記してないしな」
「ありがとうございます」
(何を考えているんだ?)
晴夏は安心したように和定食に戻り、また幼なげな表情で食べ進めている。
(ほあー、美味しーい……)
(旦那様には私の汚い部分を全て知られているだろうし、もう隠す事はないものね)
(…落ち着くなあ)
湊は呆れたような顔をしながら、黙ってオムレツを口に運んだ。
(もう、これ以上旦那様に失望される事なんてない、よね…?)
「ごちそうさまでした」
晴夏が席を立った瞬間、視界がかすんだ。
「…ぁ」
ふら、と身体が傾ぐのを、湊が反射的に支える。晴夏の指先が、彼の袖を掴む。
「す、すみません……」
「……寝不足だろ。無理すんな」
支えられたまま、彼の体温がすぐ離れていく。その距離の戻り方が、少しだけ寂しかった。
(体は大人だが、こんなに骨が細かったか…?)
「チェックアウト、10時でしたよね?」
「ああ。荷物、まとめておけ」
晴夏は素直に立ち上がり、荷物をキャリーに詰め始めた。その仕草が丁寧すぎて、湊には不気味に感じられた。
チェックアウトを終え、ロビーを抜ける。自動ドアが静かに開いた。
外の光が、思ったよりも強かった。わずかに目を細めながら、湊は足を止める。清涼な空気が頬を撫で、昨夜の余韻をどこか遠くへ押しやった。
(……あっけないな)
隣で、晴夏が小さく息を吸う気配がした。
「……いい天気ですね」
見上げた先で、彼女はいつもの表情を作っていた。キラキラと輝く、誰にでも向けられる顔。
(またそれか)
胸の奥が、わずかにざらつく。
朝食のときの無防備な表情。腕の中で感じた軽さ。さっきまでの全部が、まるでなかったことみたいに消えている。
(切り替えが早ぇな)
湊は視線を逸らし、短く言った。
「行くぞ」
「はい」
並んで歩き出す。
足音が揃うまでに、ほんの一瞬だけ間があった。そのズレが、妙に気に障る。
ふと、横目で見るとワンピースの肩口が、日に透けていた。
(……こんなに細かったか)
昨日、自分の腕の中に収まっていた感触が、やけに現実味を持って蘇る。
それを振り払うように、湊は少しだけ歩幅を広げた。
「遅れるぞ」
「あ、はい……!」
慌ててついてくる気配。
その足取りは、まだわずかに不安定で。それを見ないふりをしながら、湊は前だけを見た。
(昨夜は完全に支配出来たと思ったが)
(……思った通りには、いかねぇな)
青空の下で、その感覚だけがやけにくっきりと残った。




