軍艦模型
病室の窓から見える青空は、ただ穏やかだった。
薄手のレースカーテンすらかけていないこの病室は、病人の治療のためではなく、もう意識も助かる方法もない患者を看取るための部屋。
ベッドに伏しているのは何本かの管が刺さったまま目を閉じている老人。つながれた医療機器が絶え間なく体調の急変をチェックする音だけが響いている。
生きている間にお別れを言おうと、数日前から断続的に親族がお見舞いに来て、なにか語りかけては帰っていく。この病院では日常的な風景だ。
ふと、親族も看護師も部屋にいないタイミングができる。
窓もドアも閉められた部屋に一筋の風が吹き、いつの間にか老人の枕元に一人の女性が立っていた。微笑みを浮かべてベッドで旅立ちを待つ老人を見守っている。
「お義母さん、こっちですよ。転ばないようにね」
「203……ここだったかな」
ドアが開き、三人の人間が入ってくる。
老人の息子夫婦と思しき二人と、手を引かれている老人の妻と思しき老女。
「ん、誰ですか?」
枕元に佇む女性に気づき、息子が訝しげな声を上げる。
「父さんの知り合い……かな? でも今日はもう誰も来る予定なかったはずだけど」
誰何に答えず、女性はただ微笑んだまま視線を息子に向ける。
「ああ! あんた!!」
その微笑みを見た老女の、深く認知を患った人間の特有の瞳に強い理性の光が戻る。
「お久しぶりですね」
初めて女性が口を開いた。それが挑発だったように、目に見えて老女の機嫌が悪化していく。
「お、お義母さん?」
「あなた、どなたですか? ここは家族や親族以外は立入禁止のはずですけど」
「いいんだよ! こいつはいいんだ!!」
老女が息子たちに向けて怒鳴る。
「あたしゃこいつと話がある! 席を外しな!」
「でも、母さん……」
「いいから! 大丈夫だから! 早くしな!」
普段と明らかに違う様子の母親に怒鳴られ、様々な心配を抱えながらも息子夫婦は病室を出ていく。
それを確認してから老女は女性に向き直った。
「化けて出るんなら相手が違うよ。恨むんならあたしだろうが」
「わたしはただ、ご主人様をお迎えに来ただけ。あなたには何の用事も感情もありませんわ」
「やめとくれ! 迎えに来たとか、この人をあんたたちの仲間にするつもりかい! あんたたち化物の仲間に!」
「ご主人様は人間として生まれ、人生を終えて旅立つ。それだけですわ」
「うるさい、黙れ化物!」
老女が杖でがつがつと床を打ち鳴らす。
異変に気づいた看護師が様子を見ようと外からドアに手をかけたようだったが。
「来るな! あたしゃこいつと話があるって言ってんだろ! なんにもしやしないよ!」
気迫に押されて、一歩退いたようだ。
「お静かになさってください。ご主人様の枕元ですよ」
「ふん。あの時はあたしがこっそり片を付けたけど、本当はしっかり修羅場にしとくべきだったんだよ」
老女がぎろりと目を剥く。
「あんた、アレだろ。この人が大事にしてた、あたしが壊して捨てた船のオモチャだろ」
「軍艦の模型ですけどね。艦名は聞いても分からないでしょうね」
「どうでもいいんだよ! この人は、あんたのせいで道を踏み外しそうになったんだ! 現実を捨ててあんたの世界に逃げようとしたんだ! だから壊して捨てた。文句あるかい!」
女性は微笑みを崩さないまま老女を見つめた。肯定でも否定でもなくとも、それは二人にとって明確な答えだった。
「あんただって分かってたんだろ! 仕事も家族も何もかも捨ててあんたに逃げたって、なんの解決にもならない! 分かってたから、そうやって人間にも化けられるのに黙ってあたしに壊されて捨てられたんだろ!?」
「そんな単純な話でもないんですけどね」
女性は初めて微笑みを崩した。正確にいえば、微笑みに人外としか形容しがたい冷たさが浮かんだ。
「確かにわたしは、あなたに壊された時に逃げることもできた。逆にあなたを殺して、ご主人様と二人で遠くへ行くこともできた」
「じゃあなんでしなかったんだい」
「きっと、その先にご主人様の幸せはなかったから。黙ってわたしが消えるのが、一番ご主人様の幸せに繋がると思ったから」
「…………」
睨みつける老女に、女性は冷たい声で聞いた。
「それで、あなたはご主人様を幸せにできたんですか」
「ふざけたこと聞くんじゃないよ! 辛い時もある。悲しい時もある。人生そんなに簡単にいくもんか! でもあたしは一度でもこの人の幸せを忘れたことなんてないんだよ! それは今、もうこのボケた頭になってもだ!」
女性は老女から視線を外すと、ベッドから持ち上がっていて老人の手を優しく握り、寝台に戻した。
「そうですか。繰り返しますが、わたしはもともとあなたに用事はないんです。ご主人様の旅立ちを見送りに来ただけ。でも……」
「なんだい」
「たとえあなたに壊されなくても、わたしは最後の最後までご主人様の横にいて、添い遂げることはできなかった。それだけはあなたに勝てないし、感謝はしています」
「ふん……」
涙ぐんだことを誤魔化すように老女は答えた。
「あんたを壊して捨てた後、この人は本当に滅入っちまった。悲しんで消えちまいそうだった。あたしを怒鳴ったりすらしなかった。そんなになるほどあたしはこの人を支えられなかったし、あんたが代わりにやってくれてた。でも……」
「でも?」
「でも、あたしはあんたに謝らない。あんたを壊して捨てたのだって悪いことだと思わない。それは絶対譲れない」
老女の言葉に、女性は鬼気の抜けた微笑みで返した。
「これ以上ご主人様の枕元を騒がせたくありませんし、お暇しますわね。さようなら。二度と会うことはないでしょうけど」
「さっさと消えな」
女性はもう老女には見向きもせず、老人の顔をのぞき込んで目を閉じた。
そして窓を開け、翼を広げて天に帰っていった。
「母さん? 大丈夫?」
窓の開いた音に驚いて入ってきた息子に老女の視線が向く。
「なんでもないよ! ボケた婆さんの独り言だ! ここには誰もいなかった! いいね!」
数日後、SNSにその病院の窓から飛び立つ天使の写真がアップされた。
よくあるAI slopだと見向きもされなかったが、暇人が試しに様々な判定サイトにかけたところ、すべてがリアルの写真だという結果だったことは世に出回らなかった。




