雨と火花と魔女の名
わたしは、ただ茫然と天を仰ぐことしかできなかった。
「そんな……バカな……っ」
視界が急速に歪んでいく。熱い塊が瞳の奥から溢れ出し、頬を伝って流れ落ちた。それが激しく降り注ぐ冷たい雨なのか、それとも自分自身の涙なのか、もう判別することすらできなかった。
ギィ、ギィ、ギィ――不快な摩擦音が響き渡る。ゆっくりと、だが確実に、こちらとの距離を詰めてくる。その禍々《まがまが》しい佇まいは、獲物をじわじわと追い詰める狂気そのもののような、圧倒的な絶望感に満ちていた。
「ゴーレムがこっちに向かって来てるのにどうするんだよ!」
煉の声が遠くに聞こえる。
「……そんな。ここまで積み重ねてきたのに。あと一歩が届かないなんて」
震える手で泥を拭い、わたしはもう一度、空を仰いだ。雨音だけが世界を支配する中、指先が、ポケットの中にある冷たい硬い感触を捉えた。
『お守りだから持ってなさい』
母の声が、雨音の向こう側で聞こえた気がした。
「お守り」だと笑って持たせてくれた、あの気の抜けたデザインの防犯ブザー。本体からは、一本の紐がだらりと垂れ下がっている。引き抜けば最後、けたたましい大音響を響かせ、ピンを再び差し込まない限り絶対に鳴りやまない、昔ながらの単純な構造の防犯ブザーだ。
「お母さん、ごめんなさい。もう、会えないんだね」
涙が頬を伝う。しげしげと、母がくれた『お守り』を見つめた。
いたずらに抜いて遊ぶの流行ったな。
――そういえば。理科の実験で、誰かが間違えて紐を抜いて大騒ぎになったこともあった。
可燃性ガスを扱う前、先生が「防犯ブザーを持っている生徒は提出するように」と言ったのだ。
「なんでですか?」誰かがそう聞いた。
「スイッチを入れる瞬間に、火花が飛ぶ場合があるからだ」先生は面倒そうに答えた。
――火花。
わたしは手の中の防犯ブザーを見た。息が止まる。 (もしかして、静電気?)
すべてが繋がった。ゆっくりとゴーレムに視線を向ける。
怖い。それでも、この仮説が正しいのか確かめたいという衝動が、恐怖を押しのけていた。
「なにやってる! 早く戻れ!」という煉の叫びも聞かず、わたしは走り出していた。よろめきながら、確実にゴーレムの前に立ち塞がる。
(対峙したとき必ずといって咆哮する。その時なら……)
「グルァァァァァッ!!」
やっぱり狙った通り。紐を抜いた。キィィィィィンッ! 金属音の高い音が響きわたる。
わたしはゴーレムの口に向かって『お守り』を投げつけた。小さな火種が、怪物の口内へと吸い込まれていく。
「煉、耳を塞いで伏せて!!」
ゴーレムの口から白煙が漏れた。巨体がぴたりと動きを止める。長い沈黙が続く。
(まさか、失敗した……?)
一瞬、絶望が駆けめぐる。ゴーレムがゆっくり向かってくる。一歩。また一歩。
地響きがわたしの鼓動を速くする。
ピタリと止まった。巨大な岩の腕が、ゆっくりとわたしへ伸びる。
(ダメだ。間に合わない……)
キィィィィィンッ! 突然、防犯ブザーの音が途切れた。岩の隙間から強力な光が漏れる。
これまでの魔法の比ではない、世界を白く染めるほどの規格外の閃光。眩い青白い光が岩の隙間から噴き出す。
次の瞬間――
ドォォォォォォォン!!!
大爆発の余波で、荒野には白い粉塵がもうもうと舞い上がった。
雨の勢いが一段と激しくなる。
やがて吹き抜ける風がその煙を薙ぎ払うと、徐々にゴーレムの全容が見えてくる。
完全な沈黙だった。不気味に発光していた青いクリスタル(核)は、跡形もなく粉々に砕け散っている。悍ましい命が宿っていた巨石のゴーレムは、まるでただの屍みたいに、微動だにせず横たわっていた。もう二度と、再生を始める気配はない……はずだ。
「やった……よね?」
パズルのように再生してたのが動きも無くなった。
「やった……やった、やった、本当に倒したんだわ!」
やっぱり、私の仮説は間違ってなかった。
煉が近づいてきた。
あまりの緊張からの解放感に、わたしは煉の手を掴んで叫んでいた。煉も興奮を隠せない様子で、顔を上気させて応じる。
「ああ、信じられねえ……! あんな不死身の化け物を、本当にお前、止めちまったんだな! やったーーーっ!!」
二人の歓喜の声が、誰もいないかのような荒野に響く。
母のクイズにいつも勝っていた時と、同じ顔で笑っている自分に気がついた。あの朝、母にマウント取るために言った『積み重ね』が、まさかわたしを助けるなんて。
残った紐を見つめ母親との別れのようで少し悲しかった。(本当にお守りだったんだ)
わたしはふと肌を刺すような違和感に気がつき、動きを止めた。
(……なんで?)
おかしい。あんなに苦戦していた怪物を倒したのだ。それなのに、周囲にいる討伐隊からの「空気」が、さっきまでとは決定的に違っていた。歓声も、拍手もない。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた彼らは、いつの間にか足を止め、遠巻きにわたしたちをじっと見つめていた。武器を握る手が、じりじりと強張っていくのが分かる。槍の穂先が、雨に濡れて鈍く光っていた。誰も口を開かない。ただ、後退る足音だけが、ザッ、ザッと湿った土を踏む。
「この威力……なんだ、あれは」 「見たこともないぞ」 「ゴーレムを一撃で……?」 「人間が出来ることなのか……?」
ザワザワと、不穏な囁き声が波のように討伐隊の間に広がっていく。
「こんな力、どこから出てきた」 「魔女の力だと聞いたことがある」 「魔女だ……」 「魔女の仕業だ……」
彼らがわたしに向けているのは、明らかな敵意と怯えの混じった視線だった。
「魔女は人を喰らうって話だ」 「北の森に住んでいるとか聞いたぞ」
「おい、待て! こいつはただ――」
煉が慌ててわたしの前に立ち、討伐隊を宥めようと両手を広げる。けれど、一度膨らんだ集団の恐怖は止まらない。男たちは槍の穂先を鋭く突き出し、じり、じりとその輪を狭めてきた。
煉がわたしを庇うように立ち塞がった。圧に押されどんどん逃げ場がなくなる。




