第8話 帳簿が語る五年間
法務官の事務所は、思ったより埃っぽかった。
王都の三番街にある石造りの建物の二階で、窓から差す秋の光が書架の革表紙を照らしている。法務官のモレル氏は六十がらみの白髪の男で、机の上に書類を隙間なく並べる几帳面さがあった。この人とは仕事がしやすそうだと思ったのは、帳簿管理者の職業病だろう。
私の隣にはデュヴァル家の代理人が座り、向かいにはヴィクトルとランベール伯爵家の代理人がいた。そしてもう一人、部屋の隅にセバスティアンがいた。本家当主として弟の離縁の場に立ち会うという名目で、言葉を選ぶなら監督、率直に言えば証人だ。
ヴィクトルと正面から顔を合わせるのは、あの書斎で「大げさだ」と言われた日以来だった。
少し痩せたように見えた。頬の線が以前より鋭くなっていて、社交向きの穏やかな笑顔も今日はない。その顔を見て何かを感じるかと自分に聞いてみたが、特に何も感じなかった。五年間の夫の顔ではなく、これから書類を交わす相手の顔だった。
モレル氏が手続きの概要を説明してから「双方のご意見を」と促すと、ヴィクトルの代理人が口を開いた。
「伯爵としては穏便な解決を望んでおります。互いの名誉を傷つけることなく——」
「名誉の話の前に、事実の確認をさせていただきたいのですが」
遮ったのは私だった。穏便という言葉を聞くと最近どうにも反射的に構えてしまう。ヴィクトルの「大げさ」と同じ棚にある言葉で、問題の輪郭をぼかすために使われることが多い。事実を先に並べれば、穏便かどうかは数字が決めてくれる。
鞄から書類を出した。
一つ目はペルティエ宝飾商の年次取引明細書、過去五年分の写し。フォレ様宛の注文がすべて記載されている。二つ目はペルティエからの礼状、すべての発端になった一通。三つ目はランベール伯爵家の家計からの支出一覧で、私が五年間管理してきた記録の中からフォレ宛の支出だけを抜き出してまとめたものだ。
「ランベール伯爵家の口座から宝飾商ペルティエを通じてカミーユ・フォレ様に届けられた品物の一覧です。結婚初年度の冬から今年の秋まで、総計十六件。品目は翡翠の耳飾り、ルビーのブローチ、真珠の腕輪、銀細工の髪留めなど、すべて装飾品または個人向けの贈答品です」
モレル氏が書類を受け取って目を通し始めた。ヴィクトルの代理人も写しを手に取ったが、ヴィクトルは書類を見なかった。見なくても中身が分かっているからか、見たくないからか、たぶん後者だろう。
「続いて、私がランベール伯爵家で担当していた業務の一覧です」
四つ目の書類を出した。これは実家に戻ってから作成したもので、五年間に私が管理した帳簿の冊数、交渉した取引先の数、処理した請求書の件数、手配した社交の贈答品の数を年度ごとにまとめてある。数字だけの書類だが、分量がそのまま仕事の重さを語る。
「帳簿管理、取引先との交渉、使用人の采配、社交の贈答品手配、修繕業者との契約管理。これらは伯爵領の運営に必要な実務であり、五年間すべて私が担当していました。現在ランベール伯爵領の運営に支障が出ているのは、これらの実務を引き継げる者がいなかったためです」
声は平らだった。怒りを込めるつもりもなかったし、実際に怒ってはいなかった。怒りはもう通り過ぎていて、残っているのは帳簿管理者としての正確さだけだ。数字を読み上げるように事実を並べた。
ヴィクトルが初めて口を開いた。
「マルグリット——」
「ランベール伯爵」
名前で呼ばれたのを、肩書きで返した。ヴィクトルの表情がわずかに強張ったのが見えた。もう「あなた」とは呼ばない。あの呼び方は夫婦のあいだで使うものであって、今日この部屋にいるのは夫婦ではなく離縁の当事者だ。
「——すまなかった、と言わせてくれ」
「謝罪はありがたく存じます。ただ、今日は感情の話をしに来たのではなく、婚姻契約に基づく財産分与の条件を確定しに参りました。お気持ちとお金は別の書類です」
お気持ちとお金は別の書類。我ながらずいぶん冷たい言い方だと思ったが、事実なので仕方がない。
部屋の隅でセバスティアンが椅子から立ち上がった。ここまで一言も発していなかった人が動くと、空気が変わる。
「本家当主として確認します」
セバスティアンはモレル氏の机に歩み寄り、ペルティエの明細書を手に取った。目を通してから弟のほうを向いた。
「ヴィクトル。この明細に異議はあるか」
兄に問われたヴィクトルは何も言わなかった。明細書の数字は宝飾商の発行した公式の記録であって、否定すればペルティエに確認を取るだけの話だ。異議を唱えようがない。
「ないのですね」
セバスティアンの声には感情がなかった。弟を責めているのでも庇っているのでもなく、事実を確認しているだけだ。この人の事実確認は刃物と同じくらい切れる。
モレル氏が咳払いをして書類を整えた。
「婚姻契約第十四条に基づき、不貞を理由とする離縁の場合、申し立てた側に違約金の支払い義務は生じません。また、同条第三項により、婚姻期間中の一方的な不当支出が認定された場合、その返還を請求する権利が被害者側に生じます。提出された明細書を見る限り、五年間の不当支出の総額は——」
モレル氏が金額を読み上げたとき、ヴィクトルの代理人が小さく息を呑んだ。五年分の翡翠やルビーや真珠の合計は、一件ずつなら大した額ではないが積み上がると無視できない数字になる。塵も積もれば宝飾品の山になるとは言わないが、近いものはある。
財産分与の条件が確定するまでに、そこから二時間ほどかかった。細かい数字の確認と条項の照合をモレル氏と代理人たちが進めるあいだ、私はほとんど口を出さなかった。数字が仕事をしてくれるので、私がすることはもうない。
ヴィクトルはその二時間のあいだ、一度も私のほうを見なかった。
すべてが終わって法務官の事務所を出たとき、秋の風が少し冷たかった。
デュヴァル家の馬車に向かう途中、セバスティアンが後ろから声をかけてきた。
「お疲れでしょう」
「ええ、少し」
「今朝、事務所の控え室にお茶の用意をさせておいたのですが、使いませんでしたね」
立ち止まった。控え室にお茶の用意があったことに気づいていなかった。いつ手配したのだろう。昨日のうちにモレル氏に連絡を入れていたのか。
「侯爵様が手配してくださったのですか」
「長い交渉になると思ったので」
それだけ言ってセバスティアンは自分の馬車のほうへ歩いていった。振り返らなかったが、その背中に向かって「ありがとうございます」と言った。聞こえたかどうかは分からない。
馬車に乗って書類の入った鞄を膝に置いた。五年分の数字がこの鞄の中に入っている。数字は全部出し切った。言うべきことも言った。ヴィクトルの顔を見ても何も揺れなかった。
帰りの馬車の中で少しだけ目を閉じた。泣きたかったのかもしれないが涙は出なくて、代わりに控え室の茶のことを考えていた。飲めばよかった。セバスティアンが用意してくれたお茶がどんな味だったのか、確かめておけばよかった。
次にこの人がお茶を用意してくれることがあったら、そのときは飲もうと思った。




