第7話 社交界は見ている
噂というのは紅茶より先に冷める。ただし広がる速さは紅茶の比ではない。
ランベール伯爵夫人が実家に戻ったという話が社交界に出回り始めたのは、私が商会で仕事を始めて一ヶ月ほど経った頃だった。直接聞いたわけではない。商会に出入りする商人たちの口ぶりが少しずつ変わっていったことで、外の空気が動いているのが分かった。
最初に気づいたのは織物商のデュボワが訪ねてきたときだ。
デュボワはこれまでデュヴァル商会とランベール伯爵家の両方に出入りしていた商人で、伯爵家のほうでは私が窓口だった。その人が商会に来て「今後はデュヴァル商会さん一本でお願いしたい」と言ったのだ。
「伯爵家のほうとは取引を切るのですか」
「切るというか、先方の連絡がどうにも遅くて。請求書を出しても返事が来ない、納品の確認も取れない。以前はこんなことはなかったのですが」
以前はこんなことはなかった。つまり私がいた頃は回っていたが今は回っていない。デュボワはそれを直接言わないが、目の奥にある種の納得の色があった。伯爵夫人がいなくなったからだ、と分かっている顔だ。
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」
取引が増えるのは商会にとって良いことなので、素直に受けた。伯爵家に対する罪悪感がまったくないと言えば嘘になるが、取引先が離れるのは私が引き抜いたからではなく向こうが仕事を回せなくなったからで、原因と責任はあちらにある。
デュボワの後にも同じような話が二件あった。穀物の仲買人クレマンと、革細工の職人ルロワ。二人ともランベール伯爵領との取引に不信感を持っていて、デュヴァル商会に軸足を移したいという相談だった。私が帳簿を見ていた頃の伯爵家を知っている人たちだから、落差がよく分かるのだろう。
ある夕方、母が社交の茶会から戻ってきた。
エリーズ・デュヴァル侯爵夫人は社交の席で得た情報を家族にべらべら話す人ではないが、娘に関わることだけは例外らしい。私室で夕食前の紅茶を飲んでいると、母が何の前触れもなく部屋に入ってきて椅子に座った。
「今日の茶会でフェルセン侯爵夫人が言っていました。ランベール伯爵はどうも妻以外の女性に領地の金で贈り物を続けていたらしいと」
紅茶を飲む手が止まった。
不正支出の話が社交界に漏れている。ペルティエの宝飾商から漏れたのか、伯爵家を辞めた使用人の口からか、あるいは社交界の夫人たちが断片的な情報をつなぎ合わせて正解にたどり着いたのか。経路は分からないが、噂として回り始めているのは確かだ。
「フェルセン夫人は何と」
「『やはり、という気がいたします』と。あの方は以前から伯爵の態度が気になっていたそうです。夜会で伯爵夫人ばかりが忙しく立ち回っていて、伯爵はいつもどこか別のところを見ていたと」
見ていた人はいたのだ。私が気づかなかっただけで、社交の場で私とヴィクトルの温度差を観察していた目があった。当事者は渦中にいると全体が見えないが、周囲から見れば夫婦のずれは分かりやすかったのだろう。
「侯爵夫人たちの総意としては、帳簿管理ができるお嫁さんを追い出した伯爵は馬鹿だ、ということのようね」
母は淡々と言った。慰めでも同情でもなく、社交界の評価を事実として報告している。この人は本当に感傷と無縁だ。
「馬鹿、とは言わないまでも」
「言っていたわよ、フェルセン夫人が。もう少し上品な言い回しでしたけれど」
そうですか、とだけ返した。社交界の侯爵夫人たちが元夫を馬鹿呼ばわりしているのを聞いて溜飲を下げるほど私は器が小さくない——と思いたいが、正直に言えば少しだけ下がった。少しだけ。
翌日、セバスティアンとの定期取引の場があった。
今回は木材の冬季納品についての打ち合わせで、デュヴァル商会の応接間に取引先の代理人二名とセバスティアンが集まった。私は帳簿管理者として同席し、前期の実績と今期の見積もりを説明する役だ。
打ち合わせ自体は特に波乱なく進んだ。数字の説明をして質問に答え、見積もりの修正を二箇所入れて合意を取りつけた。いつもの仕事で、いつも通りにやっただけだ。
変わったのは、打ち合わせが終わった後だった。
取引先の代理人が帰り支度をしながら世間話の流れで「最近ランベール伯爵領の取引先が何社かこちらに移ってきたそうですね」と言ったとき、セバスティアンが口を開いた。
「弟の領地が以前のように回っていたのは、帳簿管理と取引交渉を一手に担っていた方がいたからです。その方が今はデュヴァル商会にいる。取引先が動くのは自然な流れでしょう」
代理人たちが少し驚いた顔をしたのは、セバスティアンが珍しく長い文章を喋ったからか、それとも本家の当主が分家の内情をそこまではっきり語ったからか。たぶん両方だろう。
セバスティアンは私のほうを見なかった。見ないまま、事実だけを代理人たちに伝えた。伯爵領を支えていたのはこの人ですと名指ししたのと同じことを、ランベール侯爵の口から取引先の前で言い切った。
感謝と困惑が半々だった。ありがたいけれど、弟の元妻をそこまで公然と評価するのは本家当主としていいのだろうかという疑問もある。ただセバスティアンの声に私情は感じなかったし、言っていることは事実だから反論のしようがない。数字で仕事をする人間は、事実で人を評価する。そこに照れや遠慮を挟まない。
代理人たちが去った後、帳簿をまとめていたら応接間にセバスティアンだけが残っていた。最近これが多い。
「先ほどのお言葉、恐れ入ります」
「事実を言っただけです」
この人は本当にそう思っているのだろう。褒めたのではなく事実を述べたと本気で考えていて、だからこそ重い。ヴィクトルの褒め言葉は砂糖菓子のようにすぐ溶けて手に何も残らなかったが、セバスティアンの事実認定は乾いた木のようにいつまでも形を保つ。
食べ物の比喩がまた出た。今度は昼食を食べたはずなのに。
夕方、商会を出るときにオーギュストが帰り際の世間話として教えてくれた。
「来季の社交の招待状が各家に届く時期ですが、ランベール伯爵家は今年、例年の半分ほどしか届いていないそうです」
半分。社交の招待状が半分に減るということは、伯爵家を社交の場に呼びたいと思う家が半分に減ったということで、それはつまり信用が半分になったということだ。帳簿の不正支出の噂と妻の離縁が重なって、社交界がヴィクトルに距離を置き始めている。
私が何かしたわけではない。復讐の手紙を書いたわけでも、社交の場で元夫の悪口を言って回ったわけでもない。ただ家を出ただけで、あとは向こうが勝手に崩れている。
邸に戻る廊下で、窓の外に秋の夕暮れが広がっていた。
五年間の無駄だと思っていたものが、無駄ではなかったのかもしれないと初めて思えた。私がいなくなったことで領地の運営が止まり、取引先が離れ、社交界が距離を置いている。それは裏を返せば、五年間この家を——いや、あの家を支えていたのは私だったという証明だ。帳簿でも契約書でもない、社交界という大きな帳簿が、私の仕事を正しく記帳してくれた。
自室の引き出しを開けた。ペルティエの礼状とヴィクトルの手紙が並んでいる。その隣に今日の取引で使った見積書の控えを置いた。元夫の不始末と自分の仕事が同じ引き出しにある。不始末のほうはもう増えなくていい。仕事のほうはこれからいくらでも増やせる。
窓辺の白い花を見て、今度こそ名前を聞こうと思った。毎日眺めているのに名前も知らない花に、いつまでも「白い花」では申し訳が立たない。明日の朝、母に聞く。




