第6話 戻る場所はもうない
ランベール伯爵家の紋章が入った馬車が、デュヴァル侯爵家の門前に止まったのは昼前のことだった。
事務室の窓から見えたわけではない。門番が「お客様です」と番頭のオーギュストに伝え、オーギュストが事務室に来て「ランベール伯爵家からお使者が見えております」と私に言った。その伝言が廊下を渡ってくるあいだに、たぶん使用人の何人かがあの紋章の入った馬車を見ているだろう。元の嫁ぎ先から使者が来たとなれば、屋敷の中は今ごろ静かにざわついているに違いない。
応接間に行くと、見覚えのある顔が座っていた。伯爵家の執事だ。名前はジャン。白髪の混じった痩せた男で、私が伯爵家にいた頃は毎朝「おはようございます、奥様」と言ってくれていた人だ。今日は何と呼ぶのだろうかと思ったら「マルグリット様」と言ったので、この人なりに呼称を考えてきたらしい。律儀な人だ。
「伯爵がお話し合いを望んでおります。一度お時間をいただけないかと」
ジャンの口調は丁寧で、困っている色が滲んでいた。この使者の役は本人の希望ではないだろう。ヴィクトルに言いつけられて来たに違いないし、元の奥様に頭を下げる仕事は気が重かったはずだ。
先週の手紙に返事を書かなかったから、今度は人を寄越した。手紙で駄目なら使者を送る。それはまあ、手順としては正しい。ただ、五年間の嘘を詫びに来るのではなく「話し合い」を求めるあたりがこの人らしい。話し合いというのは双方に歩み寄る余地があるときに使う言葉であって、片方が五年間別の女に宝飾品を贈り続けていた場合に歩み寄る余地がどこにあるのか、私にはちょっと想像がつかない。
「お気持ちはありがたく存じますが、お伝えすることはございません。ジャン、わざわざご足労いただいて申し訳ありません」
ジャンは黙って頭を下げた。もう少し食い下がるかと思ったが、何も言わなかった。この人もたぶん分かっている。分かっていて、それでも主人の命令だから来た。使用人というのはそういう仕事だ。
「どうかお元気で」
それだけ言って応接間を出た。
事務室に戻ると仕事が待っていたが、さすがに集中力が切れていた。伯爵家の紋章を見ると五年間の記憶が勝手に動き出すのはどうしようもない。あの書斎の匂い、帳簿の革表紙の手触り、ハンナの紅茶、廊下を通り過ぎていく足音。全部覚えている。覚えていることと戻りたいことは別だが、覚えているだけで疲れる。
請求書の下書きをしていると、オーギュストが入ってきた。
「お嬢様、ランベール侯爵様がお見えです」
セバスティアンが来たのは偶然ではないだろうと、後から思った。弟の家から使者が来たという情報が本家の耳に入るまでに半日もかからない。この人の情報の拾い方は相変わらず細かい。
事務室に通されたセバスティアンは、椅子に座る前に一つだけ確認した。
「弟から使者が来たと聞きました。あなたの意思を確認したい。会いたくないのであれば、本家から弟にそう伝えます」
確認した、と彼は言った。命令でも提案でもなく、確認。私がどうしたいかをまず聞いて、それに合わせて動くという順番。ヴィクトルは五年間一度もこの順番で話をしてくれなかった。「君がいてくれるから安心だ」も「大げさに考えるな」も「考え直してくれ」も、全部ヴィクトルの都合が先に来ていて、私の意思は添え物だった。
「会う必要はありません」
「分かりました」
それだけだった。理由を聞かないし、考え直せとも言わない。私が出した答えをそのまま受け取って次の行動に移す。この簡潔さが、今の私にはひどくありがたかった。
セバスティアンは立ち上がりかけて、少し迷ったように動きを止めた。この人が迷うのは珍しい。
「追加の書類が来週届きます。その際にまた寄ります」
用件だけ告げて事務室を出ていった。
追加の書類。先週も同じことを言っていた。書類の受け渡しに侯爵が毎回自分で来る必要はないのだが、そこを突っ込むのは今はやめておく。
夕方、仕事を片づけて事務室を出ると、商会の裏庭に人影があった。
セバスティアンだった。
まだ帰っていなかったのかと思ったが、考えてみれば昼に来てから数時間が経っている。その間どこにいたのかは知らないが、商会の中にいたとすれば母か番頭と話していたのだろう。裏庭の石のベンチに座って秋の庭を眺めている姿は、仕事中の硬い空気とは少し違って見えた。
「侯爵様、まだいらしたのですか」
「少し、考え事を」
何の考え事かは聞かなかった。聞いてほしくなさそうな顔でもなかったが、この人は聞かなければ話さないし、聞いても必要なことしか話さない。
石のベンチにもう一人分の空きがあったので腰を下ろした。秋の夕方の空気は少し冷たくて、仕事の後の火照った頭にはちょうどよかった。庭には母が植えた晩秋の花がいくつか咲いていて、名前は相変わらず分からない。花の名前を覚える余裕がなかったのは伯爵家でも実家でも同じだ。
しばらく黙っていた。
黙っていても気まずくないのは不思議だった。ヴィクトルとの沈黙はいつも私が次の話題を探す時間だったが、セバスティアンとの沈黙は互いに何も探さなくていい時間で、その違いは思ったより大きい。
「侯爵様」
「はい」
「五年間、信じていたものが嘘だったと分かったとき——怒りが来ると思っていたんです」
なぜこんなことを口にしているのか自分でも分からなかった。この人に言う必要のないことだ。弟の元妻の感情の整理など、ランベール侯爵には関係がない。でも昼間の使者の訪問で蓋が少しずれたのか、言葉が勝手に出てきた。
「でも怒りより先に、虚しさが来ました。怒るためには裏切られた時間を数えなければなりませんが、数えるとその時間が全部無駄だったことになるので、怒りより前に虚しさのほうが追いついてしまう」
セバスティアンはこちらを見ていなかった。庭の花を見ている横顔に、表情の変化は読み取れない。
「帳簿管理者としては致命的ですね。帳簿は感情を挟まずに全部数えるものなのに、自分の五年間だけは数えたくないんです」
自嘲のつもりだったが、声がわずかに揺れた。揺れたのが自分でも分かって、少し恥ずかしかった。
セバスティアンはしばらく黙っていた。それから庭の花から視線を外して、初めてこちらを見た。
「無理に強くある必要はありません」
静かな声だった。
「ただ、あなたの選択は間違っていない。それだけは、帳簿に書き込んでおいていいと思います」
帳簿に書き込んでいい。この人は慰めの言葉を選ぶときまで私の仕事の言葉を使う。それが気遣いなのか天然なのか判断がつかなかったが、少なくとも「大げさだ」と言われるよりはずっと呼吸がしやすかった。
「ありがとうございます」
それ以上は何も言わなかった。セバスティアンも何も言わなかった。秋の風が庭を渡っていく音だけが聞こえていて、その沈黙に居心地の悪さはなかった。
立ち上がって邸に戻ろうとしたとき、ふと振り返ると商会の東棟の窓にまだ明かりが灯っていた。セバスティアンの使っていた部屋だ。書類を広げたまま庭に出てきたのだろう。
この人は昼に来てからずっとここにいたのだと気がついたのは、自室に戻って靴を脱いでからだった。弟の使者が来た日に本家の当主が商会に長居する理由を、仕事の都合だけで説明するのは少し無理がある。でもそのことについて深く考えるのは、もう少し先でいい。
引き出しを開けてヴィクトルの手紙を見た。返事はやはり書かない。代わりに母の懐中時計を手に取って時刻を確認した。
明日の朝いちばんでクレマンへの請求書を仕上げなければならない。数字の仕事が待っている。泣くのはその後でもいいし、たぶんその後にもしない。




