第5話 回らなくなった領地
商会に出るようになって三週間が経つと、取引先の顔と癖がだいたい分かるようになった。
木材商のベルナールは見積もりを必ず一割高く出してくるから最初の提示額を信じてはいけないし、織物商のデュボワは逆に控えめな金額を出しておいて後から追加費用を乗せるのが常套手段だ。穀物の仲買人クレマンは数字に弱いくせに交渉好きで、帳簿の明細を見せると急に黙る。人間の癖は取引にそのまま出る。数字は嘘をつかないが、数字を扱う人間のほうはいくらでも嘘をつく。
その日はベルナールとの木材取引の交渉だった。
前期の納品実績と市場の相場変動を照合して、ベルナールの提示した単価が相場より八分高いことを指摘した。ベルナールは「今年は伐採の人件費が上がりまして」と言い訳をしたが、人件費の上昇率は帝国商務局の公報に載っているので照合すれば嘘かどうかは分かる。公報の数字を読み上げたら、ベルナールは肩をすくめて単価を下げた。
「お嬢様、お見事でした」
交渉が終わった後、番頭のオーギュストが珍しく感想を述べた。この人は仕事中に余計な言葉を使わない主義なので、感想が出るということは本当に感心したのだろう。ありがたいが、伯爵家で五年間やってきたことと同じことをしているだけだ。違うのは、ここでは「やって当然」ではなく「見事だ」と言ってもらえることで、その差がどれほど大きいかは自分が一番よく分かっている。
昼過ぎに、セバスティアンが商会を訪ねてきた。
先週の取引の追加書類を届けに来たという名目だったが、書類の受け渡しだけなら使者を寄越せばいい話で、侯爵が自ら足を運ぶ理由としてはやや薄い。ただ、この人が何を考えているかは顔を見ただけでは分からないので深読みしても仕方がない。
応接間ではなく事務室のほうに通したのはオーギュストの判断で、セバスティアンは事務室の椅子に座って周囲を一度だけ見渡した。帳簿の積まれた棚、インク壺の並んだ机、窓辺の白い花。ここが私の仕事場だという事実を、目で確認しているように見えた。
書類を受け取って中身を確認しているあいだ、セバスティアンが口を開いた。
「今朝の木材商との交渉は、あなたが担当されたと聞きました」
オーギュストから聞いたのだろうか。それとも別の経路か。いずれにしてもランベール侯爵家の当主がデュヴァル商会の個別の商談について把握しているのは、かなり細かいところまで情報を拾っている証拠だ。
「はい。前期比で単価が八分上がっていたので、相場と照合して修正いたしました」
「公報の数字を使いましたか」
「ええ」
セバスティアンは一瞬だけ口元が動いた。笑ったのか、感心したのか、表情の変化が小さすぎて読み取れない。
「見事です」
短かった。その二文字に飾りも前置きも補足もなかったのが、かえって重く響いた。ヴィクトルの「安心だ」が消費期限切れの褒め言葉だったとすれば、セバスティアンの「見事です」は干物みたいなもので、水分を徹底的に抜いた分だけ味が濃い。比喩が食べ物になるあたり、昼食がまだだったのかもしれない。
「恐れ入ります」
それだけ返して書類の確認を続けた。照れているわけではなく、この人の言葉をどう受け取ればいいのか分からなかっただけだ。弟の元妻に「見事だ」と言うランベール侯爵の真意は、帳簿の数字ほど明快ではない。
セバスティアンが帰った後、別の来客があった。
穀物の仲買人クレマンが商会に顔を出して、帰り際にオーギュストと立ち話をしていた。私は事務室で請求書の下書きをしていたのだが、廊下越しにクレマンの声が聞こえてきた。
「デュヴァル商会さんはいいですな、帳簿の分かる方がいて。ランベール伯爵のところは最近てんでだめで、先月の請求書もまだ届かんのですよ」
「伯爵領がですか」
「ええ。以前はきっちりしていたのに、最近は連絡も遅いし帳簿も合わないし。伯爵夫人が——いや、元の、とお呼びすべきか——あの方がいなくなってから回っていないようですな」
聞くつもりはなかったが聞こえてしまった。壁一枚隔てた向こうで自分の元いた場所が崩れていく話を、請求書を書きながら聞いている。奇妙な気分だった。
五年間かけて整えた取引先との連絡体制や帳簿の管理体制が、私がいなくなって一ヶ月で綻び始めている。引き継ぎ書は十四枚残してきたが、ハンナが言った通りだった。あれを読んで実行できる者はあの家にいない。書類に書けるのは手順だけで、判断までは引き継げない。
ざまあみろ、と思うべきなのかもしれない。でもそこまで割り切れるほど単純な感情ではなくて、困っている使用人たちの顔が浮かんだり、厨房のコックが取引先への支払いに走り回っている姿を想像したりして、少しだけ胸がざわついた。悪いのは使用人たちではない。悪いのは妻に全部任せて自分は何もしなかった男だ。
でも、もう私の仕事ではない。
夕方、実家の私室に戻ると机の上に手紙が置いてあった。
ランベール伯爵家の封蝋。
ヴィクトルからだった。見覚えのある少し癖のある筆跡で、封を切ると短い手紙が出てきた。
「マルグリットへ。領地のことで相談したいことがあります。一度話す時間をもらえないでしょうか。ヴィクトル」
相談。
五年間一度も相談してこなかった人が、妻がいなくなった途端に相談したいと言っている。取引先への請求書が出せなくなったのか、帳簿の締め方が分からなくなったのか、それとも使用人の給与の支払い日を知らないのか。「相談」という言葉の裏にあるのは「帰ってきて元通りにしてくれ」だろう。元通り。あなたが嘘をついて私が帳簿をつける暮らしのことを、元通りと呼ぶのだろうか。
手紙を二度読んだ。
一度目は内容を確認するために。二度目は、自分の中に揺れがないかを確かめるために。
揺れはなかった。
引き出しを開けて手紙をしまい、返事は書かなかった。ペルティエの礼状の隣にヴィクトルの手紙が並んでいるのを見て、この引き出しは元夫の不始末の保管庫になりつつあるなと思った。
机の上にはまだ明日の取引の下調べが残っている。ベルナールが来週また来るから、今度は輸送費の明細も確認しておきたい。数字の仕事は正直で、やった分だけ結果が出る。五年間その正直さを搾取されていたことに気づいた今、同じ正直さを自分のために使えるのはそれなりに痛快だ。
窓の外はもう暗くなっていて、母が活けてくれた白い花が夕闇の中で淡く浮かんでいた。明日もこの花は替えてあるのだろう。感謝は口に出さない。その代わり、明日の取引で良い数字を出す。この母娘はそうやって気持ちを伝える。




