第4話 帳簿管理者の再出発
「お嬢様」と呼ばれるのに慣れるまで三日かかった。
五年間「奥様」で通してきた耳には「お嬢様」がどうにも据わりが悪く、最初の二日は使用人に声をかけられるたびに一拍遅れて振り返っていた。三日目にようやく反応が追いついて、四日目には「お嬢様、朝食の用意ができております」と言われて普通に席についた。人間は呼ばれ方が変わるとそれだけで別の生き物になったような気がするもので、伯爵夫人だった私はもういなくて、デュヴァル侯爵家のお嬢様がここにいる。出戻りのお嬢様だが。
実家に戻って一週間が経った朝、母に書斎へ呼ばれた。
エリーズ・デュヴァル侯爵夫人は娘の離縁について一度も感想を述べなかった。事情は手紙で把握しているはずだが「大変だったわね」とも「あの男が悪い」とも言わない。代わりに書斎の机に座って帳簿を一冊差し出してきたのが、いかにもこの人らしかった。
「デュヴァル商会の第三四半期の帳簿です。取引先との照合が遅れているから、目を通しなさい」
仕事をくれたのだ。慰めの言葉ではなく、仕事を。
母は私が何を必要としているか分かっている。泣く時間でも休む時間でもなく、手を動かす理由が欲しいのだと。帳簿を受け取ったとき指先に感じた革表紙の重みが、伯爵家の書斎で毎日触れていたものと同じで少しだけ胸が詰まったが、それは一瞬のことだった。
翌日からデュヴァル商会に出た。
商会の事務室は侯爵邸の東棟の一階にあって、紙とインクと少しだけ埃の混じった空気が漂っている。嫁ぐ前に母の手伝いで出入りしていた頃と同じ匂いだった。番頭のオーギュストは五十がらみの痩せた男で、私が事務室に現れたとき眼鏡の奥の目を丸くしたが「お嬢様がお手伝いくださるのですか」と言っただけで、それ以上は何も聞かなかった。聞かないのは気遣いなのか興味がないのか分からないが、どちらでもありがたかった。
帳簿を開いて中身を追い始めると、手が覚えていた。数字の並びを目で追い、取引先ごとの入金と支出を照合し、ずれがあれば原因を探る。伯爵家で五年間やってきたことと同じ作業で、ただ数字の規模が違う。デュヴァル商会は伯爵家よりずっと取引先が多く、帳簿も複雑で、三日かけてようやく全体の構造が頭に入った。
仕事をしている間は余計なことを考えなくて済む。ヴィクトルのことも、カミーユ・フォレのことも、五年分の翡翠やルビーのことも、数字を追っている間だけは頭の隅に押しやっておける。数字は嘘をつかないし裏切らないし「大げさだ」とも言わない。数字の世界は安全だった。
商会に出て十日ほど経った頃、取引先との商談に同席することになった。
ランベール侯爵家——つまりヴィクトルの本家——との定期取引の場で、母が「帳簿の内容を説明できる者を同席させたい」と言ったのだ。私が伯爵家の帳簿管理をしていたことは商会の番頭も知っているから、適任だという判断だったのだろう。適任ではあるが気が重い。ヴィクトルの実家と顔を合わせるのだ。
商談の場はデュヴァル商会の応接間で、取引先の代理人が二人と、ランベール侯爵家からは当主が直接来ると聞いていた。
当主。つまりセバスティアン・ランベール侯爵。ヴィクトルの兄。
会ったことがないわけではない。結婚の儀式や正月の挨拶で何度か顔を合わせている。寡黙で表情の少ない人だという印象があったが、それは社交の場での上辺しか見ていなかったからかもしれない。伯爵家にいた五年間、セバスティアンと直接言葉を交わしたのは片手で足りるほどだった。弟の嫁と本家の当主という関係では、それが普通だ。
応接間に入ると、セバスティアンはすでに席についていた。
三十一歳のランベール侯爵は弟とあまり似ていない。ヴィクトルが柔らかい輪郭と人懐こい笑顔を持っているのに対して、セバスティアンの顔は線が硬く、目つきも鋭い。髪も服装も隙がなく整っていて、この人は身なりに気を遣っているのではなく隙を作らないことに気を遣っている、という感じがした。
「マルグリット嬢」
名前を呼ばれて背筋が伸びた。嬢。夫人ではなく嬢と呼んだのは、離縁の事実を把握しているからだ。当然だろう、弟の離縁を兄が知らないはずはない。
「お久しぶりでございます、侯爵様」
「商会の帳簿管理を担当されていると聞きました。今日の取引内容について説明をお願いできますか」
事務的な口調だった。弟の元妻という事情に一切触れず、商談の相手としてだけ扱っている。それが気遣いなのか本心なのか分からなかったが、少なくともこの場では助かった。同情されるより仕事の話をしてくれるほうがずっと楽だ。
帳簿を開いて取引の内容を説明した。デュヴァル商会とランベール侯爵家の間の木材取引について、過去三期分の納品数と単価の推移、今期の見積もりと前期比の変動要因。数字を追いながら説明しているうちに緊張が溶けて、声が自分のものに戻っていくのが分かった。数字の話をしている私はいちばん自分らしい。
取引先の代理人が単価の根拠について質問してきたとき、手元の帳簿から該当する明細を引いて即答した。セバスティアンがこちらを見ているのが視界の端に映ったが、気にしている余裕はなかった。
商談は一時間ほどで終わった。
取引先の代理人が帰り際に「デュヴァル商会は数字に明るい方がいらっしゃる」と言い残していったのは、お世辞半分だとしても悪い気はしなかった。伯爵家では当たり前のように使われていた能力が、ここでは感謝される。同じ仕事をしていても、認められるかどうかで景色はまるで違う。
代理人たちが応接間を出たあと、セバスティアンだけが残っていた。
帳簿を片づけようとした私に、短く声をかけてきた。
「弟の家にいた頃から、あなたの帳簿は正確だと聞いていました」
聞いていた、という言い方が少し引っかかった。誰から聞いたのだろう。ヴィクトルが妻の帳簿管理を自慢するとは思えないから、取引先か、あるいは本家の会計を通じて間接的に知ったのか。
「伯爵家の帳簿は五年間、すべて私がつけておりましたので」
「知っています」
知っています、と彼は言った。聞いていた、ではなく知っている。その言い直しの意味を考えようとしたが、セバスティアンはそれ以上何も言わずに席を立った。
「また帳簿の話ができればと思います。——数字に正確な方との仕事は、気が楽だ」
それだけ言って応接間を出ていった。
褒められたのだと思う。たぶん。ランベール侯爵が「気が楽だ」という感想を口にすること自体がかなり珍しいのではないかという気がしたが、この人の平熱を知らないので判断のしようがない。
帳簿を鞄にしまいながら、少しだけ可笑しかった。伯爵家で五年間帳簿をつけ続けて得た評価が「君がいるから安心だ」で、商会に来て十日で得た評価が「数字に正確な方との仕事は気が楽だ」だ。どちらも帳簿管理者への評価だが、片方は私を消耗品として使い、もう片方は仕事相手として扱っている。その差が分からないほど鈍くはなかったが、今はまだ、分かったところで何かが変わる段階ではない。
事務室に戻ると、番頭のオーギュストが帳簿の束を抱えて待っていた。
「お嬢様、来月の取引先への請求書の下書きなのですが、少し見ていただけますか」
「ええ、見ます」
仕事がある。それだけで今日は十分だった。
机に座って帳簿を開くと、母が朝のうちに活けてくれたらしい小さな花が事務室の窓辺に置いてあった。白い花で、名前は知らない。伯爵家では自分で花瓶の水を替えていたが、ここでは母が黙って花を活けてくれる。
ありがたいと思ったが、口には出さなかった。この母娘はそういうことを口に出さない。




