第3話 伯爵夫人の最後の仕事
母からの返事は三日後に届いた。
デュヴァル侯爵家の封蝋を割ると、中には一行だけ書いてあった。「帰りなさい」。署名はエリーズ・デュヴァル。それだけだった。
事情を説明する手紙に対して質問も感想も助言もなく、ただ「帰りなさい」の五文字を寄越すのが私の母という人だ。余計なことを書かない代わりに、必要なことだけは迷いなく書く。帳簿の扱い方は母から教わったのだと、今さらのように思い出した。
手紙を引き出しにしまい、ヴィクトルの書斎を訪ねた。
三日前にペルティエの礼状を突きつけて以来、夫とまともに顔を合わせていなかった。食事の時間をずらし、廊下ですれ違えば会釈だけして通り過ぎた。ヴィクトルのほうも私を避けていたのか、それとも普段通り私の存在を気にしていなかっただけなのか、どちらとも取れるのが余計に腹立たしい。
「離縁の手続きを始めたいと思います」
書斎に入って最初に言った言葉がそれだった。前置きも挨拶もなかったが、もう穏やかな雑談から入れる間柄ではない。
ヴィクトルは椅子から半分立ち上がりかけて、止まった。
「考え直してくれないか」
「何を、でしょう」
「僕たちのことだよ。五年もやってきたんだ、いきなりこんな——」
「五年のあいだ、季節ごとに別の方へ贈り物をしていた方にそう言われると、なかなか響くものがあります」
皮肉ではなく、本心だった。五年を理由に引き留めるなら、五年の中身を先に説明してほしい。
ヴィクトルは座り直して額に手を当てた。反省している顔に見えなくもないが、この人の表情は当てにならないと三日前に学んだ。穏やかな顔で嘘をつける人間の反省顔を、額面通り受け取る気にはなれない。
「考え直してくれ、としか言えないのであれば、手続きを進めます。婚姻契約書の離縁条項は確認済みです。不貞を理由とする場合、申し立てた側に違約金は発生しません」
数字と手続きの話に切り替えた途端、ヴィクトルの目がわずかに泳いだのが見えた。この人は感情の話なら何時間でも曖昧にできるが、契約と数字の話からは逃げられない。逃げ方を知らないのだ。五年間ずっと私に任せていたから。
離縁の意思を伝えてから、私は引き継ぎ書を作り始めた。
最後の仕事だった。帳簿の締め方、取引先ごとの連絡の頻度と注意点、使用人の給与の支払い日、修繕業者との契約更新の時期、社交の贈答品の相場と格の目安、来月の行事に必要な手配の一覧。この家を回すために頭の中に入れていたものを、すべて紙に書き出した。
書きながら、自分でも呆れた。
五年間、私の頭の中だけにあったものがこれだけある。引き継ぎ書は便箋にして十四枚になった。十四枚。伯爵家の日常を支えていた知識がたった十四枚に収まるのが少ないのか多いのか分からないが、少なくとも今この家に、この十四枚の中身をすべて理解できる人間は私以外にいない。
引き継ぎ書の最後の一枚を書き終えたのは深夜で、書斎にはもう私しかいなかった。ペン先を拭いてインク壺の蓋を閉め、十四枚の便箋を揃えて紐で綴じた。
それでも仕事を雑に放り出す気にはなれなかった。私が去った後にこの家が困るのは分かっているし、困ればいいとも少しは思っている。でも使用人たちに迷惑をかけたくはなかった。ハンナも庭師も厨房のコックも、悪いのは彼らではない。
翌朝、荷物をまとめていると、ハンナが部屋に来た。
旅支度の手伝いを申し出てくれたのだが、衣装箪笥の前に立ったまま少しのあいだ黙っていた。ハンナが黙るのは珍しい。この人は有能な使用人で、必要なことを必要なだけ話し、余計な感情を仕事に持ち込まないのが美点だった。その人が衣装箪笥の取っ手に手をかけたまま動かない。
「ハンナ?」
「奥様。一つだけ、お許しをいただきたいことがございます」
かしこまった声だった。
「旦那様の外出先のことも、届く品の宛先のことも、私は奥様よりずっと前から存じておりました」
衣装箪笥の取っ手を握る手が、微かに震えている。
「お伝えすべきだったのかもしれません。けれど使用人の立場では——旦那様のことを奥様にお伝えするのは越権であると、そう考えてまいりました。それが正しかったとは思っておりません」
知っていた。
ハンナは知っていたのだ。私が帳簿に向かっている間にヴィクトルがどこへ出かけ、どんな品を誰に届けていたのか。私の知らなかった五年間を、この人は全部見ていた。
怒りは、来なかった。
来ると思ったのに来なかったのは、ハンナの立場を考えれば当然だったからだ。使用人が主人の私事を妻に報告すれば職を失う。それはこの家だけの話ではなく、貴族社会で使用人として生きていく道そのものを閉ざしかねない。ハンナは自分の生活と職を賭けてまで私に真実を伝える義務はなかった。それでも今こうして打ち明けているのは、私が去るからだ。去る人間にしか言えない本音がある。
「あなたを責めるつもりはありません。立場上、伝えられなかったことは分かっています」
「ありがとうございます。——ですが、一つだけ」
ハンナは顔を上げた。五年間いつも穏やかだったメイド長の目に、今だけは感情の色が見えた。
「奥様がいらっしゃらなくなれば、この家は立ち行きません。引き継ぎ書をお書きになったと伺いましたが、あれを読んで実行できる者は、この屋敷にはおりません」
分かっている、と言いかけて、やめた。分かっているけれど、それはもう私の問題ではない。
「紅茶、いつも美味しかったです。五年間ありがとう、ハンナ」
それだけ言った。ハンナは深く頭を下げて、それ以上は何も言わなかった。
荷物は驚くほど少なかった。
伯爵家に嫁いで五年も経てばもっと物が増えているかと思ったが、私物と呼べるものは衣類と筆記具と母から貰った小さな銀の懐中時計くらいしかない。この家で使っていた帳簿も茶器も便箋も花瓶も、全部伯爵家のものだ。五年かけて整えた暮らしの道具のうち、自分のものは鞄一つに収まってしまった。
身軽と言えば聞こえはいいが、五年間の形がこれだけだと思うと少し笑えた。笑えたので、まだ大丈夫だと思った。
玄関に向かうと、使用人たちが廊下の両側に並んでいた。ハンナが声をかけたのか自発的に集まったのかは分からないが、誰もおしゃべりをしていなかった。普段は厨房の奥から威勢のいい声を飛ばしているコックまで黙って立っている。
お辞儀をして通り過ぎようとしたとき、門番のじいさんが小さな声で「お気をつけて」と言った。それだけだったが、その一言の温度がやけに高くて、歩調が一瞬だけ乱れた。
玄関の扉に手をかけたところで、後ろから足音がした。
「待ってくれ、マルグリット」
ヴィクトルの声だった。振り返ると、廊下の奥から早足でこちらに向かってきている。その顔は焦りと困惑が混ざっていて、三日前の穏やかな微笑みはなかった。
「考え直さないか。こんな急に——僕だって努力するから」
努力。何の努力をどうするつもりなのかは言わない。具体的な中身のない「努力する」は、中身のない「安心だ」と同じ棚に入る言葉だ。
「お気持ちだけ頂戴します」
社交で何百回と使ってきた定型句を返して、扉を開けた。
振り返らなかった。
馬車が門を出て街道に入ると、伯爵家の屋根が木立の向こうに消えていった。五年間見慣れた屋根だった。あの屋根の下で帳簿を開き、紅茶を飲み、花瓶の水を替え、取引先への手紙を書いた。今はもう他人の屋根だ。
街道を二時間ほど走ったところで、デュヴァル侯爵家の領地に入った。
実家の門が見えたとき、紋章が午後の日差しで光っていた。この紋章の下で育ち、ここから嫁に出て、今また戻ってきた。出戻りと呼ばれるのかもしれないし、呼ばれたところで構わない。
門をくぐると、母が玄関の前に立っていた。
エリーズ・デュヴァル侯爵夫人は感傷的な人ではない。娘が離縁して実家に帰ってきても泣いたり抱きしめたりはしないし、事情を根掘り葉掘り聞いたりもしない。ただまっすぐ立って、鞄一つで降りてきた娘を見て「荷物はそれだけ?」と聞いた。
「それだけです」
「そう。部屋は空けてあります。着替えたら書斎にいらっしゃい」
それだけ言って母は中に入っていった。
私は門の前でもう一度だけ振り返って、来た道を見た。伯爵家の屋根はもう見えない。何かを確認したかったわけではなく、ただ五年間の終わりに何か区切りのようなものが必要な気がしたのだが、秋の街道はただ静かに伸びているだけで、特別な感慨はなかった。
鞄の中で母の懐中時計が小さく揺れた。
明日からはこの家で、自分の足で立つ方法を考えなければならない。でもそれは明日の仕事だ。今日はもう十分に働いた。




