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裏切らない夫だと信じていました。離婚届は私が用意いたします  作者: 九葉(くずは)


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第2話 大げさなことじゃない

翌朝、ヴィクトルの書斎を訪ねる前に身支度を整えた。


別に着飾るつもりはなかったが、髪だけはきちんと結い上げて、皺のない袖を通した。感情で話をするのではなく、事実を確認するために行くのだと自分に言い聞かせるには、身なりを正すのがいちばん手っ取り早い。泣き顔で乗り込む妻にはなりたくなかった。泣くのは事実を全部聞いてから決める。


ペルティエの礼状を封筒ごと持って廊下を歩いた。結婚記念の肖像画が壁に掛かっていて、五年前の私とヴィクトルが並んで微笑んでいる。描かれた私は若くて少し緊張していて、隣に立つ夫を信頼しきった顔をしている。画家の腕がいいのか、当時の私が本当にそういう顔をしていたのか、今となっては分からない。


書斎の扉を叩くと「どうぞ」と軽い声が返ってきた。ヴィクトルは窓際の長椅子で朝の新聞を読んでいて、卓上には手つかずの書類が積まれている。たぶん昨日の分もそのままだろう。この家の書類仕事は全部私がやるものだと思っているから、自分の机に書類が溜まっていても気にならないのだ。


「マルグリット、珍しいね。何かあった?」


珍しい。妻が夫の書斎を訪ねることが珍しいというのは、よく考えると結構な言葉だが、今はそこに引っかかっている場合ではない。


「一つ確認したいことがあります」


長椅子に掛けたまま新聞を膝に置いたヴィクトルの顔は、いつも通り穏やかだった。この人は本当に顔だけは誠実にできている。顔だけは。


封筒からペルティエの礼状を出して差し出した。


「昨日の郵便に紛れていたものです。宝飾商ペルティエからの礼状ですが、フォレ様という方に翡翠の耳飾りを届けたと書いてあります。伯爵家の口座からの注文のようですが、私はこの注文を出していません」


ヴィクトルの表情が一瞬だけ固まった。本当に一瞬で、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻ったが、その一瞬の硬直を私は見逃さなかった。帳簿の数字と同じで、一度見えてしまったものは消えない。


「ああ、それは——取引先への贈答だよ。僕が直接手配したんだ。君に頼むほどのことじゃなかったから」


取引先。


宝飾商から翡翠の耳飾りを取り寄せて届ける取引先。


なるほど、ずいぶん華やかな業種と付き合いがあるらしい。五年間この家の取引先をすべて把握してきた私の知らない、翡翠の耳飾りを喜ぶ取引先。


「そうですか。ただ、ペルティエの年次明細を確認したところ、フォレ様宛の注文は今年だけで三件ありました」


ヴィクトルの視線がわずかに泳いだ。


「去年は三件。一昨年は四件。結婚した年の冬にも一件。品目はすべて装飾品か贈答向きの小物です」


声は落ち着いていた。自分でも感心するほど平坦な声で、事実だけを並べた。怒鳴りたいわけではない。泣きたいわけでもない。ただ、答えを聞きたかった。五年分の季節の贈り物を受け取り続けている人がいるという事実に対して、この人が何を言うのか聞きたかった。


ヴィクトルは長椅子の背もたれに体を預けて、少しのあいだ天井を見ていた。言い訳を組み立てているのか、諦めて本当のことを言う準備をしているのか、そのどちらかだろうと思いながら待った。


「——カミーユは、昔からの知り合いなんだ」


カミーユ。


礼状には「フォレ様」としか書いてなかった名前に、いま前の名がついた。昔からの知り合いのカミーユ・フォレ。夫がその名前を口にしたとき、少しだけ声が柔らかくなったのを、私は聞き逃さなかった。


「知り合いの方に、五年間、季節ごとに宝飾品を贈っていたということですか」


「そんなに大げさに考えることじゃない」


出た。


大げさ。私が今いちばん聞きたくなかった言葉が、いちばん最初に出てきた。この人は問題を直視する代わりに、問題の大きさを値切る癖がある。取引先への支払いが遅れたときも「大した額じゃない」と言い、使用人の不満が溜まっていたときも「大げさだ」と言った。目の前の事実を小さく畳んでポケットにしまう手つきだけは器用な人だ。


「君を傷つけるつもりはなかったんだ。彼女とは、その、僕なりに距離を——」


「距離を保っていた、とおっしゃるのですか」


「......うん」


季節ごとに翡翠やルビーや真珠を贈る距離を、距離と呼ぶのであれば、そうなのだろう。


ヴィクトルはまだ穏やかな顔をしていた。それが私には何より堪えた。罪悪感で顔を歪めるでもなく、怒るでもなく、ただ穏やかに座って「大げさだ」と言う。この人にとって五年間の嘘は、大げさに騒ぐほどのことではないらしい。


つまり、五年間の私もそうだったのだ。帳簿をつけ、取引先を回し、使用人を采配し、社交の段取りを整え、花瓶の水を替え、冷めた紅茶を飲みながらこの家を支えてきた五年間は、大げさに考えるほどのことではなかった。


「分かりました」


それだけ言って立ち上がった。


「待ってくれ、マルグリット。話はまだ——」


「いいえ、十分です。確認したかったことは確認できましたので」


礼状を封筒に戻し、丁寧にお辞儀をして書斎を出た。


扉を閉めた瞬間、廊下で侍女のマリーとすれ違った。マリーが何か言いかけたが、私の顔を見て口を閉じた。そんなにひどい顔をしているのかと思ったが、たぶん逆だ。普段通りの顔をしていることが、かえって不自然に見えたのだろう。



自室に戻って最初にしたのは、結婚指輪を外すことではなかった。


婚姻契約書の写しを引き出しから出すことだった。


結婚前に両家の代理人が取り交わした契約書には財産分与の条項がある。離縁に際しての取り決め、違約金、婚資の返還条件。当時は一生使うことがないと思って読み飛ばした箇所を、今は一字も飛ばさずに読んだ。


不貞を理由とする離縁の場合、申し立てた側に違約金の支払い義務は生じない。


つまり私から離婚を切り出しても、デュヴァル家が金を払う必要はない。


ペルティエの明細書と礼状は手元にある。フォレ様宛の五年分の贈答品の記録は、宝飾商の側にも残っている。帳簿は伯爵家の書斎にあるから、そちらの支出記録とも照合できる。証拠は揃う。


感情の整理はまだ何もついていない。昨日の夕方に礼状を見つけてからまだ一日も経っていなくて、怒りと悲しみと虚しさが喉の奥で順番待ちをしている。でも感情の順番が決まる前に、手続きの順番は決められる。


実家に手紙を書いた。母のエリーズ宛に、事実だけを簡潔に記した短い手紙。感情的な言葉は一つも入れなかった。母は賢い人だから、事実だけ書けば何が起きたか分かってくれる。


手紙の封をしてから、書斎の窓を開けた。秋の風が入ってきて、机の上の紙を少しだけ揺らした。


婚姻契約書の、離縁の条項のところが開いたまま風に煽られている。


閉じなかった。

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