第9話 伯爵の遅すぎた後悔
離縁届が受理されたという通知は、取引先への請求書を仕上げているときに届いた。
王府の公印が押された薄い紙一枚で、文面は事務的だった。ランベール伯爵ヴィクトルとの婚姻関係は本日をもって解消された旨を通知する。以上。五年間の結婚が紙一枚で終わるのかと思ったが、始まったのも紙一枚だったから釣り合いは取れている。
通知を読んでから請求書に目を戻した。クレマンへの穀物代の明細がまだ二行残っていたので、先にそちらを片づけた。感情の整理より先に数字の整理をしてしまうのは悪い癖だが、数字のほうが素直に片づくのだから仕方がない。
請求書を書き終えてペンを置いたとき、指先が少しだけ震えているのに気づいた。震えは一瞬で止まったが、体のほうが先に反応していたらしい。頭は平気なつもりでも指先は正直だ。
通知をペルティエの礼状やヴィクトルの手紙と同じ引き出しにしまった。元夫の不始末の保管庫はこれで三点目になったが、次はもう増えない。離縁は成立した。ヴィクトルとの間にはもう紙一枚の関係もない。
それから数日のあいだに、いくつかの話が耳に入ってきた。
一つ目はオーギュストから。ランベール伯爵が本家のセバスティアンに領地運営の援助を求めたが、セバスティアンは帳簿管理の人員を一名派遣するにとどめたという話。最低限の援助しかしなかったということだ。本家の当主として弟を見捨てるわけにはいかないが、自業自得の尻拭いを全面的に引き受ける気もない。そのさじ加減がいかにもセバスティアンらしいと思った。
二つ目は母から。カミーユ・フォレの存在が社交界で公然の事実になったという話。法務官の事務所で提出した明細書の内容が、どういう経路かは分からないが外に漏れたらしい。社交界の情報網は帳簿より正確で、宝飾商の名前と宛先が紐づいた時点で「伯爵夫人が離縁した本当の理由」として確定した。
「フェルセン夫人が茶会で言い切っていたわ。『あの伯爵は妻の帳簿で愛人に宝飾品を買っていたのですね』と」
母はいつも通り淡々と報告してくれた。フェルセン夫人の言い方は正確だ。妻が管理している帳簿の口座から愛人への贈り物を支払う。それがどういう意味かを社交界の夫人たちが理解しないはずがなく、ヴィクトルの信用はもう回復の見込みがない水準まで下がっているだろう。
カミーユ本人がどうしているのかは知らない。知る必要もない。彼女はヴィクトルに「妻とは形式的な関係だ」と言われて信じていただけかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ、私の人生からはもう退場した人だ。
三つ目はセバスティアンから直接。商会での取引の後に「弟が本家に来た」と短く言った。
「何と」
「助けてほしいと。領地の運営ができないと」
「侯爵様は何と」
「人を一人送ると言いました。それ以上は弟の問題です」
それだけだった。弟の窮状について感想も感情も述べず、事実だけを伝える。この人が私に弟の話をするのは、私に知る権利があると判断しているからだろう。元妻には元夫の現状を知る権利がある。そういう律儀さが、この人にはある。
商会での仕事は順調だった。
デュボワとの織物取引の新しい契約をまとめ、ルロワの革細工の注文を増やし、来季の木材の仕入れ価格をベルナールと交渉して前期比五分の削減を引き出した。数字にすればそれだけのことだが、一つひとつが私の名前で成立した取引だ。伯爵家では「伯爵夫人の仕事」として伯爵の名前に吸収されていたものが、ここではデュヴァル商会のマルグリットの仕事として記録に残る。
夕食前に母の書斎に呼ばれた。今季の取引実績を報告するためだったが、数字を並べ終わった後で母が少しだけ間を置いた。
「立派になりました」
エリーズ・デュヴァル侯爵夫人がこの種の言葉を口にするのは、私の記憶では二度目だ。一度目は子供の頃に初めて帳簿の転記を間違えずにやり遂げたときで、あれから十五年以上経っている。母の褒め言葉は産地限定の高級品みたいなもので、市場にはほとんど出回らないから値段がつけられない。
「ありがとうございます、お母様」
それ以上は互いに何も言わなかった。この母娘はそれでいい。
翌日の夕方、取引の書類を片づけてから商会の裏庭に出ると、セバスティアンがまたいた。
最近この人は商会に来ると帰りが遅い。書類の用事は午前中に済んでいるはずなのに、夕方まで残って何をしているのか。母と商談でもしているのか、それとも別の理由があるのか。別の理由について考え始めると妙に落ち着かなくなるので、深追いはしていない。
石のベンチに並んで座った。前にもこうやって座ったことがあって、あのときは弱音を漏らして少し恥ずかしかった。今日は弱音の代わりに報告がある。
「離縁届が受理されました」
「聞いています」
「そうですか。侯爵様は何でもご存じですね」
「何でもではありません。知らないことのほうが多い」
珍しく曖昧なことを言うなと思ったが、突っ込まなかった。
しばらく黙って秋の庭を見ていた。この沈黙にも慣れてきた。ヴィクトルとの沈黙は居心地が悪かったがセバスティアンとの沈黙は違う。何かを埋めなければならない空白ではなく、そのまま置いておいていい空間だ。
「マルグリット嬢」
「はい」
「あなたがこの先も商会で仕事を続けるなら、私はそれを支えたいと思っています」
声の温度が、いつもと少しだけ違った。
仕事の話として聞けばそれまでの言葉だ。取引先の当主が取引先の帳簿管理者を支えたいと言っている。業務上の信頼の表明。それで片づけてしまうこともできる。
でも「支えたい」という言葉を選ぶとき、この人の声は「見事です」と言うときより少しだけ柔らかかった。普段は数字のように乾いた声で事実だけを述べるこの人が、わずかに湿り気のある言葉を使った。その差は帳簿の一銭のずれと同じで、小さいけれど見落としてはいけないものかもしれない。
「ありがたいお言葉です」
「社交辞令ではありません」
「存じています」
そう返したとき、自分の声もいつもと少し違っていたことに気づいた。気づいてしまったので、それ以上は何も言えなかった。
セバスティアンも何も言わなかった。庭に秋の風が吹いて、母の植えた白い花が揺れた。あの花の名前はマーガレットだと、昨日ようやく母に聞いた。自分の名前と少し似ていて可笑しかった。
立ち上がって邸に戻るとき、振り返らなかった。振り返ったら何か言ってしまいそうで、まだその言葉を持っていないと思ったからだ。
自室に戻って引き出しを開けた。離縁届の受理通知とペルティエの礼状とヴィクトルの手紙。三つの紙が並んでいる。
そこに今日の取引の控えを足した。過去の紙は三枚で止まっている。これからの紙はいくらでも増やせる。引き出しの中身の比率が変わっていくのを見届けるのは、帳簿管理者の仕事だ。




