85.これからの話
通りに面し、壁が白く塗られた二階建て。その庭の片隅に小さな泉がある。
白い壁が朝日を受けて、柔らかく光っていた。
その家は、王都の東区画の中では控えめな佇まいだった。窓枠は塗装が剥げている。屋根瓦は赤みがかった茶色で、一枚だけ微妙にずれていた。完璧ではなかったが、それは人が暮らすための家だった。飾るための城ではなく。
メアが門の鍵を開けると、小さな庭が現れた。雑草がまばらに生え、隅に植わった名も知れぬ低木が株元の雑草に日陰を提供している。そしてその片隅に、泉があった。
拳二つ分ほどの深さしかない、こじんまりとした泉。内見の日、気の早いカナが水を操り、床を洗い流した水が庭に流れ出てできたものだった。排水溝を使えと言うにはもう遅く、庭の窪みに水が集まって、そのまま居座ってしまった。あの日から水は涸れていない。澄んだ水面に、青く空が映っている。
「ちゃんと残っているな」
メアの声に呆れはなかった。むしろ確認するような響きだった。内見から日が経っている。普通の水溜まりなら、とうに干上がっているはずだったが、この泉は静かに湧き出している。カナの水は、カナの水だった。
「図面にはありませんでしたが……不思議ですね」
エイは微笑んだが、不思議だとは本当には思っていない顔だった。あの森の泉を知っている。真珠から湧き出た水が大樹を育て、枯れた森を一夜にして蘇らせた泉を。それに比べれば、庭の片隅に小さな泉が湧くことくらい、可愛いものだ。
メアが玄関の扉に鍵を差し込んだ。真鍮の鍵が古い錠前に噛み合い、かちりと音を立てた。
扉が開いた。
中は、あの日カナが水で洗い流したままだった。埃はない。石の床は清潔で、壁も天井も、外の泉を作った水が隅々まで行き渡った痕跡がある。窓から差し込む光が、何もない部屋を明るく照らしていた。竈が二つ、壁際に並んでいる。エイがこの家を推した理由の一つだ。
大きな調理台を除けばほとんど何もない。家具も、食器も、寝台もない。がらんとした、空っぽの家。
だがその空っぽの中に、ひとつだけ色があった。
窓辺に、花瓶が置かれていた。通りの花売りがカナに手渡した野の花の束。名前も知らない、小さな白い花。カナが水を出して花瓶に挿し、窓辺に置いたものだった。まだ契約前だったにも関わらず、満足そうに花の位置を直していた。
あれから何日も経っている。普通なら萎れて茶色く枯れているはずの花が、内見の日と同じように咲いていた。茎はまっすぐ伸び、花弁は瑞々しく、花瓶の水は澄んでいる。庭の泉と同じだった。この水に浸かったものは、枯れることを忘れてしまうらしい。
「……悪くない」
メアは内見の時と同じ感想を、同じ声で言った。だが黒い目は花瓶の花を見ていた。空っぽの家に、カナはもう根を下ろし始めている。あの日のうちに、水と花で、ここを自分の場所にしていた。
これから二人で埋めていく余白の中に、最初の色はもう咲いていた。
エイが窓を開けた。風が空っぽの部屋を吹き抜け、窓辺の白い花が揺れた。
通りの向こうから、パン売りの呼び声が聞こえる。子供たちが走り抜ける足音。犬の鳴き声。王都の東区画は、何の変哲もない日常で満たされていた。その日常の真ん中に、白い壁の家が建っている。
「家具は、お二人で選ばれますか。それとも、私の方で手配しましょうか」
「カナが選べばいい」
メアは竈の具合を確かめながら言った。石組みはしっかりしている。水で落としきれなかった煤の跡があるから、前の住人も使い込んでいたのだろう。メアの手が竈の縁を撫でた。この男が台所で料理をする姿は想像しがたかったが、森でカナに野営飯を教えた手つきを思えば、できないわけではないはずだった。
「大物だけ先に依頼しておきます。今夜から泊まることもできますが」
「宿舎の引き払いがある。明後日からだ」
「明後日ですね」
エイが鞄から帳面を取り出し、手際よく書き込んでいく。家具の手配、宿舎の退去届、住所変更の届出。副官の頭の中では既に、二人の新生活に必要な手順がすべて組み上がっているのだろう。
メアが二階への階段を上がった。木の段が軋む音が天井越しに聞こえてくる。寝室の窓を確認しているのか、足音が部屋の端から端へ移動した。騎士の癖だった。逃走経路と侵入経路を確かめずにはいられない男。
カナと二人、一階に残されたエイが、帳面から顔を上げた。
エイの金色の目が、穏やかにカナを見ていた。
「良い家ですね」
それは物件の評価ではなかった。庭に涸れない泉があり、窓辺に枯れない花が咲き、竈が二つある家。空っぽだけれど、もう誰かの家になっている場所。エイはもう一度、窓の外に目をやった。陽の光が水面に反射して、揺らめく模様を描いていた。
「あの泉、魚を放してもいいかもしれません」
それは、未来の話だった。明日ではなく、明後日でもなく、もっと先の、当たり前に続いていく日々の話。魚を放す泉がある庭で、二人が暮らしていく日々。
二階から、メアの足音が階段を降りてきた。
「二階の窓の鍵が一つ壊れている。直す」
「手配します」
「自分でやる」
エイが少し目を見開き、それから笑った。自分の家の鍵を、自分で直す。メア・グレンダンがそういう言葉を口にする日が来るとは、副官にも予想できなかったのだろう。
白い壁の家に、三人分の影が落ちていた。やがて一人が去り、二人が残る。そういう未来が、もうすぐそこにあった。
それから二日が過ぎた。
荷物は驚くほど少なかった。メアの私物は軍服の替えと剣の手入れ道具、数冊の本、それだけだった。黒狼騎士団宿舎に長く住んでいた割に、この男は自分の部屋に何の痕跡も残していなかった。根を張らない生き方をしてきた証だった。
カナの荷物は多かった。メアが買った日常の着替えの類、エイが用意した数着のドレスと靴。泉の底の家にあった捧げ物の宝のいくつかは、王の勅命で守られた金貨に姿を変えて、商会の金庫に眠っている。かつての贈り物が、白い壁の家の礎になった。
引っ越しの朝、エイだけでなく、ビィ、イーガ、ガルドにエフィも手伝いに来た。
「カナさん、寝台はこちらでいいですか」
「重い方は俺が持つって言ってんだろ、お前が持つと壁にぶつける」
「一回だけじゃないか!」
二階から騒がしい声が降ってきた。ガルドが階段の踊り場で腕を組み、弟と弟の親友の運搬作業を監督している。
「おい、角を擦るなよ。隊長の家だぞ」
一階では、エフィが窓の寸法を測っていた。カーテンを縫うと申し出たのは彼女だった。意外な家庭的一面に、ビィが目を丸くしたのはつい先ほどのことだ。
「隊長!団長から祝いの酒が届いてる。棚に入れておく」
ディートの名前が刻まれた木箱が、竈の横に置かれていた。中には上等な葡萄酒が二本と、走り書きの手紙。「嬢ちゃん、飲みすぎるなよ」とだけ書かれていた。
第三部隊が、家を埋めていく。空っぽだった部屋に、食卓が入り、椅子が並び、棚が壁に据えられた。エイが手配した寝台が二階の寝室に収まり、イーガが窓辺に置く小さな机を運び上げた。
メアは黙って働いていた。窓の鍵を自分で直し、竈に火を入れて引きを確かめ、庭の泉の縁石がぐらついていないか指で押した。騎士が城塞を点検するような手つきだった。だがその城塞は、石と鉄の砦ではなく、白い壁と赤い屋根瓦の、小さな家だった。
夕刻、第三部隊が引き揚げていった。ビィが門の前で何度も振り返り、イーガに襟を掴まれて引きずられていく。ガルドの豪快な笑い声が通りに響き、エフィが静かに手を振った。
エイが最後に残った。副官は玄関の前に立ち、帳面を確認してから鞄を閉じた。
「すべて完了です。何かあれば、いつでも」
エイはそう言って、一礼した。それからカナを見て、メアを見て、二人の間にある空気を確かめるように、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「おやすみなさい、隊長。カナさん」
副官の足音が通りに消えた。
白い壁の家に、二人きりの夜が来た。窓辺の白い花はまだ咲いている。庭の泉が、月の光を映していた。竈には火が入り、エイが置いていった茶葉の袋が棚の上で出番を待っている。
静かだった。森の底の泉のような静けさではなく、人の暮らす夜の静けさだった。通りの向こうで犬が一声吠え、どこかの家の扉が閉まる音がする。生活の音に包まれた、温かい静寂。
メアが竈の前に立った。薬缶に水を入れ、火にかけた。湯が沸くまでの間、黒い目がカナに向いた。
「茶を淹れる。エイほど上手くはないが」
メアの声は、いつも通り素っ気なかった。だが薬缶を火にかける手つきは丁寧で、茶葉の量を確かめる目は真剣だった。
湯気が立ち始めた。温かい飲み物の匂いが、空っぽだった家に最初の記憶を刻んでいく。
茶を飲んで、一息。
「温かいね」
湯気が二人の間を漂っていた。
メアはカップを両手で包んだまま、カナの向かいに座っていた。食卓は新しい木の匂いがする。椅子の座面はまだ体に馴染んでおらず、少し硬い。けれど竈の火が部屋を温め、窓辺の花が月明かりに白く浮かんでいる。
カナの言葉に、メアは頷いた。
「ああ」
それだけだった。だがメアの手がカップの上で少し緩んでいた。この男が力を抜いている姿を見られる人間は、かつてはエイだけだった。今は、もう一人いる。
泉の底の家は冷たかった。光る苔が照らす空間に、竈はなく、湯気も立たなかった。捧げ物の宝は山と積まれていたが、どこか肌寒い部屋だった。カップの温かさを両手で包み込む。逃がさないように。
メアの視線が窓の外に向いた。庭の泉は月を映している。できて数日の小さな泉。あの森の泉に比べれば、ままごとのようなものだった。だが水は澄み、涸れない。カナがここにいる証のように。
「明日、窓枠を塗り替える」
メアの声は静かだった。明日の話をしている。明後日の話も、その先の話も、この食卓でするのだろう。任務の報告ではなく、家の修繕の話を。
竈の火が爆ぜた。小さな音が、二人の沈黙を温かく包んでいた。
王都の東区画、通りに面した白い壁の家。
庭の片隅に、決して涸れない泉がある。
やがて吟遊詩人たちは、酒場の片隅で竪琴を爪弾きながら、こう歌うようになる。
東の森の奥深く。光る苔に照らされた水底に、宝を抱えて眠る娘がいた。
森が焼かれ、泉が涸れ、悲しみに暮れた娘の涙が青い光となって王都に降り注いだが、黒き騎士が涙を恵みの雨に変え、森はふたたび息を吹き返した。
娘は宝の中から三つを選び、王に捧げた。青い宝石の剣。瑠璃の瓶。そして一枚の石板。泉に住む白い蛇と、それを見つめる異国の女王を描いた絵だった。ここにいた人を忘れないで、という言葉を添えて。
娘を守った騎士は名を教え、娘は騎士に名を預けた。二人は白い壁の家に暮らした。庭には小さな泉。窓辺には決して枯れない花。
年月が流れ、騎士団の顔ぶれは変わり、部下の髪に白いものが混じる頃になっても、白い壁の家の二人は変わらなかった。黒い髪に白髪は一本も混じらず、黒い目は衰えを知らず、娘は出会った日と同じ顔で、その隣には、騎士が変わらない姿で静かに寄り添っている。
街の人々はそのことに気づいていたが、誰も口にしなかった。花屋は変わらず花を売り、パン屋は変わらずパンを焼き、隣家の子供はいつの間にか孫を連れて泉を覗きに来た。
二人が何者であったのか、知る者がいなくなっても、白い壁の家はそこにある。夜更けに通りを歩けば、竈の灯りが窓から漏れて、水面に揺れている。耳を澄ませば、湯を沸かす音が聞こえる気がする。
東の森の泉は広大で深く、悠久の時を湛え、庭の泉はささやかに、二人分の暮らしを映していた。
吟遊詩人たちの歌は夜ごとに尾ひれがつき、やがて騎士は竜を三匹倒して国を興したことになり、森の娘は月を飲んだことになり、副官は実は天使だったことになるが、真実はいつだって、歌より静かだ。
白い壁の家の食卓で、湯気の向こうに見える顔。家を手入れする無骨な手。庭の泉に映る月。それだけが本当のことだった。
それに。それだけで、十分だった。
騎士と泉の境界線 完
お付き合いありがとうございました。
完結だー!
ここまでたどり着いた感慨を誰かと分かち合いたいので、ポイントや感想コメ等いただけると嬉しいな。
作者の感想は「エイがいなかったら詰んでた!エイありがとう!師団襲撃楽しかったね!」です
キーワード設定は悩ましい…気持ち的には「ほのぼの」してると思う…「(メアが)溺愛'(されてる)」は違う気がする…キーワード難しい…




