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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
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84.きもちのたね

 仲介人の事務所は、想像していたよりもずっと狭かった。壁際には書類の山が天井近くまでそびえ立ち、窓から差し込む光が、静かに舞う埃の粒子を白く照らし出している。

 机の向こうに座っていた男が、三人の姿を認めるなり弾かれたように立ち上がった。痩せた中年。まだ涼しい時間帯だというのに、彼の額にはべったりと汗が浮いている。それが気温のせいではないことは、その場の誰もが察していた。

「ああ、奥方様。お待ちしておりました。ランティス様も」

 仲介人の目が泳いだ。メアの視線から逃れるように書類を探すふりをして、引き出しを何度も開けたり閉めたりしている。エイはその動揺を、冷徹なまでに見逃さなかった。

「本契約の書類はすべて揃っているはずですが。何か問題がありましたか」

「いえ、問題は……問題というほどのことでは」

「だから。あるのか、ないのか」

 メアの声が事務所の空気を一気に凍りつかせた。仲介人の額に新しい汗の粒が浮かぶ。この男は、一方に王の勅命を背負った騎士、もう一方に枢密院の重鎮を抱え、その板挟みの中で朝から胃を痛めていたに違いなかった。

「……今朝、枢密院のエムラド卿がいらっしゃいまして」

「ええ、伺っています」

「あの物件には、その……未登記の地役権が存在する可能性があると。枢密院が調査を求めていると仰られまして」

「地役権?」

 カナの呟きに、エイは穏やかな声で向き直った。教師が生徒に説明するような丁寧な口調だったが、その目は依然として仲介人を射抜いたままだ。

「簡単に言いますと、その土地を他の誰かが通行したり使用したりする権利のことです。隣の家の人がカナさんの庭を通らないと道に出られない、とか。それが登記されていないとなると、調べるまで売買できないと言い張れるわけです」

 カナの視線が仲介人に向けられた。男は耐えきれずに汗を拭い、視線を机の端へと落とした。

「ただし」

 エイの声の温度が、一段と下がった。

「あの物件の登記簿は、私が事前に確認しています。地役権の設定はありませんでした。未登記の可能性を主張するなら、その根拠を示す義務はあちら側にあります。仲介人殿、根拠は示されましたか」

「それは、その……調査の必要があるとだけ」

「根拠がないということだな」

 仲介人が椅子の上で小さく縮こまった。メアの黒い瞳が、書類の山越しに男を正確に射抜いている。

「仲介人殿。昨夜、陛下より勅命が出ております。カナ・グレンダンの財産権を侵害する一切の行為を禁ずる、と。物件の売買を根拠なく妨害することが、この勅命に抵触しないとお考えですか」

 仲介人の喉が上下に動いた。枢密院の重鎮と、絶対的な王の勅命。天秤にかけるまでもない重さの差を、彼は頭では理解しているはずだった。ただ、目の前にいない権力者よりも、今朝この机を叩いた権力者の方が怖いという、人間特有の弱さがあった。

 エイが鞄から書類の束を取り出し、机の上に置いた。音を立てないように、しかし一切の迷いもなく。

「契約を進めましょう。あとは署名するだけのはずです」

「……ちょっと、私、イライラ?してるかも……どうしたんだろう……」

 カナが自分の胸に手を当てた。布地をぎゅっと握りしめている。それは、自分の中に湧き上がっている感情の名前がわからないという、ひどく困惑した顔だった。

 メアが振り返った。エイの手が書類の上で止まる。仲介人はもはや存在を消そうとするかのように、椅子に深く沈み込んでいた。

「イライラで合ってる」

 メアは短く言った。カナが自分の感情に戸惑っていることに、驚く様子はなかった。ずっと泉の底で過ごしていれば、怒りという感情に馴染みが薄くても不思議ではない。泉の底の家には竈もなければ、怒る理由もないのだから。

「悪い感情じゃない。自分のものを守りたい時に出る」

 メアの声は、あの森でカナに野営料理を教えた時と同じ調子だった。人間の生きる術を教えたかった男が、感情の名前まで教えている。

 エイが小さく微笑んだ。仲介人の存在を忘れたわけではなかったが、ほんの一瞬だけ、その顔が緩んだ。

 カナが怒っている。家を買いたいから。メアと暮らす場所を、誰にも邪魔されたくないから。泉の底でただ捧げ物を受け取るだけだった森の主が、今、自分の手で何かを掴もうとしていた。

「ええ。イライラです。仲介人殿、私たちみんな、イライラしているんです」

 エイが仲介人に向き直った。金色の目から穏やかさが消え、かわりに表に出たのは交渉に向かう峻厳な目だった。

「お返事を」

 仲介人の目が、エイとメアの間を忙しなく往復した。痩せた喉仏が上下し、机の下で膝が震える音が聞こえてくるほどの静寂が事務所を支配する。

「……わ、わかりました」

 声が裏返っていた。仲介人は引き出しから印章を取り出し、震える手で契約書に押した。枢密院の重鎮は恐ろしい。だが今ここにいるのは、王の勅命を背負った騎士たち。宰相家の血を引く副官と、黒い瞳で静かに自分を見据える隊長だった。

 そしてもう一人。眉を寄せて胸に手を当てる女。仲介人は彼女の名を知っていた。森を焼かれた報復として白梟師団本部を襲撃し、黒狼騎士団の隊長と祝婚祭を挙げた森の主。吟遊詩人たちがこぞって歌い、酒場で毎夜のように語られる名前。カナ・グレンダン。王の勅命が個人名で下される相手に、これ以上逆らう度胸は彼には残っていなかった。

 印章がインクに押し付けられ、紙の上に赤い跡を残し、グレンダン夫妻の二つの名前が並ぶ。エイが書類を確認し、一枚一枚を丁寧にめくっていく。

「受理印、物件登記番号、売主署名、買主署名。すべて揃っています」

 エイが契約書の写しをメアに渡した。メアはそれを受け取り、一度だけ目を通してから折り畳み、懐に収めた。

「カナ」

 メアがカナに向き直る。黒い瞳が、まだ胸に手を当てている彼女を見下ろした。

「終わった。家はお前のものだ」

 正確にはメアとカナ、二人の名義である。だがメアはそう告げた。この男は、最初から自分のためではなく、カナの家を買いに来ていたのだ。

 イライラの正体を知ったばかりの森の主が、初めて自分の手で守り抜いたもの。それが、インクの匂いがする一枚の紙の上に記されている。

「ダメだよ。二人の家だよ」

 メアが口を閉ざした。反論を封じられた男の耳が、また赤く染まっていく。

「……二人の家、だ」

 訂正するまでに、僅かな間があった。メアにとって家という言葉は、辺境の実家を出て以来、どこにも根を下ろさなかった空虚な概念だった。騎士団宿舎の一室はただ寝るための場所であり、家ではなかった。それが今、この瞬間に二人の家ができた。

 仲介人は机の向こうで、自分がまだここに存在していいのか判断しかねるような顔をしていた。

「お手数をおかけしました。今後の登記手続きについては、追って書面でご連絡します」

 三人が事務所を出ると、通りは先ほどよりも賑わいを増していた。露店が並び、買い物客が行き交い、どこかの窓から子供の笑い声が聞こえてくる。

 エイが鞄の中から鍵を取り出した。古い真鍮の鍵が、光を受けて鈍く輝く。

「これは事前に売主からお預かりしていたものです」

 エイはその鍵を、カナとメアの間に差し出した。どちらに渡すか迷ったのではない。二人で受け取れ、という意思表示だった。

「見に行かれますか?すぐ近くです」

 東区画の一軒家。庭付き。竈が二つ。エイが選び、メアが頷き、そしてカナのイライラが守り抜いた家が、鍵一つ分の距離で待っていた。

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