表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
PR
83/85

83.小さかったエル

 翌朝は、昨日の涙が嘘のように晴れていた。

 黒狼騎士団宿舎の廊下に、エイの靴音が規則正しく響いた。副官は書類の束を抱え、首の片側に紙の跡をつけたまま、メアの部屋の扉を叩いた。机に突っ伏して眠った代償は、首筋の赤い線と、微妙に曲がった襟に刻まれていた。

「隊長。お時間です」

 扉が開くまでに、いつもより数秒長くかかった。メアは既に軍服を整えていたが、その後ろからカナの寝ぼけた気配が漂っていた。

 朝食は食堂で手早く済ませた。今朝のメアは、カナの皿にパンをもう一切れ載せてから自分の食事に手をつけた。無言だった。エイが微笑んだ。メアは気づいていなかった。

「本契約は昼前に仲介人の事務所で行います。必要な書類はすべて揃っています。カナさんの売却資金と、隊長の手持ちを合わせた額で、物件の購入代金を一括でお支払いする形になります」

 エイが書類を広げた。物件概要書には、王都の東区画、黒狼騎士団宿舎から歩いて程よい距離にある一軒家が記されていた。大きくはないが、庭がある。カナのために庭付きを探したのはエイの判断だった。森の主に庭のない家は酷だろう、という副官の配慮だった。

「勅命は昨夜のうちに枢密院に届いています。資産凍結の申請は正式に却下されました」

「問題はないな」

「書類上は」

 エイの言葉の選び方に、メアの目が鋭くなった。副官は穏やかな顔のまま、声を少し落とした。

「枢密院のエムラド卿が、今朝、仲介人の事務所を訪ねたという報告がありました。何を話したかはまだわかりません」

 食堂の喧騒の中で、メアの手が止まった。

「しつこい」

 カナの一言に、メアの口元が僅かに動いた。笑ったのか、同意なのか、判別がつく前にいつもの無表情に戻った。

「ええ、本当に」

 エイの声は穏やかだったが、金色の目には朝の光とは違う鋭さが宿っていた。勅命が出た翌朝に仲介人を訪ねるというのは、もはや嫌がらせではなく示威行動だった。王の言葉を軽んじるほどの愚か者か、あるいは、王の言葉が及ない何かを握っているか。

「仲介人は」

「今のところ、契約を取り下げるとは言っていません。ただ、昼前までに態度が変わる可能性はあります」

 メアが立ち上がった。食器を下げる手つきに迷いはなかった。

「先に行く。仲介人に会う」

「隊長、本契約の書類はもう揃っていますから、そう焦らなくても」

「だから先に行く。横槍を入れられる方が厄介だ」

 メアの皿にはパンが半分残っていた。エイは何も言わなかった。メアが席を立った時点で朝食は終わりであり、副官はその翻訳に長けていた。

 メアが剣帯を締め直し、食堂の出口に向かった。その背中を見ながら、エイがカナに向き直った。

「カナさん。朝食を済ませたら、一緒に行きましょう。契約には二人とも立ち会っていただく必要がありますので」

 エイの目がカナの皿を確認した。空だった。メアが載せた追加のパンもとうに消えている。森の主の食欲は、今朝も健在だった。

「なんで邪魔するんだろうね」

 エイの手が、書類を整える動きを止めた。

 むくれている。カナが、むくれている。眉がほんの少し寄って、唇が微かに尖っている。それは東の森で出会った頃のぼんやりとした穏やかさとも、昨日の涙とも違う、もっと人間くさい表情だった。

 エイは思い出していた。宿舎の食堂で雑用をしていた頃のカナを。あの頃のカナは、何をされてものんびりと受け流していた。シールの調査が迫ろうが、エジェが宿舎に入り込もうが、自分の身が危うくなろうが、どこか他人事のような顔をしていた。浮世離れした微笑みの奥に、何もかもを諦めたような透明さがあった。

 今は違う。家を邪魔されて、むくれている。

「カナさん」

 エイは立ち上がり、鞄を肩にかけた。声は普段通り穏やかだったが、金色の目の奥に温かいものが灯っていた。

「邪魔はさせません。お二人の家ですから」

 それは友人としての言葉であり、同時に、あの夜、霧と共に消えたカナを見送ることしかできなかった男の、遅れてきた約束だった。あの時は守れなかった。今度は違う。

 エイが食堂の扉を開けた。廊下の向こうでは、メアが既に宿舎の門を出ていく背中が見えた。

「さあ。隊長を一人で行かせると、仲介人を睨みで黙らせかねません」

 王都の朝は、まだ通りに露店が並び始めたばかりだった。カナとエイが宿舎の門を出ると、石畳に長い影が伸びていた。メアの姿はもう角の向こうに消えている。

 エイは歩調をカナに合わせながら、ふと横目で見た。

「カナさんは、怒ることがあるんですね」

 唐突な言葉だった。エイ自身、口にしてから少し驚いたような顔をした。だが撤回はしなかった。

「あの時、宿舎で。貴女が消えた時」

 エイの声が少し低くなった。霧に姿を変えたエジェを、水になったカナが取り込んで、そのまま消えた夜のことだ。あの時のカナには怒りも悔しさもなかった。ただ静かに、当然のことをするように、捕らえた魔物を自分ごと差し出した。

 エイはあの光景を忘れていない。斬れない霧に刃を振り続けたビィの叫びも、イーガの焦る声も。そして、水の塊に剣を突き刺した時の、あの感触。手応えのない霧ではなかった。確かに何かを貫いた。刃が何を貫いたのか、今でもわからない。わからないまま、あの感触だけが右手に残っている。

「あの頃のカナさんは、自分のことでは怒らなかった」

 朝の通りを人が行き交い始めていた。パン屋の煙突から煙が上がり、犬が路地を横切る。その日常の中で、エイは真っ直ぐ前を向いたまま続けた。

「家を邪魔されて怒ってくれて、嬉しいです」

 副官の声は穏やかだった。だがその穏やかさの底に、あの夜、剣を突き刺すことしかできなかった右手の記憶が横たわっていた。

「エイは、エイ・ランティスの他にも名前はあるの?」

 エイの足が、半歩だけ止まった。

 朝の通りを荷車が通り過ぎ、車輪の音が二人の間を横切った。エイはすぐに歩き出したが、その一瞬の間をカナは見逃さなかっただろうか。

「どうしてそんなことを?」

 エイの声は穏やかだった。いつも通りの、丁寧で柔らかい声。だが問いを問いで返すのは、この副官にしては珍しいことだった。

 朝の光がエイのオレンジ色の髪を明るく染めていた。金色の目が、カナを見下ろしている。身長差のせいで、エイがカナの顔を見るにはかなり視線を下げる必要があった。

「ランティス家の五男ですので、幼名はありますよ。ただ、家族以外に呼ばれたことはありません」

 エイは少し考えるように視線を前に戻した。パン屋の前を通り過ぎると、焼きたての匂いが漂ってきた。

「エル、と呼ばれていました。母が付けた名です」

 エル。短く、柔らかい音だった。ランティス家の五男坊が、まだ剣も書類も持たなかった頃の名前。エイはそれを口にしてから、少し照れたように首の後ろに手をやった。

「今は誰もそうは呼びませんが」

 エイの目がカナに戻った。昨夜、馬車の中でメアがカンナイルの名を聞いた時の会話を、エイも聞いていた。カナが名前を尋ねるということの意味を、この副官は理解していた。

「小さかったエイはエルだったんだね」

 エイが目を瞬いた。

 小さかったエイ。その言葉が、副官の耳に妙な具合で引っかかったらしい。今でこそ見上げるほどの長身だが、かつては兄たちの影に隠れるような子供だった。母親にエルと呼ばれていた頃の自分を、この千年以上を生きている娘が当たり前のように想像している。

「……ええ、そうです。小さかったエルでした」

 エイの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。副官の声でも、騎士の声でもなかった。

「兄が四人おりますから、末っ子は随分と甘やかされました」

 エイはそう言って、照れを誤魔化すように前を向いた。仲介人の事務所がある通りに差しかかっていた。角を曲がれば、もう目と鼻の先だ。

「カナさんは、そうやって名前を聞くんですね」

 東の森で初めて会った時、エイは自分から名乗った。今のカナは、あの頃より少しだけ近い場所にいる。石畳の上で、革靴を履いて、隣を歩いている。

 角を曲がると、仲介人の事務所の看板が見えた。そしてその前に、腕を組んで壁に背を預けたメアの姿があった。既に到着していたらしい。

 メアの視線がカナとエイを捉え、微かに顎を引いた。問題はない、という合図だった。

「ちゃんと憶えた。小さいエルのこと」

 エイの足が止まった。今度は半歩ではなかった。完全に、立ち止まった。

 届いた言葉が、朝の空気の中で金色の粒子のように輝いていた。東の森で出会った騎士の幼名を、大切にしまい込む。自分の中の記憶として。

 エイの金色の目が揺れた。朝日のせいではなかった。

「……光栄です」

 それだけ言うのに、副官は少し時間がかかった。いつもなら滑らかに出てくる言葉が、喉の手前で詰まったようだった。エイは一つ咳払いをして、鞄の持ち手を握り直した。

 泉の底の家には、竈もなければ茶器もなかった。水の中に沈んだ、静かで冷たい住処。泉のほとりで湯を沸かし、菓子を添えて降りていったことを思い出していた。湯気の立つ碗を両手で包んだカナは、子供のような目をしていた。

「小さい頃から、外で飲むお茶も好きだったんです。隊長には湯気が邪魔だと言われますが」

「視界が曇る」

 壁に背を預けたまま、メアが淡々と返した。いつかの野営の夜、エイの茶を一口飲んでおきながら、同じように言い捨てられた記憶が蘇る。エイは苦笑した。

「……新しい家には竈が二つありますから、いつでも温かいものが飲めますよ」

 エイの声が穏やかに戻った。だが目の縁がほんの少し赤かった。副官はそれを隠すように、仲介人の事務所の扉に手をかけた。

 扉が開いた。中から、インクと古い紙の匂いが流れてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ