82.祝杯
グラムが机の上の書類を整え始めた。拓本を一枚ずつ革の筒に収めながら、彼はぽつりと独り言のように呟いた。
「好きなだけ使え、か。そんなことを言われたのは生涯で初めてだ」
誰に向けた言葉でもなく、老学者は石板を布で丁寧に包む。そしてカナにちらりと目を向けた。
「遺構には、まだ読めていなものがいくつもある。調査が進めば、またお力を借りることがあるかもしれん」
エイが姿勢を正した。深呼吸して背筋を伸ばし、気持ちを切り替えるように実務の表情へと戻っていった。
「これで、資産凍結は回避されました。カナさんの所有物と認められた品々を、正式に売却できるということです。家の本契約も、明日予定通り進められます。仲介人には今夜中に連絡を入れます」
メアが深く頷いた。これまでカナに伸ばされてきた執拗な手は、彼女に届く前にすべて切り落とされた。家を買えば居候ではなくなる。資産も守られた。そして王は自ら、門を開けておくと約束した。
エイが静かに言った。
「帰りましょう。今日はもう十分です」
書庫棟から出ると、夕刻の柔らかな光が三人を包み込んだ。カナにとっては、朝から泣き続け、王城に呼び出され、王の前で涙の跡をつけたまま立ち、千年前の名を口にした一日だった。こんなに長く感じた一日はこれまであっただろうか。
外で待っていた馬車に乗り込む時、メアの手が再びカナの背にそっと添えられた。今度は、朝の時よりも迷いのない手つきだった。
「婚姻届、名前を二つ書いただろう?」
メアが問いかけた。
メアが教えた文字と、もう一つ。メアの知らない文字で書かれた同じ意味の名前だ。
馬車の中は薄暗かった。窓から差し込む夕刻の光が、メアの横顔を半分だけ淡く照らしている。エイは向かいの席で書類に目を落としていたが、メアの問いかけにそっとペンを止めた。
カナが婚姻届に記した名前。一つはカナ・グレンダン。この国の文字で綴られた名。そしてその隣に添えられた、もう一つの古い文字。
いつか意味を教えろとだけ伝えて、それ以上は踏み込まなかった名前。宿舎の廊下で、そして今日、王城の地下で石板を読み上げる声を聞いた。淀みなく、歌うように読み上げられた言葉。あの名前と同じ文字だった。
「アイベルに書き方を教わったのか」
メアの声は静かだった。今日一日、涙の傍にあり続けた男の声だった。石板に刻まれた「愛を込めて」という銘文を、カナが読み上げた時のあの声をメアは鮮明に覚えていた。同じ名前が、婚姻届に並んでいる。
エイは書類に視線を落としたまま、静かに息を殺していた。割り込むべき会話ではない。
馬車が敷石の継ぎ目を越え、小さく揺れた。カナの肩がメアの腕にぶつかり、そこに収まるように留まった。
「そう。カンナイル・グレンダン」
メアは黙っていた。馬車の揺れる音だけが沈黙を埋めている。カナの肩が腕に触れたまま、夕刻の光が窓の外をゆっくりと流れていく。
「……お前の、本当の名前」
遺構の壁に刻まれ、アイベルが石板に彫った名。千年前の人々が、深い愛を込めて呼んだ名。それが今、婚姻届の中でメアの姓を冠して並んでいる。
メアの喉が小さく動いた。
「カンナイル」
口に出したのは初めてだった。まだ舌に馴染まない、不思議な響き。古い言葉の手触りは、この国の発音では少しだけ角が立つ。だがメアは、その名を丁寧に発音した。剣を振るう時の正確さで、一音一音を確かめるように。
副官の瞳が、窓の外へと向けられる。王城の尖塔が遠ざかり、黒狼騎士団宿舎の屋根が少しずつ近づいてくる。
「アイベルも、そう呼んでいたのか」
メアの声には、嫉妬の色などは微塵もない。千年前に死んだ画師への嫉妬をずっと抱えているほど、狭量ではなかった。知りたかった。カナが大切にしている名前を、愛した人々がどんなふうに呼んでいたのかを。
「会いに来てくれたときは、カナって呼ばれてた」
カナ。短い、親しげな呼び名。千年前の画師が東の森を訪れるたびに呼んだその名が、今この馬車の中でメアが毎日呼んでいる名前と重なった。
メアの目が、僅かに細くなった。
「……俺と同じだな」
その短い言葉の中に、メアなりの感慨がすべて詰まっていた。千年前の画師が呼んだ名と、自分が今呼んでいる名が同じであること。アイベルが東の森を訪れてカナと呼び、自分もまた東の森でカナと呼んでいる。そう名乗られたし、ただの偶然だ。
馬車が黒狼騎士団宿舎の門をくぐった。車輪の音が変わり、振動が座席に伝わってくる。
「会いに来てくれた時、というのは……お前が眠る前か」
メアの声には慎重な響きがあった。千年前の記憶を掘り起こすことがどれほどの重みを持つのか、メアは隣でずっと見ていた。だからこそ、聞き方を選んでいた。踏み込みすぎず、けれど知りたいという想いは隠さずに。
エイが馬車の扉に手をかけた。到着したのだ。だが副官は扉を開けなかった。この会話が終わるまで、外の空気を入れるつもりはないらしかった。
夕刻の光がさらに傾き、馬車の中がよりいっそう薄暗くなった。カナの黒髪が影に溶け、隣に座るメアの輪郭だけが窓からの残光で縁取られている。
「そう。最後に呼ばれたのも、その名前だった」
最後に呼ばれた名前。それはつまり、眠りに落ちる直前の記憶だった。
メアは口を開きかけ、そして閉じた。千年前、人々が来なくなった東の森で、最後にカナの名を呼んだとき、何を話したのか。その問いを飲み込んだのは、答えを聞く覚悟がなかったからではない。カナの頬が、ようやく乾いたばかりだったからだ。
馬車の外で馬が小さく鼻を鳴らした。御者が手綱を持て余している気配がある。
メアはそれ以上聞かなかった。代わりに、カナの手を静かに取った。剣だこのある硬い指が、柔らかい手を包み込む。自然な動作だった。ほんの少しだけ、慣れてきたのかもしれない。
「今は俺が呼んでいる。明日も、その先も」
メアの耳が赤かった。自分で口にした言葉のつたなさに、言ってから気づいたような顔をしていた。だが撤回はしなかった。伝えたいことが伝われば、それでいい。
エイが、ようやく馬車の扉を開けた。夕暮れの涼しい空気が流れ込み、カナの髪を揺らした。副官の横顔は穏やかだったが、その目の端が僅かに潤んでいるように見えたのは、きっと夕陽のせいだろう。
「お二人とも、お疲れ様でした」
エイは先に降り、振り返らなかった。二人が馬車を降りるまでの数秒の間を、副官は静かに背中で守っていた。
「メアは、メア・グレンダンだけ?」
不意の問いだった。
メアの手がカナの手を握ったまま、馬車の踏み台の上で止まった。夕暮れの風がカナの黒髪を揺らし、青いドレスの裾が翻る。メア・グレンダンだけか。その問いの意味を、メアは測りかねていた。
「どういう意味だ」
メアの声に警戒はなかった。ただ、本当にわからなかったのだ。カナの問いはいつもそうだった。人間にとって当たり前すぎて考えたこともないようなことを、真正面から突いてくる。
カナには「カンナイル」という名前があった。千年前の人々が呼んだ名。アイベルが呼び、石板に刻まれ、遺構の壁に彫られた名。そして「カナ」という、親しい者だけが使う短い呼び名。一つの存在に、幾つもの名前が幾重にも重なっている。
対してメアには、「メア・グレンダン」しかなかった。辺境貴族の次男として名付けられた、一つきりの名前。幼名もなければ、二つ名もない。黒狼騎士団では「隊長」、ディートからは「メア」。それだけだった。
馬車の御者が軽く咳払いをした。エイは少し離れた場所で、聞こえないふりを貫いている。
「俺はメア・グレンダンだけだ。他に名前はない」
メアはそう答えてから、カナの顔を見下ろした。黒い瞳が、何かを深く考えているような目と合った。
「……何だ」
カナの瞳には、泣いた後の澄んだ光があった。何かを思いついた時の、あの浮世離れした穏やかさが戻っている。メアの背筋に、理由のわからない予感が走った。
「じゃあ、メアは私の知ってるメアで全部」
メアが息を止めた。
その言葉が、夕暮れの空気の中で確かな輪郭を持った。カンナイルという千年の名を持つ存在が、たった一つの名前しか持たない男に向けて、それでいいと言ったのだ。隠された名も、失われた過去も、知らない顔もない。自分の知っているメアが、メアの全部であると。
「……ああ」
それだけだった。たった一音。だが、メアの声は掠れていた。重い剣を振る腕は決して揺るがないのに、たった一言で喉が震える。
メアはカナの手を引き、優しく馬車から降ろした。革靴が砂利を踏む音。メアの軍靴がその隣に並ぶ音。二つの足音が、黒狼騎士団宿舎の入口に向かって歩き出した。
少し離れた場所で、エイが静かに空を見上げていた。燃えるような夕焼けが王都の屋根を橙に染めている。副官の口元には、柔らかい笑みが浮かんでいた。
「夕食は食堂にこられますか?」
「部屋で食べる」
エイは先に宿舎へと入っていった。その足取りは軽かった。明日は家の本契約がある。勅命は今夜中に出る。枢密院の手は完全に封じられた。長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
カナの革靴が、黒狼騎士団宿舎の石段を一段ずつ上っていく。メアの手はまだ離れていなかった。
その夜、黒狼騎士団宿舎は静寂に包まれていた。
メアの部屋には、食べ終えた皿が二人分、行儀よく重ねられていた。いつもの温かいシチューとパンという簡素なものだったが、空になった皿の様子を見れば、それが十分なものだったことがわかる。カナの革靴は寝台の脇に無造作に脱ぎ捨てられ、青いドレスは椅子の背にかけられていた。東の森の主は、やはり裸足のほうが落ち着くらしかった。
メアは眠っていた。仰向けに、軍人らしい姿勢のまま。だがいつもと違ったのは、片手がカナの方に伸びていたことだった。繋いだまま眠りに落ちたのだろう。剣だこのある指が、隣の手を緩く包んでいた。
少し離れた部屋では、エイが机に突っ伏して眠っていた。書類の束を枕にして、羽根ペンを握ったまま意識を手放している。明日の本契約に向けた最終確認の書類が、半分だけ片付いた状態で散らばっていた。この副官にしては珍しい寝落ちだった。ここ数日、見えないところでどれだけの手を打っていたか、その疲労が限界を超えたのだろう。
団長室では、ディートが椅子に深く沈み込んで眠っていた。机の上には、空になった酒瓶が一本。勅命が出たという報せを受け取った後、一人で静かに祝杯を上げたのだ。
王城の地下書庫では、蝋燭の火が消え、石板の白い蛇が深い闇の中で眠っていた。布に包まれ、ハロルドの手で最奥の棚に収められた、かつての愛の記憶。千年ぶりに、安全な場所に辿り着いた絵師の想い。
誰もが眠っていた。悪夢も、不安も、警戒も、この夜だけは宿舎の門の外に締め出されていた。明日になれば、また煩雑な書類があり、契約があり、世界は容赦なく回り始める。だがこの夜だけは。
メアの手がカナの手を握ったまま、朝まで離れることはなかった。




