81.道理
馬車が王城の正門をくぐる。
車輪が敷石の継ぎ目を拾うたびに小さく揺れ、カナの肩がメアの腕にぶつかった。メアは微動だにせず、カナもその腕から離れようとはしなかった。向かいの席では、エイが書類に目を通すふりをして二人から視線を外していたが、実際には馬車の窓から王城の配置を確認していた。正門から書庫棟までの動線。すれ違う文官の数。枢密院の建物の窓に人影がないか。
馬車が止まった。
王立書庫は王城の東翼に位置する、蔦に覆われた石造りの建物だった。正面入口ではなく、裏手の小さな扉の前に馬車が寄せられる。ハロルドの配慮だろう。文官たちの目に触れにくい経路が選ばれていた。
名代に先導され、三人は廊下を進む。蝋燭の灯りが壁の石組みを黄色く染めていた。書庫は、古い紙と埃と蝋の匂いが混じり合い、時間が澱んだような気配がした。
並んだ書架の奥の格子扉が開いている。
狭い部屋だった。書架が壁を埋め、中央の机の上に石板と拓本が並べられている。グラムが机の端に立ち、その隣に侍従長ハロルドが控えていた。
そして机の向こう側に、一人の男が座っていた。
飾り気のない上着。王冠はなく、指輪が一つだけ。だが椅子に腰かけたその姿勢には、玉座に座るのと変わらない圧力があった。書庫の埃っぽい空気すら、この男の周囲だけは澄んでいるように見えた。
王が、顔を上げた。
その目がカナを捉えた瞬間、王の表情が僅かに変わった。涙の跡が残る頬。泉のような青いドレス。献上品を持って来た時の森の主とは、纏う空気がまるで違っていた。
エイとメアが膝をついた。名代が下がり、扉が閉められた。部屋には王、ハロルド、グラム、カナ、メア、エイの六人だけが残された。
王が口を開いた。
「堅苦しいのは好かん。楽にしろ」
声は低く、穏やかだった。だがその目は石板の上の文字と、カナの顔を交互に見ていた。
「グラム殿から話は聞いた。だが、わしはこの目で確かめたい。森の主殿。この石板に刻まれた文字を、読めるか」
石板の傍らで、カナが刻まれた文字を指で辿った。
「紅星の笏、黄星の刻、ヴァルムの母とカンナイルの会合の日。アイベルより捧ぐ。愛を込めて」
カナの声が書庫の地下に響いた。淀みのない、歌うような抑揚だった。石板の文字を読んでいるというより、古い友人の手紙を声に出しているような、そんな親しみが滲んでいた。
グラムの筆が走っていた。カナが読み上げた言葉を一字一句書き留めている。老学者の手は震えていない。情熱が感傷を押し退けていた。
王は動かなかった。椅子に深く腰かけたまま、カナの顔を見つめていた。涙の跡。石板に向けられた黒い瞳の柔らかさ。読み上げる声が宿した、言葉の重さ。
「愛を込めて、か」
王が呟いた。石板の側面を指でなぞり、そこに残された絵に目を落とした。水の中に佇む白い蛇。その鱗の一枚一枚まで丁寧に描かれた輪郭。描いた者の手が、対象をどれほど近くで見つめていたかが伝わる筆致だった。
「このアイベルという画師は、どういう存在だった」
王の問いは、学術的な確認ではなかった。石板を証拠として扱うなら、銘文の年代と署名の真贋を問えばいい。だがこの王は、描いた者と描かれた者の関係を聞いている。
メアの手が僅かに動いた。カナの隣で、拳が握り込まれている。エイは微動だにしなかったが、金色の目だけがカナに向けられていた。
グラムの筆が止まった。ハロルドの薄い唇が引き結ばれている。書庫の地下に、蝋燭の炎だけが揺れている。
王の目が、カナを待っていた。
「大事な人だった。とてもとても大事で、大好きだった」
頬に新しい涙の筋が一本、静かに加わった。
王は黙っていた。指は石板に触れたまま、白い蛇の鱗を撫でるように描かれた線を見つめている。千年前の画師が、同じ場所を、同じように見つめたのだろう。
「この絵を描いた者は、お前さんの鱗に触れたことがあるな」
王の声は断定だった。問いではなく、確信が滲んでいる。
「線が違う。想像で描いた線と、触れて知った線は違う。この画師は対象を愛しておったのだろう」
グラムが目を伏せた。老学者の喉仏が一度上下したが、筆は止めなかった。
王が椅子から立ち上がった。大きな体ではなかった。だが立ち上がるだけで、書庫の空気の流れが変わった。石板の前を離れ、机の端に広げられた拓本の前へ歩いた。遺構から写し取った渦の紋様と、その横に並ぶアイベリア語の文字列。
「グラム殿が、これが地下の遺構にあった、と」
「はい。建国以前の地層から出土した壁面です。石板の印と同一の紋様が確認できます」
「カンナイル、我らが守る森の子、か」
王がその名を口にした時、カナの肩が僅かに動いた。千年ぶりにその名を呼ばれることに、カナの体はまだ慣れていなかった。
王がカナに向き直った。その目に、政治家の計算はなかった。一人の人間が、もう一人の存在に向ける、純粋な問いかけがあった。
「森の主殿。お前さんを守って死んだ者たちの上に、わしの国は建っておる。そういうことか」
カナはすぐには答えなかった。王の問いを、まるで深い泉の底から拾い上げるようにゆっくりと吟味し、それからまっすぐに王を見た。
「知らない」
その声に、嘘の色はなかった。
「わたしは、ずっと森にいた。眠っていた。滅んだことも、知らなかった」
カナの目は石板の白い蛇を見つめていた。アイベルが描いた鱗の一枚一枚を、黒い瞳がなぞっている。
「アイベルは絵を描く人だった。森に来て、わたしを描いて、それだけ。魔物のことは何も言わなかった」
王は口を挟まなかった。腕を組み、カナの言葉を一つも零さないように聞いていた。
「わたしを守って誰かが死んだのかは、わからない。でも、みんながいなくなったのは本当」
カナの頬を、また涙が伝った。止まりかけていたそれが、新しく溢れている。エイが言った通りだった。この涙は、止めるものではなかった。
王が長い息を吐いた。胸の底に沈んだ何かを吐き出すような、重い息だった。
「知らんか」
王はもう一度石板に目を落とした。愛を込めて、と刻まれた銘文の末尾を見つめ、それから遺構の拓本に視線を移した。カンナイル、我らが守る森の子。千年前の人々がこの名を刻んだ時、その手は何を思っていたのか。
王がハロルドに目配せした。侍従長が一歩前に出た。
「グラム殿。遺構の調査を続けよ。この件は王の直轄とする。枢密院の管轄からは外す」
グラムの筆が止まった。ハロルドが静かに頷き、懐から文書を取り出した。既に準備されていた。この侍従長は、王の言葉が発せられる前にその着地点を読んでいたのだった。
王がカナに向き直った。
「お前さんの泉に沈んでいた品々は、お前さんに捧げられたものだ。それをお前さんから取り上げる道理は、わしの国にはない」
その一言が、この部屋に集まった全員の肩から何かを降ろした。メアの拳がゆっくりと開かれ、エイの金色の目が一度だけ閉じられた。
「だが、一つ聞かせろ」
王の声の温度が、僅かに変わった。穏やかさは残しつつも、その奥に為政者の芯が覗いた。椅子に座り直した王の目が、カナをまっすぐに射抜いている。
「献上してくれた品々、あれは嬉しかった。わしは正直に言う。だがな、あの品を贈った意味を、お前さんは理解しておったか」
ハロルドの表情が微かに動いた。王が何を確かめようとしているのか、侍従長には見えていた。献上品は外交の言語だった。森の主が王に贈り物をしたということは、対等な立場からの友好の証。だがそれは同時に、王国の保護下には入らないという宣言でもある。
エイの背筋が僅かに強張った。この問いの裏には、枢密院や師団魔術師が突いてくる隙と同じ地形が広がっている。カナの答え次第で、この先の政治的な立ち位置が大きく変わる。
だが王は、政治の話をしているようには見えなかった。あの品を贈った時に何を思っていたのか。それを知りたいだけの目をしていた。
メアは隣でカナの気配を感じていた。この問いに、副官が割って入ることはできない。グラムの学識も役に立たない。千年前の捧げ物を、千年後の王に渡した森の主自身の言葉だけが、この書庫に響くべきだった。
蝋燭の炎が揺れた。石板の上の白い蛇が、光の加減で泳いだように見えた。
「わたしが知っている人たちのことを、誰かに知って欲しかったから」
書庫の地下が、息を止めた。
カナの言葉は政治の言語ではなかった。外交の計算でもなかった。千年の間、泉の底で眠り続けた品々を王に差し出した理由は、ただそれだけだった。
王の目が見開かれた。
それは一瞬のことだった。為政者の仮面が剥がれ、その下にあった一人の人間の顔が覗いた。王の唇が微かに震え、それから、深い皺が目尻に刻まれた。笑ったのだ。だがそれは愉快な笑みではなく、胸の奥を殴られた者が浮かべる、痛みを伴った笑いだった。
「そうか」
王は石板を見下ろした。白い蛇の鱗。愛を込めて、と刻まれた末尾。千年前の画師が、自分の全てを込めて描いた一枚。
「知ったぞ。アイベルという画師がおった。お前さんの鱗に触れ、この絵を描いた。わしはそれを忘れん」
王の声には重さがあった。一人の人間が、人として誓いを立てる時の重さだった。
ハロルドが目を伏せた。グラムの筆が止まっていた。書き留めるべき学術的事実はない。これは記録ではなく、約束だ。
メアの手が、カナの手に触れた。繋ぎ止めるように。
「……ハロルド」
「はい、陛下」
「この石板は王立書庫の最奥に収める。国宝指定だ。閲覧申請は、わしの許可なく通すな」
「畏まりました」
「それから、森の主殿の財産に関する凍結申請は却下する。勅命として出せ。今日中にだ」
ハロルドの筆が羊皮紙の上を走った。侍従長の顔には一切の感情が浮かんでいなかったが、その筆運びは速かった。この結末を待ち構えていたかのように。
王がカナを見た。その目に、先ほどまでの問いかけの鋭さはなかった。代わりに、ひどく穏やかな光があった。
「カンナイル殿。お前さんの家を買う金は、お前さんのものだ。誰にも触れさせん」
いつの間にか、カナの頬は乾いていた。
いつ止まったのか、カナ自身にもわからなかった。ただ、王が忘れないと言った瞬間、胸の中で何かが閉じた。真珠の木箱の蓋が閉まるのとは違う。開いたままなのに、溢れない。そんな閉じ方だった。
アイベルはもういない。けれど、この王がアイベルの名を知っている。石板はこの王立書庫に収められる。千年後の国の、一番深い場所に。アイベルの描いた白い蛇は、もう泉の底で忘れられることはない。
「おや。泣き止んだか」
王の声に、からかいの色はなかった。ただ確かめるように、カナの顔を覗き込んでいた。
「涙を流したまま来おったから、何事かと思ったが」
「陛下。そろそろお時間が」
「わかっておる」
王が立ち上がった。グラムに向き直り、短く頷いた。
「グラム殿、遺構の調査を頼む。必要な人員と予算はハロルドに申請しろ。好きなだけ使え」
「……は。光栄に存じます」
老学者の声が僅かに掠れていた。好きなだけ使え、という言葉が、偏屈な学者の心臓のどこかを正確に射抜いたらしい。
王はカナの前で足を止めた。見下ろす目は穏やかだったが、その奥に為政者の光が戻りつつあった。
「カンナイル殿。お前さんが森を蘇らせたことで、この国は干ばつから救われた。その恩をわしはまだ返しておらん」
王の声が、一段低くなった。
「困ったことがあれば、いつでも来い。門は開けておく」
それは社交辞令ではなかった。王が個人に対して門を開くということの意味を、エイは正確に理解していた。副官の目が一瞬だけ見開かれ、すぐに伏せられた。
王が踵を返した。
「待って」
王の足が止まった。
去ろうとした体が、ゆっくりとカナの方に向き直る。ハロルドの眉が僅かに動いた。王に待てと声をかける者は、この城にそう多くない。
メアの手がカナの手の上で強張った。エイが一歩前に出かけ、しかし止まった。カナの声に、制止すべき何かは含まれていなかったからだ。
王は待っていた。急かす素振りもなく、ただ立って、カナを見ていた。
カナの黒い目が、王の目をまっすぐに見上げていた。小さな体。青と白のドレス。涙の乾いた頬。この娘の過ごした時間そのものが、この国の王に向けて口を開こうとしている。
書庫の地下で、蝋燭の炎が揺れた。石板の白い蛇が、光の中で息をしているように見えた。
エイの金色の目がカナに注がれている。聞かれたことだけを答えろという助言は、もうとっくに意味を失っていた。この森の主は、自分の言葉で話す。いつだってそうだった。
「ありがとう。君も困ったときがあったら、教えてね」
一国の王に向かって、君、と言い放つ存在が、この王城にいったい何人いるだろう。おそらく、今この瞬間、目の前に立っている一人だけだった。
「……はっ」
王が笑った。今度は先ほどの痛みを伴う笑みではなかった。腹の底から込み上げたような、短く、乾いた、けれど紛れもない本物の笑い声だった。
「君、か」
王が顎を撫でた。白髪の混じった顎髭の下で、口元が綻んでいる。
「わしにそう言うた者は、亡き妻以来だ」
ハロルドが咳払いをした。この男にも動揺という感情があったらしい。
「いいだろう。困った時は教える。約束しよう」
王の目が細くなった。笑みの奥に、温かいものが灯っていた。今度こそ扉に向かいながら、王は一度だけ振り返った。
「カンナイル……いや、カナ殿。良い伴侶を持ったな」
王の視線がメアに向けられた。メアは直立不動のまま頭を下げた。
扉が閉じた。王の足音が遠ざかる。ハロルドの足音がその後に続き、やがて消えた。
エイが壁に背をつけ、長い息を吐いた。
「……カナさん。王にあの言葉遣いは、さすがに」
「言っても無駄だ」
「わかっていても、です」
エイは疲れたように言った。声に呆れを滲ませながら。




