80.そのままで
午後の陽が傾き始めた頃、メアは三度目の剣の手入れに取りかかっていた。既に刃こぼれひとつない鋼を布で拭く手つきは、整備というより祈りに近かった。
エイは書類を広げていたが、同じ頁を繰り返し読んでいることに自分で気づいていないようだった。羽根ペンのインクが乾き、先端が紙に引っかかって初めて、副官は自分の手元に意識を戻した。
カナは二人の間で焼き菓子をかじっていた。涙は相変わらず流れていたが、菓子を咀嚼する顎は規則正しく動いている。悲しみと空腹は別の回路で動いているらしかった。
そこへ、廊下を駆ける足音が響いた。
「失礼します!」
扉が勢いよく開き、ビィの童顔が飛び込んできた。息が上がっている。中庭の鍛錬を切り上げて走ってきたのだろう、額に汗が光っていた。
「王城から使者です。侍従長ハロルド様の名代が、団長室にいらしてます。カナさんと隊長に、王城への出頭をお願いしたいと」
部屋の空気が変わった。メアの手が剣を握ったまま止まり、エイの羽根ペンが机に置かれた。出頭。招待ではなく出頭。言葉の選び方ひとつで、宮廷の温度がわかる。
「出頭、ですか。招聘ではなく」
「は、はい。そう仰ってました。あの、名代の方、すごく怖い顔で……」
「それはハロルド様の部下の通常の表情です。気にしなくて大丈夫ですよ」
エイがさらりと言ったが、その目は笑っていなかった。メアと視線を交わす。想定より早い。出頭という形式は、王の意向ではなく事務方の判断だろう。だが裏を返せば、陛下が石板をご覧になった、ということだった。歯車が噛み合った音が、聞こえた気がした。
「カナ」
メアがカナに向き直った。黒い目が、涙の止まらない妻の顔をじっと見た。
「着替えろ。靴も履け」
カナの衣装棚を開けると、いつの間にかドレスが増えていた。前回謁見時にエイが用意した紺色のドレスの隣に、青を基調に白が混じるドレスが用意されている。エイはドレス選びを楽しんでいるらしい。
深い青を基調に、袖口と裾に白い刺繍が波のように流れる。森の泉を思わせる色合い。着る者の存在を理解した上での選択なのだろう。
メアはドレスを一瞥し、何も言わなかった。副官が隊長の妻の衣装を揃えているという状況に、もはや疑問を挟む余裕がなかった。あるいは、エイに任せておけば間違いないという信頼が、疑問より先に立ったのかもしれない。
「靴もそちらに。前回より歩きやすいものを選んであります」
寝台の脇に、革の短靴がきちんと揃えて置いてあった。踵が低く、底が柔らかい。森の地面を踏んでいた足に、少しでも馴染むようにという配慮が見て取れた。
エイとメアが部屋を出た。着替えの時間を作るためだった。
廊下で、メアが低く呟いた。
「ドレスはいつ買った」
「祝婚祭の間に。武器はいくつあっても困るものでは無いと思いましたので」
「……後で払う」
「では、こちらは隊長の財布から出してもらいましょう」
メアの眉間に皺が寄ったが、それ以上は何も言わなかった。廊下の窓から差し込む午後の光が、二人の影を長く引いている。王城の使者は団長室で待っている。猶予はない。
「隊長。王城では私が先に口を開きます。出頭の名目と、どこまでが陛下のご意向でどこからが事務方の判断かを確認する必要があります」
「わかった」
「カナさんには、聞かれたことだけ答えるようお伝えください。石板の内容について尋ねられた場合のみ、カナさんご自身の言葉で。それ以外は私が」
「カナに余計なことを言うなと言っても無駄だぞ」
「……わかってます」
エイの口元に苦笑が浮かんだ。白梟師団本部を襲撃し、王都の大通りを花嫁衣装で練り歩き、謁見の場で王に飾らぬ言葉を投げた森の主に、余計なことを言うな、は確かに無意味な助言だった。
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
「どう?」
扉が開いた。
青と白のドレスは、カナの小さな体によく馴染んでいた。波のような刺繍が袖口から裾へ流れ、歩くたびに揺れる。黒い髪が肩にかかり、その下で深い青の布地が泉の水面のように光を弾いた。エイの眼は、やはり正しかった。
ただし、頬は濡れていた。涙は止まっていなかった。そして足元は。
「……靴」
カナの爪先が裸のままドレスの裾から覗いていた。革の短靴は、寝台の脇に行儀よく揃ったまま置き去りにされている。
メアは天井を仰いだ。それから何も言わず部屋に戻り、短靴を手に取って、カナの前に膝をついた。戦場で倒れた仲間の止血をする時と同じ手際で、左足、右足と靴を履かせていく。騎士団第三部隊隊長が妻に靴を履かせるその光景を、エイは廊下から黙って見ていた。副官の口元が微かに緩んだが、すぐに引き締められた。
「似合ってる」
短く、素っ気なく、剣の整備報告のような口調だった。例のごとく耳を赤くしながら。
「では参りましょうか。使者をお待たせしています」
三人が廊下を歩き出した。カナの隣で、メアが歩調を合わせる。
廊下の真ん中で、カナが立ち止まった。両手を差し出している。手のひらが、メアの方に向けられていた。
メアの足も止まった。
廊下には窓から午後の光が差し込み、すれ違う騎士の姿がちらほらあった。王城の使者が団長室で待っている。猶予はない。エイの視線が背中に刺さっている。
全てわかった上で、メアは一歩前に出た。
両腕がカナを包んだ。鎧ではなく、薄い軍服越しの体温を感じる。剣だこのある硬い手のひらを背中に回し、もう片方の手が黒い髪にそっと触れた。いまだに力の加減がわからないのか、最初は触れるだけだったのが、カナの額が胸に押し当てられた瞬間、ようやく腕に力が入った。
カナの耳元で、メアの心臓が脈をうつ。速かった。戦闘前の鼓動に似ていたが、種類が違った。
すれ違いかけた騎士が目を丸くして立ち止まり、エイが無言で手を振って追い払った。副官は廊下の両端に目を配りながら、二人に背を向けた。見張りの姿勢だった。
どれくらいそうしていただろう。息が詰まるほど長い沈黙の後、メアの顎がカナの頭の上に乗った。
「……止まったか」
低い声が、カナの髪を通して頭蓋に響いた。
「たぶん」
確信のない、けれど嘘ではない答えだった。メアの軍服の胸元に小さな濡れ跡が広がっていたが、頬を伝う流れは、確かに細くなっていた。
メアの腕がゆっくりと離れた。名残惜しさではなく、時間の制約のせいで。離れる瞬間、親指がカナの頬を一度だけ拭った。剣だこの硬さが、涙の筋を掠めて消した。
「行くぞ」
メアの声はいつもの硬さに戻っていた。軍服の濡れ跡を気にする素振りは一切ない。エイが何事もなかったかのようにあとに続いた。
「団長室はこの先です。使者の方がお待ちかねかと」
カナの足音が、先ほどよりほんの少しだけ大きくなっていた。革底が石畳を踏む音に、ためらいが減っている。
団長室の扉の前で、エイが足を止めた。中から声が漏れていた。ディートが戻っている。使者と何か話しているらしかった。エイが扉を叩くと、ディートの太い声が返った。
「おう、入れ」
扉を開けると、ディートが腕を組んで机の縁に腰かけていた。その向かいに、灰色の上着を纏った細面の男が背筋を伸ばして立っている。侍従長ハロルドの名代だった。ビィが言った通り、確かに怖い顔をしていたが、カナの姿を認めた瞬間、その厳めしい顔に微かな動揺が走った。
涙の跡が残る顔の、泉を映したような青いドレスの娘。
名代の視線がディートに戻った。
「こちらが、森の主殿で」
「そうだ。うちの嬢ちゃんだ。で、用件を改めて聞かせてもらおうか」
名代は懐から封書を取り出した。ハロルドの印が押された薄い羊皮紙だった。
「陛下が王立書庫にて、献上品の石板ならびに王城地下遺構の拓本をご覧になりました。石板に刻まれた銘文の内容について、陛下より直接お尋ねしたいと仰せです。森の主殿と、その配偶者である黒狼騎士団第三部隊隊長メア・グレンダン殿に、本日中の出頭を求めます」
名代の声は事務的だった。だが「本日中」という言葉の切迫さを、この部屋の全員が聞き逃さなかった。
「確認させてください。出頭の場所は」
「王立書庫です。陛下はそのままお待ちです」
エイの目が僅かに見開かれた。王が書庫で待っている。謁見の間ではなく、書庫で。形式を省いた、極めて私的な呼び出しだった。出頭の形状は、ハロルドによる偽装か、それとも王自身の意思か。どちらにせよ、枢密院の文官たちが割り込む隙のない場所が選ばれている。
ディートがメアを見た。メアがカナを見た。カナの頬には、まだ微かに涙の跡が残っていた。
「護衛は」
「配偶者殿の帯剣を許可します。それ以外の同行は一名まで」
「では、副官の私が」
「結構です。馬車を用意してあります」
名代は一礼し、先に廊下へ出た。ディートが立ち上がり、カナの前で足を止めた。大きな手がカナの頭に一瞬だけ乗り、すぐに離れた。
「いつも通りでいい。そのまんまが一番強い」
ディートは見送りには出なかった。団長の仕事は、ここから先の退路を確保することだ。
三人が廊下を歩き出すと、中庭の向こうに黒塗りの馬車が待っていた。王城の紋章が、午後の光を受けて鈍く光っている。
カナの革靴が、石畳から馬車の踏み台に移った。慣れない硬さが足の裏を押したが、その背には、メアの手が添えられていた。




