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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
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79.涙の意味

 エイは書簡を手に、王城へと向かっていた。

 騎士団宿舎から王城までの道のりは、祝婚祭の名残がまだ石畳にこびりついている大通りと、更にその先の中央広場を抜ける。花弁の踏み跡や、屋台の杭を打った穴がそこかしこに残り、商人たちが忙しく行き交っていた。エイの長身がその間を縫って歩くと、すれ違う女性たちの視線が吸い寄せられるように彼を追いかけた。オレンジ色の髪に黒狼騎士団の紋章。祝婚祭で黒い騎士の隣に立っていた副官の顔は、今や王都の女性たちの間で広く知れ渡っていた。

 エイはそのすべてに柔らかく会釈を返しながら、頭の中では別の計算を巡らせていた。

 侍従長のもとへ書簡を届け、陛下の耳に入るまでの時間。グラムが碑文の翻訳を進める速度。ヴェルナーが枢密院で根回しを完了するまでの猶予。三つの時間軸が頭の中で交差し、その隙間は恐ろしく狭かった。

 王城の正門で身分を告げ、侍従長の執務室へと通される。

 侍従長は白髪の痩せた男だった。名をハロルドといい、三代の王に仕えた古株で、宮廷の権力地図をその皺の一本一本に刻み込んでいるような人物だった。彼はディートの封蝋を確かめ、書簡を開き、一読して顔を上げた。

「黒狼騎士団の団長殿が、わざわざ書簡で。口頭で済む話ではなかったかね」

「口頭では記録に残りません。記録に残すことに意味がある案件です」

 ハロルドの薄い唇が僅かに動いた。笑ったのか、それとも噛み締めたのか、判別がつかなかった。老侍従長の目がエイを値踏みするように見つめる。ランティスの名の意味をハロルドが知らないはずがなかった。

「献上品の出自調査を陛下の直轄に、か。枢密院が騒ぐぞ」

「枢密院が騒ぐ前に陛下のご意思を頂戴できれば、騒ぐ根拠がなくなります」

「……ランティス家の子息は皆、口が達者だな。お父上にそっくりだ」

「父は私よりずっと巧みですよ」

 ハロルドが書簡を机の上に置いた。皺だらけの指が封蝋の跡をなぞり、やがてそれを引き出しにしまった。返事はなかった。だが、しまったということは、捨てなかったということだ。

「今日の午後、陛下は書庫を訪れるご予定だ」

 それだけ言って、ハロルドは次の書類に目を落とした。エイは深く一礼し、執務室を辞した。廊下に出た副官の金色の目に、静かな光が灯っていた。午後。書庫。陛下がグラムと顔を合わせる。偶然にしては出来すぎた配置だったが、老侍従長が三代の王に仕えてきたのは、こうした偶然を作る才覚あってのことだった。


 ディートはグラムと向き合っていた。

 王立書庫の奥、天井まで積み上げられた書架の谷間に、老学者の巣があった。机の上には拓本と石板の写しが地層のように重なり、インクの染みと蝋燭の燃えかすが化石のようにこびりついている。

「来たか。座る場所はないぞ」

「かまわんさ。で、爺さん。午後に陛下が書庫に来る」

 グラムの筆が止まった。皺だらけの瞼が持ち上がり、その下から鋭い灰色の目が覗いた。

「誰から聞いた」

「もう少ししたら、侍従長の使いが知らせに来るはずだ」

「ハロルドめ。余計なことを」

「余計じゃねぇよ。陛下が書庫にいらっしゃる時に、爺さんがたまたま遺構の研究成果を広げていた。偶然だ。何も仕組んじゃいない」

 グラムの顔が歪んだ。学者としての意地が、政治的な駆け引きに利用されることへの嫌悪を隠さなかった。だがディートは構わず続けた。

「枢密院が動く。あの嬢ちゃんの財産を凍結して、首輪をつけようとしてる」

「知っておる」

「爺さんの研究が証拠になる。遺構の刻印と石板の文字が繋がれば、あの財宝は千年前から森の主に贈られたもんだと証明できる。所有権はあの娘にある」

「わしは政治のために研究をしとるのではない」

「知ってる。だが研究の成果があの娘を守る盾になるなら、使わせてくれ」

 グラムは答えなかった。蝋燭の炎が揺れ、拓本の上に影を落とす。渦を巻く水の紋様。千年前の人々が森の娘と呼んだ、その証。

 長い沈黙の後、グラムが机の上の拓本を一枚引き抜いた。

「午後までに、遺構の断面図と対照表を仕上げる。それ以上は期待するな」

「十分だ」

 ディートが踵を返しかけた時、グラムが背中に声を投げた。

「あの娘は、読み上げた時、泣いておったか」

 ディートの足が止まった。彼はその場にいなかった。だが、想像はできた。書かれた意味に気付かないまま読み上げる、穏やかな顔を。

「……俺は見ていないが、あれからずっと泣いているそうだ」

「そうか」

 老学者は再び筆を取った。その手が僅かに震えていたことに、ディートは気づいたが、何も言わなかった。


 騎士団宿舎の一室では、メアがカナの隣に座ったまま動かなかった。窓から差し込む光の角度が変わり、朝が昼に近づいていることを告げている。カナの頬を伝う涙は、まだ止まっていなかった。穏やかな顔のまま、泉の水が湧くように静かに、とめどなく。千年前の悲しみは真珠にしまえた。だが今ここで生まれた悲しみは、しまう場所がない。しまう気もない。メアがそれを許さなかったから。

 扉を叩く音がした。控えめな、しかし正確なリズム。エイだった。

「失礼します。お茶をお持ちしました」

 エイが盆を片手に入ってきた。湯気の立つカップが二つと、食堂から調達したらしい焼き菓子が数枚。エイはカナの涙に一瞬目を留めたが、何も言わなかった。冷めたカップをそっと下げ、温かい方に差し替えた、それだけだった。

「侍従長への書簡は無事届けました。午後、陛下が書庫を訪問されるそうです。グラム書庫長が遺構の資料を準備しています」

「団長は」

「書庫長のもとへ直接出向かれました。おそらくもう戻られる頃かと」

 メアが頷いた。午後。あと数刻で、この物語の鍵を握る石板と拓本が、王の目に触れる。そこに刻まれたカンナイルという名が、千年の沈黙を破って声を取り戻す。

 エイがカナに視線を向けた。泣いている顔。けれど穏やかな顔。この矛盾を、エイはもう不思議に思わなかった。

「それと、午後に何かあった場合に備えて、お召し替えと靴のご用意はありますか?」

 今朝、裸足で団長室に現れたカナの足元を、エイは見逃していなかった。この副官は、戦場でも書類の上でも、見落としというものをほとんどしない男だった。

 カナの裸足の爪先が、毛布の端からちょこんと覗いていた。エイの問いかけに、その爪先が僅かに動いた。靴。そう、靴というものがこの世界では必要だった。

 森では土を踏み、苔を踏み、水の中を歩いた。足の裏が地面に触れることは、呼吸と同じくらい自然なことだった。習慣は、一年足らずの王都暮らしではそう簡単に上書きされない。

「靴は買ってある。履かないだけだ」

「……なるほど」

 エイの眉が僅かに上がり、すぐに元に戻った。解決すべき問題と受け入れるべき個性の区別を瞬時につけたようだった。王都中がその名を知る森の主の裸足は、もはや後者だと判断したらしい。

「私の方でも準備はしてあります。万が一、午後に王城からお呼びがかかった場合、寝間着では少々」

「呼ばれるのか」

「可能性はあります。陛下が石板をご覧になれば、銘文の詳細について尋ねられるでしょう。書庫長が答えられるのは学術的な事実だけです。遺構の刻印とカンナイルの名が繋がった時、その証言ができるのはカナさんだけですから」

 メアの目が細くなった。先の謁見で、王はカナを気に入り、献上品を喜んで受け取った。だがあの時は祝婚祭の余韻の中での、いわば晴れの舞台だった。今度は違う。建国以前の歴史に触れる案件となれば、宮廷の空気はまるで別物になる。枢密院の文官も白梟師団の残党も、王の関心が森の主に向くことを黙って見ているはずがなかった。

「……俺も同行する」

「もちろんです。第三部隊の護衛名目で手配します」

 温かい茶の湯気が、三人の間をゆるやかに漂っていた。

「エイ、これは?どうすればいい?」

 カナの指が自分の頬を指していた。そこを流れ続ける透明な筋を、まるで他人の身体に起きている不具合のように、不思議そうに示している。

 エイは一瞬、言葉を失った。この問いに正解があるのか、これまで受けた教育の、どの引き出しを開ければいいのか、副官の頭が珍しく空転した。

「……止めなくていいんですよ、カナさん」

 エイの声は穏やかだったが、僅かに揺れていた。膝を折り、カナの目の高さに合わせて、金色の目がまっすぐにカナを見た。

「悲しい時に涙が出るのは、人として当たり前のことです。止める必要はありません」

 カナにとって、それは当たり前ではなかった。悲しみは真珠にしまうものだったし、切り離して、箱に入れ、大事に置いておくものだった。悲しみを抱えたまま過ごすということを、カナはほとんど経験していない。だから涙の止め方を知らない。止まるということすら、信じられない。

 エイが懐から清潔な布を取り出し、カナの手に握らせた。

「お腹が空いたら焼き菓子を食べてください。喉が渇いたらお茶を飲んでください。眠くなったら眠ってください。涙はそのうち、勝手に止まります」

 エイはそこで一度言葉を切り、メアに目を向けた。

「……そういうものですよね、隊長」

「俺に聞くな」

 メアの返答は素っ気なかったが、その手はカナの背にそっと添えられていた。不器用な手だった。剣の柄を握ることには慣れているのに、人の背を支えることにはまだ慣れていない、そんな手だった。

「呼ばれた時は?」

 カナの問いは短かったが、その意味するところは明確だった。王城に呼ばれた時、この涙はどうすればいいのか。

 エイの金色の目が一瞬だけ天井を仰いだ。この副官にしては珍しい、答えを探す仕草だった。

「……正直に申し上げれば、止まっていた方が望ましいです」

 エイの声に迷いが滲んでいた。外交の場で涙を見せることの意味を、嫌というほど叩き込まれている。弱みと取られる。同情を引く芝居と勘ぐられる。どちらに転んでも、枢密院の文官たちには格好の材料になる。

 だが、とエイは思った。カナの涙は、そのどちらでもない。

「ですが、もし止まらなかったとしても」

 エイは言葉を選ぶように間を置いた。

「カナさんが千年前の真実を知って泣いているということは、陛下にとっても重要な証言になり得ます。石板の文字を読める唯一の方が、そこに刻まれた名前の持ち主を覚えていて、その喪失に涙を流している。これ以上の証拠はありません」

「泣いている妻を証拠に使う気か」

 メアの声が低く、硬かった。エイに向けられた目は副官に対するそれではなく、カナの伴侶としてのものだった。

「いいえ。使いません。ただ、止められないものを恥じる必要もないと申し上げたいだけです」

 エイはメアの目をまっすぐに受け止めた。この二人の間で交わされる無言のやり取りは、戦場で幾度も繰り返されてきたものだった。数秒の沈黙の後、メアの顎が僅かに引かれた。了解の合図だった。

「それに、陛下は聡明な方です。涙の意味を読み違えるような方ではないと、私は信じています」

 焼き菓子の甘い匂いが、部屋の空気に溶けていた。カナの手の中で、エイから渡された布がじんわりと湿っている。窓の外では、太陽がじりじりと天頂に向かって登り続けていた。午後は、もうすぐそこまで来ていた。

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