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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
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78/85

78.今度は二人で

 メアとエイは、朝のうちにディートの執務室を訪れていた。

 黒狼騎士団の団長室は、その主の性格を映して雑然としていた。報告書の山が机の片隅に積み上がり、使いかけの茶器が窓際に放置され、壁に掛けられた地図には書き込みが幾重にも重なっている。その中央で、ディートは椅子の背もたれに体を預け、メアの話を聞いていた。

「陛下の直轄案件にする、ね」

 ディートが顎を撫でた。精悍な顔に浮かぶ表情はいつもの調子だったが、目だけが笑っていなかった。

「筋は通る。献上品を受け取ったのは陛下ご自身だ。その出自調査を陛下が命じたとなれば、枢密院もヴェルナーも口を挟めなくなる。だが」

 大きく一呼吸を挟む。

「上奏の手順を踏むには時間がかかる。正規の経路だと、枢密院を経由する。つまりヴェルナーの耳にも入る」

「ですので、侍従長経由の内奏をお願いしたく」

 ディートの眉が上がった。それは枢密院を通さず、侍従長を介して直接陛下の耳に入れる非公式な進言だった。乱用すれば政治的な反発を招く手段であり、余程の信頼がなければ成立しない。

「俺の名前で侍従長に話を通せ、ってことか」

「はい。祝婚祭の折、陛下は森の主に好意的でいらっしゃいました。献上品への学術的関心も本物です。きっかけさえあれば、陛下は動かれるかと」

 ディートが天井を仰いだ。息を一つ吐き、それから机の上の書類の山を片手で押しのけた。その下から印章が転がり出てきた。

「お前ら、嬢ちゃんに似てきたな。やり口が」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めてねぇよ」

 悪態をつきながらもディートは印章を手に取っていた。引き出しから便箋を抜き、侍従長宛ての書簡をしたためる手つきに迷いはなかった。この男は口では文句を言いながら、部下の判断を信じることにかけては、王国随一の団長だった。

「で、メア。お前の顔色、最悪だぞ。寝てないな」

「問題ありません」

「嘘つけ」

 ディートが封蝋を垂らし、印章を押した。乾くのを待つ間、椅子を軋ませてメアを見上げた。

「嬢ちゃんの様子は」

「……泣いていました。眠っている間もずっと」

 ディートの目が細くなった。団長の仮面の下に、一瞬だけ、面倒見の良い年長者の顔が覗いた。

「何千年と泣かなかった分が、今来てんだろうな」

 キィ、と軋む音に、三人の視線が一斉に扉に向いた。

 カナが廊下から顔だけを覗かせていた。扉の隙間から見えるのは、黒い瞳と、まだ濡れた頬と、寝間着の襟元だけだ。部屋にいろと言われたはずの女が、団長室の前に立っている。

「私が行けば済む話?」

 ドアの隙間から顔を覗かせながら、カナが言った。

「……お前な」

「おー、嬢ちゃん」

 ディートが手を挙げた。まるで散歩中の知り合いに出くわしたような気安さだったが、濡れた頬を見た瞬間、その目が一拍だけ止まった。

「一人は嫌でしたか」

 エイが穏やかに言ったが、カナの意識は既に別のところにあるようだった。扉の隙間から覗いた黒い瞳が、机の上の侍従長宛て書簡を捉えている。

 ディートが椅子の背もたれを軋ませ、腕を組んだ。

「直接陛下の所に、か。嬢ちゃん、それは諸刃の剣だぞ」

 団長の声から、軽さが消えていた。

「陛下が好意的なのは事実だ。だがな、森の主が王城に乗り込んで陛下に直談判したとなりゃ、枢密院は王権への干渉って旗を振れる。嬢ちゃんが王国民になったのはつい最近だ。外からの圧力に見える動きは、味方の足元を崩しかねない」

「団長の仰る通りです。今回は制度の内側から動くことに意味があります。陛下が自発的に学術調査を命じた、という形でなければ」

 メアは黙っていた。腕を組み、壁に背を預け、扉の隙間から覗くカナを見ている。涙を流したまま裸足で団長室まで来る女。部屋にいろと言ったのに。苛立ちと、心配と、一人にした後悔と、形を変える思いの数々が黒い目の奥で絡み合っていた。

「ただし」

 ディートが封蝋の乾いた書簡を指先で弾いた。

「陛下が嬢ちゃんに会いたいと仰れば、話は別だ。そうなるように持っていくのが、この書簡の仕事だ」

 ディートが、にやりと笑った。

「わかった。任せる」

 カナは扉の隙間からするりと体を引き、涙を拭いもせずに頷いて消えた。裸足の足音は驚くほど静かで、石畳を踏む気配がほとんどしなかった。森で暮らしていた名残だろう。人間の家では靴を履くものだという常識が、千年の習慣の前では霞んで見えた。

 三人が残された団長室で、ディートが封をした書簡を手に取った。

「素直だな、今日は」

「昨日からです」

「泣いたまま?」

 メアは答えなかった。だがその沈黙が、団長には十分な返答だった。ディートが書簡を机の端に置き、代わりにメアの顔をまじまじと見た。

「お前も限界だろ。隈がひでぇぞ。午前の巡回はガルドに回せ」

「巡回は俺が出ます」

「命令だ、馬鹿」

 メアの眉が動いたが、ディートの目に浮かんだ光は冗談ではなかった。団長としての、有無を言わせない重さがそこにあった。

「エイ、書簡は昼前に侍従長のところへ届けろ。それからグラム爺さんには俺が直接出向く。あの頑固者、使いの者じゃ門前払いするからな。素直に動くかは知らんが、嬢ちゃん絡みなら膝が軽くなるだろ」

「承知しました。では、家の本契約についてですが、明日、二人を仲介人のもとへお連れします」

「金の工面は?」

「手付金は私が立て替えてあります。残金は財宝の売却後になりますが、鑑定が陛下の直轄案件として動けば、売却経路も王城経由で確保できるかと」

「太っ腹なことで」

「よく言われます」

 ディートが喉の奥で笑い、立ち上がった。椅子が軋み、団長の大きな体が部屋の空気を動かした。上着を羽織る。グラムのもとへ出向く支度だった。

 扉を開けかけて、ディートが振り返った。

「メア。嬢ちゃんのそばにいてやれ。泣き止むまでとは言わん。泣いてる間、隣にいるだけでいい。お前にしかできないことだ」

 メアの答えも待たず、ディートは廊下へ出ていった。部下の沈黙から必要な返事を読み取ることには慣れたものだった。

 エイが書類を整え、メアに目配せした。

「隊長。帰ったら甘い茶のおかわりをお持ちします」

「……頼む」

 エイが一礼し、廊下へ出た。メアは団長室に一人残された。窓から差し込む白い朝の光が、報告書の山を照らしている。メアの足が動いた。自室へ向かって。裸足で廊下を歩いた女のもとへ。

 メアが自室の扉を開けた時、カナは寝台の上にいた。

 眠ってはいない。毛布を膝にかけ、冷めた甘い茶のカップを両手で包むようにして、窓の外を見ていた。中庭では鍛錬を終えた騎士たちがちらほらと歩いている。カナの黒い瞳がそれを追っていた。涙はまだ流れていたが、頬を伝う速さが少しだけ緩やかになっている気がした。

 メアは何も言わず、寝台の端に腰を下ろした。先ほどと同じ場所に、同じ距離で。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 カナが口を開きかけた気配がしたが、声の代わりに、冷めた茶を一口啜った。甘い味が舌の上で広がったのだろう、カナの肩がほんの僅かに下がった。

 メアの目が、窓の外に向いた。カナが見ていたのと同じ方角だった。中庭の向こう、屋根の連なりの先に、王都の街並みが日の光を浴びている。この街に来る前、彼女が親しんだ人間の営みは、泉に捧げられた貢物と、たまに訪れる女王と、絵を描く若い画師。それがカナにとっての人間の世界だった。

 今、窓の外には騎士たちが歩き、商人が荷車を引き、子供の声が風に乗って届いてくる。泉の底で眠っている間に、世界はこれだけ近くなっていた。

「初めて会った時のこと、覚えているか」

 唐突だった。だがメアの声には、作戦会議の硬さがなかった。窓の外を見たまま、独り言のように呟いている。

「泉にお前がいた。魔物かもしれないと思った。全員、お前に剣を向けていた」

 メアの口元が、僅かに歪んだ。笑みと呼ぶには僅かで、声の苦さの中には別の何かが混じっていた。

「それが今は、団長が走り回って、部下が金を立て替えてまで、家を買おうとしている」

 メアの視線が窓からカナに移った。涙で濡れた顔。冷めたカップを握る細い指。裸足の爪先が毛布の端から覗いている。

「お前が来てから、全部変わった」

 その言葉に責めるような響きはなかった。ただ、事実を口にしただけだった。

「お菓子、美味しかったね」

 カナの声は穏やかだった。涙を流しながら、まるで陽だまりの中で思い出話をするような口調で。記憶の引き出しは途方もなく深いはずなのに、カナが取り出してきたのは、過ぎて一年にも満たない日の、ささやかな贈り物の話だった。

 メアは黙って聞いていた。

 覚えていた。あの頃、第三部隊の面々が代わる代わる森に通っていたことを。作戦室で、第三部隊が揃って捧げ物の菓子の選定をしたこと。泉の底で、突然の来客に張り切る黒髪の女は、どう見ても脅威ではなかったから。

「ビィとイーガは選ぶのに半日かけていた。付き合わされたガルドは愚痴を言っていた」

 素っ気なく言ったが、それはつまり、メアがちゃんと見ていたということだった。新米騎士が菓子屋の前で悩む姿も、それを横で茶化す相棒も、先輩騎士の呆れ顔も。

 カナの指が、冷めた杯の縁をなぞった。

「俺は菓子を持っていかなかった」

 メアの声が、少しだけ低くなった。窓の外を見ている横顔に、珍しい色が差していた。後悔ではない、もっと不器用な何かだった。

「食材と鍋を持って、野営飯を作った。今思えば、あんなもの捧げ物にもならない」

 泉の底の光る苔に照らされた空間で、メアが無言で火を起こし、鍋をかき混ぜていた光景。カナがしゃがんで、立ち上る湯気を不思議そうに覗き込んでいた。味は正直なところ、騎士の野営飯でしかなかった。だがカナは残さず食べて、美味しいと言った。

 メアの耳の先が、僅かに赤くなっていたことに、カナは気づいただろうか。

「でも、教えてくれた料理は一人で作れるようになったよ」

 メアの手が止まった。

 森から出て食堂の手伝いに入った時、メアが教えた野営飯を覚えていた。覚えていて、一人で作れるようになっていた。

 いつ練習したのだろう。泉の底で、光る苔に照らされながら、一人で鍋をかき回していたのだろうか。メアがそうしたように火を起こし、メアがそうしたように具材を刻み、メアがいない空間で、何度も何度も。

 王都に来て、食堂の雑用までこなしていた。芋の皮を剥き、根菜を刻み、大鍋の底をかき混ぜる仕事を、不慣れな手つきでこなしながら、失敗して叱られてもめげなかった。食堂の誰かが言っていた。筋がいいんじゃなくて、誰かに丁寧に仕込まれている手つきだ、と。

 メアの喉の奥に何かが詰まっていた。戦場で怯んだことのないこの男が、隣に座る小さな女の何でもない報告に、胸の内側を掴まれていた。

「……そうか」

 声が掠れていたことに、メア自身は気づいていなかった。だがカナの耳には届いただろう。森のあらゆる音を聞き分けていた耳には。

 メアの拳が膝の上で白くなるほど握り込まれていた。

「今度は、二人で作ろう」

 作戦の確認事項を読み上げるような硬い口調で、メアはそう言い切った。新しい家の台所で、並んで鍋をかき回す光景をこの男が思い描いているのだとしたら、それはメア・グレンダンの想像力としては極めて稀な部類のものだった。

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