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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
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77.ぬくもり

 カナは寝台の上で膝を抱えていた。毛布を肩にかけたまま、扉が開くのをじっと見つめていた。その黒い瞳が、盆を抱えて不格好に入ってきたメアを捉える。穏やかな顔だった。いつもの、のんびりとしたカナだった。ただ、頬を伝う涙だけが止まらなかった。途切れることなく、透明な筋が顎の先から毛布の上に落ちていく。

 まるで体が勝手にやっていることに、本人が困惑しているような、そんな不思議な佇まいだった。

 メアは扉を足で閉めた。両手が塞がっているので蹴るような格好になったが、行儀は気にしていられない。寝台の脇の小さな机にカップを置き、甘い茶をカナに差し出した。

「エイからだ。温かいうちに飲め」

 カナの手が毛布の下から伸びた。細い指がカップを受け取る。立ち上る湯気が、涙に濡れた顔を優しく撫でた。

 メアは寝台の端に腰を下ろし、カナの隣に並んだ。

 しばらく、二人は何も言わなかった。カナがカップを両手で包んでいるのを、メアは横目で見守る。窓の外からは、中庭で朝の鍛錬に励む音が微かに届いていた。木剣がぶつかる乾いた音と、誰かの怒声。それはどこまでもありふれた日常だった。世界は何事もなかったかのように、今日も回っている。

 カナの頬を、また一筋、涙が伝った。

「……家の契約の話だが」

 唐突だった。だが、この男はいつだって唐突だった。気の利いた慰めの言葉を知らない代わりに、彼が差し出せるものは、具体的な未来の形をしていた。

「お前の署名がいる。俺とお前の連名で登記する」

 メアの声は平坦で事務的だった。だが、その言葉の芯にあるのは、これからという約束だ。家を買う。二人の名前で。ここに住む。どこにも行かない。泉の底に沈められることも、白梟師団に連れ去られることもない。お前の名前と俺の名前が並んだ場所を、この王都に作る。

 メアの不器用な横顔を、カナの濡れた瞳が見上げていた。

「どこに書けばいい?」

 カナがカップを机に置いた。涙は相変わらず頬を濡らしていたが、その声は落ち着いていた。まるで泣いているのが自分の体で、話しているのが別の自分であるかのように。

 メアは一瞬、言葉を失った。署名が必要だと言ったのは自分だ。それに対してカナが返したのは、拒否でも承諾でもなく、ただ淡々とした事実の確認だった。泣きながら、涙を拭いもせず、実務的な応答を返してくる。浮世離れしているくせに、変なところで地に足がついている。

「仲介人に会いに行ってからだ」

 メアが懐から畳んだ紙を取り出した。エイが用意した物件概要書の写しだ。騎士団宿舎から歩いて程なくの場所にある二階建て。内見した時、カナが花瓶に花を挿していた姿を、メアは覚えていた。

「手付金の期限が三日後だ。それまでに署名を済ませる。資産の凍結を仕掛けてくる前に、登記を終わらせたい」

 メアの声は硬く、まるで部下に作戦を説明をする時のような、感情を排した簡潔な口調だった。だが、カナの涙が視界の端に映るたび、その声が僅かに揺れる。本人は気づいていない。気づいたとしても、決して認めはしないだろう。

 カナの細い指が、机の上の概要書に伸びた。涙の雫が紙の端に落ち、小さな染みを作る。

「……濡らすな」

 ぶっきらぼうな物言いだったが、その手が、自らの袖口で乱暴にカナの頬を拭った。布地が涙の筋を強引に掠め取る。拭い方に繊細さの欠片もなかったが、もう片方の手は優しく頭を支えていた。

 拭っても、拭っても、涙は次から次へと湧いてくる。メアの袖口がじわりと湿っていく。

「……止まらないのか」

 苛立ちではない。どうしていいかわからない男が、目の前の事実を口にしただけだった。

「どうしたら止まるのかわからない。こんなに、ずっと悲しいのは初めて」

 永い永い時の中での初めて。真珠に悲しみをしまい、感情を切り離すことで永遠を耐えてきた森の主が、今、処理の仕方がわからない感情に溺れている。

 メアの袖口はもう使い物にならなかった。湿り切った布地を見下ろし、舌打ちをひとつ。彼は寝台の端に畳んであった手拭いを掴み、カナの顔に押し当てた。

「このままでいい」

 低い声だった。カナの顔を手拭いで覆ったまま、メアは続けた。

「泣きたいだけ泣くといい。署名もまだ猶予がある」

 三日の期限のうちの、貴重な時間を差し出した。この男にとっては途方もない譲歩だった。仕事第一、効率第一、感情に振り回されることを良しとしない生真面目な騎士が、作戦の猶予を削って、泣いている女の隣に座り続けている。

 カナの手が、顔に押し当てられた手拭いの上からメアの手に触れた。

 メアの指が強張る。だが、振り払いはしなかった。

 窓の外で、木剣の音が止んだ。朝の鍛錬が終わる時間だ。中庭から若い騎士たちの笑い声が聞こえてくる。ビィの明るい声と、それを茶化すイーガの声。揺るぎない日常の音だ。世界は回っている。カナが泣いていても、陰謀が渦巻いていても、等しく朝は来るし、鍛錬は終わり、若者は笑う。

 メアは隣に座ったまま、カナの手が自らの手を握っているのを許していた。手拭いの下で、カナの涙がまだ流れている。止め方がわからないのなら、止まるまで待つしかない。できるのは、ただそれだけだった。

 甘い茶が、机の上で静かに冷めていった。

「練習する」

 タオルを横に置き、涙で濡れないように手だけを伸ばした不格好な姿勢で、彼女はペンを取った。

 カナの姿勢は、控えめに言っても奇妙なものだった。寝台に膝をついたまま、上半身だけを机に向かって伸ばし、顔を書面から可能な限り遠ざけている。涙が紙に落ちないよう顎を不自然に上げ、腕だけを前に突き出してペンを握っていた。メアに教わった通りの名を書こうと、白い紙の上をペン先が彷徨う。

「……もう少し右だ。紙がずれている」

 メアが身を乗り出し、指で紙の位置を戻した。カナのペン先が僅かにずれ、「カナ・グレンダン」の文字が紙に収まる。少し歪んでいるのは、涙を避けるために首を捻っていたせいだろう。

 何度目かの試し書きの後、メアがカナの隣に手を伸ばし、同じペンを受け取った。指が触れる。カナの指は濡れていた。メアは何も言わず、最初の文字の隣に自分の名を記した。迷いのない、硬い筆跡だった。

 メア・グレンダンと、カナ・グレンダン。二つの名前が、安っぽい紙の上に並んでいる。

 メアがペンを置いた。インクの乾きを確かめるように眺める。契約が終われば、家の所有者となる。二人の名前が初めて、一つの場所に紐付けられる。騎士団宿舎でも、森の泉でもない、二人の家に。

「明日、エイも一緒に仲介人の所に行く」

 メアが概要書を畳み、懐にしまった。それから、机に残った涙の染みを丁寧に拭き取った。

 カナの頬を、まだ涙が伝っている。

「うん」

 短い返事だった。カナは伸ばしていた不格好な姿勢を解き、寝台の上にすとんと座り直した。手拭いを拾い、自分の顔に押し当てる。涙を隠すためというよりは、濡れた顔が冷たくなってきたから、という方が正しそうだった。

 メアが立ち上がった。椅子の背に掛けてあった上着に手を伸ばし、袖を通す。剣帯を腰に巻いた。それは朝の、日常の動作だった。昨夜一睡もしていない男の動きとは思えないほど淀みがなかったが、帯の留め金を一度だけかけ損ねた。

「今日は部屋にいろ。食堂には俺から伝えておく」

 食堂の雑用。それはカナが騎士団宿舎に匿われた時からの、名目上の仕事だった。今やカナが森の主であることは王都中が知っているというのに、カナもそれを嫌がらなかった。

 メアが扉に手をかけた。振り返り、寝台の上で手拭いに顔を埋めているカナを見つめる。毛布から覗く小さな肩。湿った黒髪。手拭いの端を握る細い指。

 メアは言いかけた言葉を飲み込んだ。喉仏が一度上下し、代わりに出てきたのは素っ気ない一言だった。

「せめて茶を飲め。冷めてる」

 扉が閉まった。メアの足音が廊下を遠ざかっていく。硬い靴底の音は規則正しく、やがて階段を降りる音に変わり、消えた。

 部屋に残されたカナの前に、エイが淹れた甘い茶が、すっかり冷めて佇んでいる。湯気はとうに消えていた。だがカップを手に取れば、まだ僅かに温かいかもしれなかった。人の手が触れたものは、すぐには冷え切らないのだ。

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