76.熱い苦味と甘い匂い
朝が来た。
騎士団宿舎の窓から差し込む光は白く、昨夜の月の弱々しさとは対照的だった。メアの目の下には隈が深く刻まれている。一睡もしなかった代償が、この男の顔にくっきりと刻まれていた。
腕の中のカナはまだ眠っていた。涙の跡が頬に薄い筋を残している。メアの寝間着の胸元は、夜通し流れ続けた雫でしっとりと湿っていた。
メアはゆっくりと腕を解いた。カナが目覚めないよう、息を殺しながら寝台を抜け出す。薄い毛布をカナの肩まで引き上げ、乱れた黒髪を一房、耳にかけた。その指先が、乾いた涙の跡に触れて止まった。
寝間着を着替え、部屋を出ると、廊下にはエイが立っていた。
壁に背を預けて待っていたのだろう、副官の手には湯気の立つカップが二つ載った盆があった。一つはメア用の濃い茶、もう一つはカナが好む甘い茶だった。
「おはようございます。顔色が優れませんね」
「寝てない」
「見れば分かります」
メアが片眉を上げた。エイは穏やかに微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。昨日の話が壁越しに聞こえていたのかもしれないし、イーガから報告があったのかもしれない。どちらにせよ、この副官は踏み込むべきでない領域を正確に弁えている。
「書庫長から早朝に伝令が。地下遺構の碑文について、王立書庫の全資源を投じて調査に当たるそうです。翻訳の鍵を握っているのはカナさんだけだと」
「……ああ」
「それから、ヴェルナーが昨日の夕刻に枢密院へ出入りしていたとの報告が第一部隊から」
メアの目が変わった。寝不足の隈を纏ったまま、黒い瞳に刃物の冷たさが戻っている。
「動きが早いな」
「ええ。石板の翻訳期限まであと六日ですが、あちらがそこまで待つ保証はありません」
メアが茶を受け取り、一口で半分を飲み干した。熱さを気にする余裕もないらしい。エイの金色の目が、閉じたままの部屋の扉をちらりと見た。
「カナさんのご様子は」
「泣いていた。眠ったまま、朝まで」
エイの表情が僅かに翳った。だが副官はすぐに顔を引き締め、盆の上の甘い茶を差し出した。
「目が覚めたら、これを。温かいものがあるだけでも、違いますから」
「財宝の売却と内見した家の契約はどうなった?」
「財宝の件ですね」
エイが書類の束から一枚を抜き出した。副官の手際は朝から淀みがない。実務を着実にこなしていく彼を見ていると、昨夜の廊下の光景が夢だったようにすら思えてくる。
「まず売却についてですが、王立鑑定所への持ち込みは資産凍結の動きが出ている以上、現時点では保留が賢明です。枢密院の目に触れる経路は避けるべきかと。ですので、ディート団長を通じて、王城お抱えの鑑定士に非公式で打診をかけています。献上品を受領された陛下のお墨付きがあれば、所有権の正当性は担保できますが、正式な文書化には石板の翻訳結果が必要になります」
「つまり、動かせる金はまだないということか」
「残念ながら。ただ、家の方は別口で進めてあります」
エイがもう一枚、紙を取り出した。不動産仲介人の署名が入った物件概要書だった。
「先日お二人で内見された物件、騎士団宿舎から徒歩圏内の二階建てですが、仮押さえの手付金を私の方で立て替えてあります」
「……お前な」
「ご返済は急ぎませんので。ランティス家の五男の小遣いにしては、多少気前がよすぎたかもしれませんが」
エイの顔には相変わらず穏やかな笑みが浮かんでいた。名門ランティス家の五男。その小遣いがどれほどの額かは推して知るべしだったが、メアはそこには触れなかった。
「返す。必ず返す」
「ええ、存じております。隊長はそういう方ですから」
メアが茶を飲み干した。熱い苦味が喉を通る。副官の顔を見据え、声を落とした。
「ヴェルナーの件、詳しく聞かせろ」
「はい。昨夕、枢密院の西棟に入るのを第一部隊の一人が確認しています。滞在はおよそ一刻。出てきた際、書類筒を抱えていたと」
「献上品の目録か」
「断定はできませんが、写しがあるのでしょう。カナさんの資産凍結を正当化する根拠を、何かしら固めにかかっていると見るべきです」
メアの指がカップの縁を叩いた。小さく、乾いた音が廊下に響く。寝不足の頭でも、この男の思考は止まらなかった。
部屋の扉の向こうで、微かな衣擦れの音がした。カナが寝返りを打ったのかもしれなかった。メアの目が一瞬だけ扉に向けられ、すぐにエイに戻った。
「待つ必要はない。先手を打つ」
「先手、ですか」
エイの金色の目が細くなった。副官の表情は穏やかなままだったが、その奥で歯車が回り始めている気配があった。
「グラムの翻訳を待っていたら遅れをとる。石板の銘文にカナへの献上を示す記述があることは、カナ自身の証言で確認済みだ」
「カナさんの証言だけでは法的証拠として弱い、というのが枢密院の立場でしょうね。当事者の自己申告ですから」
「だからグラムが要る。だが六日は長すぎる」
メアが壁に背を預けた。隈の刻まれた目が天井を見上げている。数秒の沈黙の後、視線がエイに戻った。
「石板の翻訳と財宝の鑑定を同時に進める。王城地下の遺構の刻印と石板の刻印が一致している以上、これは王国の歴史に関わる案件だ。枢密院ではなく、陛下の直轄案件として扱わせろ」
「……なるほど。献上品を受領された陛下が、その出自に学術的関心を示された、という形を取れば」
「枢密院が横から手を出す名分が消える」
エイの口元に、微かな笑みが浮かんだ。感心と呼ぶには鋭すぎる、共犯者の笑みだった。
「陛下への上奏にはディート団長の署名が必要です。それから、グラム殿にも協力を仰がねばなりません。学術調査の主管を王立書庫に置くことで、師団魔術師の介入を制度的に排除できます」
「段取りを組め。今日中に動く」
「承知しました。それと、もう一つ」
エイが声を僅かに落とした。
「家の契約ですが、手付金の期限があと三日です。本契約には買主の署名が必要になります。資産が凍結される前に、署名だけでも済ませておくべきかと」
「カナの署名がいるのか」
「二人の連名です。婚姻後の共有財産として登記しますので」
メアの目が再び扉に向いた。その向こうで、まだカナは眠っている。夜通し泣いた体を休めているのだろう。涙の跡が乾いた頬で、どんな夢を見ているのか。
「起きたら話す」
「はい。甘い茶、忘れずに」
エイが盆ごと甘い茶のカップをメアに手渡した。メアは片手に空のカップ、もう片手に湯気の立つカップを持つという不格好な姿になったが、副官は微笑んだまま一礼し、廊下を歩き去った。書類の束を抱えたその背中には、既に次の戦場へ向かう兵士の気配が漂っていた。
メアは扉の前で立ち止まった。カップから立ち上る甘い香りが鼻をくすぐる。
ノブに手をかけ、音を立てないよう、ゆっくりと扉を押し開けた。




